鹿島守之助
経歴1936〜1957年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1936年主要役職の状況(推定含む目安)1957年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間企業 | |||||
| 民間企業 | 鹿島組(現鹿島建設) | 1936 | 入社 | ||
| 1938 | 取締役社長 | ||||
| 1957 | 社長 退任 | ||||
社長就任までの出自
出自
1896年2月2日、兵庫県揖保郡半田村の旧家に永富敏夫氏の四男として生まれた。龍野中学と第三高等学校を経て東京帝国大学法学部政治科に進み、在学中に高等文官試験の行政科に、翌年には外交官試験に合格して外務省に入省した。1922年からドイツ、続いてイタリアの大使館に勤め、欧州の政情の調査と報告を受け持った。1927年2月、鹿島組組長の鹿島精一氏の長女の鹿島卯女氏と結婚し、鹿島家の婿養子となった。外交史の著作『世界大戦原因の研究』により法学博士となった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
鹿島組の事業に関わり始めたのは1936年4月で、1930年の衆議院選挙に落選して研究に打ち込んでいたところへ、社長の鹿島精一氏や主な重役から会社に来るよう求められた。当時の鹿島組は鉄道の幹線工事がほぼ終わってローカル線の案件しか残らず、工事ごとの採算を押さえない経営のもとで、手持ちの工事の大半が赤字に陥った時期もあった。京城支店長からは、今のうちに大きな改革を行わなければ業界での地位を失うと警告されていた。2年余りかけて定款と規則を改めたうえで、1938年7月に社長に就任し、鹿島精一氏は会長に回った。
中興ストーリー
中興ストーリー
業績貢献
鹿島守之助氏:在任中の業績貢献
社長に就任すると、施工能力の増強と科学的管理の2つを経営の原則に据え、予算統制と経営比較を管理の骨子とした。市場調査をもとに受注の重点を鉄道から建築と電力の工事へ移し、1937年から終戦までの主要工事に占める鉄道の割合は4%まで下がった。戦後は1949年4月に建設業界で初めての技術研究所を設け、1950年には沖縄の米軍工事で米国のモリソン・クヌードセン社と提携し、日本で最初の共同企業体による施工に踏み切った。1957年に国務大臣として入閣する際、社長の座を妻の鹿島卯女氏に譲った。
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1957年11月期 | 265億円 | — | — | — | 日本原研第1号原子炉を完成 | |
| 1958年11月期 | 310億円 | +17.3% | — | — | ||
| 1959年11月期 | 379億円 | +22.3% | — | — | ||
| 1960年11月期 | 471億円 | +24.1% | — | — | ||
| 1961年11月期 | 714億円 | +51.7% | 5.5% | — | ||
| 1962年11月期 | 913億円 | +27.8% | 5.7% | — |
参考文献3件
参考文献
- 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社、1980年)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995)「鹿島建設」
- 歴史をつくる人々「事業経営の目標」鹿島守之助(1965年)
事実根拠:出所(鹿島建設)