日本郵船:郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併による日本郵船の発足
1885年〜運賃競争で共倒れしかけた三菱と共同運輸と、資本金1100万円・汽船58隻で出た日本郵船
1885年10月、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が統合し、資本金1100万円の日本郵船会社が発足した。共同運輸の発足は1883年1月で、三菱の独占運賃に反発した財界人と農商務大輔の品川弥二郎らの後押しによる。資本金600万円のうち260万円を政府が出資し、三菱の受命航路と重なる横浜―神戸などの定期航路を開いた。三菱の貨客総運賃は1881年の459万円から1884年に230万円へ減少。1885年1月に農商務卿の西郷従道が仲裁した協定は3週間で破れ横浜―神戸の船客運賃は25銭まで下がった。政府は共同運輸の社長を農商務少輔の森岡昌純氏に替え、三菱社長の岩崎弥之助氏と協議させた。合併後の初代社長にも、政府は森岡昌純氏を任命した。独占の打破と共倒れの回避を同じ政府が相次いで求めた結果、海運の主力は1社にまとまったのだろう。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [1]1885年10月、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の統合で資本金1100万円の日本郵船が創立
- [7]初代社長に創立委員長の森岡昌純(共同運輸社長)が政府により任命
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [2]共同運輸は反三菱の財界人・品川弥二郎らの動きで1883年1月誕生、資本金600万円中260万円が政府出資、横浜―神戸などで三菱航路と競合
- [3]共同運輸は反三菱の財界人・品川弥二郎らの動きで1883年1月誕生、資本金600万円中260万円が政府出資、横浜―神戸などで三菱航路と競合
- [4]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
- [5]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
- [6]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
日本郵船は1885年10月1日に営業を始め、本店を東京の日本橋区南茅場町に置いた。設立と同時に白地に紅色2線の旗章を定めており、2本の線は三菱と共同の2社の合併を表す。郵船の株主には岩崎家が大口で残り、旧三菱会社の首脳が経営に加わった。岩崎弥之助氏は1886年に三菱社を設立し、鉱山と造船の2事業へ軸足を移した。創立時の所有船腹は汽船58隻64,610総トンと帆船11隻4,725総トンで、航路は沿岸13線と近海4線の計17線である。基礎が固まるまでの営業は、近海3線と沿岸11線の計14線にとどまった。17線から14線への絞り込みは、両社が並べていた横浜―神戸などの併行航路を一本化した結果とみられる。
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [8]1885年10月1日営業開始、本店は東京日本橋区南茅場町
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [9]設立と同時に白地に紅色二線の旗章を制定し三菱・共同合併の意を表現。創立時船腹は汽船58隻64,610総トン・帆船11隻4,725総トン、航路は沿岸13線・近海4線の計17線
- [12]設立と同時に白地に紅色二線の旗章を制定し三菱・共同合併の意を表現。創立時船腹は汽船58隻64,610総トン・帆船11隻4,725総トン、航路は沿岸13線・近海4線の計17線
- 『日本産業史』1巻 通史「財閥の形成」
- [10]郵船は岩崎家が大株主で旧三菱首脳が経営参加。1886年岩崎弥之助が三菱社をおこし鉱山・造船で再出発
- [11]郵船は岩崎家が大株主で旧三菱首脳が経営参加。1886年岩崎弥之助が三菱社をおこし鉱山・造船で再出発
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [13]当初は会社の基礎が固まらず経営航路は近海3線・沿岸11線の計14線
日本郵船は創業の時点で、外国航路の開設を通じて貿易の拡大に資することを経営の方針としていた。足場は三菱から継いだ横浜―上海航路で、1875年に開いた日本初の外国航路にあたる。三菱は1875年10月、競合した米国の太平洋郵船から船4隻と神戸・長崎・上海の施設を買収し、同社を航路から撤退させた。続いて1876年8月には、英国のP&O汽船も同航路から撤退に追い込んだ。三菱社長の岩崎弥太郎氏は、この後『郵船線路地球横絶』を社中の合言葉とした。ただし郵船の航路網は船腹の拡充と船質の改善を待たねばならず、1892年まではほぼ沿岸と近海に限られた。上海航路を守りながら船隊を入れ替えた合併後の8年間が、1893年以降の遠洋進出の準備期間になったと推察される。
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [14]創業以来、海外航路開設と海外貿易伸展への寄与を営業の基本方針としたが、1892年まで航路はほとんど沿岸・近海
- [17]1876年8月P&Oを上海航路から撤退させ、岩崎弥太郎の論告以後「郵船線路地球横絶」が三菱の合言葉となった
- [18]1876年8月P&Oを上海航路から撤退させ、岩崎弥太郎の論告以後「郵船線路地球横絶」が三菱の合言葉となった
- [19]創業以来、海外航路開設と海外貿易伸展への寄与を営業の基本方針としたが、1892年まで航路はほとんど沿岸・近海
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [15]横浜―上海航路は三菱が1875年に開設したわが国外国航路の嚆矢。同年10月太平洋郵船の使用船4隻と神戸・長崎・上海の施設を買収し同航路から駆逐
- [16]横浜―上海航路は三菱が1875年に開設したわが国外国航路の嚆矢。同年10月太平洋郵船の使用船4隻と神戸・長崎・上海の施設を買収し同航路から駆逐
参考文献[1]-[19]
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [1]1885年10月、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の統合で資本金1100万円の日本郵船が創立
- [7]初代社長に創立委員長の森岡昌純(共同運輸社長)が政府により任命
- [9]設立と同時に白地に紅色二線の旗章を制定し三菱・共同合併の意を表現。創立時船腹は汽船58隻64,610総トン・帆船11隻4,725総トン、航路は沿岸13線・近海4線の計17線
- [12]設立と同時に白地に紅色二線の旗章を制定し三菱・共同合併の意を表現。創立時船腹は汽船58隻64,610総トン・帆船11隻4,725総トン、航路は沿岸13線・近海4線の計17線
- [15]横浜―上海航路は三菱が1875年に開設したわが国外国航路の嚆矢。同年10月太平洋郵船の使用船4隻と神戸・長崎・上海の施設を買収し同航路から駆逐
- [16]横浜―上海航路は三菱が1875年に開設したわが国外国航路の嚆矢。同年10月太平洋郵船の使用船4隻と神戸・長崎・上海の施設を買収し同航路から駆逐
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [2]共同運輸は反三菱の財界人・品川弥二郎らの動きで1883年1月誕生、資本金600万円中260万円が政府出資、横浜―神戸などで三菱航路と競合
- [3]共同運輸は反三菱の財界人・品川弥二郎らの動きで1883年1月誕生、資本金600万円中260万円が政府出資、横浜―神戸などで三菱航路と競合
- [4]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
- [5]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
- [6]三菱の貨客総運賃は1881年459万円→1884年230万円、1885年1月西郷従道の仲裁協定は3週間で破綻、横浜―神戸船客運賃25銭、共同社長を森岡昌純に替え岩崎弥之助と協議
- [13]当初は会社の基礎が固まらず経営航路は近海3線・沿岸11線の計14線
- [14]創業以来、海外航路開設と海外貿易伸展への寄与を営業の基本方針としたが、1892年まで航路はほとんど沿岸・近海
- [17]1876年8月P&Oを上海航路から撤退させ、岩崎弥太郎の論告以後「郵船線路地球横絶」が三菱の合言葉となった
- [18]1876年8月P&Oを上海航路から撤退させ、岩崎弥太郎の論告以後「郵船線路地球横絶」が三菱の合言葉となった
- [19]創業以来、海外航路開設と海外貿易伸展への寄与を営業の基本方針としたが、1892年まで航路はほとんど沿岸・近海
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [8]1885年10月1日営業開始、本店は東京日本橋区南茅場町
- 『日本産業史』1巻 通史「財閥の形成」
- [10]郵船は岩崎家が大株主で旧三菱首脳が経営参加。1886年岩崎弥之助が三菱社をおこし鉱山・造船で再出発
- [11]郵船は岩崎家が大株主で旧三菱首脳が経営参加。1886年岩崎弥之助が三菱社をおこし鉱山・造船で再出発
1893年〜紡績業者と組んだボンベイ航路と、航海奨励法で開いた欧州・シアトル・豪州の3航路
1893年11月、日本郵船はボンベイ航路を開設し、日本初の遠洋定期航路とした。当時のインド航路はP&Oほか2社が運賃同盟を結んで独占し、運賃は割高だった。日本の紡績業はインド綿花を原料としており、英国・オーストリア・イタリアの船会社の独占で不利益を受けていた。郵船は紡績聯合会とインド綿花の輸送契約を結び、ボンベイの綿花商タタとも提携して同盟に対抗した。同盟との運賃競争は1896年5月の妥協まで続き、その間は紡績聯合会も郵船の運航に協力。インド綿花の輸入量は開設時の365,000担から、6年後には2,244,000担に及ぶ。郵船は同じ1893年12月に機構を改め、株式会社に改組した。綿花という固定の荷主を先に押さえたことで、運賃同盟と争う遠洋航路にも採算の見通しが立ったと思われる。
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [20]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [21]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [23]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [24]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [22]インド航路は英・墺・伊の船会社が壟断し紡績業は不利益。インド綿花輸入量36万5000担→開設6年後224万4000担
- [25]インド航路は英・墺・伊の船会社が壟断し紡績業は不利益。インド綿花輸入量36万5000担→開設6年後224万4000担
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [26]1893年12月株式会社に改組し日本郵船株式会社となる
日清戦争を経て、日本郵船の運航船腹は1893年9月末の45隻6万4000総トンから、1895年9月末に68隻13万5000総トンへ増えた。総トン数は2年で2.1倍となり、戦時中の利益は225万円にのぼる。戦争中は所有船と新たに購入した船のほぼすべてが軍に徴用され、最高時の1895年6月には59隻13万4000総トンに達した。一般の貨客輸送には、外国船を多数用船して充てた。1895年2月の帝国議会では、航路拡張と船舶保護の建議案が可決された。経営陣では1894年3月に森岡昌純社長が辞任し、三菱出身の吉川泰二郎氏が2代社長に就任。1895年11月には吉川泰二郎氏の病死を受け、同じ三菱出身の近藤廉平氏が3代社長に就任した。
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [27]運航船腹は1893年9月末45隻6万4000総トン→1895年9月末68隻13万5000総トン(2.1倍)、戦時中の利益225万円
- [28]運航船腹は1893年9月末45隻6万4000総トン→1895年9月末68隻13万5000総トン(2.1倍)、戦時中の利益225万円
- [29]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [30]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [32]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [33]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [31]1895年2月帝国議会で航路拡張・船舶保護の建議案可決
1896年、日本郵船は3月に欧州、8月に米国、10月に豪州と、3本の遠洋定期航路を相次いで開設した。開航を後押ししたのは、政府が実施した航海奨励法と造船奨励法、特定航路への助成金である。郵船は開航に先立って新造船18隻の建造を決め、1896年6月に資本金880万円を2200万円へ増資した。欧州航路の始まりは横浜を出た土佐丸5402総トンで、1898年5月からは2週1回の定期である。米国航路は米国の大北鉄道と提携し、三池丸3308総トンが神戸を出てシアトル線から始まった。欧州航路用の6000総トン級12隻のうち2隻は三菱長崎造船所に発注し、第1船の常陸丸は1898年8月に竣工を迎えた。貿易総額に占める邦船の積取比率は、1896年の12%から1903年に約37%へ上昇した。
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [34]1896年3月欧州・8月米国・10月濠州の定期航路開設。同年6月、3航路用汽船18隻の新造資金のため第1回増資で資本金2200万円
- [36]1896年3月欧州・8月米国・10月濠州の定期航路開設。同年6月、3航路用汽船18隻の新造資金のため第1回増資で資本金2200万円
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [35]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [37]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [38]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [39]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [40]邦船の貿易積取比率は1896年12%→1903年約37%
参考文献[20]-[40]
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [20]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [21]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [23]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [24]1893年11月ボンベイ航路開設(わが国遠洋定期航路の第1号)。P&Oほか2社の運賃同盟が独占し運賃割高、紡績聯合会と印棉輸送契約・タタと提携、1896年5月同盟と妥協
- [27]運航船腹は1893年9月末45隻6万4000総トン→1895年9月末68隻13万5000総トン(2.1倍)、戦時中の利益225万円
- [28]運航船腹は1893年9月末45隻6万4000総トン→1895年9月末68隻13万5000総トン(2.1倍)、戦時中の利益225万円
- [29]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [30]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [32]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [33]日清戦役で所有船・購入船のほぼすべてが徴用、最高時1895年6月59隻13万4000総トン、一般輸送は外国船用船。1894年3月森岡昌純辞任・吉川泰二郎就任、1895年11月吉川病死で近藤廉平が社長(ともに三菱出身)
- [35]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [37]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [38]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- [39]航海奨励法・造船奨励法・特定航路助成が三大航路開設を促進。資本金880万円(創立時1100万円を買入減資)を2200万円に増資。欧州は土佐丸5402総トン横浜発、1898年5月から2週1回。米国は大北鉄道と提携し三池丸3308総トン神戸発シアトル線。欧州航路用6000総トン級12隻中2隻を三菱長崎に発注、常陸丸1898年8月竣工
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- [22]インド航路は英・墺・伊の船会社が壟断し紡績業は不利益。インド綿花輸入量36万5000担→開設6年後224万4000担
- [25]インド航路は英・墺・伊の船会社が壟断し紡績業は不利益。インド綿花輸入量36万5000担→開設6年後224万4000担
- [31]1895年2月帝国議会で航路拡張・船舶保護の建議案可決
- [34]1896年3月欧州・8月米国・10月濠州の定期航路開設。同年6月、3航路用汽船18隻の新造資金のため第1回増資で資本金2200万円
- [36]1896年3月欧州・8月米国・10月濠州の定期航路開設。同年6月、3航路用汽船18隻の新造資金のため第1回増資で資本金2200万円
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [26]1893年12月株式会社に改組し日本郵船株式会社となる
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [40]邦船の貿易積取比率は1896年12%→1903年約37%
1900年〜日露戦争で御用船に出した社船と、遠洋航路補助法の減額で集約した3航路
1898年12月、浅野総一郎氏の東洋汽船がサンフランシスコ線を開設し、北米航路に日本の同業が加わった。東洋汽船の就航船は、浅野総一郎氏がみずから英国で発注した6000トン級・速力17ノットの新造船3隻である。郵船の香港―シアトル航路の就航船は3000トン級で、速力でも劣っていた。米国の対東洋貿易の拠点としては、シアトルよりもサンフランシスコの比重がずっと大きかった。東洋汽船は1899年に特定航路助成で約100万円の補助金を受け、その額は同年の運賃収入の49%に相当する。郵船は大北鉄道と提携したシアトル線に船を増やし、1901年5月から2週1回の定期とした。日露戦争後には大阪商船も香港―タコマ線とボンベイ線を開設し、遠洋航路で郵船と並ぶ同業が増えた。
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [41]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- [46]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- [47]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [42]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [43]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [44]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [45]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
日露戦争で日本郵船は、開戦時の所有船76隻24万9000総トンのほとんどを軍に徴用された。海軍御用船の信濃丸は日本海海戦で哨戒にあたり、バルチック艦隊の来襲を発見して通報した。郵船は欧米航路の貨客を一時外国船に委託し、近海航路には外国船を雇った。豪州航路は事実上運航を止め、中立国船の用船でも補えない一部の航路を一時休止した。戦中には13隻3万4000総トンを失い、そのうち11隻は戦禍による。一方で新造船2隻と購入船10隻の計12隻4万2000トンを加え、1905年末の保有船腹は74隻25万2000総トンになった。郵船の遠洋定期航路は、1906年春までに正常な運航に戻った。
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [48]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- [52]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- [53]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [49]日露戦争で海軍御用船の信濃丸が日本海海戦で哨戒中にバルチック艦隊を発見・通報
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [50]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
- [51]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
- [54]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
1906年、ボンベイ航路と豪州航路への政府の特定航路助成が期限を迎えた。ボンベイ航路は、紡績業の拡大でインド綿花の積荷が増えており、助成が切れても自力で運航を続けられた。豪州航路は期限後も郵便物の逓送と貨客輸送で政府の命令を受け、助成を受け続けた。1896年からの航海奨励法は戦後に廃止され、1909年3月に遠洋航路補助法が制定されて1910年1月に施行された。郵船は1907年に欧州航路用の8500トン級6隻を三菱長崎造船所と川崎造船所に発注し、外国船の大型化に対抗した。1911年春には米国航路用の6500トン級2隻も両造船所に発注している。インド方面では1906年5月にカルカッタ線を新設し、英印社などの同盟と競争を続けた。明治末からはT型と呼ばれる7000トン級の貨物船を多数進水させ、第一次世界大戦で欧州向けに配船した。
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [55]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [56]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [57]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [59]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [60]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [58]航海奨励法は戦後廃止、遠洋航路補助法が1909年3月制定・1910年1月実施。1906年5月カルカッタ線新設、英印社ほかの同盟と激しい競争
- [61]航海奨励法は戦後廃止、遠洋航路補助法が1909年3月制定・1910年1月実施。1906年5月カルカッタ線新設、英印社ほかの同盟と激しい競争
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [62]明治末期〜大正初期に7000トン級T型貨物船を多数進水、欧州大戦で欧州臨時船として配船
参考文献[41]-[62]
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- [41]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- [46]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- [47]東洋汽船は1898年12月サンフランシスコ線開設。郵船シアトル線は1901年5月から2週1回。大阪商船は日露戦後に香港タコマ線・ボンベイ線を開設
- [48]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- [52]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- [53]開戦時76隻24万9000総トンのほとんどが徴用、中立国船用船でも船腹不足で一部航路休止。戦中13隻3万4000総トン喪失(戦禍11隻)、新造2・購入10計12隻4万2000トン加わり1905年末74隻25万2000総トン
- [58]航海奨励法は戦後廃止、遠洋航路補助法が1909年3月制定・1910年1月実施。1906年5月カルカッタ線新設、英印社ほかの同盟と激しい競争
- [61]航海奨励法は戦後廃止、遠洋航路補助法が1909年3月制定・1910年1月実施。1906年5月カルカッタ線新設、英印社ほかの同盟と激しい競争
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」
- [42]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [43]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [44]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [45]東洋汽船の香港―サンフランシスコ航路に浅野総一郎が英国で注文した6000トン級17ノット船3隻。郵船シアトル線は3000トン級で速力も劣る。サンフランシスコはシアトルより重要。1899年補助金約100万円は運賃収入の49%
- [50]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
- [51]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
- [54]郵船は欧米航路の引受貨客を一時外国船に委託、近海航路に外国船を雇い、豪州航路は事実上運航中止。遠洋定期航路は1906年春までに正常運航
- [55]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [56]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [57]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [59]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- [60]1906年でボンベイ・豪州航路の特定航路助成が期限終了、ボンベイはインド綿輸送増で基礎確立、豪州は政府命令で助成継続。1907年欧州航路用8500トン級6隻を三菱長崎・川崎に発注、1911年春米国航路用6500トン級2隻発注。1911年2週1回のカルカッタ定期航路
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- [49]日露戦争で海軍御用船の信濃丸が日本海海戦で哨戒中にバルチック艦隊を発見・通報
- [62]明治末期〜大正初期に7000トン級T型貨物船を多数進水、欧州大戦で欧州臨時船として配船
出典・参考
5件
- 『会社銀行八十年史』(1955)2篇 日本会社史「日本郵船」
- 『産業フロンティア物語 海運〈日本郵船〉』(1965)
- 『企業の歴史 明治百年』(1968)「日本郵船」
- 『日本産業史』1巻 通史「財閥の形成」
- 『日本産業史』1巻「海運-七つの海をマタに」