小田急電鉄:小田原急行鉄道の開業と鬼怒川水力電気との合併
1923年〜鬼怒川水力電気の利光鶴松氏が興した資本金1350万円の小田原急行と、新宿-小田原の一挙開業
鬼怒川水力電気の社長だった利光鶴松氏は、1923年5月1日に資本金1350万円で小田原急行鉄道を設立した。出発点は、利光鶴松氏らが1919年1月8日に出願した、日比谷を起点とする高架・地下併用の電気鉄道。東京高速鉄道の名で免許を得たこの計画は、新宿から日比谷を経て大塚付近に至る線を含み、着工の見通しが立たなかった。掘削土の捨て場に予定した外濠の埋立てについて、内務省の詮議が長引いたためである。利光鶴松氏は1920年8月24日、地下鉄の延長線という手続きで東京-小田原間の高速鉄道を出願し、1921年5月に地下鉄を断念した。都心の免許を郊外線の出願の足場に使い換えた判断が、電力会社の社長に鉄道会社を興させたとみられる。
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [1]1921年5月に地下鉄計画を断念、1922年5月に新宿-小田原間の認可、社名を小田原急行鉄道と改め1923年5月1日に資本金1350万円で設立
- [6]1921年5月に地下鉄計画を断念、1922年5月に新宿-小田原間の認可、社名を小田原急行鉄道と改め1923年5月1日に資本金1350万円で設立
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第二節「小田原急行鉄道の誕生」
- [2]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- [4]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- [5]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- [3]東京高速鉄道は新宿-日比谷-大塚付近の地下鉄を目的に免許を受けたが事業が停頓し、延長路線の名目で東京-小田原間の免許を受けた
小田原急行鉄道は1927年4月1日、新宿-小田原間を一度に開業した。関東大震災で親会社の鬼怒川水力電気も打撃を受け、起工式は1925年11月にずれ込んだ。社長の利光鶴松氏は開業日を前もって公表し、新宿-小田原間を複線で一挙に開くと予告し、工事を昼夜兼行で急がせた。開業時の線路は51哩44鎖のうち複線が19哩18鎖にとどまり、全線の複線化の完了は同年10月。開業1か月の輸送人員は60万8767人で、駅長10名・助役62名を置く定員は過大となり、7月に人員整理を実施した。需要より先に設備と人員を揃える利光鶴松氏の一流主義が、開業直後の費用を重くしたと推察される。
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [7]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- [8]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- [11]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- 安藤楢六「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人』19)
- [9]利光社長は新宿-小田原間を複線で4月1日に一挙開通すると予告し、昼夜兼行で工事を急がせた
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第四節「開業前後」
- [10]利光鶴松が公約した開業予定日に向け、軟弱地盤・降雪のなか全社員総出で突貫工事、1927年3月24日開業認可申請。竣功線路51哩44鎖のうち複線19哩18鎖
- [12]開業1か月の輸送人員60万8767人、旅客運賃収入16万1970円36銭。定員表は駅長10・助役62・駅員348名で過剰、1927年7月に人員整理
小田原急行鉄道は1929年4月1日、相模大野信号所-片瀬江ノ島間27.3kmの江ノ島線を全線複線で開業した。新宿-片瀬江ノ島間には1時間間隔で1日16往復の直通列車を走らせ、所要時間は1時間33分である。狙いは湘南の遊覧客の誘致と、沿線に予定した林間都市の開発にあった。利光鶴松氏は江ノ島線沿いの約80万坪に約5000戸の住宅都市を築く構想を立て、1929年3月5日に予定の3駅を東林間都市などと改称した。1日平均の旅客は1928年度下期の3万1188人から1929年度下期の4万4834人に増えた。ただし同年4月の報道は、資本金の増加に収入が追いつかず、土地の評価益で5分配当を保つ経営難を伝えた。
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第五節「江ノ島線の開業」
- [13]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [14]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [15]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [18]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「沿線開発への努力」
- [16]江ノ島線沿いの約80万坪に林間都市(最終約5000戸)を計画、1929年3月5日に3駅を東林間都市・中央林間都市・南林間都市に改称
- [17]江ノ島線沿いの約80万坪に林間都市(最終約5000戸)を計画、1929年3月5日に3駅を東林間都市・中央林間都市・南林間都市に改称
- 読売新聞(1929年4月12日)
- [19]土地評価益を計上して5分配当を維持、江ノ島線開業で資本金が増えたが収入は増えず経営難
参考文献[1]-[19]
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [1]1921年5月に地下鉄計画を断念、1922年5月に新宿-小田原間の認可、社名を小田原急行鉄道と改め1923年5月1日に資本金1350万円で設立
- [6]1921年5月に地下鉄計画を断念、1922年5月に新宿-小田原間の認可、社名を小田原急行鉄道と改め1923年5月1日に資本金1350万円で設立
- [7]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- [8]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- [11]関東大震災で親会社鬼怒川水力電気も打撃を受け建設延期、1925年11月起工式、1927年4月1日新宿-小田原間開通、開業時一部単線で同年10月全線複線
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第二節「小田原急行鉄道の誕生」
- [2]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- [4]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- [5]利光鶴松(鬼怒川水力電気社長)らは1919年1月8日に日比谷起点の高架地下併用鉄道を出願、1920年8月24日に東京-小田原間を市内線の延長として出願。掘削土を捨てる外濠埋立てが内務省で詮議中で計画の基礎が立たなかった
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- [3]東京高速鉄道は新宿-日比谷-大塚付近の地下鉄を目的に免許を受けたが事業が停頓し、延長路線の名目で東京-小田原間の免許を受けた
- 安藤楢六「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人』19)
- [9]利光社長は新宿-小田原間を複線で4月1日に一挙開通すると予告し、昼夜兼行で工事を急がせた
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第四節「開業前後」
- [10]利光鶴松が公約した開業予定日に向け、軟弱地盤・降雪のなか全社員総出で突貫工事、1927年3月24日開業認可申請。竣功線路51哩44鎖のうち複線19哩18鎖
- [12]開業1か月の輸送人員60万8767人、旅客運賃収入16万1970円36銭。定員表は駅長10・助役62・駅員348名で過剰、1927年7月に人員整理
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第五節「江ノ島線の開業」
- [13]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [14]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [15]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- [18]江ノ島線(相模大野信号所-片瀬江ノ島27.3km、全線複線)を1929年4月1日開業。新宿直通1時間間隔1日16往復・所要1時間33分。遊覧客誘致を掲げ、1日平均旅客は昭和3年下期3万1188人から昭和4年下期4万4834人
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「沿線開発への努力」
- [16]江ノ島線沿いの約80万坪に林間都市(最終約5000戸)を計画、1929年3月5日に3駅を東林間都市・中央林間都市・南林間都市に改称
- [17]江ノ島線沿いの約80万坪に林間都市(最終約5000戸)を計画、1929年3月5日に3駅を東林間都市・中央林間都市・南林間都市に改称
- 読売新聞(1929年4月12日)
- [19]土地評価益を計上して5分配当を維持、江ノ島線開業で資本金が増えたが収入は増えず経営難
1929年〜昭和恐慌で陥った六年間の無配と、相模野の軍都で得た立ち直り
開業直後の年5%配当は、小田原急行土地の合併で得た土地の評価差益を計上して捻出したものである。1930年度の運輸収入は前年度を1割近く下回り、その後も横ばいが続いた。株主配当は1930年度下期から1935年度下期まで11期にわたり停止し、1936年度上期に年2.8%で復配した。小田原急行鉄道は費用の削減に向け、1930年11月に東京電燈から買う電力の単価を2銭7厘から2銭6厘へ下げる改定を得た。1934年には旧社債1500万円を低利の社債に借り換え、利払いは年20万円余軽くなった。1931年夏には新宿-片瀬江ノ島間の往復運賃を片道と同じ96銭とし、海水浴客を誘致した。
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「忍苦耐乏の十余年」
- [20]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [21]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [22]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [23]東京電燈の電力料を1930年11月から責任使用量まで2銭6厘(従来2銭7厘)に改定、1934年に旧社債1500万円を低利社債で償還し負担利子が年20万円余減少
- [24]東京電燈の電力料を1930年11月から責任使用量まで2銭6厘(従来2銭7厘)に改定、1934年に旧社債1500万円を低利社債で償還し負担利子が年20万円余減少
- 安藤楢六「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人』19)
- [25]1931年夏、新宿-片瀬江ノ島間片道96銭を往復96銭とする運賃半額の割引で海水浴客を誘致
1937年9月、陸軍士官学校が市ヶ谷から相模野へ移り、本科生徒1300名で開校した。続いて1938年から1940年にかけ、相模野に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校の開設。小田原急行鉄道は1938年3月に相模原駅、4月に通信学校駅を新設し、6月には士官学校前駅を起点にバスの営業を始めた。軍の関係者と家族の往来が増え、1939年5月の報道によれば運賃収入は約180万円で、前年同期比33.3%増である。1941年には周辺の8町村が合併し、人口4万5500人の相模原町が生まれた。10年近い不振を終わらせたのは自社の施策より、沿線に軍の施設が相次いで置かれた外部の変化だったと思われる。
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第三節「相模野の変貌」
- [26]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [27]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [28]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [30]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- ダイヤモンド 1939年5月11日号
- [29]運賃収入約180万円で前年同期比33.3%増、座間付近に軍関係の学校・病院が新設されたことが好材料
参考文献[20]-[30]
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「忍苦耐乏の十余年」
- [20]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [21]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [22]年5%の配当は小田原急行土地合併による土地評価差益で捻出、1930年度は前年比1割近い減収、配当は1930年度下期-1935年度下期の11期停止、1936年度上期に年2.8%で復配
- [23]東京電燈の電力料を1930年11月から責任使用量まで2銭6厘(従来2銭7厘)に改定、1934年に旧社債1500万円を低利社債で償還し負担利子が年20万円余減少
- [24]東京電燈の電力料を1930年11月から責任使用量まで2銭6厘(従来2銭7厘)に改定、1934年に旧社債1500万円を低利社債で償還し負担利子が年20万円余減少
- 安藤楢六「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人』19)
- [25]1931年夏、新宿-片瀬江ノ島間片道96銭を往復96銭とする運賃半額の割引で海水浴客を誘致
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第三節「相模野の変貌」
- [26]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [27]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [28]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- [30]陸軍士官学校が1937年9月に市ヶ谷から移転開校(本科生徒1300名)、1938-1940年に陸軍病院・電信第一連隊・陸軍通信学校。1938年3月相模原駅・4月通信学校駅を新設、6月バス営業開始。1941年8町村合併で人口4万5500人の相模原町
- ダイヤモンド 1939年5月11日号
- [29]運賃収入約180万円で前年同期比33.3%増、座間付近に軍関係の学校・病院が新設されたことが好材料
1940年〜帝都電鉄と鬼怒川水力電気を合わせた資本金8780万円の小田急電鉄と、五島慶太氏の大東急
小田原急行鉄道は1940年5月1日、渋谷-吉祥寺間の帝都電鉄を合併し、資本金を4280万円にした。帝都電鉄は、利光鶴松氏が社長を務めた東京山手急行電鉄と渋谷急行電気鉄道の合併で生まれた会社である。1934年4月1日に渋谷-吉祥寺間を全通させたものの、旧東京山手急行電鉄の事業費が重荷となった。帝都電鉄は1933年11月に資本金3800万円を1600万円へ、1934年4月に1280万円へと2度の減資を実施した。合併の目的は、利光鶴松氏が率いる2社の経営の統一と合理化である。1939年には利光鶴松氏が五島慶太氏と小林一三氏を招き、帝都電鉄が免許を持つ東京山手急行線の建設を相談した。
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [31]1940年5月1日、利光鶴松が創設経営する傍系の帝都電鉄(現京王井の頭線)を経営の統一と合理化のために合併、資本金4280万円
- [35]1940年5月1日、利光鶴松が創設経営する傍系の帝都電鉄(現京王井の頭線)を経営の統一と合理化のために合併、資本金4280万円
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- [32]東京山手急行電鉄(社長利光)と渋谷急行電気鉄道が合併して東京郊外電気鉄道、のち帝都電鉄。不良資産で2回減資し、社長を同じくする小田原急行鉄道が合併して井の頭線とした
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第一節「帝都電鉄」
- [33]1933年1月帝都電鉄に改称、1933年11月資本金3800万円を1600万円に、1934年4月1280万円に減資、1934年4月1日井ノ頭公園-吉祥寺開業で全通。旧東京山手急行電鉄の事業費が重荷
- [34]1933年1月帝都電鉄に改称、1933年11月資本金3800万円を1600万円に、1934年4月1280万円に減資、1934年4月1日井ノ頭公園-吉祥寺開業で全通。旧東京山手急行電鉄の事業費が重荷
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第二節「帝都電鉄を合併」
- [36]1939年、利光鶴松は五島慶太と小林一三を招き帝都電鉄が免許を持つ東京山手急行線の建設を相談。これに先立ち五島の京浜電気鉄道買収を後押し
鬼怒川水力電気は1941年3月1日に小田原急行鉄道を合併して小田急電鉄と改称し、資本金8780万円で電鉄業へ事業を切り替えた。契機は1938年4月公布の電力管理法で、鬼怒川水力電気は1939年3月までに隅田火力発電所などを日本発送電へ出資した。出資の評価は帳簿価格を83万4988円86銭4厘下回り、残る発電所も1941年10月1日に提供して電力事業はなくなった。社長の利光鶴松氏は1941年6月28日に77歳で引退し、7月4日に副社長の利光學一氏が社長に就任した。利光學一氏は3か月余で退任し、利光鶴松氏の要請を受けた五島慶太氏が後任の社長となった。五島慶太氏は引受けにあたり、将来の東横への合併を口にした『せっかくのお話ですから引受けましょう。そして時期が来たら東横に合併しましょう』。
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「鬼怒川水力電気に合併」
- [37]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [39]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [40]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [42]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [38]1941年3月合併、社名を小田急電鉄と改め資本金8780万円、発電・送電・配電の事業を電鉄業に切り替え
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- [41]電力国家管理により日本発送電へ設備一切を提供し鬼怒川水力電気の本来の事業は終熄、1941年3月に小田原急行鉄道を合併して小田急電鉄
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「五島慶太が社長に」
- [43]利光學一は就任3か月余で退任、利光鶴松の依頼で五島慶太が3代目社長に就任。引受けの際に時期が来たら東横に合併すると答えた(三鬼陽之助『五島慶太伝』による)
- [44]利光學一は就任3か月余で退任、利光鶴松の依頼で五島慶太が3代目社長に就任。引受けの際に時期が来たら東横に合併すると答えた(三鬼陽之助『五島慶太伝』による)
小田急電鉄は1942年5月1日、京浜電気鉄道とともに東京横浜電鉄に合併し、資本金2億480万円の東京急行電鉄となった。陸上交通事業調整法のもとで東京近郊の電鉄を統合する動きが進み、1944年には京王電気軌道も加わった。戦後の1947年初めには、新宿・京王・品川・横浜の4支社が連名で東京急行電鉄の解体を説く論文を出した。社長の小林中氏が4月10日に分離を否定すると、新宿支社は4月19日に即時解体の決議で応じた。1947年12月26日の定時株主総会は再編成を決議し、小田原線と江ノ島線を第二会社に割り当てた。旧帝都電鉄の井ノ頭線は、電力事業を失った旧京王の採算を支えるため第一会社に編入された。
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「東急時代」
- [45]1942年5月1日、小田急電鉄と京浜電気鉄道が東京横浜電鉄に合併し資本金2億480万円の東京急行電鉄。比率1対1だが小田急電鉄は配当率で年4%下回り、合併後の小田急電鉄株式は後配株
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [46]1942年5月、陸上交通事業調整法による東京近郊電鉄統合の機運から東横・小田急・京浜が統合して東京急行電鉄、1944年に京王電気軌道を合併
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「終戦前後」
- [47]1947年初め新宿・京王・品川・横浜の4支社連名で解体の必然性を説く「提唱」、4月10日社長小林中が分離否定を告示、4月19日新宿支社が即時解体を決議
- [48]1947年初め新宿・京王・品川・横浜の4支社連名で解体の必然性を説く「提唱」、4月10日社長小林中が分離否定を告示、4月19日新宿支社が即時解体を決議
- [49]1947年12月26日定時株主総会で再編成を特別決議、第二会社に小田原線・江ノ島線。井ノ頭線は電燈電力事業を失った第一会社(旧京王)の経営基盤安定のため第一会社へ編入
- [50]1947年12月26日定時株主総会で再編成を特別決議、第二会社に小田原線・江ノ島線。井ノ頭線は電燈電力事業を失った第一会社(旧京王)の経営基盤安定のため第一会社へ編入
参考文献[31]-[50]
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- [31]1940年5月1日、利光鶴松が創設経営する傍系の帝都電鉄(現京王井の頭線)を経営の統一と合理化のために合併、資本金4280万円
- [35]1940年5月1日、利光鶴松が創設経営する傍系の帝都電鉄(現京王井の頭線)を経営の統一と合理化のために合併、資本金4280万円
- [38]1941年3月合併、社名を小田急電鉄と改め資本金8780万円、発電・送電・配電の事業を電鉄業に切り替え
- [46]1942年5月、陸上交通事業調整法による東京近郊電鉄統合の機運から東横・小田急・京浜が統合して東京急行電鉄、1944年に京王電気軌道を合併
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- [32]東京山手急行電鉄(社長利光)と渋谷急行電気鉄道が合併して東京郊外電気鉄道、のち帝都電鉄。不良資産で2回減資し、社長を同じくする小田原急行鉄道が合併して井の頭線とした
- [41]電力国家管理により日本発送電へ設備一切を提供し鬼怒川水力電気の本来の事業は終熄、1941年3月に小田原急行鉄道を合併して小田急電鉄
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第一節「帝都電鉄」
- [33]1933年1月帝都電鉄に改称、1933年11月資本金3800万円を1600万円に、1934年4月1280万円に減資、1934年4月1日井ノ頭公園-吉祥寺開業で全通。旧東京山手急行電鉄の事業費が重荷
- [34]1933年1月帝都電鉄に改称、1933年11月資本金3800万円を1600万円に、1934年4月1280万円に減資、1934年4月1日井ノ頭公園-吉祥寺開業で全通。旧東京山手急行電鉄の事業費が重荷
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第二節「帝都電鉄を合併」
- [36]1939年、利光鶴松は五島慶太と小林一三を招き帝都電鉄が免許を持つ東京山手急行線の建設を相談。これに先立ち五島の京浜電気鉄道買収を後押し
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「鬼怒川水力電気に合併」
- [37]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [39]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [40]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- [42]1938年4月電力管理法、1939年3月までに隅田火力等を日本発送電へ出資し評価差損83万4988円86銭4厘、1941年3月1日合併、6月28日利光鶴松引退(77歳)・7月4日利光學一社長、10月1日第二次出資で電力事業消滅
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「五島慶太が社長に」
- [43]利光學一は就任3か月余で退任、利光鶴松の依頼で五島慶太が3代目社長に就任。引受けの際に時期が来たら東横に合併すると答えた(三鬼陽之助『五島慶太伝』による)
- [44]利光學一は就任3か月余で退任、利光鶴松の依頼で五島慶太が3代目社長に就任。引受けの際に時期が来たら東横に合併すると答えた(三鬼陽之助『五島慶太伝』による)
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「東急時代」
- [45]1942年5月1日、小田急電鉄と京浜電気鉄道が東京横浜電鉄に合併し資本金2億480万円の東京急行電鉄。比率1対1だが小田急電鉄は配当率で年4%下回り、合併後の小田急電鉄株式は後配株
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「終戦前後」
- [47]1947年初め新宿・京王・品川・横浜の4支社連名で解体の必然性を説く「提唱」、4月10日社長小林中が分離否定を告示、4月19日新宿支社が即時解体を決議
- [48]1947年初め新宿・京王・品川・横浜の4支社連名で解体の必然性を説く「提唱」、4月10日社長小林中が分離否定を告示、4月19日新宿支社が即時解体を決議
- [49]1947年12月26日定時株主総会で再編成を特別決議、第二会社に小田原線・江ノ島線。井ノ頭線は電燈電力事業を失った第一会社(旧京王)の経営基盤安定のため第一会社へ編入
- [50]1947年12月26日定時株主総会で再編成を特別決議、第二会社に小田原線・江ノ島線。井ノ頭線は電燈電力事業を失った第一会社(旧京王)の経営基盤安定のため第一会社へ編入
出典・参考
17件
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第二節「小田原急行鉄道の誕生」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第四節「開業前後」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第一章第五節「江ノ島線の開業」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「沿線開発への努力」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第二節「忍苦耐乏の十余年」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第二章第三節「相模野の変貌」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第一節「帝都電鉄」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第二節「帝都電鉄を合併」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「鬼怒川水力電気に合併」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第三節「五島慶太が社長に」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「東急時代」
- 刊行社史『小田急五十年史』(1980) 第三章第四節「終戦前後」
- 会社銀行八十年史(1955)「小田急電鉄」
- 企業の歴史 明治百年(1968)「小田急電鉄」
- ダイヤモンド 1939年5月11日号
- 読売新聞(1929年4月12日)
- 安藤楢六「私の履歴書」(日本経済新聞社『私の履歴書 経済人』19)