利光鶴松
経歴1910〜1941年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1910年主要役職の状況(推定含む目安)1941年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 鬼怒川水力電気 | 1910 | 設立 | ||
| 小田急電鉄 | 1923 | 設立 | |||
| 小田急電鉄(旧・鬼怒川水力電気) | 1941 | 取締役社長(鬼怒川水力電気が小田原急行鉄道を合併し改称) | |||
| 1941 | 退任 |
社長就任までの出自
出自
1863年、大分県大分郡植田村の農家に生まれ、15歳で父を失ってからは母を助けて家業を担った。明治法律学校で法律を修め、学資は叔父の利光品吉氏が出した。1887年12月、23歳で代言人の資格を得て、東京・神田に事務所を開設した。自由党の院外団を率いて政界に入り、1896年に東京市会議員、1898年には衆議院議員に当選した。市会議員の時期に東京の市内交通を手がけたことが、のちの電鉄事業への入口となった。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
利光鶴松氏が事業に関わり始めたのは日清戦争直後の1896年で、市内交通機関の計画から出発し、1899年8月には東京市街鉄道を出願した。手記には、事業は当初は政治上の大望を果たす手段だったが、途中から目的が一変し、手段のはずの事業が本職になったと書き残している。1902年夏の総選挙には立たずに政界を去り、活動の主力を実業に移した。
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)序章第二節 利光鶴松の人と事業
- [6]利光鶴松が事業に手を染めたのは明治二十七〜八年の日清戦争の直後で、これが実業界へ進出した最初、明治二十九年(一八九六)のことであった。市内馬車鉄道・圧搾空気鉄道の計画を経て、明治三十二年(一八九九)八月には東京市街鉄道を出願した
- [7]手記「事業ニ関係セシ心底」:政治上ノ大望ヲ達スルノ手段トシテ事業ニ関係セシナリ。然レドモソレハ事業ニ関係セシ初メノ目的ニシテ、中途ヨリ其目的ハ一変シ、初メ手段トシテ利用シタル事業ガ却テ予ノ本職トナリ
- [8]明治三十五年(一九〇二)夏の総選挙には立候補することなく政界を去り、実業界へ転進していった
電力では、1906年に計画された東京水力電気が不況で資金を調達できず、英国資本の導入交渉も1910年5月に打ち切られて、常任委員の何人かが撤退した。利光鶴松氏は国内資本で計画を貫くと主唱し、準備組合の権利と責任を引き継いで鬼怒川水力電気を発起し直した。1910年10月の創立総会のあと取締役社長に就任し、起工前の1909年10月に東京鉄道と結んだ大口の電力供給契約が、開業後の経営を支えた。1913年1月には東京市電気局への送電を始めた。
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)序章第二節 利光鶴松の人と事業
- [9]明治三十九年(一九〇六)の東京水力電気の計画は、明治四十年代の不況で資金難となり進まなかった。英国の資本家ジャクソンとの外資導入交渉は明治四十三年(一九一〇)五月に打ち切られ、田健治郎ら常任委員の何人かは手を引き、準備組合は解散した
- [10]国内資本によってあくまで素志を貫徹しようと決起した主唱者が利光鶴松であった。利光鶴松は改めて鬼怒川水力電気株式会社を発起し、準備組合の所有する権利、責任のすべてを継承した
- [11]明治四十三年十月一日に創立総会を開き、取締役互選の結果、取締役社長に利光鶴松。明治四十二年(一九〇九)十月、東京鉄道との契約締結に成功し、起工一年前に大口需要者を確保したことは開業後の事業安定の基盤をつくったものとして特筆される。大正二年(一九一三)一月一日、東京市電気局への送電を開始した
- [12]明治四十三年十月一日に創立総会を開き、取締役互選の結果、取締役社長に利光鶴松。明治四十二年(一九〇九)十月、東京鉄道との契約締結に成功し、起工一年前に大口需要者を確保したことは開業後の事業安定の基盤をつくったものとして特筆される。大正二年(一九一三)一月一日、東京市電気局への送電を開始した
鉄道では、鬼怒川水力電気の社長のまま1919年1月に東京市内の高速鉄道を出願し、1920年3月に東京高速鉄道として免許を得た。地下鉄は不況と工事方法をめぐる内務省の反対で着工できず、1920年8月にその延長線として東京〜小田原間の高速度電気鉄道を出願し、1922年5月29日に免許を得た。1923年3月に社名を小田原急行鉄道に改め、5月1日の創立総会を経て取締役社長に就任した。親会社の鬼怒川水力電気も、1923年7月から1926年1月にかけて4回、総額350万円の投資を計画した。
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第一章第二節 小田原急行鉄道の誕生
- [13]大正八年一月高速鉄道敷設之儀ヲ出願致シ大正九年三月十七日附ヲ以テ免許状御下附相成リ(東京高速鉄道。利光鶴松は当時、鬼怒川水力電気の社長)
- [14]東京高速鉄道の計画は工事方法をめぐる内務省の反対や大戦後の経済恐慌の影響で進まず、大正九年八月二十四日に東京高速鉄道小田原延長線として東京〜小田原間の高速度電気鉄道敷設免許を申請。大正十一年(一九二二)五月二十九日に免許状が下付された
- [15]利光鶴松らは大正十二年(一九二三)三月八日、東京高速鉄道株式会社の社名を小田原急行鉄道株式会社と改め、五月一日、鉄道協会において創立総会を開催。取締役社長利光鶴松。鬼怒川水力電気は十二年七月から十五年一月にかけて、四回にわたり総額三五〇万円の投資を計画している
- [16]利光鶴松らは大正十二年(一九二三)三月八日、東京高速鉄道株式会社の社名を小田原急行鉄道株式会社と改め、五月一日、鉄道協会において創立総会を開催。取締役社長利光鶴松。鬼怒川水力電気は十二年七月から十五年一月にかけて、四回にわたり総額三五〇万円の投資を計画している
建設では、起工式で開業の期日を確約し、全線82キロ余りを8工区に分けて着工から1年半で竣工させた。停車場は全線で38か所を予定し、多摩川・相模川・酒匂川の三大河川に橋を架けた。当初は多摩川以西を単線とする計画だったが、着工後に関西を視察した利光鶴松氏は全線複線への変更を決め、1926年9月に申請した。沿線では1925年1月に小田原急行土地を設立して土地100万坪を買い入れ、1926年9月の臨時株主総会で同社の合併を議決した。1927年4月に小田原線、1929年4月に江ノ島線を開業したが、開業直後に昭和恐慌に見舞われ、苦しい経営が長く続いた。
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第一章 三 利光鶴松の英断
- [17]起工式で利光鶴松が開業の期日を確約宣言した。全線を八工区に分けて着工し、全線八二キロ余の長距離を着工後わずか一年半の短時日で竣功開通させた。停車場、停留所は全線で三八か所を予定。多摩川、相模川、酒匂川の三大河川の架橋があった
- [18]起工式で利光鶴松が開業の期日を確約宣言した。全線を八工区に分けて着工し、全線八二キロ余の長距離を着工後わずか一年半の短時日で竣功開通させた。停車場、停留所は全線で三八か所を予定。多摩川、相模川、酒匂川の三大河川の架橋があった
- [19]最初の計画は新宿〜和泉多摩川間が複線、多摩川以西が単線という予定で工事にかかったが、着工後、利光鶴松が関西方面を視察した結果、全線複線に変更することになった。計画変更の申請は大正十五年(一九二六)九月二日に提出し、昭和二年(一九二七)三月十六日に認可された
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第一章 第一回増資と小田原急行土地の合併
- [20]一〇〇万坪の土地を坪単価一円三〇銭内外で買収し、大正十四年(一九二五)一月一日、資本金三〇〇万円の小田原急行土地株式会社を設立していたが、同社を吸収合併することとし、十五年(一九二六)九月一日の臨時株主総会でこれを議決した
- 小田急電鉄 公式サイト「会社小史・略年表」(2026年10月)
- [21]1923年5月に小田原急行鉄道(株)として創立され、1927年4月に小田原線、1929年4月に江ノ島線を開業。開業直後に昭和恐慌に見舞われ苦しい経営が長く続いた。1941年3月には親会社の鬼怒川水力電気(株)に合併の上、小田急電鉄(株)と改称。1942年5月には東京横浜電鉄(株)に合併し東京急行電鉄(株)と改称。1948年6月に東京急行電鉄(株)から分離独立し、新生小田急電鉄(株)として発足
戦時統制が進むなか、1941年3月に小田原急行鉄道は親会社の鬼怒川水力電気に合併され、小田急電鉄と改称した。利光鶴松氏は同年6月28日、老齢を理由に社長を退き、後事を五島慶太氏に託した。1942年5月には小田急電鉄も京浜電気鉄道とともに五島慶太氏の東京横浜電鉄へ統合され、利光鶴松氏は1945年に81歳で逝去した。現在の小田急電鉄は1948年6月に東京急行電鉄から分離独立して発足した会社で、利光鶴松氏はその社長には就任していない。
- 小田急電鉄 公式サイト「会社小史・略年表」(2026年10月)
- [22]1923年5月に小田原急行鉄道(株)として創立され、1927年4月に小田原線、1929年4月に江ノ島線を開業。開業直後に昭和恐慌に見舞われ苦しい経営が長く続いた。1941年3月には親会社の鬼怒川水力電気(株)に合併の上、小田急電鉄(株)と改称。1942年5月には東京横浜電鉄(株)に合併し東京急行電鉄(株)と改称。1948年6月に東京急行電鉄(株)から分離独立し、新生小田急電鉄(株)として発足
- [25]1923年5月に小田原急行鉄道(株)として創立され、1927年4月に小田原線、1929年4月に江ノ島線を開業。開業直後に昭和恐慌に見舞われ苦しい経営が長く続いた。1941年3月には親会社の鬼怒川水力電気(株)に合併の上、小田急電鉄(株)と改称。1942年5月には東京横浜電鉄(株)に合併し東京急行電鉄(株)と改称。1948年6月に東京急行電鉄(株)から分離独立し、新生小田急電鉄(株)として発足
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第三章 利光鶴松の引退
- [23]昭和十六年(一九四一)六月二十八日、社長の利光鶴松は老齢を理由に引退した。創設者社長の利光鶴松が一切の後事を五島慶太に託した
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第三章第四節 東急時代
- [24]昭和十七年(一九四二)五月一日、小田急電鉄は京浜電気鉄道とともに東京横浜電鉄に合併し東京急行電鉄となった。昭和二十年(一九四五)、創業者社長としてその育成発展に生涯を賭した利光鶴松が逝去した。八一歳であった(国立国会図書館典拠「利光, 鶴松, 1863-1945」)
参考文献4件
参考文献
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)序章第二節 利光鶴松の人と事業
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第一章第二節 小田原急行鉄道の誕生
- 小田急五十年史(小田急電鉄, 1980)第三章 小田急電鉄の発足・利光鶴松の引退
- 国立国会図書館典拠データ「利光, 鶴松, 1863-1945」(『利光鶴松翁手記 伝記・利光鶴松』の書誌)
事実根拠:出所(小田急電鉄)