第1章 年〜年

三井不動産:三井合名会社の不動産課設置と三井不動産の設立

1909年〜三井家の土地を預かる三井合名会社の不動産課と、6年がかりの駿河町の新本館

三井家の土地と建物の管理は、1914年8月5日に新設された三井合名会社の不動産課へ一本化された。三井合名会社は1909年10月11日に同族11名の出資で発足した、三井家の共有財産を保有する持株会社である。1910年1月時点の所有地は9万7500坪余、うち営業に使える土地は3分の1未満。三井合名会社は1910年に麻布笄町で約300坪、1911年に芝三田四国町で約8000坪を取得し、管理の対象はさらに増えた。初代課長は矢野亮一氏、担当理事は有賀長文氏で、駿河町本館の管理業務と要員も不動産課に移った。1947年に入社した江戸英雄氏は、三井不動産の起こりを三井合名の不動産課の独立に求めている。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [1]1914年8月5日、三井合名会社に不動産課を新設。初代課長矢野亮一、担当理事有賀長文。駿河町本館管理の業務と要員を継承
    • [2]1909年10月11日、同族11名を出資社員とする三井合名会社を設立し、共有財産を所有する持株会社とした
    • [3]1910年1月現在の三井合名の所有地は9万7500坪余。営業用地は所有地の3分の1に足りなかった
    • [4]三井合名は1910年に麻布笄町約300坪、1911年に芝区三田四国町約8000坪を購入
    • [5]1914年8月5日、三井合名会社に不動産課を新設。初代課長矢野亮一、担当理事有賀長文。駿河町本館管理の業務と要員を継承
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」
    • [6]江戸英雄は1947年10月に三井不動産へ管理部副部長として入社。三井不動産を三井合名の不動産課が独立してできた会社と記す

不動産課は、1923年9月1日の関東大震災で駿河町一構の建物が類焼したのを機に、本館を建て替えた。三井合名会社は有楽町集会所の構内に各社の仮事務所を急造し、工費を概算30万円と見積もった。警視庁の鑑定で本館は補修で使えると判定されたものの、理事長の団琢磨氏ら三井首脳部は復旧を採らなかった。1924年3月3日の理事会は、三井合名・三井銀行・三井信託の3社本社を収める1棟の新築を議決した。着工は東京市の復興計画の新道と隣地買収の難航で遅れ、地鎮祭は1926年5月31日。新本館は1929年3月27日に竣工し、総工費の清算額は2131万円にのぼる。室町一構のビルは、1941年の三井不動産設立時にも三井各社へ事務室を貸す事業の基盤となった。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [7]1923年9月1日の関東大震災で駿河町一構の建物が類焼。有楽町集会所構内に各社仮事務所を急造(工費概算30万円)
    • [8]1923年9月1日の関東大震災で駿河町一構の建物が類焼。有楽町集会所構内に各社仮事務所を急造(工費概算30万円)
    • [9]警視庁の鑑定で本館は問題なしとされたが、団琢磨ら三井首脳部は復旧策を取らず、1924年3月3日の理事会で3社本社を収める1棟の新築を議決
    • [10]警視庁の鑑定で本館は問題なしとされたが、団琢磨ら三井首脳部は復旧策を取らず、1924年3月3日の理事会で3社本社を収める1棟の新築を議決
    • [11]東京市の復興計画の新道問題と隣地買収が難問となり、地鎮祭は1926年5月31日
    • [12]新本館は1929年3月27日竣工、総工費(清算額)2131万円
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [13]設立時に買い受けた事務所用ビル(室町一構の各ビル)が経営の基盤で、テナントは三井銀行・三井物産・三井鉱山・三井信託・三井生命等

新本館の完成後、不動産課は事務室の増築に加え、保有地を宅地に造成して分譲する事業を始めた。1933年上期の営業報告は、室町一構の建物にほぼ空室が無くなったと記している。大阪では中之島ビルを1933年11月28日に落成させ、三井物産大阪支店を移した。1941年時点でも中之島ビルの主要テナントは三井物産。戸越では都市計画道路が三井文庫の書庫にかかると分かり、三井合名会社は1931年10月に土地の処分方針を決めた。約2万2000坪を宅地に造成し、1935年6月から坪42〜56円で第1次53口の販売を始めた。巣鴨では内務省の依頼で傷兵院の跡地約1万6000坪を77万8000円余で取得し、1938年12月から198口を売り出した。1937年6月に承認された日比谷のビル計画は、日中戦争に伴う資金と鉄鋼の統制で実現しなかった。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [14]不動産課の営業報告は1933年上期に室町一構建物にほとんど空室なしと報告
    • [15]不動産課の営業報告は1933年上期に室町一構建物にほとんど空室なしと報告
    • [16]大阪中之島ビルは1933年2月起工、11月28日落成。三井物産大阪支店などが移転
    • [18]戸越は都市計画道路が三井文庫書庫にかかるため1931年10月に処分方針を決定。約2万2000坪を宅地造成し1935年6月から第1次53口を坪42~56円で販売
    • [19]戸越は都市計画道路が三井文庫書庫にかかるため1931年10月に処分方針を決定。約2万2000坪を宅地造成し1935年6月から第1次53口を坪42~56円で販売
    • [20]巣鴨の傷兵院跡地約1万6000坪を内務省の依頼で1937年7月に77万8000円余で買受け、1938年12月から198口を分譲
    • [21]1937年6月に日比谷のビル新築方針が理事会承認。日中戦争と臨時資金調整法・鉄鋼工作物築造許可規則の施行で実現せず
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [17]1941年の設立時に買い受けた中之島ビルの主要テナントは三井物産
参考文献[1]-[21]
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [1]1914年8月5日、三井合名会社に不動産課を新設。初代課長矢野亮一、担当理事有賀長文。駿河町本館管理の業務と要員を継承
    • [2]1909年10月11日、同族11名を出資社員とする三井合名会社を設立し、共有財産を所有する持株会社とした
    • [3]1910年1月現在の三井合名の所有地は9万7500坪余。営業用地は所有地の3分の1に足りなかった
    • [4]三井合名は1910年に麻布笄町約300坪、1911年に芝区三田四国町約8000坪を購入
    • [5]1914年8月5日、三井合名会社に不動産課を新設。初代課長矢野亮一、担当理事有賀長文。駿河町本館管理の業務と要員を継承
    • [7]1923年9月1日の関東大震災で駿河町一構の建物が類焼。有楽町集会所構内に各社仮事務所を急造(工費概算30万円)
    • [8]1923年9月1日の関東大震災で駿河町一構の建物が類焼。有楽町集会所構内に各社仮事務所を急造(工費概算30万円)
    • [9]警視庁の鑑定で本館は問題なしとされたが、団琢磨ら三井首脳部は復旧策を取らず、1924年3月3日の理事会で3社本社を収める1棟の新築を議決
    • [10]警視庁の鑑定で本館は問題なしとされたが、団琢磨ら三井首脳部は復旧策を取らず、1924年3月3日の理事会で3社本社を収める1棟の新築を議決
    • [11]東京市の復興計画の新道問題と隣地買収が難問となり、地鎮祭は1926年5月31日
    • [12]新本館は1929年3月27日竣工、総工費(清算額)2131万円
    • [14]不動産課の営業報告は1933年上期に室町一構建物にほとんど空室なしと報告
    • [15]不動産課の営業報告は1933年上期に室町一構建物にほとんど空室なしと報告
    • [16]大阪中之島ビルは1933年2月起工、11月28日落成。三井物産大阪支店などが移転
    • [18]戸越は都市計画道路が三井文庫書庫にかかるため1931年10月に処分方針を決定。約2万2000坪を宅地造成し1935年6月から第1次53口を坪42~56円で販売
    • [19]戸越は都市計画道路が三井文庫書庫にかかるため1931年10月に処分方針を決定。約2万2000坪を宅地造成し1935年6月から第1次53口を坪42~56円で販売
    • [20]巣鴨の傷兵院跡地約1万6000坪を内務省の依頼で1937年7月に77万8000円余で買受け、1938年12月から198口を分譲
    • [21]1937年6月に日比谷のビル新築方針が理事会承認。日中戦争と臨時資金調整法・鉄鋼工作物築造許可規則の施行で実現せず
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」
    • [6]江戸英雄は1947年10月に三井不動産へ管理部副部長として入社。三井不動産を三井合名の不動産課が独立してできた会社と記す
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [13]設立時に買い受けた事務所用ビル(室町一構の各ビル)が経営の基盤で、テナントは三井銀行・三井物産・三井鉱山・三井信託・三井生命等
    • [17]1941年の設立時に買い受けた中之島ビルの主要テナントは三井物産

1940年〜三井物産に吸収された三井合名会社の不動産課と、資本金300万円で立った三井不動産

三井合名会社の不動産課が三井物産本店不動産管理課に移ったのは、1940年8月27日の合併による。当時の三井家では11家のうち6家で家督相続が起こり、相続税の納付を持株の売却で賄う必要に迫られた。三井合名理事長の向井忠晴氏は対策委員会を組織し、子会社の三井物産に親会社の三井合名を合併させる改組案を決めた。課長の長岡治男氏以下の人員はそのまま移り、在職者の多くは当時を『エンリスト・バット・ノータッチ』の立場と振り返った。三井物産は合併の際、室町の土地などを三井家の希望に応じ帳簿価格で譲渡すると了解していた。不動産管理課への移行は当初から暫定の措置であり、三井不動産は設立時に三井物産から293名の従業員を継承した。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [22]1940年8月27日の三井物産による三井合名吸収合併で、合名不動産課は三井物産本店不動産管理課となった
    • [23]11家のうち6家に家督相続が起こり納税資金が必要に。向井忠晴理事長が対策委員会を組織し、三井合名を三井物産に合併する本社株式組織化案を決定
    • [24]11家のうち6家に家督相続が起こり納税資金が必要に。向井忠晴理事長が対策委員会を組織し、三井合名を三井物産に合併する本社株式組織化案を決定
    • [25]課長長岡治男以下の構成員は旧のまま。在職者は当時をエンリスト・バット・ノータッチの立場と回想
    • [26]合併時に三井物産は室町一、二丁目所在土地等を三井家の希望があれば帳簿価格で譲渡する旨を了解。移行は初めから暫定措置
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [27]三井不動産は創立に際し三井物産から293名の従業員を継承。大半は三井合名不動産課から三井物産に移っていた人たち

三井物産は三井各社を統轄する本社の機能までは継げず、合併と同時に三井総元方が設けられた。三井総元方の企画部は部長の佐々木四郎氏のもとで三井不動産株式会社の設立を立案し、1941年5月29日の理事会で承認を得た。議案は同族出資で総元方直轄の別会社を置き、『旧合名所有不動産ノ一括保有管理ニ当ラシムルヲ適当ト被認候』とした。要綱は資本金300万円の全株を三井11家が引き受け、不動産の代金約2800万円を三井物産からの借入金で払う内容である。買受価額は最終的に2813万9052円となり、その全額を年利3.5%の借入金で賄った。三井物産株の公開を控え、由緒ある家産を第三者株主が加わる前に簿価で三井家側へ戻す意図があったと推察される。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [28]三井物産が三井各社を統轄する本社的機能を継承するのは困難で、合併と同時に三井総元方を設立
    • [29]総元方企画部(部長佐々木四郎)が立案し、1941年5月29日の総元方理事会で「三井不動産株式会社(仮称)設立方針ニ関スル件」を承認。同族出資の総元方直轄の別会社に旧合名所有不動産を一括保有管理させる
    • [30]総元方企画部(部長佐々木四郎)が立案し、1941年5月29日の総元方理事会で「三井不動産株式会社(仮称)設立方針ニ関スル件」を承認。同族出資の総元方直轄の別会社に旧合名所有不動産を一括保有管理させる
    • [31]設立案要綱は資本金300万円・6万株を三井総元方(三井11家)が全株所有、不動産代金約2800万円は三井物産からの借入金
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [32]三井物産からの買受け価額は帳簿価額2813万9052円で、全額を同社からの借入金(年利3.5%)とした

三井不動産は1941年7月15日に設立登記を終え、資本金300万円・6万株で発足した。全株を三井11家が保有し、三井総元方の直轄会社と位置づけられた。取締役会長には三井総元方常務理事の小池正彪氏、代表取締役常務には長岡治男氏と佐々木四郎氏が就任した。専任の役員は長岡治男氏1人で、本店の所在地は東京市日本橋区室町二丁目である。資本金の大半は所有権移転登記の費用に充当され、事業収支目論見書は総収入の84%を建物収入と見込んだ。設立案に添えた収支予想表は、35年間の収入を毎年364万5000円に固定している。設立時の三井不動産は、事業を広げる会社というより、三井家の家産を保つための仕組みとして設計されたのだろう。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [33]1941年7月15日に設立登記完了。資本金300万円、6万株、所在地は東京市日本橋区室町二丁目1番地1
    • [34]全株を三井11家が所有し三井総元方の直轄会社。取締役会長小池正彪(総元方常務理事)、代表取締役常務長岡治男・佐々木四郎。専任役員は長岡のみ
    • [35]全株を三井11家が所有し三井総元方の直轄会社。取締役会長小池正彪(総元方常務理事)、代表取締役常務長岡治男・佐々木四郎。専任役員は長岡のみ
    • [36]1941年7月15日に設立登記完了。資本金300万円、6万株、所在地は東京市日本橋区室町二丁目1番地1
    • [37]資本金300万円の大半は所有権移転登記費用に充当。事業収支目論見書で総収入の84%を建物収入と見込む
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [38]設立案要綱に添えた収支予想表は向こう35年間の収入を毎年364万5000円に固定
参考文献[22]-[38]
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [22]1940年8月27日の三井物産による三井合名吸収合併で、合名不動産課は三井物産本店不動産管理課となった
    • [23]11家のうち6家に家督相続が起こり納税資金が必要に。向井忠晴理事長が対策委員会を組織し、三井合名を三井物産に合併する本社株式組織化案を決定
    • [24]11家のうち6家に家督相続が起こり納税資金が必要に。向井忠晴理事長が対策委員会を組織し、三井合名を三井物産に合併する本社株式組織化案を決定
    • [25]課長長岡治男以下の構成員は旧のまま。在職者は当時をエンリスト・バット・ノータッチの立場と回想
    • [26]合併時に三井物産は室町一、二丁目所在土地等を三井家の希望があれば帳簿価格で譲渡する旨を了解。移行は初めから暫定措置
    • [28]三井物産が三井各社を統轄する本社的機能を継承するのは困難で、合併と同時に三井総元方を設立
    • [29]総元方企画部(部長佐々木四郎)が立案し、1941年5月29日の総元方理事会で「三井不動産株式会社(仮称)設立方針ニ関スル件」を承認。同族出資の総元方直轄の別会社に旧合名所有不動産を一括保有管理させる
    • [30]総元方企画部(部長佐々木四郎)が立案し、1941年5月29日の総元方理事会で「三井不動産株式会社(仮称)設立方針ニ関スル件」を承認。同族出資の総元方直轄の別会社に旧合名所有不動産を一括保有管理させる
    • [31]設立案要綱は資本金300万円・6万株を三井総元方(三井11家)が全株所有、不動産代金約2800万円は三井物産からの借入金
    • [38]設立案要綱に添えた収支予想表は向こう35年間の収入を毎年364万5000円に固定
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [27]三井不動産は創立に際し三井物産から293名の従業員を継承。大半は三井合名不動産課から三井物産に移っていた人たち
    • [32]三井物産からの買受け価額は帳簿価額2813万9052円で、全額を同社からの借入金(年利3.5%)とした
    • [33]1941年7月15日に設立登記完了。資本金300万円、6万株、所在地は東京市日本橋区室町二丁目1番地1
    • [34]全株を三井11家が所有し三井総元方の直轄会社。取締役会長小池正彪(総元方常務理事)、代表取締役常務長岡治男・佐々木四郎。専任役員は長岡のみ
    • [35]全株を三井11家が所有し三井総元方の直轄会社。取締役会長小池正彪(総元方常務理事)、代表取締役常務長岡治男・佐々木四郎。専任役員は長岡のみ
    • [36]1941年7月15日に設立登記完了。資本金300万円、6万株、所在地は東京市日本橋区室町二丁目1番地1
    • [37]資本金300万円の大半は所有権移転登記費用に充当。事業収支目論見書で総収入の84%を建物収入と見込む

1941年〜三井本社の直系会社となった戦時の三井不動産と、財閥解体で守った三井の商号

三井不動産は1944年9月、三井本社から直系会社10社の1社に指定された。三井総元方企画部は1941年11月の草案で、生産部門への投資、統轄会社の設立、物産株の公開の3点を基本方針に掲げた。背景には戦時の増税で弱った三井家の財政があり、11家のうち6家では家督相続で高額の納税資金が要った。本社の設立案は政府と三井物産の反対で進まず、1943年9月の山西事件で三井物産の重役陣が総辞職に追い込まれた。1944年3月1日、三井物産を改組した株式会社三井本社が発足し、社長には三井高公氏が就任した。三井本社の持株が無い直系会社は三井不動産だけであり、重要な経営方針には本社の事前承認が必要だった。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [39]1944年9月、三井本社が直系会社10社を指定し三井不動産も含まれた。三井本社の持株がないのは三井不動産だけで、重要方針は事前に本社承認を要した
    • [40]1941年11月に総元方企画部が「三井ノ新事業態勢ニ就テ」で生産部門投資・統轄会社設立・物産株公開の3点を基本方針に提起
    • [42]本社設立は政府部内と物産側の抵抗で進まず、1943年9月の山西事件で物産重役陣が総辞職。1944年3月1日に株式会社三井本社が発足、社長三井高公
    • [43]本社設立は政府部内と物産側の抵抗で進まず、1943年9月の山西事件で物産重役陣が総辞職。1944年3月1日に株式会社三井本社が発足、社長三井高公
    • [44]1944年9月、三井本社が直系会社10社を指定し三井不動産も含まれた。三井本社の持株がないのは三井不動産だけで、重要方針は事前に本社承認を要した
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [41]11家の同族のうち6家に家督相続が起こり、高額の納税資金の調達が必要だった

三井不動産は1944年9月に「土木事業計画書」を作成し、建設の設計と施工の能力を社内に持つ方針を決めた。軍需施設の建設と所有不動産の保全に加え、戦後の戦災復旧工事を担う狙いだった。1945年1月には社内の一部門として三井土建総合研究所を置き、所長は社長の佐々木四郎氏が兼ねた。統制下で建設業の新会社は設立できず、三井不動産は1945年2月に西本組の株式10万株のうち6万6000株を495万円で取得した。買収資金は帝国銀行東京支店からの融資で賄い、1945年5月に西本組を資本金500万円の三井建設工業へ改めた。空襲で東京の今井町分館などを焼失した一方、室町一構と大阪の中之島ビル・高麗橋ビルは焼失を免れた。江戸英雄氏は佐々木四郎氏を三井不動産の初代社長と記している。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [45]1944年9月に「土木事業計画書」を作成。軍需施設建設・所有不動産の保全・戦後の戦災復旧工事のため設計施工能力が必要と判断
    • [46]1944年9月に「土木事業計画書」を作成。軍需施設建設・所有不動産の保全・戦後の戦災復旧工事のため設計施工能力が必要と判断
    • [47]1945年1月に三井土建総合研究所を当社の一部門として設立、所長は社長佐々木四郎(1944年12月社長就任)が兼任
    • [48]統制で土建業の新会社設立は不可能。1945年2月に西本組10万株中6万6000株を495万円で買収(帝国銀行東京支店の融資)、5月に三井建設工業(資本金500万円)へ改組
    • [49]統制で土建業の新会社設立は不可能。1945年2月に西本組10万株中6万6000株を495万円で買収(帝国銀行東京支店の融資)、5月に三井建設工業(資本金500万円)へ改組
    • [50]空襲で室町一構・中之島ビル・高麗橋ビルは焼失をまぬがれ、今井町分館などは焼失
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」
    • [51]江戸英雄は三井不動産の初代社長を佐々木四郎と記す

三井本社は1946年9月30日に解散し、三井不動産は同年10月に施設部を新設して三井各社の共同施設の運営を継承した。対象は上高井戸と武庫川の運動場、逗子海浜倶楽部、室町一構の医務室や食堂で、人員89名も三井本社から移った。三井家が持つ三井不動産の株式がすべて持株会社整理委員会の管理下に置かれたのは、1945年11月の指令による。1947年10月に管理部副部長として入社した江戸英雄氏は、三井物産の退去で本館に空いた約3000坪の貸付けで資金繰りを持ち直させた。商号も存続を問われ、1948年4月の社内の新社名募集では「東洋不動産」が入選した。三井不動産は最終的に財閥商号の使用禁止令に抗し、三井の名を保つ方針を固めた。

  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [52]1946年9月30日に三井本社解散。三井不動産は1946年10月に施設部を新設し、上高井戸・武庫川運動場、逗子海浜倶楽部、室町一構の医務室・食堂等の運営と89名の人員を継承
    • [53]1946年9月30日に三井本社解散。三井不動産は1946年10月に施設部を新設し、上高井戸・武庫川運動場、逗子海浜倶楽部、室町一構の医務室・食堂等の運営と89名の人員を継承
    • [54]1945年11月の総司令部指令で三井家所有の三井不動産株式はすべて持株会社整理委員会の管理下に
    • [56]1948年4月に社内で新社名を募集し「東洋不動産」が入選。最終的には財閥商号商標使用禁止令に抗戦する決意を固めた
    • [57]1948年4月に社内で新社名を募集し「東洋不動産」が入選。最終的には財閥商号商標使用禁止令に抗戦する決意を固めた
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」
    • [55]江戸英雄は1947年10月に管理部副部長として入社。三井物産の退去で本館に約3000坪の空室が生じ、貸付けで危機を脱した
参考文献[39]-[57]
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
    • [39]1944年9月、三井本社が直系会社10社を指定し三井不動産も含まれた。三井本社の持株がないのは三井不動産だけで、重要方針は事前に本社承認を要した
    • [40]1941年11月に総元方企画部が「三井ノ新事業態勢ニ就テ」で生産部門投資・統轄会社設立・物産株公開の3点を基本方針に提起
    • [42]本社設立は政府部内と物産側の抵抗で進まず、1943年9月の山西事件で物産重役陣が総辞職。1944年3月1日に株式会社三井本社が発足、社長三井高公
    • [43]本社設立は政府部内と物産側の抵抗で進まず、1943年9月の山西事件で物産重役陣が総辞職。1944年3月1日に株式会社三井本社が発足、社長三井高公
    • [44]1944年9月、三井本社が直系会社10社を指定し三井不動産も含まれた。三井本社の持株がないのは三井不動産だけで、重要方針は事前に本社承認を要した
    • [45]1944年9月に「土木事業計画書」を作成。軍需施設建設・所有不動産の保全・戦後の戦災復旧工事のため設計施工能力が必要と判断
    • [46]1944年9月に「土木事業計画書」を作成。軍需施設建設・所有不動産の保全・戦後の戦災復旧工事のため設計施工能力が必要と判断
    • [47]1945年1月に三井土建総合研究所を当社の一部門として設立、所長は社長佐々木四郎(1944年12月社長就任)が兼任
    • [48]統制で土建業の新会社設立は不可能。1945年2月に西本組10万株中6万6000株を495万円で買収(帝国銀行東京支店の融資)、5月に三井建設工業(資本金500万円)へ改組
    • [49]統制で土建業の新会社設立は不可能。1945年2月に西本組10万株中6万6000株を495万円で買収(帝国銀行東京支店の融資)、5月に三井建設工業(資本金500万円)へ改組
    • [50]空襲で室町一構・中之島ビル・高麗橋ビルは焼失をまぬがれ、今井町分館などは焼失
    • [52]1946年9月30日に三井本社解散。三井不動産は1946年10月に施設部を新設し、上高井戸・武庫川運動場、逗子海浜倶楽部、室町一構の医務室・食堂等の運営と89名の人員を継承
    • [53]1946年9月30日に三井本社解散。三井不動産は1946年10月に施設部を新設し、上高井戸・武庫川運動場、逗子海浜倶楽部、室町一構の医務室・食堂等の運営と89名の人員を継承
    • [54]1945年11月の総司令部指令で三井家所有の三井不動産株式はすべて持株会社整理委員会の管理下に
    • [56]1948年4月に社内で新社名を募集し「東洋不動産」が入選。最終的には財閥商号商標使用禁止令に抗戦する決意を固めた
    • [57]1948年4月に社内で新社名を募集し「東洋不動産」が入選。最終的には財閥商号商標使用禁止令に抗戦する決意を固めた
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
    • [41]11家の同族のうち6家に家督相続が起こり、高額の納税資金の調達が必要だった
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」
    • [51]江戸英雄は三井不動産の初代社長を佐々木四郎と記す
    • [55]江戸英雄は1947年10月に管理部副部長として入社。三井物産の退去で本館に約3000坪の空室が生じ、貸付けで危機を脱した

出典・参考

3件
出典・参考
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)序章 創立前史(江戸時代~昭和16年)
  • 刊行社史『三井不動産四十年史』(1985)1章 当社の創立と戦後の試練(昭和16年~29年)
  • 私の昭和史『私の三井昭和史』(江戸英雄、1986)3章「三井不動産へ転出」

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