共同事業「レッツ」——土地を持たずに開発機会を取り込む仕組み
地価高騰で用地取得が行き詰まるなか、地主と組む共同事業を全社的な意識改革運動へ育てた
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- 概要
- 1980年、三井不動産が土地所有者との共同事業システム「レッツ」を制度として動かし始めた経営判断。自社単独の用地仕入れに頼らず、地主と組んで土地を有効活用する仕組みで、1980年代後半には全社的な意識改革運動へと位置づけを引き上げた。
- 背景
- 地価高騰で都市部のマンション立地が難しくなり、土地を買収して住宅やビルを建てて分譲する従来型のビジネスが成り立ちにくくなっていた。坪井東社長は「土地を奪い合ったりしてはダメ。地主と一緒になって共同事業で高い地価の問題を克服していく必要がある」と説いた。
- 内容
- レッツは、地主が三井不動産に土地を売却する代わりに、完成したマンションのうち土地代金に相当する床面積を買い戻す等価交換を基本とし、買い換え特例で税制上も有利であった。1986年にはレッツ事業企画部へ改組して人員と権限を増やし、営業を待ちの商売から外回りへ切り替えた。
- 含意
- 「省資金」を掲げた坪井体制の下で、10年単位で資金が拘束される不動産業のバランスシートを防衛する策として働いた。バブル崩壊後は事業受託・不動産小口化商品へと発展し、田中順一郎社長が掲げた「脱土地経営」の中核へつながった。
低成長期を貫いた一本の線
レッツを、単なる用地取得の一手段とみると全体像を取り逃がすことになる。1980年の制度化、1986年の意識改革運動への昇格、1993年の脱土地経営の中核化という三つの段階を並べると、地価上昇を前提としない事業モデルへ会社を寄せていく一本の線が浮かび上がる。坪井東氏が第一次石油危機直後から口にしてきた「土地所有への依存からの脱却」という主題が、税制改正という追い風や、バブル崩壊という逆風を経ながら、道具立てを変えて追われ続けた。共同事業から事業受託、そして小口化商品へと、土地を持たずに稼ぐ手法が段階的に厚みを増していった。
この連続性は、坪井氏から田中順一郎氏への社長交代をまたいでも途切れなかった。むしろ経営者が代わっても同じ主題が引き継がれた点にこそ、これが個人の思いつきではなく会社の構造的な選択であったことがうかがえる。10年単位で資金が拘束される不動産業にあって、自社で土地を抱え込むことのリスクをどう避けるかという問いは、のちに岩沙弘道社長が証券化と預かり資産で示した「持たない経営」へまっすぐ接続していった。レッツは、その長い模索の最初の実装だったとみることもできる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
地価高騰で行き詰まる用地取得
1980年前後、大都市では土地を買収して住宅やビルを建てて分譲するという三井不動産の主流のビジネス方式が成り立ちにくくなっていた。土地の価格があまりに高く、住宅分譲もオフィスビル賃貸もやりにくいなか、坪井東社長は「こういう時には土地を奪い合ったりしてはダメ。地主と一緒になって土地の有効利用を考え、共同事業で高い地価の問題を克服していく必要がある。土地所有への依存から脱却するためにはレッツに力を入れなければならない」と語った。土地買収に代わる用地取得の方式として、土地所有者との共同事業に目を向けるのは自然な流れであった[1]。
この背景には、土地を買収して住宅やビルを建てて分譲するという同社の不動産事業の主流だった方式が、大都市の地価急騰で成り立ちにくくなった事情があった。構造不況業種の企業が合理化の一環として首都圏の工場を住宅用地として売却したり、不動産会社と組んでマンション分譲に乗り出すケースが目立ち、三井不動産の大規模マンションの用地提供者にも三井グループに縁のある企業が多かった。石川島播磨重工業の工場跡地を使った大川端リバーシティや、日本製鋼所の工場跡地のパークシティ金沢八景が、その代表例であった[2]。
「省資金」を掲げた江戸-坪井体制
三井不動産のトップが地価上昇に依存しない「脱土地」経営を語るのは、この時が初めてではなかった。坪井東氏は第一次石油危機直後の1974年、社長に就任した直後からこれを口にしてきた。就任から数えて20年近く前のことである。江戸英雄会長による「実質本位」の経営思想を徹底し、「役員は部長の補佐役」と語るほど権限委譲を進めた坪井氏の下で、開発資金を極力省く「省資金」の考えが会社に根づいていた。10年単位で資金が拘束される不動産業において、自社で土地を抱えずに開発機会を取り込む仕組みは、低成長期のバランスシート防衛策として理にかなっていた[3]。
1980年、坪井体制は地主の土地を共同で有効活用する「レッツ」事業を始めた。この方式によるマンション建設を1980年に開始し、対象を個人から法人へと広げていく。1980年度の土地税制改正にあわせて、土地所有者との共同事業システムを「共同参加」の意で「レッツ」と名づけ、組織的な事業として動かし始めた。土地の有効活用から相続対策までを含む総合的なコンサルティングを、デベロッパー側が土地所有者に提供する枠組みで、自社単独の用地仕入れに頼らない収益源の確保にもつながる設計であった[4]。
決断
地主が床を買い戻す等価交換の仕組み
レッツは、都市部のマンション立地難を緩和するため、土地所有者との等価交換で用地を確保するねらいで始まった。地主は三井不動産に土地を売却する代わりに、出来上がったマンションのうち土地代金に相当する床面積を買い戻す。地主にとってはマンション建設に必要な企画・調査から資金まで三井不動産を利用でき、買い換え特例が適用されて税金面でも有利、という特典があった。同社はこの方式によるマンション建設を1980年に始め、等価交換だけでなく賃貸ビルを建設して運営を一括して請け負う「総合請負」も加えて、レッツを少しずつ拡大していった[5]。
とはいえ、従来の土地買収方式に比べればレッツはうまみが薄く手間がかかり、当初は補完的な色彩が強かった。営業も、広告を打って地主がアプローチしてくるのを待ったり、他の事業部門から顧客を紹介してもらう「待ちの商売」が主体で、外回りといっても「三井銀行に、いい話はないかと聞きに行く程度だった」(レッツ事業関係者)。1980年の税制改正を機に始まった共同事業は、しばらくの間は用地取得の一手段という位置づけにとどまっていた[6]。
全社的な「意識改革運動」への引き上げ
補完的だったレッツへの取り組みは、1986年になって俄然、熱を帯び始めた。同年4月、それまで住宅事業部門のスタッフ組織という色彩が強かった「レッツ事業本部」を、独立した部組織「レッツ事業企画部」に改組した。部長に大きな権限を与え、人員を10人増やして50人とし、営業の仕方を大きく変えた。それまで「個人」「中小法人」「大法人」の3グループに分かれていた体制に「特殊法人」「特殊案件」グループを加え、「個人」グループ以外は外回りの営業を主体にした。広告を打って地主のアプローチを待つ「カウンターセールス」から、法人担当が銀行や証券会社を回る「ルートセールス」へと、商売の仕方そのものを切り替えた[7]。
組織を変えただけではなかった。坪井社長をはじめとする経営陣は社内報や広報誌、さらにはマスコミを通じて、ことあるごとにレッツの重要性を訴え、CI(コーポレート・アイデンティティー)のようにイメージ中心にレッツの精神をうたいあげた。追い風のなかで目立ちにくいものの、大規模マンション分譲が生み出す「商品企画」と「信頼性」を武器とする事業展開にかげりが生じ始めており、小規模な事業でも手間ヒマ惜しまず吸い上げて「スマートな優等生」からの脱皮を図る必要があった。レッツは用地取得の一手段から、顧客のニーズに即応して全社員が動けるよう意識を変える全社的な「改善運動」へと、位置づけを引き上げられた[8]。
結果
バブル崩壊後の「脱土地」の中核へ
レッツは売上高の約3分の1を占めるまで成長し、近年は新規オフィスビルの約9割がレッツ事業の関連となった。代表的なのが事業受託方式(サブリース)で、土地所有者が建てた賃貸施設を三井不動産が一括して借り受けて転貸し、賃貸面積を急拡大させた。1992年9月末には、自社所有の賃貸面積229万平方メートルに対し転貸面積は144万平方メートルに及び、棟数でみると自社所有124棟よりも転貸179棟の方が多くなっていた。不動産の所有と経営を分離し、これまで培ったノウハウを商品化して提供する仕組みが、姿を現していた[9]。
バブルが崩壊すると、この路線はいっそう前面に出た。1991年度決算で三井不動産は第一次石油危機直後の不況以来16年ぶりの経常減益となり、田中順一郎社長は「今後は地価上昇を前提としない事業の組み立てを行う必要がある」と繰り返した。川崎市に保有する新川崎三井ビルの所有権の5割を三井生命保険に約600億円で売却するなど、自社ビルの売却にも踏み切った。あわせて、1990年に国内で最初に販売した不動産小口化商品にも力を入れ、ビルの所有権を1口5,000万円の共有持ち分に分割して投資家を募った。設備投資の要らないレッツや小口化といったソフト面を強化し、地価上昇に頼らぬ体質へ移る流れの中心に、レッツ事業が置かれた[10]。
- 日経ビジネス 1987年6月15日号 ケーススタディ「三井不動産 共同事業テコに活力回復へ」
- 日経ビジネス 1993年2月8日号 リストラ「三井不動産 事業受託・小口化商品で地価上昇に頼らぬ体質へ」
- 三井不動産 会社年鑑(1986年版・1980年3月期 単体業績)