NEC:電電公社向け受注生産から電子計算機・半導体への多角化
1955年〜交換機の世代交代と、自家用のつもりで始めた電子計算機
日本電気では嶋津保次郎や中嶋章らを軸に、電電公社の第一次拡充計画が始まるずっと前からクロスバ交換機を研究していた。拡充計画で市外線が整い、県庁所在地どうしで即時通話が可能になると、技術革新の焦点は電話交換機へ移った。交差させた棒でスイッチを組むクロスバ方式は、従来のstep-by-step方式に比べて安く済み、故障も少なく、動きも速かった。従来方式が会社にかなりの収益をもたらし、置き換えれば減収は避けられなかったが、技術担当常務の小林宏治氏は渡邊斌衡社長に問われて、減収になっても自分たちの手で置き換えるしかないと答えた。国産初のクロスバ交換機は1956年に栃木県の三和局で使われ始め、その後は市外局から市内局へと広がった。公社に納める製品は毎年の機種ごとに値下げを求められ、技術の向上と合理化で対処するほかなかった。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [1]日本電気は第一次拡充計画が始まるかなり以前から嶋津保次郎・中嶋章・榛沢正男らを中心にクロスバ交換機の研究を進めていた
- [2]市外線が整備され県庁所在地間の即時通話が可能になると、次に登場するのは電話交換機の技術革新であった
- [3]クロスバ交換機は交差した棒によるスイッチで回路をつくり、ステップ・バイ・ステップ方式より経済的で故障が少なく動作が速い
- [4]ステップ・バイ・ステップ式交換機は日本電気にかなりの収益をもたらしており、クロスバへ替えれば収益は減ると渡邊斌衡社長が問うた
- [5]小林宏治は収益は減るだろうと認めたうえで、自分がやらなければ他社がやると述べて置き換えを進めた
- [6]昭和31年に製造担当常務の尾崎猛らの努力でわが国初の国産クロスバ交換機が栃木県の三和局に使われ、市外局から市内局へ普及した
- 証券アナリストジャーナル(1965年)牧野又三郎
- [7]電電公社に納める製品は毎年機種ごとに値下げがあり、技術の向上と合理化でこれに対処していた
計算機づくりを言い出したのは、大学を出たての技術者であった。電電公社から搬送通信施設の小型化を迫られていた折、アメリカではデータの整理や計算を計算機が受け持っていると彼は伝え、まず計算機を手がければ搬送電話の生産も容易になると説いた。話を聞いた小林宏治氏は、電子技術を使う計算機がいずれ大きな意味を持つだろうと感じ取った。約100人の技術者が出川雄二郎の下に集められ、電電公社の電気通信研究所と東北大学の手を借りて、後藤英一の発明したパラメトロンによる計算機を完成させた。第一号機は東北大学へ直接納められ、SENACの名で呼ばれた。機種名はNEAC-1102である。3号機まで作ったところで、電気試験所で和田弘を中心に研究されていたトランジスタ方式を土台に、本格的な計算機の開発へ移った。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [8]搬送通信施設の小型化を電電公社から求められていた時期、若い技術者がアメリカでは計算機がデータ整理と計算をこなしていると述べた
- [9]先に計算機をつくったほうが搬送電話の製造も楽になるという主張であった
- [10]小林宏治は電子を応用した計算機が将来重要なものになりそうだと予感し、はじめは通信メーカーの社内用として着手した
- [11]出川雄二郎を長とする約100人の技術者が、電電公社電気通信研究所と東北大学の協力のもとで後藤英一の発明したパラメトロンによる電子計算機の製作に成功した
- [12]パラメトロン計算機の第一号機は東北大学へ納入されてSENACと命名され、機種名はNEAC-1102であった
- [13]パラメトロン計算機を3号機までつくった後、電気試験所で和田弘が中心に研究したトランジスタ式のMARKをもとに本格的な電子計算機づくりに取り組んだ
1958年には玉川製造所の一角に国内第1号のトランジスタ専門工場を設けており、ゲルマニウムが主流だった当時からシリコンに目を向けていた。トランジスタとダイオードは、それ以前から自社で作っていた。1959年6月、NEAC-2201と名付けたトランジスタ式電子計算機の一号機がパリのユネスコ主催情報処理国際会議へ空輸され、トランジスタ機で実際に動いたのはNEACのみ、しかも真空管式のIBM650より小型で性能も上回った。続く1960年には、当時としては大型の純国産機NEAC-2203を開発し、国内で30台を販売した。この技術力に目を留めた米国の計算機メーカーから提携の申し入れが相次ぎ、小林宏治氏が相手に選んだのはソフトウェアの技術に優れたハネウエル社であった。日本電気はトランジスタ式電子計算機の公開稼動へ世界で最初に成功し、この分野でも国内第一位となった。
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [14]日本電気は昭和33年に玉川製造所の一角へわが国第1号のトランジスタ専門工場を建設し、ゲルマニウム主流の時代にシリコンへ着目していた
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [15]トランジスタやダイオードなど半導体製品は既に自家生産していた
- [16]昭和34年6月、NEAC-2201と名付けられたトランジスタ電子計算機の一号機がパリのユネスコ主催情報処理国際会議へ空路で届けられた
- [17]会議でトランジスタを使い実際に稼動したのはNEACだけで、真空管式のIBM650より小型でこれを上回る性能を示した
- [18]昭和35年に純国産で当時としては大型のNEAC-2203の開発に成功し、国内で30台を売りさばいた
- [19]米国の電子計算機メーカーから技術提携の話が相次ぎ、小林宏治はソフトウェアに優れた技術を持つハネウエル社を選んだ
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [20]昭和34年に世界で最初にトランジスタ式電子計算機の公開稼動に成功し、この分野でもわが国第一位の地歩を築いた
参考文献[1]-[20]
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [1]日本電気は第一次拡充計画が始まるかなり以前から嶋津保次郎・中嶋章・榛沢正男らを中心にクロスバ交換機の研究を進めていた
- [2]市外線が整備され県庁所在地間の即時通話が可能になると、次に登場するのは電話交換機の技術革新であった
- [3]クロスバ交換機は交差した棒によるスイッチで回路をつくり、ステップ・バイ・ステップ方式より経済的で故障が少なく動作が速い
- [4]ステップ・バイ・ステップ式交換機は日本電気にかなりの収益をもたらしており、クロスバへ替えれば収益は減ると渡邊斌衡社長が問うた
- [5]小林宏治は収益は減るだろうと認めたうえで、自分がやらなければ他社がやると述べて置き換えを進めた
- [6]昭和31年に製造担当常務の尾崎猛らの努力でわが国初の国産クロスバ交換機が栃木県の三和局に使われ、市外局から市内局へ普及した
- [8]搬送通信施設の小型化を電電公社から求められていた時期、若い技術者がアメリカでは計算機がデータ整理と計算をこなしていると述べた
- [9]先に計算機をつくったほうが搬送電話の製造も楽になるという主張であった
- [10]小林宏治は電子を応用した計算機が将来重要なものになりそうだと予感し、はじめは通信メーカーの社内用として着手した
- [11]出川雄二郎を長とする約100人の技術者が、電電公社電気通信研究所と東北大学の協力のもとで後藤英一の発明したパラメトロンによる電子計算機の製作に成功した
- [12]パラメトロン計算機の第一号機は東北大学へ納入されてSENACと命名され、機種名はNEAC-1102であった
- [13]パラメトロン計算機を3号機までつくった後、電気試験所で和田弘が中心に研究したトランジスタ式のMARKをもとに本格的な電子計算機づくりに取り組んだ
- [15]トランジスタやダイオードなど半導体製品は既に自家生産していた
- [16]昭和34年6月、NEAC-2201と名付けられたトランジスタ電子計算機の一号機がパリのユネスコ主催情報処理国際会議へ空路で届けられた
- [17]会議でトランジスタを使い実際に稼動したのはNEACだけで、真空管式のIBM650より小型でこれを上回る性能を示した
- [18]昭和35年に純国産で当時としては大型のNEAC-2203の開発に成功し、国内で30台を売りさばいた
- [19]米国の電子計算機メーカーから技術提携の話が相次ぎ、小林宏治はソフトウェアに優れた技術を持つハネウエル社を選んだ
- 証券アナリストジャーナル(1965年)牧野又三郎
- [7]電電公社に納める製品は毎年機種ごとに値下げがあり、技術の向上と合理化でこれに対処していた
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [14]日本電気は昭和33年に玉川製造所の一角へわが国第1号のトランジスタ専門工場を建設し、ゲルマニウム主流の時代にシリコンへ着目していた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [20]昭和34年に世界で最初にトランジスタ式電子計算機の公開稼動に成功し、この分野でもわが国第一位の地歩を築いた
1964年〜小林宏治氏の経営刷新と、赤字を抱えたまま続けた集積回路への投資
渡辺斌衡氏は戦後の苦しい時期を切り抜け、日本電気を通信とエレクトロニクスを併せ持つ総合メーカーに育て上げた。1947年から17年間社長を務めた渡辺斌衡氏は、1964年11月に退いて取締役会長へ移った。後任の社長には副社長の小林宏治氏が就任した。もっとも渡辺斌衡氏の時代の末には、権限が社長ひとりに集まり、経営の硬直が進んでいた。小林宏治氏は就任後の記者会見で、開放経済の下で築いた自主体制を土台に会社を伸ばし、国内にとどまらず海外でも積極的に活動する方向を示した。1965年1月には最高経営陣を、社長をチームリーダーとする経営集団として組み直した。点から面へという言葉のとおり、社長の権限は分担役員にまで広げられた。同じ年の5月には、1961年から続けてきた5事業部を14事業部と3開発本部に分け直し、それらを4事業グループにまとめた。
- 日本電気最近十年史 創立八十周年記念(日本電気社史編纂室編, 1980年)
- [21]渡辺斌衡は戦後の困難な時期を乗り切り通信とエレクトロニクスの総合メーカーとしての基礎を築いたが、拡大複雑化した経営を迅速柔軟に対処させる必要が痛感されていた
- [22]昭和39年11月、22年以来17年間社長の任にあった渡辺斌衡が退任して取締役会長となり、副社長の小林宏治が社長に就任した
- [23]従来は社長という一点にすべての権限が集中し、経営は硬直化の度を強めていた
- [24]小林宏治は就任後の記者会見で、入社当時の日本電気は外国会社との合弁事業で自主性が無かったと述べ、開放経済下で確立された自主体制をもとに国際性を持っていく必要があると語った
- [25]昭和40年1月、最高経営陣を社長をチームリーダーとする有機的な経営集団として構成し、点から面へという新しい経営の姿を打ち出した
- [26]昭和40年5月13日に事業ラインの組織改正を断行し、従来の5事業部を14事業部と3開発本部へ分割再編して4事業グループにくくった
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [27]1961年4月 事業部制を採用
1964年度の日本電気は、売上713億円のうち電電公社向けが338億円と47.4パーセントを占めていた。諸官庁向けが55億円、民需が257億円、輸出が66億円という構成で、製品の8割以上が受注生産であり、受注ごとに設計から始める一品料理が多かった。このため標準品を大量に生産することが難しく、1人当たりの生産額は月25万円から26万円の水準に留まっていた。1955年と比べて資本金は10億円から125億円へ、従業員は8,000人から28,000人へ、売上高は82億円から850億円の見込みへと10年で10倍に伸びたが、会社が次の数年に見込んだ成長は年15パーセント程度にとどまった。輸出は東南アジア向けが全体の6割以上を占め、米本土とヨーロッパには進出できずにいた。
- 証券アナリストジャーナル(1965年)牧野又三郎
- [28]昭和39年度の売上713億円のうち電電公社向けが338億円で47.4パーセントを占めた
- [29]昭和39年度の売上の相手先別内訳は諸官庁向け55億円、民需257億円、輸出66億円であった
- [30]日本電気の製品は8割以上が受注生産で、受注ごとに設計から始める一品料理が多く標準品の大量生産が困難であった
- [31]昭和39年度の1人当たり生産額は月25万円から26万円の水準であった
- [32]昭和30年と比べ資本金は10億円から125億円へ、従業員数は8,000人から28,000人へ、売上高は82億円から850億円の見込みへ拡大した
- [33]牧野又三郎は今後は過去のような大きな発展は望めず、年15パーセント程度の成長を見込むのが妥当だと述べた
- [34]輸出の仕向地は東南アジア向けが全体の60パーセント以上を占め、米本土とヨーロッパにはなかなか進出できなかった
半導体は長いあいだ資金を費やすばかりで利益の出ない事業だった。日本電気が電電公社のために開発した交換機用集積回路は不良品が多く、公社は日本電気1社を相手とする共同研究から撤退する意向を示した。それでも集積回路設計本部長の大内淳義は、会議で設備投資の資金を確保した。設計本部が置かれたのは1966年11月で、当時は集積回路を名に掲げた事業部を持つ企業が世界中どこにも無かった。社内には集積回路を使う用途がまったく無かった。小林宏治氏は作る側と使う側の技術者を混ぜた部隊を組むよう指示したが、通信をはじめ他部門は人員を出さなかったため、大内は各部門に頼み込んで人を集めるところから始めた。1967年に集積回路事業部が発足した。翌1968年、日本電気は国内の首位を日立製作所から奪った。この頃までに半導体・集積回路は、有線通信、情報処理と肩を並べる事業グループの一角を占めるようになっていた。
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [35]カネ食い虫の半導体事業は万年赤字状態であった
- [36]電電公社向けに開発した交換機用ICに不良が多く公社が共同研究をやめると言い出したが、大内淳義は会議の席で設備投資の資金をもぎ取った
- [37]昭和41年11月に集積回路設計本部が発足し、当時は事業部名に集積回路の名を付けた企業が世界中どこにも無かった
- [38]社内にICの用途は皆無で、つくる技術者と使う技術者の混成部隊にせよという小林の指示に他部門は人を出さず、大内の最初の仕事は頭を下げての人集めだった
- [39]昭和42年に集積回路事業部が発足し、昭和43年に日本電気は日立製作所を抜いて国内1位となった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [40]日本電気の事業は有線通信・衛星無線通信・電子交換・情報処理・電波電子・電子装置・半導体・集積回路など七つの事業グループへ展開していた
参考文献[21]-[40]
- 日本電気最近十年史 創立八十周年記念(日本電気社史編纂室編, 1980年)
- [21]渡辺斌衡は戦後の困難な時期を乗り切り通信とエレクトロニクスの総合メーカーとしての基礎を築いたが、拡大複雑化した経営を迅速柔軟に対処させる必要が痛感されていた
- [22]昭和39年11月、22年以来17年間社長の任にあった渡辺斌衡が退任して取締役会長となり、副社長の小林宏治が社長に就任した
- [23]従来は社長という一点にすべての権限が集中し、経営は硬直化の度を強めていた
- [24]小林宏治は就任後の記者会見で、入社当時の日本電気は外国会社との合弁事業で自主性が無かったと述べ、開放経済下で確立された自主体制をもとに国際性を持っていく必要があると語った
- [25]昭和40年1月、最高経営陣を社長をチームリーダーとする有機的な経営集団として構成し、点から面へという新しい経営の姿を打ち出した
- [26]昭和40年5月13日に事業ラインの組織改正を断行し、従来の5事業部を14事業部と3開発本部へ分割再編して4事業グループにくくった
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [27]1961年4月 事業部制を採用
- 証券アナリストジャーナル(1965年)牧野又三郎
- [28]昭和39年度の売上713億円のうち電電公社向けが338億円で47.4パーセントを占めた
- [29]昭和39年度の売上の相手先別内訳は諸官庁向け55億円、民需257億円、輸出66億円であった
- [30]日本電気の製品は8割以上が受注生産で、受注ごとに設計から始める一品料理が多く標準品の大量生産が困難であった
- [31]昭和39年度の1人当たり生産額は月25万円から26万円の水準であった
- [32]昭和30年と比べ資本金は10億円から125億円へ、従業員数は8,000人から28,000人へ、売上高は82億円から850億円の見込みへ拡大した
- [33]牧野又三郎は今後は過去のような大きな発展は望めず、年15パーセント程度の成長を見込むのが妥当だと述べた
- [34]輸出の仕向地は東南アジア向けが全体の60パーセント以上を占め、米本土とヨーロッパにはなかなか進出できなかった
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [35]カネ食い虫の半導体事業は万年赤字状態であった
- [36]電電公社向けに開発した交換機用ICに不良が多く公社が共同研究をやめると言い出したが、大内淳義は会議の席で設備投資の資金をもぎ取った
- [37]昭和41年11月に集積回路設計本部が発足し、当時は事業部名に集積回路の名を付けた企業が世界中どこにも無かった
- [38]社内にICの用途は皆無で、つくる技術者と使う技術者の混成部隊にせよという小林の指示に他部門は人を出さず、大内の最初の仕事は頭を下げての人集めだった
- [39]昭和42年に集積回路事業部が発足し、昭和43年に日本電気は日立製作所を抜いて国内1位となった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [40]日本電気の事業は有線通信・衛星無線通信・電子交換・情報処理・電波電子・電子装置・半導体・集積回路など七つの事業グループへ展開していた
1980年〜半導体の世界首位と、三本柱に広がった多角化の重み
1985年にテキサス・インスツルメンツを上回り、世界最大の半導体メーカーの座に就くまでの道筋を担ったのは大内淳義である。大内に与えられた課題は、品質の改善などを通じて半導体事業を収益の出る構造へ作り替えることだった。そのためにメモリーの対米輸出を始め、あわせてシリコンバレーの中堅メーカー、エレクトロニック・アレイズ社を買収して米国での生産拠点を得た。同社の対米の足場は、1963年1月に設立したニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社にさかのぼる。1985年3月期の日本電気は、単体の売上1兆8,893億円のうちコンピュータ他電子機器が6,373億円で34パーセント、通信機器が6,139億円で33パーセント、電子デバイスが5,076億円で27パーセントを占めた。経常利益は1,259億円であった。電電公社向けの受注生産だけで立っていた会社は、三つの事業がほぼ等しく並ぶ構造へ変わっていた。
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [41]メモリーの対米輸出開始とシリコンバレーの中堅メーカーであるエレクトロニック・アレイズ社の買収による米国生産拠点確保を経て、昭和60年にTIを抜き世界一の半導体メーカーになった
- [42]大内淳義に課せられたのは品質改善などで半導体事業を利益の出る体質にすることだった
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [43]1963年1月 ニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社を設立
- 会社年鑑(1986年版)
- [44]1985年3月期の日本電気の単体売上高は1兆8,893億円
- [45]1985年3月期の単体売上構成はコンピュータ他電子機器6,373億円(34パーセント)、通信機器6,139億円(33パーセント)、電子デバイス5,076億円(27パーセント)
- [46]1985年3月期の単体経常利益は1,259億円
日本からの輸出が伸びるにつれて米国との間に貿易摩擦が生じ、1977年には米半導体工業会が訪米した福田赳夫首相に会見を申し入れ、日本の集積回路関税の引き下げを求めるとともに、国の育成策に支えられて対米輸出が膨らんでいる点を問題にした。大内がミスター半導体と呼ばれるようになったのは、日本側の代表として米国に渡り、インテル副会長ロバート・ノイスを相手に産業政策や貿易統計を論じ合う公開の論争を繰り返したためである。1987年1月、米政府が半導体に制裁措置を発動し、摩擦は政治問題にまで広がった。通商産業省が生産と輸出の量を制限する行政指導を強引に申し入れたとき、これに真っ向から反対したのが日本電気であった。社長の関本忠弘氏は通産省批判を繰り返し、小林宏治氏はその行動に眉をひそめて、のちの両者の対立の遠因となった。
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [47]日本電気をはじめとする日本企業のIC輸出の増加が日米半導体摩擦を引き起こした
- [48]昭和52年に米半導体工業会は訪米中の福田首相に会見を求め、日本側のIC関税引き下げと政府の育成策を後ろ盾とした対米輸出の増大を批判した
- [49]大内淳義は日本側代表としてシリコンバレーへ乗り込み、インテル副会長のR・ノイスと産業政策や貿易統計で公開論争を展開してミスター半導体と呼ばれた
- [50]政治問題化した半導体摩擦はエスカレートし、昭和62年1月に米政府が半導体制裁措置を発動した
- [51]通産省が生産・輸出量の制限を行政指導により強引に申し入れた際、行政指導に真っ向から反対したのは日本電気であった
- [52]関本忠弘がマスコミで通産省批判を繰り返し、小林宏治が関本の行動にマユをひそめ、その後の両者の対立の遠因となった
1980年に社長となった関本忠弘氏は、1989年度に経常利益1,332億円という過去最高の数字を出し、前年度の1,021億円から30パーセント伸ばした。1990年には600億円を投じた新本社ビルを三田に完成させ、小林宏治氏が打ち出した企業理念であるC&Cの旗を掲げ続ける方針を示した。一方で同年6月の株主総会まで、名誉会長と社長の確執は2年に及んでいた。会長の大内淳義は入退院を繰り返しながらその調停に当たり、総会で小林宏治氏は1949年以来41年間務めた取締役を退いた。事業は1993年7月に22の事業本部を置く体制へ組み替えられたが、広がった多角化の重みは収益を圧迫し、1999年3月期の日本電気は連結売上4兆7,594億円に対して経常損失2,247億円、当期純損失1,579億円を計上した。
- 日経ビジネス(1990年6月18日)
- [53]関本忠弘は1980年に日本電気の社長へ就任した
- [54]1989年度決算の経常利益は1,332億円で過去最高、前年度の1,021億円から30パーセントの伸びであった
- [55]日本電気は600億円を投じて新本社ビルを完成させ、関本忠弘は小林宏治名誉会長が打ち出した企業理念C&Cの旗を掲げ続ける構えを示した
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [56]小林宏治名誉会長と関本忠弘社長の確執は2年に及び、1990年6月の株主総会で終止符が打たれた
- [57]会長の大内淳義は入退院を繰り返しながら調停に当たり、90年6月28日の株主総会で小林宏治は49年以来41年間務めた取締役を退任した
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [58]1993年7月 事業本部制を採用(22事業本部)
- 日本電気 有価証券報告書(1999年3月期・連結)
- [59]1999年3月期の連結売上高は4兆7,594億円
- [60]1999年3月期の連結経常利益は△2,247億円、連結当期純利益は△1,579億円
参考文献[41]-[60]
- 日経ビジネス(1991年3月25日)
- [41]メモリーの対米輸出開始とシリコンバレーの中堅メーカーであるエレクトロニック・アレイズ社の買収による米国生産拠点確保を経て、昭和60年にTIを抜き世界一の半導体メーカーになった
- [42]大内淳義に課せられたのは品質改善などで半導体事業を利益の出る体質にすることだった
- [47]日本電気をはじめとする日本企業のIC輸出の増加が日米半導体摩擦を引き起こした
- [48]昭和52年に米半導体工業会は訪米中の福田首相に会見を求め、日本側のIC関税引き下げと政府の育成策を後ろ盾とした対米輸出の増大を批判した
- [49]大内淳義は日本側代表としてシリコンバレーへ乗り込み、インテル副会長のR・ノイスと産業政策や貿易統計で公開論争を展開してミスター半導体と呼ばれた
- [50]政治問題化した半導体摩擦はエスカレートし、昭和62年1月に米政府が半導体制裁措置を発動した
- [51]通産省が生産・輸出量の制限を行政指導により強引に申し入れた際、行政指導に真っ向から反対したのは日本電気であった
- [52]関本忠弘がマスコミで通産省批判を繰り返し、小林宏治が関本の行動にマユをひそめ、その後の両者の対立の遠因となった
- [56]小林宏治名誉会長と関本忠弘社長の確執は2年に及び、1990年6月の株主総会で終止符が打たれた
- [57]会長の大内淳義は入退院を繰り返しながら調停に当たり、90年6月28日の株主総会で小林宏治は49年以来41年間務めた取締役を退任した
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [43]1963年1月 ニッポン・エレクトリック・ニューヨーク社を設立
- [58]1993年7月 事業本部制を採用(22事業本部)
- 会社年鑑(1986年版)
- [44]1985年3月期の日本電気の単体売上高は1兆8,893億円
- [45]1985年3月期の単体売上構成はコンピュータ他電子機器6,373億円(34パーセント)、通信機器6,139億円(33パーセント)、電子デバイス5,076億円(27パーセント)
- [46]1985年3月期の単体経常利益は1,259億円
- 日経ビジネス(1990年6月18日)
- [53]関本忠弘は1980年に日本電気の社長へ就任した
- [54]1989年度決算の経常利益は1,332億円で過去最高、前年度の1,021億円から30パーセントの伸びであった
- [55]日本電気は600億円を投じて新本社ビルを完成させ、関本忠弘は小林宏治名誉会長が打ち出した企業理念C&Cの旗を掲げ続ける構えを示した
- 日本電気 有価証券報告書(1999年3月期・連結)
- [59]1999年3月期の連結売上高は4兆7,594億円
- [60]1999年3月期の連結経常利益は△2,247億円、連結当期純利益は△1,579億円
筆者考察
電電公社という相手ひとつが売上の半分近くを占め、製品の8割以上が受注ごとに設計から始まる一品料理では、規模が伸びても収益の形は変わらない。1964年度の日本電気は売上713億円のうち338億円が電電公社向けで、1人当たりの生産額は月25万円程度にとどまった。ここから抜ける道として採られたのが、自分の収益源を自分で置き換えることであった。従来のステップ・バイ・ステップ式交換機が収益を生んでいる最中にクロスバ交換機を出し、搬送電話の計算を楽にするための社内用として始めた電子計算機を事業へ育てる。1959年にパリの国際会議で実際に動いたトランジスタ計算機はNEACだけだった。
用途の無いものへ人と金を回し続けられるかどうかが、次の収益源の有無を決めた。1966年に集積回路設計本部を置いたとき、社内に集積回路の使い道は一つも無く、他の部門は人を出さず、事業は万年赤字であった。それでも投資を続けた結果、1968年に国内首位、1985年にテキサス・インスツルメンツを抜いて世界首位へ立つ。1985年3月期の売上はコンピュータ他電子機器が34パーセント、通信機器が33パーセント、電子デバイスが27パーセントと、三つの事業がほぼ等しく並んだ。ただし収益源が増えることは、どれかが傾いたときに残りが支えきれない重さを抱えることでもある。1999年3月期の連結当期純損失1,579億円は、その重さが顕在化した数字であった。
1955年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1955年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 1,015 | n/a | n/a | 42 | 4.1% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 1,128 | +11.1% | n/a | 48 | 4.3% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,495 | +32.5% | n/a | 65 | 4.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 1,957 | +30.9% | n/a | 97 | 5.0% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 2,489 | +27.2% | 220 | 119 | 4.8% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 2,377 | ▲4.5% | 137 | 79 | 3.3% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 2,766 | +16.4% | 155 | 95 | 3.4% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 3,438 | +24.3% | 209 | 102 | 3.0% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 3,858 | +12.2% | 125 | 59 | 1.5% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 4,274 | +10.8% | 60 | 46 | 1.1% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 4,859 | +13.7% | 131 | 75 | 1.5% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 5,385 | +10.8% | 107 | 70 | 1.3% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 6,154 | +14.3% | 115 | 76 | 1.2% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 7,198 | +17.0% | 235 | 131 | 1.8% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 8,928 | +24.0% | 352 | 180 | 2.0% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 10,540 | +18.1% | 436 | 213 | 2.0% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 12,536 | +18.9% | 521 | 267 | 2.1% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 14,597 | +16.4% | 668 | 346 | 2.4% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 18,893 | +29.4% | 1,259 | 511 | 2.7% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 連結 | 37,739 | n/a | 514 | 153 | 0.4% | n/a |
| 1993年03月期 | 連結 | 35,150 | ▲6.9% | ▲377 | ▲452 | ▲1.3% | n/a |
| 1994年03月期 | 連結 | 35,798 | +1.8% | 251 | 66 | 0.2% | n/a |
| 1995年03月期 | 連結 | 37,694 | +5.3% | 747 | 353 | 0.9% | n/a |
| 1996年03月期 | 連結 | 43,972 | +16.7% | 1,513 | 772 | 1.8% | n/a |
| 1997年03月期 | 連結 | 49,484 | +12.5% | 1,212 | 916 | 1.9% | n/a |
| 1998年03月期 | 連結 | 49,011 | ▲1.0% | 910 | 413 | 0.8% | n/a |
| 1999年03月期 | 連結 | 47,594 | ▲2.9% | ▲2,247 | ▲1,579 | ▲3.3% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 日本電気 有価証券報告書(1999年3月期・連結)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- 日本電気最近十年史 創立八十周年記念(日本電気社史編纂室編, 1980年)
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 会社年鑑(1986年版)
- 証券アナリストジャーナル(1965年)牧野又三郎
- 日経ビジネス(1990年6月18日)
- 日経ビジネス(1991年3月25日)