NEC:W.E.社合弁での設立と住友傘下への移行
1899年〜外資合弁で出発した通信機メーカーの基盤形成
日本電気の誕生に先立ち、わが国の通信制度は段階的に整った。米国ウェスタン・エレクトリック社は、当時すでに世界一の通信機メーカーであった。同社は世界規模の事業展開の一環として、日本市場への進出を望んだ。日本では、1869年に電信、1877年に電話の利用が始まり、1890年には官営の公衆通信事業が本格的に動き出して、1896年には電話拡張の七カ年計画が成立していた("企業の歴史:明治百年"1968)。1898年に資本金5万円で設立されていた日本電気合資会社は、1899年の通商条約改正に合わせてウェスタン社の出資を受け入れ、資本金20万円の株式会社に改組された。前身の合資会社を土台に外国資本と組んで生まれたことから、日本電気は発足の時点から国際色の濃い会社であった。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
- [2]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
- [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)
- [4]外資との合弁会社として発足した日本電気は当初から国際的性格に富み、世界最先端の技術でわが国通信事業の成育に大きな役割を演じた(明治百年)
NECは1899年7月、米国ウェスタン・エレクトリック社(W.E.社)との合弁により日本電気株式会社として設立された。日本初の外資系合弁メーカーであり、設立当初の主力事業は電話交換機と通信機だった。通信機産業は大量生産のノウハウと特許網が事業基盤を決める装置産業であり、国内に量産技術の蓄積が乏しかった当時、欧米資本と提携して技術を取り込む選択は合理的だった。1918年にはW.E.社の海外投資部門が分離してI.W.E.社がNEC株式を承継し、1925年にはI.W.E.社がITTに買収されインターナショナル・スタンダード・エレクトリック(ISE社)と改称した。NECは発足当初から欧米資本の一部として通信機事業を育てた。
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
- [6]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
- [7]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称
1932年6月、ISE社はNECの経営を住友本社に委託した。これが後の住友グループとの関係の起点である。1941年12月、ISE社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携が解消、1943年に社名を住友通信工業株式会社へ変更した。敗戦後の1945年11月に日本電気株式会社へ戻し、1949年5月に東京証券取引所へ上場、1951年11月にISE社との資本提携を復活した。『電気通信分野の技術と業界の実情は(中略)特許の面では、9割までが外国特許であった。関連する素材、部品産業は、甚だ貧弱で存在しないにも等しい状況であった』(経済同友 1966/6)——後年に小林宏治社長が示した、当時の業界状況の見立てである。戦時下に外資との関係を一度断ち切り、戦後すぐ再接続する異例の経緯を持つ会社として、国際ネットワーク事業の基盤を欧米資本との継続的な関係のうえに置いた。
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [8]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
- [9]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [10]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- [11]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [13]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
- 経済同友(1966年6月)
- [14]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)
参考文献[1]-[14]
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [1]ウェスタン・エレクトリック社は当時すでに世界最大の通信機会社で、世界活動の一環として日本市場進出を望んだ(明治百年)
- [2]電信利用は1869年、電話使用は1877年に開始、1890年に官営の本格的公衆通信事業開始、1896年に電話拡張の七カ年計画成立(明治百年)
- [3]前身の日本電気合資会社は1898年設立・資本金5万円、1899年の通商条約改正と同時にWE出資を加え資本金20万円の株式会社へ改組(明治百年)
- [4]外資との合弁会社として発足した日本電気は当初から国際的性格に富み、世界最先端の技術でわが国通信事業の成育に大きな役割を演じた(明治百年)
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [5]1899年7月 米W.E.社との合弁により日本電気株式会社を設立(日本初の外資系合弁メーカー)
- [6]1918年 W.E.社が海外投資部門を分離しI.W.E.社が当社株式を承継
- [7]1925年 I.W.E.社がITT(インターナショナル・テレホン・アンド・テレグラフ社)に買収されI.S.E.社(インターナショナル・スタンダード・エレクトリック)と改称
- [8]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
- [9]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [10]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- [11]1945年11月 社名を日本電気株式会社に戻す
- [12]1949年5月 東京証券取引所に上場
- [13]1951年11月 I.S.E.社と資本提携復活
- 経済同友(1966年6月)
- [14]小林宏治の発言「特許の面では、9割までが外国特許であった」(経済同友 1966/6)
1932年〜国産奨励が外資系を締め出し、住友の資本が支えた設備投資
1930年前後の日本電気は、官庁からの需要が売上の75パーセントを占めていた。昭和に入ってからの金融恐慌に伴う不況へ強い国産化運動の台頭が重なり、外資系会社として存続すること自体が難しくなっていた。電話の自動交換化が進むにつれ、逓信省はウェスタン・エレクトリック社の技術を持つ日本電気へ発注を一手に寄せていた。会計検査院はこれを非難する報告を出し、議会も警告を決議した。国産品を使うべきだとの声が強まり、決着がつくまで電話拡張工事は止められた。これに政府の財政緊縮が重なり、公債発行の停止などで第三次電話拡張計画は半減して、削減された予算がそのまま受注の減少となった。1931年下期の純益は3万円にとどまり、5年前と比べて100分の1にまで縮んだ。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [15]1930年前後の日本電気は官需が売上の75パーセントを占めていた
- [17]自動交換化に伴う逓信省の日本電気への全面発注に、会計検査院が非難の報告を出し議会が警告を決議した
- [18]国産愛用論が高まり、結論が出るまで電話拡張の工事が中止された
- [19]政府の財政緊縮政策により第三次電話拡張計画が半分に削られた
- [20]昭和6年下期の純益は3万円で、5年前の100分の1に落ちた
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]昭和に入り金融恐慌に伴う不況と強い国産化運動の台頭で、外資系会社としての存続が困難になった
日本電気の株式は、アメリカ資本が過半を握っていた。その日本電気を追い込んだのが逓信省の定めた規程で、外資系の会社には政策面の優遇を認めず、以後の契約は国産品を優先する指名入札によるとした。差別的なこの扱いに同社は強く抗議したが、効果はなかった。住友電線東京支店長の矢島富造が1932年5月に渡米してITT社長のベーンと会談し、翌6月には住友側との交渉がまとまった。取り決めでは、アメリカ側の持株を50パーセントに下げ、その分を住友電線へ移して住友の持株を29パーセントに引き上げた。のちの増資を経て、両者の比率はアメリカ側33パーセント、住友側32パーセントまで近づいた。住友電線の常務取締役だった秋山武三郎が会長に、同じく技術部長だった志田文雄が専務に就任した。同年6月には、ISE社が日本電気の経営を住友本社に委ねている。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [21]逓信省は外資系会社に政策上の恩典を与えず、今後の契約は国産品優先の指名入札で行なう規程をつくった
- [22]アメリカ資本が過半を占めていた日本電気はこの差別政策に厳重な抗議をしたが効き目はなかった
- [23]1932年5月に住友電線東京支店長の矢島富造が渡米してITT社長のベーンと会い、翌6月に住友側との交渉がまとまった
- [24]アメリカ側の持株を50パーセントへ減らし住友電線へ譲って住友の持株を29パーセントに増やし、その後の増資で米側33パーセント・住友側32パーセントまで接近した
- [25]住友電線から常務取締役の秋山武三郎が会長に、技術部長の志田文雄が専務として日本電気へ派遣された
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
住友の資本を背にした志田文雄は、社内の危惧を押し切って1935年に川崎市玉川向への近代工場の建設を決めた。日本が満州と中国へ進出すれば、その神経組織として無線の需要が莫大になるという読みであった。工場の完成前後には、小林正次らの研究グループが満州の新京放送局へ納める100キロワットの大出力放送用真空管をつくり上げている。1939年6月には、逓信省の松前重義が提唱した無装荷ケーブル搬送方式によって、東京とハルピンを結ぶ3,000キロという世界最長のケーブルが完成した。ウェスタン・エレクトリック社もシーメンス社もつくっていない方式で設計図は無く、中継器は独自に組み上げるほかなかった。1930年の第三次電話拡張計画と国産奨励という要請に応えるかたちで、わが国の自主技術による通信機器開発の体制が根を張っていた。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [27]志田文雄は社内の危惧を押し切って昭和10年に川崎市玉川向への一大近代工場の建設を決定した
- [28]志田文雄は日本の満州・中国進出を見越し、その神経組織として無線の需要が莫大になると語った
- [29]小林正次らの研究グループが満州の新京放送局向けに100キロワットの大出力放送用真空管を外国技術に依らずつくり上げた
- [30]昭和14年6月、松前重義が打ち出した無装荷ケーブル搬送方式により東京とハルピン間3,000キロの世界最長ケーブルが完成した
- [31]無装荷ケーブル搬送方式はWE社もシーメンス社もつくっておらず設計図が無く、独自に中継器をつくるほかなかった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [32]昭和5年の第三次電話拡張計画の成立と国産奨励という時代の要請に対応し、わが国の自主技術に基づく通信機器開発の体制が根を張った
参考文献[15]-[32]
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [15]1930年前後の日本電気は官需が売上の75パーセントを占めていた
- [17]自動交換化に伴う逓信省の日本電気への全面発注に、会計検査院が非難の報告を出し議会が警告を決議した
- [18]国産愛用論が高まり、結論が出るまで電話拡張の工事が中止された
- [19]政府の財政緊縮政策により第三次電話拡張計画が半分に削られた
- [20]昭和6年下期の純益は3万円で、5年前の100分の1に落ちた
- [21]逓信省は外資系会社に政策上の恩典を与えず、今後の契約は国産品優先の指名入札で行なう規程をつくった
- [22]アメリカ資本が過半を占めていた日本電気はこの差別政策に厳重な抗議をしたが効き目はなかった
- [23]1932年5月に住友電線東京支店長の矢島富造が渡米してITT社長のベーンと会い、翌6月に住友側との交渉がまとまった
- [24]アメリカ側の持株を50パーセントへ減らし住友電線へ譲って住友の持株を29パーセントに増やし、その後の増資で米側33パーセント・住友側32パーセントまで接近した
- [25]住友電線から常務取締役の秋山武三郎が会長に、技術部長の志田文雄が専務として日本電気へ派遣された
- [27]志田文雄は社内の危惧を押し切って昭和10年に川崎市玉川向への一大近代工場の建設を決定した
- [28]志田文雄は日本の満州・中国進出を見越し、その神経組織として無線の需要が莫大になると語った
- [29]小林正次らの研究グループが満州の新京放送局向けに100キロワットの大出力放送用真空管を外国技術に依らずつくり上げた
- [30]昭和14年6月、松前重義が打ち出した無装荷ケーブル搬送方式により東京とハルピン間3,000キロの世界最長ケーブルが完成した
- [31]無装荷ケーブル搬送方式はWE社もシーメンス社もつくっておらず設計図が無く、独自に中継器をつくるほかなかった
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [16]昭和に入り金融恐慌に伴う不況と強い国産化運動の台頭で、外資系会社としての存続が困難になった
- [32]昭和5年の第三次電話拡張計画の成立と国産奨励という時代の要請に対応し、わが国の自主技術に基づく通信機器開発の体制が根を張った
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [26]1932年6月 I.S.E.社が当社の経営を住友本社に委託
1940年〜軍需への傾斜と敗戦後の収縮、電電公社の拡充計画による再建
1938年に玉川向工場が陸海軍の監督工場となり、軍から管理官が派遣された。管理官ははじめ工場管理人の選任と解任に口を出す程度だったが、やがて職制改正や社内人事にまで介入し、会社が内定した課長人事を大幅に変更させることもあった。労働力も原材料も軍の統制下に置かれ、売上のほとんどが軍需向けとなった。1941年12月にISE社の所有株式が敵国資産として処分され、1943年2月には社名を住友通信工業株式会社へ改めた。空襲で玉川向工場は焼失し、敗戦を迎えたときには2万数千人まで膨らんだ人員が6,000人まで減って、地方十数カ所へ疎開していた工場を整理し三田と玉川の2事業所へ集約した。財閥の解体を経て1945年11月に社名を日本電気へ戻したが、インフレのなかで税金の滞納と給料の遅配が続き、占領軍の追放令で梶井剛社長と丹羽保次郎専務が会社を去った。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [33]昭和13年に玉川向工場が陸海軍監督工場となり軍から管理官が派遣された
- [34]管理官は工場管理人の選任・解任から職制改正や社内人事へ介入し、会社が内定した課長人事を大幅に変更させた
- [35]労働力も原材料も軍の統制下に置かれ、売上のほとんどが軍需用となった
- [39]玉川向工場は焼夷弾で焼失し、住友財閥の解体を経て住友通信工業から日本電気へ社名が戻った。インフレのなかで税金の滞納と給料の遅配があった
- [40]占領軍の追放令で梶井剛社長と丹羽保次郎専務が会社を去った
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [36]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [37]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [38]2万数千名に及んだ人員は6,000名となり、地方十数カ所の工場を整理して三田・玉川の2事業所に集約した
長年積み上げた技術力が、この時期の再建を下から支えた。給料の支払いが遅れても、研究陣は新しい知識を求め続けた。ベル電話研究所のショックレーが1948年末にトランジスタを発明したと伝わると研究陣は沸き立ち、外国へ開かれた数少ない窓だった日比谷の米軍図書館に足しげく通って米国の雑誌を読んだ。同じころGHQ民間通信部の係官マギールが玉川事業所を訪れ、事業所長として生産を立て直していた小林宏治氏は、検査を後始末に終わらせず工程に組み込めば不良品をなくし品質もそろえられるという品質管理にこそ自分たちの求めるものがあると悟った。小林宏治氏は園部進を助手に据えてこれに取り組み、1952年に第1回デミング賞を受けた。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [41]永年の努力で蓄積された技術力が戦後の再建を支えた
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [42]給料が遅配しても研究陣は自家製パンをかじりながら新知識に食いついていった
- [43]日比谷の米軍図書館にある米国の雑誌が、当時の日本が外国へ向けて開かれていた唯一の窓であった
- [44]昭和23年暮れのショックレーによるトランジスタ発明の報せを受け、研究陣は日比谷の米軍図書館へ通って米国の雑誌を読んだ
- [45]検査機能を生産過程へ組み入れて生産しながら品質を制御すれば、不良品を出さず品質を均一化できるという考え方をとった
- [46]GHQのCCS(民間通信部)の係官マギールが玉川事業所を訪れ、事業所長の小林宏治は品質管理が求めるものだと知った
- [47]小林宏治は園部進を助手として品質管理に取り組み、昭和27年に第1回デミング賞を受賞した
1952年7月、電気通信省が日本電信電話公社へ改組され、かつて日本電気の会長であった梶井剛が初代総裁に就任した。民間ラジオ放送が広まり、テレビ放送も始まった時期である。梶井はすぐに電信電話施設の第一次拡充五カ年計画を立て、全国の即時通話化を目標に掲げて、技術革新を取り入れられるだけ取り入れる方針を関連業界に示した。まず浮上したのがマイクロ波通信である。番組を中継する回線を同軸ケーブルで敷いていては工事に年月を要するため、電電公社は東京と大阪をマイクロ波で結ぶ構想を立てた。公社は国産メーカーにも注文を出す一方で外国機も輸入するとし、240チャネルを通せる外国機に対して、日本電気に求めたのは100チャネルであった。玉川の技術陣はこれを200、400と引き上げ、中継機の小型化や高感度受信方式を相次いで生み出した。
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [48]昭和27年7月に電電公社が発足し、元日本電気会長の梶井剛が初代総裁に就任した
- [49]梶井剛は電信電話施設の第一次拡充五カ年計画を立て、全国の即時通話化をねらいとした
- [51]第一次拡充計画で電電公社から最初に持ち上がったのはマイクロ波通信であった
- [52]民間ラジオ放送とテレビ放送の中継に同軸ケーブルでは建設が間に合わず、電電公社は東京~大阪間のマイクロ波化を考えた
- [53]電電公社は国産メーカーに発注しつつ外国機も輸入するとし、240チャネルの外国機に対し日本電気には100チャネルを求めた
- [54]日本電気の技術陣はチャネル数を200、400へと伸ばし、中継機の小型化・増幅発振方式・高感度受信方式を生み出した
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [50]第一次五カ年計画では可能な限りの技術革新を取り入れることが基本方針として採用された
参考文献[33]-[54]
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- [33]昭和13年に玉川向工場が陸海軍監督工場となり軍から管理官が派遣された
- [34]管理官は工場管理人の選任・解任から職制改正や社内人事へ介入し、会社が内定した課長人事を大幅に変更させた
- [35]労働力も原材料も軍の統制下に置かれ、売上のほとんどが軍需用となった
- [39]玉川向工場は焼夷弾で焼失し、住友財閥の解体を経て住友通信工業から日本電気へ社名が戻った。インフレのなかで税金の滞納と給料の遅配があった
- [40]占領軍の追放令で梶井剛社長と丹羽保次郎専務が会社を去った
- [42]給料が遅配しても研究陣は自家製パンをかじりながら新知識に食いついていった
- [43]日比谷の米軍図書館にある米国の雑誌が、当時の日本が外国へ向けて開かれていた唯一の窓であった
- [44]昭和23年暮れのショックレーによるトランジスタ発明の報せを受け、研究陣は日比谷の米軍図書館へ通って米国の雑誌を読んだ
- [45]検査機能を生産過程へ組み入れて生産しながら品質を制御すれば、不良品を出さず品質を均一化できるという考え方をとった
- [46]GHQのCCS(民間通信部)の係官マギールが玉川事業所を訪れ、事業所長の小林宏治は品質管理が求めるものだと知った
- [47]小林宏治は園部進を助手として品質管理に取り組み、昭和27年に第1回デミング賞を受賞した
- [48]昭和27年7月に電電公社が発足し、元日本電気会長の梶井剛が初代総裁に就任した
- [49]梶井剛は電信電話施設の第一次拡充五カ年計画を立て、全国の即時通話化をねらいとした
- [51]第一次拡充計画で電電公社から最初に持ち上がったのはマイクロ波通信であった
- [52]民間ラジオ放送とテレビ放送の中継に同軸ケーブルでは建設が間に合わず、電電公社は東京~大阪間のマイクロ波化を考えた
- [53]電電公社は国産メーカーに発注しつつ外国機も輸入するとし、240チャネルの外国機に対し日本電気には100チャネルを求めた
- [54]日本電気の技術陣はチャネル数を200、400へと伸ばし、中継機の小型化・増幅発振方式・高感度受信方式を生み出した
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- [36]1941年12月 I.S.E.社所有のNEC株式が敵国資産として処分され資本提携解消
- [37]1943年2月 社名を住友通信工業株式会社に変更
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- [38]2万数千名に及んだ人員は6,000名となり、地方十数カ所の工場を整理して三田・玉川の2事業所に集約した
- [41]永年の努力で蓄積された技術力が戦後の再建を支えた
- [50]第一次五カ年計画では可能な限りの技術革新を取り入れることが基本方針として採用された
筆者考察
外国の資本と結ぶことは、この会社にとって長く技術の入口であり、同時に官需を受ける資格を欠く理由でもあった。1899年に米ウェスタン・エレクトリック社の出資で発足した日本電気は、電話交換機と通信機を逓信省へ納めて伸び、1930年前後には官庁からの需要が売上の75パーセントを占めるまでになる。ところが国産化を求める声が強まると、逓信省は外資系会社に政策上の恩典を与えず、国産品優先の指名入札で契約すると定めた。技術を持っていることではなく、誰の資本かで受注の可否が決まる。1931年下期の純益は3万円で、5年前の100分の1まで減少していた。1932年に米側の持株を減らして住友電線へ譲渡したのは、技術の系統を保ったまま、欠格の理由だけを外す手であった。
住友の資本が入ってからの十年で会社が積んだのは、外国の設計図に頼らない製造の型である。1935年の玉川向工場、満州の放送局へ納めた100キロワットの真空管、1939年に東京とハルピンを3,000キロで結んだ無装荷ケーブル。いずれもウェスタン・エレクトリック社もシーメンス社も持たない方式で、中継器は自分たちで組むほかなかった。この蓄積は戦争に動員され、1938年に玉川向工場は陸海軍の監督工場となり、売上のほとんどが軍需向けに変わる。敗戦のとき人員は2万数千人から6,000人へ、工場は十数カ所から2カ所へ縮んだ。残ったのは設備ではなく、1952年に電電公社が240チャネルの外国機を示したときに100チャネルを200、400へ伸ばせる技術の側だった。
出典・参考
4件
- 日本電気 有価証券報告書 第187期(2025年3月期)【沿革】
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
- 未来にいどむNEC(日本電気)(企業の現代史, 1968年)
- 経済同友(1966年6月)