倉田主税
日立製作所・元取締役社長
社長就任 1946年
生年月日 —
学歴 仙台高等工業学校
出自 —
社長就任までの出自
出自
日立は1910年、久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足し、1920年2月に日立・亀戸の両工場を擁して株式会社日立製作所として独立した。初代社長の小平浪平氏は輸入に頼っていた電気機械の国産化を掲げ、外国メーカーとの提携を避ける方針は創業から40年余にわたって続いた。倉田氏はこの会社の生え抜きで、1955年の会社史も社長を倉田主税氏と記している。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1945年6月の戦災で木津川工場が全焼し、終戦で軍需の発注が消えて木津川・尼崎の両工場は閉鎖された。残った工場では採炭・食糧増産・運輸・電力といった重点産業へ機械を送って復興需要を拾ったが、戦時に膨れた設備と人員は平時の受注量に見合わず、従業員4万4000名のうち約8500名が余剰と判断された。倉田氏が引き受けたのはこの過剰の処理だった。
在任中の主な施策
施策
1949年から1950年にかけての三カ月に及ぶ大争議を経て、従業員4万4000名のうち約8500名の人員整理を完遂した。1950年の経営方針で倉田氏はこの年を「正にこの苦難克服後の光明の年」と表現している。1952年にはRCAと受信管・電子管の、バブコック・ウイルコックスとボイラの技術援助契約を相次いで結び、創業以来40年余にわたり外国メーカーとの提携を避けてきた方針を撤回した。1956年10月には日立金属工業と日立電線を分離独立させている。
在任の評価
評価
執筆予定
経歴 1946〜1961年
在任中の業績
就任前-
退任時-
変化-
就任前-
退任時-
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