小平浪平
日立製作所・元取締役社長兼取締役会長
経歴1900〜1947年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1900年主要役職の状況(推定含む目安)1947年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 藤田組小坂鉱山 | 1900 | 入社 | ||
| 久原鉱業所日立鉱山 | 1906 | 入社 | |||
| 日立製作所 | 1918 | 所長 | |||
| 1920 | 設立 | ||||
| 1929 | 社長 | ||||
| 1941 | 取締役社長兼取締役会長 | ||||
| 1947 | 社長 退任(推定) |
社長就任までの出自
出自
栃木県下都賀郡家中村の旧家に、7人きょうだいの次男として生まれた。父の小平惣八氏が始めた新規事業はいずれも失敗し、借金を残して49歳で亡くなった。長兄は一高を離れて地元の銀行に勤め、弟の東京での就学を支え続けた。小平浪平氏は1900年7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した。1906年10月に久原鉱業所日立鉱山へ技師として入り、日立製作所を興した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1920年2月に株式会社日立製作所が発足したとき、小平浪平氏の肩書は専務取締役だった。社長を名乗ったのは1929年で、日立製作所の創立から19年目にあたる。同じ1929年には助川町一帯で約10万坪の工場用地を取得した。年末の12月31日には、手がけた経験のない昭和肥料向けの電解槽と回転変流機10台を受注した。
在任中の主な施策
施策
1931年の満州事変後に注文が急増すると、配当を抑えて利益の多くを設備の改善と減価償却に充てた。1934年3月には日立研究所を設立した。1937年5月、鮎川義介氏が率いた国産工業を吸収合併し、戸畑・若松など7工場を傘下に収めた。外国企業と技術提携を結ばなかったため地域制限に縛られず、1932年から1933年にかけてインドなどの扇風機市場をほぼ独占した。
創業ストーリー
創業ストーリー
参考文献5件
参考文献
- 日立製作所『日立製作所史』(1949)「小平の経歴」
- 経済知識 317号(1979年5月)「『国産化』に生き抜いた小平浪平(日立製作所)の苦闘と愛(1)」
- 日本経済新報 15巻41号(1962年10月)「先覚を語る 小平浪平翁(二)」
- 週刊日本経済 16巻9号(1963年2月28日)「先覚を語る 小平浪平翁(十四)」
- Hitachi Integrated Report 2022(2022)
事実根拠:出所(日立製作所)