第1章 年〜年

クラレ:倉敷絹織の設立と倉敷レイヨンへの商号変更

1926年〜紡績の大原孫三郎氏が興した倉敷絹織と、毎分7200回転のポットで動いた酒津の倉敷工場

倉敷紡績社長の大原孫三郎氏は、社内で進めた多角経営の調査を経て、1926年6月に資本金1000万円の倉敷絹織を設立した。1920年の反動恐慌のあと、紡績各社は操短率40%という高率の操業短縮を続けていた。大原孫三郎社長は1922年ごろ調査課に新事業の研究を命じ、1924年に人絹を最も有望と結論づけた。世界の人絹生産高は1923年に1億ポンドに達し、国内でも綿紡の資本が相次いで人絹に進出していた。長男の大原總一郎氏は後年、原料を海外に依存する繊維工業の弱さを挙げ、父は『比較的原料のウエイトが軽くて安定度の高い、しかも将来の発展性に富む人絹工業に活路を求めた』と記した。技術は京都帝国大学教授の福島郁三氏に在職のまま指導を仰ぎ、1925年2月に京化研究所を設けて備えた。紡績の不況に本体ごと巻き込まれないよう、新事業を別法人に切り出したとみられる。

  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [1]1926年6月 倉紡内の多角経営の研究から資本金1000万円の倉敷絹織を設立
    • [2]1920年の反動恐慌以来 紡績各社は操短率40%の高率操短
    • [3]1922年ごろ孫三郎が調査課に多角経営の調査を命じ、1924年に人絹を最も有望と結論
    • [7]福島郁三教授が京大教授在職のまま倉紡の人絹研究を指導・援助することを約束
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [4]1923年 世界の人絹生産高が1億ポンドに達する
    • [8]1925年2月 人絹工業化学研究機関として京化研究所を設立
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
    • [5]大正末〜昭和初年 財閥や綿紡資本が人絹工業に進出(倉敷紡は倉敷絹織を設立)
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」所引 大原總一郎『父の仕事』
    • [6]孫三郎の人絹進出の理由 原料を海外に全面依存する繊維工業の欠陥を避けるため

倉敷工場は外国人技師を招かず、自社の技術者だけで1928年4月27日に操業を始めた。当時の人絹各社は欧州から設備を輸入し、立ち上げに外国人技術者を雇うのが通例だった。大原孫三郎社長は福島郁三氏を中心とする若い化学者と機械技術者を欧州へ送り、京化研究所で技術を習わせた。紡糸機には、常識の毎分5000〜6000回転を超える7200回転を保証したランボーズ式を選んだ。操業当初はポットの破損で6400回転に落としたが、リグナイト工業と鳥羽電機の協力で7200回転に戻した。工場は高梁川の廃川地の払い下げを受けて建てられ、1928年11月には製品を市販した。高速の紡糸で1梱当たりの設備費を下げ、後発の不利を原価で埋める狙いがあったと思われる。

  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [9]1928年4月27日 酒津の本社工場(倉敷工場)が操業を開始(会社銀行八十年史・有報沿革は1928年5月)
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」所引 大原總一郎『父の仕事』
    • [10]当時の人絹工場は欧州からプラントを輸入し外国技術者を招聘するのが通例
    • [11]福島郁三教授ら若い化学者・機械技術者を欧州に派遣し、京化研究所で技術を習得させた
    • [12]ポット・モーター7200RPMを保証するランボーズ式紡糸機を採用(当時の常識は5000〜6000RPM)
    • [13]操業当初は6400RPMに落としたが、リグナイト工業・鳥羽電機の協力で7200RPMに堪えるポットとモーターを確保
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [14]1927年5月 高梁川廃川地の払下げを受けて建設に着手、1928年11月に製品を市販

倉敷絹織は1929年暮れに最初の操業短縮を受け、1931年の不況まで苦しい経営が続いた。人絹の相場は150デニール100ポンド当たりで1926年の329円から1929年9月の120円まで下がっていた。その間に独自の製造技術を固め、原価は帝人や旭絹織を下回って世界最低と認められたという。1932年に景気が持ち直すと、8月に住友合資と共同で日本化学製絲を愛媛県新居浜町に設けた。新居浜の人絹工場は同年12月に着工し、1933年11月に生産を始めた。資金面では1933年に資本金を2000万円へ増やし、同年11月に東京・大阪の株式取引所に上場した。住友との合弁と株式市場からの調達を組み合わせ、自己資金に頼らず増設を急いだのだろう。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [15]1929年暮 第一次操短、1931年の不況まで苦難が続く
    • [18]1932年8月 住友合資と共同で日本化学製絲を愛媛県新居浜町に設立
    • [19]1932年12月 新居浜の人絹工場に着工、1933年11月に生産開始
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
    • [16]人絹150デニール100ポンド当たり価格 1926年329円→1929年9月120円
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [17]品質向上とコスト切り下げで帝人・旭絹織を凌ぎ、世界最低のコストと認められた
    • [20]1933年 資本金を2000万円に増資
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [21]1933年11月 東京及び大阪株式取引所に上場
参考文献[1]-[21]
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [1]1926年6月 倉紡内の多角経営の研究から資本金1000万円の倉敷絹織を設立
    • [2]1920年の反動恐慌以来 紡績各社は操短率40%の高率操短
    • [3]1922年ごろ孫三郎が調査課に多角経営の調査を命じ、1924年に人絹を最も有望と結論
    • [7]福島郁三教授が京大教授在職のまま倉紡の人絹研究を指導・援助することを約束
    • [9]1928年4月27日 酒津の本社工場(倉敷工場)が操業を開始(会社銀行八十年史・有報沿革は1928年5月)
    • [17]品質向上とコスト切り下げで帝人・旭絹織を凌ぎ、世界最低のコストと認められた
    • [20]1933年 資本金を2000万円に増資
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [4]1923年 世界の人絹生産高が1億ポンドに達する
    • [8]1925年2月 人絹工業化学研究機関として京化研究所を設立
    • [14]1927年5月 高梁川廃川地の払下げを受けて建設に着手、1928年11月に製品を市販
    • [15]1929年暮 第一次操短、1931年の不況まで苦難が続く
    • [18]1932年8月 住友合資と共同で日本化学製絲を愛媛県新居浜町に設立
    • [19]1932年12月 新居浜の人絹工場に着工、1933年11月に生産開始
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
    • [5]大正末〜昭和初年 財閥や綿紡資本が人絹工業に進出(倉敷紡は倉敷絹織を設立)
    • [16]人絹150デニール100ポンド当たり価格 1926年329円→1929年9月120円
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」所引 大原總一郎『父の仕事』
    • [6]孫三郎の人絹進出の理由 原料を海外に全面依存する繊維工業の欠陥を避けるため
    • [10]当時の人絹工場は欧州からプラントを輸入し外国技術者を招聘するのが通例
    • [11]福島郁三教授ら若い化学者・機械技術者を欧州に派遣し、京化研究所で技術を習得させた
    • [12]ポット・モーター7200RPMを保証するランボーズ式紡糸機を採用(当時の常識は5000〜6000RPM)
    • [13]操業当初は6400RPMに落としたが、リグナイト工業・鳥羽電機の協力で7200RPMに堪えるポットとモーターを確保
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [21]1933年11月 東京及び大阪株式取引所に上場

1934年〜新居浜・西条・岡山へ展開した人絹工場と、30歳で社長を継いだ大原總一郎氏

倉敷絹織は1933〜35年の人絹の好況に合わせて、新居浜・西条・岡山へ工場を広げた。業界では人絹会社の払込資本金利益率が1934年に28%に達し、1933〜36年に設備は4.1倍に増えた。1934年3月に日本化学製絲を合併して新居浜工場を取り込み、資本金は3000万円となった。1935年1月には中国レーヨンを設け、同年11月の合併で資本金は5000万円に達した。同年6月に着工した西条・岡山の両工場は、1936年7月と8月に相次いで操業を始めた。続いて1937年に西条・新居浜、1938年11月に倉敷・岡山でスフ綿の生産に入り、1940年には人絹・スフとも全国第2位の能力を持った。別会社で建ててから合併する段取りは、増資の時期を工場の完成に合わせる工夫だったと考えられる。

  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [22]1933〜35年の人絹黄金時代に倉敷のほか新居浜(1934年3月)・西条(1936年7月)・岡山(1936年8月)と順次操業し有力会社となる
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
    • [23]人絹会社の払込資本金利益率 1932年12%・1934年28%、1933〜36年に設備4.1倍で世界第1位
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [24]1934年3月 日本化学製絲を合併し資本金3000万円
    • [25]1935年1月 中国レーヨン(岡山工場)を設立、同年11月に合併して資本金5000万円
    • [26]1935年6月 西条・岡山の両人絹工場に着工、1936年7〜8月に操業
    • [28]1937年 西条・新居浜、1938年11月 倉敷・岡山でスフ生産開始、1940年に人絹・スフとも全国第2位の能力
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [27]1936年7月 西条工場、1936年8月 岡山工場が操業開始(レーヨン)

1939年5月、大原孫三郎氏は病のため社長を退任して相談役となり、大原總一郎氏が社長に就任した。大原總一郎氏は1909年に岡山県で生まれ、1932年に東京帝国大学経済学部を卒業して倉敷絹織に入った。入社後は1936〜38年に海外へ渡り、一時は倉敷紡績の取締役も兼ねた。就任時の年齢は、本人の回想では30、1948年と1949年の人物評では31歳とされた。一社員から社長への急な昇格は本人にとって重荷で、紡績連合会の席では年長の経営者を前に居心地の悪さを味わったという。大原孫三郎氏が社長を務めた14年間で、倉敷絹織は資本金5000万円の大会社になっていた。四工場とスフの体制が整った時期に、病を機に経営を次代へ渡す節目と捉えたと解される。

  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [29]1939年5月 孫三郎が病のため社長を辞し相談役に、総一郎が社長に選任
    • [35]1935年に資本金5000万円の大会社となり、孫三郎の社長在任14年間で業界に重きをなす
  • 日本の経営者 第1集(野田豊, 野田経済社, 1960年)「大原総一郎(倉敷レイヨン社長)」
    • [30]總一郎は1909年岡山県生まれ、1932年東大経済学部卒、同年入社
    • [32]總一郎の回想 社長になったのは30歳
    • [34]總一郎の回想 社員から一躍社長になったギャップに困り、紡績連合会で閉口した
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
    • [31]總一郎は1932年に東大経済学部を卒業し倉絹に入社、1936〜38年に海外、一時倉紡取締役を兼務
  • 財界を支配する百人(山本正雄, 同友社, 1948年)「大原總一郎(倉敷絹織社長)」
    • [33]總一郎は31歳で社長となり以来10年社長を務める
参考文献[22]-[35]
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
    • [22]1933〜35年の人絹黄金時代に倉敷のほか新居浜(1934年3月)・西条(1936年7月)・岡山(1936年8月)と順次操業し有力会社となる
    • [29]1939年5月 孫三郎が病のため社長を辞し相談役に、総一郎が社長に選任
    • [35]1935年に資本金5000万円の大会社となり、孫三郎の社長在任14年間で業界に重きをなす
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
    • [23]人絹会社の払込資本金利益率 1932年12%・1934年28%、1933〜36年に設備4.1倍で世界第1位
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [24]1934年3月 日本化学製絲を合併し資本金3000万円
    • [25]1935年1月 中国レーヨン(岡山工場)を設立、同年11月に合併して資本金5000万円
    • [26]1935年6月 西条・岡山の両人絹工場に着工、1936年7〜8月に操業
    • [28]1937年 西条・新居浜、1938年11月 倉敷・岡山でスフ生産開始、1940年に人絹・スフとも全国第2位の能力
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [27]1936年7月 西条工場、1936年8月 岡山工場が操業開始(レーヨン)
  • 日本の経営者 第1集(野田豊, 野田経済社, 1960年)「大原総一郎(倉敷レイヨン社長)」
    • [30]總一郎は1909年岡山県生まれ、1932年東大経済学部卒、同年入社
    • [32]總一郎の回想 社長になったのは30歳
    • [34]總一郎の回想 社員から一躍社長になったギャップに困り、紡績連合会で閉口した
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
    • [31]總一郎は1932年に東大経済学部を卒業し倉絹に入社、1936〜38年に海外、一時倉紡取締役を兼務
  • 財界を支配する百人(山本正雄, 同友社, 1948年)「大原總一郎(倉敷絹織社長)」
    • [33]總一郎は31歳で社長となり以来10年社長を務める

1939年〜統制下で設けた中国産業・角一ゴムと、倉敷レイヨンへの改称で迎えた再上場

1938年9月に化繊の生産統制が全面的に敷かれ、企業整備で全国の化繊工場は人絹7・スフ14に絞られた。倉敷絹織も1942年10月に新居浜工場を売り、1943年に倉敷・岡山の化繊生産を止めて軍需工場へ転じた。同年12月には社名を倉敷航空化工に改め、化繊は西条工場だけが残った。この間の1940年12月に中国産業を設立し、1943年2月には角一ゴムへ出資した。1935年から続けたビニロンの研究は、1940年6月に岡山工場研究所の小規模設備で試験生産に入った。1943年9月にはパイロットプラントが動き出したが、1945年6月の空襲で研究設備を失った。化繊が縮むなかで関係会社を増やしたのは、本業の外に人と技術の受け皿を求めたためとうかがえる。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [36]1938年9月 全面的な生産統制、五次の企業整備で全国の化繊は人絹7工場・スフ14工場に縮小
    • [37]1942年10月 新居浜工場を売却、1943年4月 倉敷工場・11月 岡山工場の化繊生産を停止し軍需転換
    • [38]1943年12月 社名を倉敷航空化工に変更、化繊工場は西条のみ
    • [40]1935年以来ビニロンの調査研究、1940年6月 岡山工場研究所内の小規模試験設備で試験生産を開始
    • [42]1945年6月の空襲でビニロンの試験設備が焼失し研究中絶
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [39]1940年12月 中国産業を設立(のちクラレケミカル)、1943年2月 角一ゴムへ出資(のちクラレプラスチックス)
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [41]倉敷絹織は1943年9月にパイロットプラントでポリビニルアルコール繊維の生産を開始

倉敷絹織は終戦と同時に化繊の復元を決め、1945年10月に旧社名へ戻した。1946年10月に政府の繊維産業三ヵ年計画が始まると、化繊設備の復元を積極的に進めた。倉敷工場では1948年4月にビニロンの試験工場が生産を始め、同年11月に人絹設備も操業を再開した。集中生産で能力が低下した西条工場は1947年1月に復元に着工し、岡山工場のスフ紡績設備は1949年5月に完成した。復元の資金は相次ぐ増資で賄い、資本金は1948年11月に2億5000万円、1949年7月に7億5000万円となった。大原總一郎氏はこの間の1947年8月に物価庁次長に就任し、約半年で官を辞して倉敷絹織に戻った。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [43]終戦と同時に化繊復元の方針を決定、1945年10月に社名を倉敷絹織に戻す
    • [44]1946年10月 政府の繊維産業三ヵ年計画に伴い化繊設備の復元を進める
    • [45]1947年8月 倉敷工場内にビニロン試験工場を着工し1948年4月生産開始、同年11月 人絹設備が操業開始
    • [46]1947年1月 能力の落ちた西条工場の化繊設備復元に着工、1949年5月 岡山工場のスフ紡績設備が完成
    • [47]復元の資金需要で増資、1948年11月 資本金2億5000万円、1949年7月 7億5000万円
  • 財界を支配する百人(山本正雄, 同友社, 1948年)「大原總一郎(倉敷絹織社長)」
    • [48]總一郎は1947年8月に物価庁次長となり、約半年後の片山内閣更迭を機に辞めた
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
    • [49]總一郎は一年ほど物価庁の役人になったほかは倉絹の事業に専念

倉敷絹織は1949年4月に社名を倉敷レイヨンに改め、翌5月に証券取引所の再開で上場を再開した。前年の1948年5月には、戦前から研究してきたポリビニルアルコール系の新繊維をビニロンと命名していた。1949年秋の設備能力は人絹日産17トン、スフ日産26.8トンに対し、ビニロンは日産200キロにとどまった。それでも同年10月、富山のポバールから岡山のビニロンまでを一貫生産する工場に着工した。総合経済誌は、日産200キロで1ポンド1500円のコストが日産10トンでは360円まで下がると試算した。大原總一郎社長は、羊毛や綿花の乏しい日本は合成繊維の量産でしか衣料の自給と輸出を望めないと考えていた。社名から「絹」を外したのは、人絹の代用品の出自を離れ、合成繊維へ軸を移す意思の表れと推察される。

  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [50]1949年4月 社名を倉敷レイヨンに変更
    • [54]1949年10月 原料ポバール(富山工場)からビニロン繊維(岡山工場)までの一貫生産工場に着工
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [51]1949年5月 証券取引所再開により上場再開
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [52]1948年5月 倉敷レイヨンが新繊維をビニロンと命名
  • 新経済 9(14) 1949年11月号「事業診斷 倉敷レーヨン」
    • [53]1949年秋の設備能力 人絹日産17噸・スフ日産26.8噸・ビニロン日産200瓩、ビニロンは将来日産10噸へ
    • [55]ビニロンのコストは日産200瓩で1封度1500円、日産5噸で470円、10噸で360円
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
    • [56]總一郎の信念 羊毛や綿花の不自由な日本は合成繊維の大量生産でのみ衣料の自給と輸出が可能
参考文献[36]-[56]
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
    • [36]1938年9月 全面的な生産統制、五次の企業整備で全国の化繊は人絹7工場・スフ14工場に縮小
    • [37]1942年10月 新居浜工場を売却、1943年4月 倉敷工場・11月 岡山工場の化繊生産を停止し軍需転換
    • [38]1943年12月 社名を倉敷航空化工に変更、化繊工場は西条のみ
    • [40]1935年以来ビニロンの調査研究、1940年6月 岡山工場研究所内の小規模試験設備で試験生産を開始
    • [42]1945年6月の空襲でビニロンの試験設備が焼失し研究中絶
    • [43]終戦と同時に化繊復元の方針を決定、1945年10月に社名を倉敷絹織に戻す
    • [44]1946年10月 政府の繊維産業三ヵ年計画に伴い化繊設備の復元を進める
    • [45]1947年8月 倉敷工場内にビニロン試験工場を着工し1948年4月生産開始、同年11月 人絹設備が操業開始
    • [46]1947年1月 能力の落ちた西条工場の化繊設備復元に着工、1949年5月 岡山工場のスフ紡績設備が完成
    • [47]復元の資金需要で増資、1948年11月 資本金2億5000万円、1949年7月 7億5000万円
    • [50]1949年4月 社名を倉敷レイヨンに変更
    • [54]1949年10月 原料ポバール(富山工場)からビニロン繊維(岡山工場)までの一貫生産工場に着工
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
    • [39]1940年12月 中国産業を設立(のちクラレケミカル)、1943年2月 角一ゴムへ出資(のちクラレプラスチックス)
    • [51]1949年5月 証券取引所再開により上場再開
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [41]倉敷絹織は1943年9月にパイロットプラントでポリビニルアルコール繊維の生産を開始
    • [52]1948年5月 倉敷レイヨンが新繊維をビニロンと命名
  • 財界を支配する百人(山本正雄, 同友社, 1948年)「大原總一郎(倉敷絹織社長)」
    • [48]總一郎は1947年8月に物価庁次長となり、約半年後の片山内閣更迭を機に辞めた
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
    • [49]總一郎は一年ほど物価庁の役人になったほかは倉絹の事業に専念
    • [56]總一郎の信念 羊毛や綿花の不自由な日本は合成繊維の大量生産でのみ衣料の自給と輸出が可能
  • 新経済 9(14) 1949年11月号「事業診斷 倉敷レーヨン」
    • [53]1949年秋の設備能力 人絹日産17噸・スフ日産26.8噸・ビニロン日産200瓩、ビニロンは将来日産10噸へ
    • [55]ビニロンのコストは日産200瓩で1封度1500円、日産5噸で470円、10噸で360円

出典・参考

10件
出典・参考
  • クラレ 有価証券報告書 第145期(2025年12月期)「沿革」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「倉敷レイヨン」
  • 日本産業史 第1巻 繊維(日経文庫)「人絹-苦闘の果ての栄光」
  • 新経済 9(14) 1949年11月号「事業診斷 倉敷レーヨン」
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」
  • 日本経営理念史 続(土屋喬雄, 日本経済新聞社, 1967年)「七 孫三郎と倉敷絹織」所引 大原總一郎『父の仕事』
  • 財界を支配する百人(山本正雄, 同友社, 1948年)「大原總一郎(倉敷絹織社長)」
  • 日本経済新報 2(23) 1949年8月
  • 日本の経営者 第1集(野田豊, 野田経済社, 1960年)「大原総一郎(倉敷レイヨン社長)」
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」

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