第2章 年〜年

クラレ:ビニロンの企業化と人工皮革「クラリーノ」の生産開始

1950年〜ポバールから一貫で生産し始めたビニロンと、高重合度ポバールで開いた漁網・作業衣の用途

倉敷レイヨンは1950年10月に富山工場でポバールの運転を始め、翌11月に岡山工場でビニロンの生産に入った。原料から繊維までを日産5トンで通す体制で、ビニロンを本格的な工業規模で作るのは世界で初めてだった。社長の大原總一郎氏の決定を重役のなかで強く推したのは、技師長の友成九十九取締役だけだったという。資本金2億5,000万円の会社が、14億円のビニロン設備に踏み切る計算だった。大原總一郎社長は物価庁次長として不足経済を9カ月見たのち、国内の資源と技術で繊維を補う方針を選んだ。ビニロンは綿や羊毛に代わる実用繊維を狙ったもので、漁網や作業服地など生産に使う品に向くと大原總一郎社長はみていた。

  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [1]1950年10月 富山工場でPVA(ポバール)の運転開始、同11月 岡山工場でビニロンの運転開始
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [2]1949年に日産5トンの富山工場と岡山工場の建設に入り、翌年10月に運転開始。世界初のビニロンの本格的工業生産
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [3]ビニロン工業化の決定を重役のうち強く支持したのは技師長の友成取締役ただひとりで、他の重役は懐疑的だった
    • [4]資本金2億5千万円の当時の倉敷レイヨンが14億円のビニロン設備投資に踏み切った
    • [5]大原総一郎は1947年8月から9カ月物価庁次長を務め、不足経済を日本の資源と技術で打開しようと決意してビニロンに踏み切った
    • [6]ビニロンは羊毛・木綿に代わる実用繊維をめざしたもので、漁網・靴下・作業服地など生産に直結した実用品に向く

ビニロンは衣料で綿やスフと競り合う位置にあり、売れ行きが伸びなかった。服地や靴下を出しても価格と品質のどちらでも優位に立てず、初期は強度も足りなかった。1952年3月期は人絹とスフの不況にビニロンの滞貨が重なり、倉敷レイヨンは決算を抑えた。9月期のビニロン販売高は5億2,000万円と前期の4.7倍に増えたものの、糸の売値と原価はともに1ポンド330円で収支は均衡にとどまった。紡機の転換と新設でビニロン専紡を計5万錘とし、日産8トン設備が満ちれば1ポンド20円の原価低減を見込んだ。1954年にはポバールの新重合法で強度を3割上げた高強力ビニロンを得た。これで漁網と綿混の作業衣に販路が開け、ビニロンの性質を生かす用途が定まった。

  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [7]ビニロンは木綿に近い性質で綿・スフとの競合になり、豊富で低廉な相手に対して不利だった
    • [8]服地・メリヤス・靴下のビニロン衣料を出したが、価格・品質の両面で優位に立てず、当初は強度に問題があった
    • [13]高重合度ポバールの重合技術で強度が向上し、漁網分野への進出と綿混作業衣の伸びでビニロンの性質を生かす製品分野を確保した
  • 日本経済新報 5(32) 1952年11月
    • [9]1952年3月期は人絹スフの不況とビニロンの滞貨負担で自粛決算を行った
    • [10]1952年9月期のビニロン販売高5億2,000万円(3月期1億1,000万円、4.7倍)。ビニロン糸の売値・原価とも1ポンド330円で収支トントン
    • [11]紡機の転換と新設でビニロン専紡が計5万錘となり日産8トン設備に見合う。フル稼働でコスト20円低下の見込み
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [12]1954年 ポバールの新重合法を開発し、強度が3割高い高強力ビニロンを生んだ

ビニロンの設備資金は、企業化の当初は借入金に大きく依存した。借入金は1952年3月末の37億円から9月末に44億円へ増え、1億2,500万円の薬品回収設備には開発銀行の融資が決まりかけていた。レイヨン部門の利益はすべてビニロンに回され、株価は50〜60円に沈んだ。岡山工場の短繊維が日産18トンの経済規模に乗ったのは1955年だった。その前後に倉敷レイヨンは倍額増資を重ね、1954年6月に資本金を15億円、1957年1月に30億円とした。1956年3月には中央繊維と組んで玉島レイヨンを設け、レーヨンの生産を子会社に担わせた。借入で先に設備を立て、生産が採算を確保してから自己資本を厚くする順序だったと推察される。

  • 日本経済新報 5(32) 1952年11月
    • [14]ビニロンの建設は借入金に依存し、増資は当面問題にならないとされた
    • [15]借入金は1952年3月末37億円から9月末44億円。1億2,500万円の薬品回収設備は開発銀行の融資決定が近い
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [16]レーヨン部門の全利益をビニロンに投入し、株価は50〜60円に低迷した
    • [17]岡山工場が短繊維日産18トンの経済ペースに乗ったのは1955年
  • 株式会社年鑑 1957年版「倉敷レイヨン」
    • [18]1954年6月 資本金15億円に増資(1:1)、1957年1月 資本金30億円に増資(1:1)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [19]1956年 中央繊維と提携して玉島レイヨンを設立(1964年に合併)
参考文献[1]-[19]
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [1]1950年10月 富山工場でPVA(ポバール)の運転開始、同11月 岡山工場でビニロンの運転開始
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
    • [2]1949年に日産5トンの富山工場と岡山工場の建設に入り、翌年10月に運転開始。世界初のビニロンの本格的工業生産
    • [7]ビニロンは木綿に近い性質で綿・スフとの競合になり、豊富で低廉な相手に対して不利だった
    • [8]服地・メリヤス・靴下のビニロン衣料を出したが、価格・品質の両面で優位に立てず、当初は強度に問題があった
    • [13]高重合度ポバールの重合技術で強度が向上し、漁網分野への進出と綿混作業衣の伸びでビニロンの性質を生かす製品分野を確保した
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [3]ビニロン工業化の決定を重役のうち強く支持したのは技師長の友成取締役ただひとりで、他の重役は懐疑的だった
    • [4]資本金2億5千万円の当時の倉敷レイヨンが14億円のビニロン設備投資に踏み切った
    • [5]大原総一郎は1947年8月から9カ月物価庁次長を務め、不足経済を日本の資源と技術で打開しようと決意してビニロンに踏み切った
    • [6]ビニロンは羊毛・木綿に代わる実用繊維をめざしたもので、漁網・靴下・作業服地など生産に直結した実用品に向く
    • [12]1954年 ポバールの新重合法を開発し、強度が3割高い高強力ビニロンを生んだ
    • [16]レーヨン部門の全利益をビニロンに投入し、株価は50〜60円に低迷した
    • [17]岡山工場が短繊維日産18トンの経済ペースに乗ったのは1955年
  • 日本経済新報 5(32) 1952年11月
    • [9]1952年3月期は人絹スフの不況とビニロンの滞貨負担で自粛決算を行った
    • [10]1952年9月期のビニロン販売高5億2,000万円(3月期1億1,000万円、4.7倍)。ビニロン糸の売値・原価とも1ポンド330円で収支トントン
    • [11]紡機の転換と新設でビニロン専紡が計5万錘となり日産8トン設備に見合う。フル稼働でコスト20円低下の見込み
    • [14]ビニロンの建設は借入金に依存し、増資は当面問題にならないとされた
    • [15]借入金は1952年3月末37億円から9月末44億円。1億2,500万円の薬品回収設備は開発銀行の融資決定が近い
  • 株式会社年鑑 1957年版「倉敷レイヨン」
    • [18]1954年6月 資本金15億円に増資(1:1)、1957年1月 資本金30億円に増資(1:1)
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [19]1956年 中央繊維と提携して玉島レイヨンを設立(1964年に合併)

1957年〜天然ガス原料の中条工場と中国へのビニロンプラント輸出、クラレエステル・クラリーノへの進出

倉敷レイヨンは1961年5月、新潟県中条町でポバール日産約40トンの工場の建設に着手した。カーバイドを経る従来の製法は、電力単価の上昇でこれ以上原価を下げられなくなっていた。中条工場は協和ガス化学から天然ガス由来のアセチレンを受け、富山工場に比べアセチレンで30%、ポバールで15%の原価低減を見込んだ。天然ガスはカーバイドより価格が安定するという利点もあった。協和ガス化学は倉敷レイヨンが50%を出資し、1961年11月から副社長の仙石襄氏が社長を兼ねた。工場は1963年初めにフル稼働に入り、40トンのうち20トンを岡山のビニロン増産に回し、残りを外販とフィルム原料に充てた。

  • 日本企業要覧 1968年版「倉敷レイヨン」
    • [20]1961年5月 中条工場(ポバール日産約40トン)の建設に着手
  • 野田経済 1963年2月11日号
    • [21]従来のカーバイドアセチレン法は電力単価の値上がりでこれ以上のコストダウンができない
    • [22]中条工場は協和ガス化学の天然ガスアセチレンからポバールを生産し、富山工場(日産85トン)比でアセチレン30%・ポバール15%のコストダウンを見込む
    • [23]カーバイドは価格変動が激しいが、天然ガスは価格が安定している
    • [25]中条工場のポバール日産40トンは1963年からフル稼働。20トンを岡山工場のビニロン増産、残り20トンを外販とフィルム・セロファン原料に充てる。協和ガス化学への出資比率は倉敷レイヨン50%
  • 日本企業要覧 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [24]仙石襄は1961年2月に取締役副社長、同年11月に協和ガス化学工業の取締役社長に就任

倉敷レイヨンは1963年、中国向けにポバールとビニロンの大口プラント輸出契約を結び、政府の認可を得た。ビニロン技術の輸出はそれ以前から続き、1958年2月の米エアー・リダクション社を皮切りに仏ローヌ・プーラン社、西独ヘキスト社へ広がった。1963年刊の評伝は、中国がビニロン・プラントを強く求めていることを周知の事実として書いた。大原總一郎社長は、思想の違いを越えて広がるビニロン技術に平和への使命をみていたという。1968年版の日本企業要覧は中国向けプラントを好調と記し、中共からの技術収入を利益の支えに挙げた。1968年9月期にはプラント輸出で11億円を計上し、翌1969年3月期はそれが無かった。国内の需要の伸びが鈍るなか、技術の供与先を国交のない相手にまで広げたとみられる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [26]1963年 中共向けにポバール並びにビニロンの大口プラント輸出を締結し、政府の認可を受けた
  • 株式会社年鑑 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [27]ビニロン製造技術輸出 1958年2月 米国エアー・リダクション、1959年12月 仏国ロンヌ・プーラン社、1960年4月 米国エアーリダクション社、1961年1月 西独ヘキスト社
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [28]中共がビニロン・プラントを強く欲しがっていることは周知のとおり
    • [29]大原総一郎はイデオロギーを越えて米欧・中共へ伸びるビニロン技術に平和への使命観を強くしている
  • 日本企業要覧 1968年版「倉敷レイヨン」
    • [30]中国向けプラントも好調。今9月期は中共からの技術収入などで利益増を見込む
  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
    • [31]1969年3月期は中国向けビニロンプラント輸出がなく、前の期(1968年9月期)の11億円を除くと6.5%の増収

ビニロンは染色性に難があり、倉敷レイヨンの販売は帆布や漁網など工業用が70%、衣料が30%だった。その衣料でも、学生服やトレーニングパンツの需要がポリエステル系に食われ始めていた。倉敷レイヨンは1961年12月に米モンサント社からポリエステル繊維の製造技術を導入した。改質ポリエステルのクラレエステルは玉島に日産15トンで建て、ビニロンの防衛と一般衣料への進出を狙った。人工皮革は1962年に研究所の第四研究室で始まり、1963年8月に大原總一郎社長が「クラリーノ」と名づけた。1965年4月に倉敷工場で生産を始め、1966年11月には岡山工場で本格生産に移った。ビニロンの外側に、衣料向けの合繊と独自の新素材という二つの足場を同時に築こうとしたと考えられる。

  • 野田経済 1963年2月11日号
    • [32]ビニロンは染色性に難点があり用途が限られ、帆布・シート・漁網・ロープなど工業用中心。倉敷レイヨンでは工業用70%、衣料用30%
    • [33]学生服・トレーニングパンツといったビニロンの需要分野がポリエステル系の攻撃を受けている
    • [35]改質ポリエステル(クラレエステル)は米ケムストランド社から技術導入し、日産15トン(当初計画20トンを業界の自主調整で縮小)を岡山県玉島に1964年4月ごろ完成予定。エステル進出でビニロンを防衛し、ビニロンの入れない一般衣料分野へ進むねらい
  • 株式会社年鑑 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [34]ポリエステル系繊維製造技術輸入 1961年12月 米国モンサント社
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 合成皮革クラリーノ」
    • [36]1962年に研究所第四研究室で合成皮革の研究が始まり、1963年8月に社長の大原が「クラリーノ」と命名した
  • 日本企業要覧 1968年版「倉敷レイヨン」
    • [37]1965年4月から倉敷工場でクラリーノの生産を開始、1966年11月 岡山工場でクラリーノの本格生産を開始
参考文献[20]-[37]
  • 日本企業要覧 1968年版「倉敷レイヨン」
    • [20]1961年5月 中条工場(ポバール日産約40トン)の建設に着手
    • [30]中国向けプラントも好調。今9月期は中共からの技術収入などで利益増を見込む
    • [37]1965年4月から倉敷工場でクラリーノの生産を開始、1966年11月 岡山工場でクラリーノの本格生産を開始
  • 野田経済 1963年2月11日号
    • [21]従来のカーバイドアセチレン法は電力単価の値上がりでこれ以上のコストダウンができない
    • [22]中条工場は協和ガス化学の天然ガスアセチレンからポバールを生産し、富山工場(日産85トン)比でアセチレン30%・ポバール15%のコストダウンを見込む
    • [23]カーバイドは価格変動が激しいが、天然ガスは価格が安定している
    • [25]中条工場のポバール日産40トンは1963年からフル稼働。20トンを岡山工場のビニロン増産、残り20トンを外販とフィルム・セロファン原料に充てる。協和ガス化学への出資比率は倉敷レイヨン50%
    • [32]ビニロンは染色性に難点があり用途が限られ、帆布・シート・漁網・ロープなど工業用中心。倉敷レイヨンでは工業用70%、衣料用30%
    • [33]学生服・トレーニングパンツといったビニロンの需要分野がポリエステル系の攻撃を受けている
    • [35]改質ポリエステル(クラレエステル)は米ケムストランド社から技術導入し、日産15トン(当初計画20トンを業界の自主調整で縮小)を岡山県玉島に1964年4月ごろ完成予定。エステル進出でビニロンを防衛し、ビニロンの入れない一般衣料分野へ進むねらい
  • 日本企業要覧 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [24]仙石襄は1961年2月に取締役副社長、同年11月に協和ガス化学工業の取締役社長に就任
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [26]1963年 中共向けにポバール並びにビニロンの大口プラント輸出を締結し、政府の認可を受けた
  • 株式会社年鑑 1964年版「倉敷レイヨン」
    • [27]ビニロン製造技術輸出 1958年2月 米国エアー・リダクション、1959年12月 仏国ロンヌ・プーラン社、1960年4月 米国エアーリダクション社、1961年1月 西独ヘキスト社
    • [34]ポリエステル系繊維製造技術輸入 1961年12月 米国モンサント社
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
    • [28]中共がビニロン・プラントを強く欲しがっていることは周知のとおり
    • [29]大原総一郎はイデオロギーを越えて米欧・中共へ伸びるビニロン技術に平和への使命観を強くしている
  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
    • [31]1969年3月期は中国向けビニロンプラント輸出がなく、前の期(1968年9月期)の11億円を除くと6.5%の増収
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 合成皮革クラリーノ」
    • [36]1962年に研究所第四研究室で合成皮革の研究が始まり、1963年8月に社長の大原が「クラリーノ」と命名した

1965年〜研究を集約した中央研究所と大原總一郎社長の急逝、仙石襄社長が掲げた新社名クラレ

1968年の倉敷レイヨンは、倉敷・岡山・西条など7つの工場に加え、中央研究所を擁していた。前年版まで本社内の研究所として載っていた所在は、1969年版の日本企業要覧で倉敷市酒津青江山へ移った。背景には、ビニロンが伸び悩むなかで研究テーマを広げすぎたという判断があり、有望な4テーマに人員と資金を絞った。当時の研究開発費は全社で20億円足らずで、デュポンが合成皮革に投じた1,000億円とは規模が違った。大原總一郎社長は1966年、研究所の蓄積をもとに従来のビニロンと異なる新繊維を始める考えを示した。同じ場で大原總一郎社長は、『倉レの総合化というのは時系列的に見た総合化であつて、今日の横断面的に見た総合化ではありません。』と自社の多角化を位置づけた。限られた研究費で独自の製品を時間をかけて積む方針が、研究の集約に表れたと思われる。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [38]1968年現在 倉敷・岡山・西条・玉島・尾崎・富山・中条の7工場と中央研究所を擁する
  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
    • [39]中央研究所の所在は倉敷市酒津青江山2045の1(1968年版では研究所 倉敷市酒津1621)
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 合成皮革クラリーノ」
    • [40]ビニロンの伸び悩みで経営が快調でなくなり、研究開発の手を拡げ過ぎたとして将来性の大きい4テーマに人員と資金を集中した
    • [41]デュポンはコルファムに1000億円を投じたが、倉敷レイヨンの研究開発費はすべてで20億円足らず
  • 野田経済 1966年6月1日号
    • [42]大原総一郎は研究所の研究累積によって今までのビニロンでない新繊維の生産を始めたいと述べた
    • [43]大原総一郎は倉敷レイヨンの総合化を時系列的な総合化と位置づけた

1968年8月、副社長の仙石襄氏が社長に就任した。大原總一郎社長の死去を受けての就任で、仙石襄社長は若手が育つまでのつなぎと位置づけたという。仙石襄氏は1904年岡山生まれで、東大法科から大倉商事を経て1932年に入社した。大原孫三郎社長から大原總一郎氏の補佐を頼まれての転身で、戦後のビニロン企業化では資金繰りを担い、金融筋から「借金の名人」と呼ばれたという。社長としては赤字のエステルとクラリーノの立て直しを主眼に置いた。1969年3月期にクラリーノの不良品整理で5億5,000万円の評価損を計上した。エステルとクラリーノの両部門は、同年9月期に黒字へ転じた。1969年6月には、子会社クラレクラベラの社長も兼ねた。

  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
    • [44]仙石襄 1961年2月 取締役副社長、1968年8月 取締役社長、同年9月 クラレ油化取締役社長
    • [49]1969年3月期はクラリーノの不良品整理でたな卸資産評価損5億5,000万円を新規計上
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号
    • [45]大原総一郎の死去により仙石が社長となり、若い人が育つまでのつなぎを引き受けたと語っていた
    • [47]孫三郎から総一郎の訓育を依頼されて倉敷絹織に転じ、戦後のビニロン企業化で台所をまかない金融筋から借金の名人と呼ばれた
    • [48]仙石はポリエステルと人工皮革クラリーノの赤字解消に主眼をおいてきた
    • [50]ポリエステルとクラリーノは1969年9月期で黒字に転換した
  • 日本企業要覧 1970年版「クラレ」
    • [46]仙石襄 1904年岡山生まれ、1929年東大(法)卒、同年4月大倉商事入社、1932年3月入社
    • [51]仙石襄 1969年6月 クラレクラベラ㈱取締役社長

倉敷レイヨンは1970年6月24日、商号をクラレに改めた。売上に占めるレーヨンの比率は15%程度まで下がり、社名が実体と合わなくなっていた。仙石襄社長は合繊と石油化学、クラリーノへの多角化に加え合成ゴムの企業化も決めたとして、『現社名は現状および当社が指向する事業内容からみて実態に即応しなくなってきた。』と説明した。知名度は倉敷レイヨンの3割に対しクラレが7割とされ、社内の公募も全員がクラレだったという。関係会社のクラレ油化やクラレ不動産は、すでにカタカナの社名を使っていた。新社名を機に、20%弱だった非繊維部門を5年後に40%へ増やす計画を掲げた。一方で仙石襄社長は繊維を本業と位置づけ、ポリエステルを日産135トンへ増設して業界3位を固めにかかった。通称を正式な社名に上げ、レーヨンの会社という見られ方を改める狙いがあったのだろう。

  • 日本企業要覧 1970年版「クラレ」
    • [52]1970年6月24日 倉敷レイヨンから現社名クラレに変更
    • [53]売上に占めるレーヨンの比率が15%程度に落ち、社名が実体にそぐわなくなったため社名を変更
    • [57]社名変更を機に多角化を進め、現在20%弱の非繊維部門を5年後に40%まで増やす予定
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号
    • [54]仙石は合繊と原料を含む石油化学、人工皮革クラリーノへの多角化と合成ゴムのポリイソプレンの企業化決定を挙げ、現社名が実態に即応しなくなったと説明した
    • [55]知名度は倉敷レイヨンで3割、クラレで7割。新社名を募ったが全員一致でクラレだった
    • [56]関係会社・子会社のクラレ油化・クラレ不動産などは一足先にカタカナを採用し、販売・宣伝でもクラレを使用していた
    • [58]本業は繊維とし、1970年2月に決めたポリエステル増設で完成後能力日産135トン、業界第3位を固めつつある
参考文献[38]-[58]
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
    • [38]1968年現在 倉敷・岡山・西条・玉島・尾崎・富山・中条の7工場と中央研究所を擁する
  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
    • [39]中央研究所の所在は倉敷市酒津青江山2045の1(1968年版では研究所 倉敷市酒津1621)
    • [44]仙石襄 1961年2月 取締役副社長、1968年8月 取締役社長、同年9月 クラレ油化取締役社長
    • [49]1969年3月期はクラリーノの不良品整理でたな卸資産評価損5億5,000万円を新規計上
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 合成皮革クラリーノ」
    • [40]ビニロンの伸び悩みで経営が快調でなくなり、研究開発の手を拡げ過ぎたとして将来性の大きい4テーマに人員と資金を集中した
    • [41]デュポンはコルファムに1000億円を投じたが、倉敷レイヨンの研究開発費はすべてで20億円足らず
  • 野田経済 1966年6月1日号
    • [42]大原総一郎は研究所の研究累積によって今までのビニロンでない新繊維の生産を始めたいと述べた
    • [43]大原総一郎は倉敷レイヨンの総合化を時系列的な総合化と位置づけた
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号
    • [45]大原総一郎の死去により仙石が社長となり、若い人が育つまでのつなぎを引き受けたと語っていた
    • [47]孫三郎から総一郎の訓育を依頼されて倉敷絹織に転じ、戦後のビニロン企業化で台所をまかない金融筋から借金の名人と呼ばれた
    • [48]仙石はポリエステルと人工皮革クラリーノの赤字解消に主眼をおいてきた
    • [50]ポリエステルとクラリーノは1969年9月期で黒字に転換した
    • [54]仙石は合繊と原料を含む石油化学、人工皮革クラリーノへの多角化と合成ゴムのポリイソプレンの企業化決定を挙げ、現社名が実態に即応しなくなったと説明した
    • [55]知名度は倉敷レイヨンで3割、クラレで7割。新社名を募ったが全員一致でクラレだった
    • [56]関係会社・子会社のクラレ油化・クラレ不動産などは一足先にカタカナを採用し、販売・宣伝でもクラレを使用していた
    • [58]本業は繊維とし、1970年2月に決めたポリエステル増設で完成後能力日産135トン、業界第3位を固めつつある
  • 日本企業要覧 1970年版「クラレ」
    • [46]仙石襄 1904年岡山生まれ、1929年東大(法)卒、同年4月大倉商事入社、1932年3月入社
    • [51]仙石襄 1969年6月 クラレクラベラ㈱取締役社長
    • [52]1970年6月24日 倉敷レイヨンから現社名クラレに変更
    • [53]売上に占めるレーヨンの比率が15%程度に落ち、社名が実体にそぐわなくなったため社名を変更
    • [57]社名変更を機に多角化を進め、現在20%弱の非繊維部門を5年後に40%まで増やす予定

1950年〜1971年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a 富山でビニロン原料用ポバールの生産開始(1950)
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 111 n/a 28 n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 91 ▲18.0% 7 n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 110 +20.9% 18 n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 119 +8.2% 12 n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 136 +14.3% 19 n/a n/a n/a 中央繊維と共同出資で玉島レイヨンを設立(1956)
1957年03月期 単体 188 +38.2% 31 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 202 +7.4% 19 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 186 ▲7.9% 15 n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 238 +28.0% 28 n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 282 +18.5% n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 325 +15.2% n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 357 +9.8% n/a n/a n/a n/a ニューヨーク駐在員事務所を開設(1963)
1964年03月期 単体 426 +19.3% n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 488 +14.6% n/a n/a 13 2.7% 西独ハンブルグに欧州駐在員事務所を開設(1965)
1966年03月期 単体 590 +20.9% n/a n/a 14 2.4% n/a
1967年03月期 単体 652 +10.5% n/a n/a 15 2.3% n/a
1968年03月期 単体 743 +14.0% n/a n/a 18 2.4% n/a
1969年03月期 単体 834 +12.2% n/a n/a 19 2.3% n/a
1970年03月期 単体 900 +7.9% 66 36 20 2.2% n/a
1971年03月期 単体 1,031 +14.6% n/a 34 20 1.9% n/a

出所:上場会社総覧(昭和31年版)半期合算、上場会社総覧(昭和31年版、昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和34年版)半期合算、上場会社総覧(昭和36年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

15件
出典・参考
  • 株式会社年鑑 1957年版「倉敷レイヨン」
  • 株式会社年鑑 1964年版「倉敷レイヨン」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)「倉敷レイヨン」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「倉敷レイヨン」
  • 週刊日本経済 1970年4月16日号
  • 日本経済新報 5(32) 1952年11月
  • 経営者の勘(武山泰雄, 光文社, 1963年)「大原総一郎とビニロンの工業化―倉敷レイヨン」
  • 野田経済 1963年2月11日号
  • 日本企業要覧 1964年版「倉敷レイヨン」
  • 野田経済 1966年6月1日号
  • 日本企業要覧 1968年版「倉敷レイヨン」
  • 日本企業要覧 1969年版「倉敷レイヨン」
  • 日本企業要覧 1970年版「クラレ」
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 ビニロン」
  • 技術開発の昭和史(1986年)「6 合成皮革クラリーノ」

免責事項およびポリシー