大成建設:大倉喜八郎の大倉組商会創立と大倉土木組への継承
1873年〜戊辰の鉄砲商が興した資本金15万円の大倉組商会と、鹿鳴館の施工
1873年10月、大倉喜八郎氏は資本金15万円で大倉組商会を設け、東京・京橋区銀座三丁目に事務所を置いた。出資者には大倉喜八郎氏のほか旧藩主の溝口家と津軽家が加わり、頭取には大倉喜八郎氏自身が就任した。大倉喜八郎氏は戊辰戦争のころ銃砲の商いで財力を蓄えた。廃藩置県の後は銃砲の時代が終わったとみて、外国貿易への転換を構想していた。1872年4月から19カ月の欧米視察では、日本の貿易額の9割5、6分を外国商館が握る実情を踏まえて各国の商工業を見て回った。商会は翌1874年にロンドン支店を開設して輸出入を主業としつつ、政府の用命による工事の請負も兼ねた。新橋停車場の倉庫と乗降場の工事を1872年9月に完成させた経験が、請負を事業に組み入れる下地になったのだろう。
- 大成建設社史(1963)「第一章 一 壮年期に入る」
- [1]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- [2]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- [6]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [3]大倉は維新前後まで銃砲店などで財力を蓄え、新時代の商売として貿易を志した。大倉組商会の事業部門に「造営」を加えていた
- 大成建設社史(1963)「六 新橋駅工事と銀座復興」
- [4]廃藩置県後、大倉は銃砲の時代は過ぎたと考え外国貿易に従事する決心をした。新橋停車場の第一番倉庫の大工・乗降場と上屋の木材を請け負い、1871年3月起工・1872年9月完成
- 大成建設社史(1963)「七 第一回の洋行」
- [5]外国商館が貿易総額の9割5、6分を握る実情をみて、1872年4月に洋行に出発。米英仏伊墺を回り1873年10月に帰国、19カ月の旅程
1874年の台湾出兵で、大倉組商会は陸軍の輜重と糧食、人夫の供給を一手に引き受けた。政府は先に東京の三井組と長崎の永見伝三郎氏に打診し、両者とも外地の仕事を理由に辞退していた。大倉喜八郎氏は職工や人夫など500名の一隊を組んで渡台し、風土病で人夫128人を失いながら12月の凱旋まで任を果たした。1877年の西南戦争でも商会は陸軍の御用達を命じられ、九州の戦地で輜重の用に当たった。翌1878年3月には、大久保利通氏の指示で仙台に置く集治監の建築を用命され、工費16万円で1879年8月に落成させた。他社が避けた戦地の用達を完遂した実績が、官の工事を特命で受ける信用の元手になったとみられる。
- 大成建設社史(1963)「第一章 一 壮年期に入る」
- [7]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- [8]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- [9]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- 大成建設社史(1963)「二 海峡を越えて」
- [10]台湾で人夫500人中128人が風土病で斃れる。12月都督西郷の凱旋とともに大倉も帰国。1877年西南戦争で大倉組商会は陸軍から御用達を命ぜられ輜重の用を弁じた
- [11]台湾で人夫500人中128人が風土病で斃れる。12月都督西郷の凱旋とともに大倉も帰国。1877年西南戦争で大倉組商会は陸軍から御用達を命ぜられ輜重の用を弁じた
- 大成建設社史(1963)「三 商法会議所の創立を中心として」
- [12]西南戦争の降伏兵を収容する仙台の集治監(六角大学)を大久保利通の指示で大倉に用命。1878年3月起工、工費16万円、1879年8月落成
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [13]大倉は欧米視察・台湾征討への従軍・東京商法会議所設立などで経済界に重きをなし、政府要人とのつながりで六角大学と鹿鳴館を施工した
1883年7月、大倉喜八郎氏が堀川利尚氏と共同出資で設けた土木用達組が、東京・内山下町一丁目の鹿鳴館を完成させた。外務卿の井上馨氏が条約改正を有利に運ぶ欧化政策の一環として、外国使臣との社交の場を求めた建物である。設計は英国人ジョサイア・コンドル氏で、1881年1月に着工し、煉瓦造り2階建て・建坪410坪を総工費14万円で仕上げた。これに先立つ1878年8月、大倉喜八郎氏は渋沢栄一氏らと東京商法会議所を設立し、外国貿易の委員に就任していた。同年には渋沢栄一氏と折半で出資し、資本金5万円の銀行を釜山に開いている。財界と政府の双方に築いた人脈が、国の迎賓施設を民間の請負に託させた要因とみてよい。
- 大成建設社史(1963)「三 商法会議所の創立を中心として」
- [14]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [16]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [17]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [19]1878年8月、渋沢・大倉・益田孝らの発起で東京商法会議所が誕生し、大倉は外国貿易の委員に就任。同年、大倉と渋沢が半額ずつ出資し資本金5万円の銀行を釜山に設立
- [20]1878年8月、渋沢・大倉・益田孝らの発起で東京商法会議所が誕生し、大倉は外国貿易の委員に就任。同年、大倉と渋沢が半額ずつ出資し資本金5万円の銀行を釜山に設立
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [15]鹿鳴館は大倉が堀川利尚と共同で設立した土木用達組が施工。1881年1月着工、1883年7月完成、煉瓦造2階建て
- [18]鹿鳴館は大倉が堀川利尚と共同で設立した土木用達組が施工。1881年1月着工、1883年7月完成、煉瓦造2階建て
参考文献[1]-[20]
- 大成建設社史(1963)「第一章 一 壮年期に入る」
- [1]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- [2]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- [6]1873年10月、資本金15万円で大倉組商会が発足。出資は大倉・溝口家・津軽家ら、頭取大倉、事務所は京橋区銀座三丁目。1874年ロンドン支店開設、貿易が主で政府用命の工事請負も営む
- [7]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- [8]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- [9]1874年の台湾征討で政府は輜重・糧食・人夫の供給を三井組・永見伝三郎に交渉したが躊躇して引き受けず、大倉組に内命。大倉は職工・鳶・人夫500名の一隊を整えて渡航
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [3]大倉は維新前後まで銃砲店などで財力を蓄え、新時代の商売として貿易を志した。大倉組商会の事業部門に「造営」を加えていた
- [13]大倉は欧米視察・台湾征討への従軍・東京商法会議所設立などで経済界に重きをなし、政府要人とのつながりで六角大学と鹿鳴館を施工した
- [15]鹿鳴館は大倉が堀川利尚と共同で設立した土木用達組が施工。1881年1月着工、1883年7月完成、煉瓦造2階建て
- [18]鹿鳴館は大倉が堀川利尚と共同で設立した土木用達組が施工。1881年1月着工、1883年7月完成、煉瓦造2階建て
- 大成建設社史(1963)「六 新橋駅工事と銀座復興」
- [4]廃藩置県後、大倉は銃砲の時代は過ぎたと考え外国貿易に従事する決心をした。新橋停車場の第一番倉庫の大工・乗降場と上屋の木材を請け負い、1871年3月起工・1872年9月完成
- 大成建設社史(1963)「七 第一回の洋行」
- [5]外国商館が貿易総額の9割5、6分を握る実情をみて、1872年4月に洋行に出発。米英仏伊墺を回り1873年10月に帰国、19カ月の旅程
- 大成建設社史(1963)「二 海峡を越えて」
- [10]台湾で人夫500人中128人が風土病で斃れる。12月都督西郷の凱旋とともに大倉も帰国。1877年西南戦争で大倉組商会は陸軍から御用達を命ぜられ輜重の用を弁じた
- [11]台湾で人夫500人中128人が風土病で斃れる。12月都督西郷の凱旋とともに大倉も帰国。1877年西南戦争で大倉組商会は陸軍から御用達を命ぜられ輜重の用を弁じた
- 大成建設社史(1963)「三 商法会議所の創立を中心として」
- [12]西南戦争の降伏兵を収容する仙台の集治監(六角大学)を大久保利通の指示で大倉に用命。1878年3月起工、工費16万円、1879年8月落成
- [14]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [16]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [17]外務卿井上馨の欧化政策で鹿鳴館の建設が土木用達組(大倉と堀川利尚の共同出資)に命ぜられた。コンドル設計、1881年1月着工、建坪410坪の煉瓦造2階建て、1883年7月完成、総工費14万円
- [19]1878年8月、渋沢・大倉・益田孝らの発起で東京商法会議所が誕生し、大倉は外国貿易の委員に就任。同年、大倉と渋沢が半額ずつ出資し資本金5万円の銀行を釜山に設立
- [20]1878年8月、渋沢・大倉・益田孝らの発起で東京商法会議所が誕生し、大倉は外国貿易の委員に就任。同年、大倉と渋沢が半額ずつ出資し資本金5万円の銀行を釜山に設立
1885年〜藤田伝三郎氏と興した資本金200万円の日本土木会社と、会計法で迎えた解散
1885年6月、大倉組商会は大阪の藤田組と協同で、長さ130間余の大阪・天神橋の工事に着手した。大倉喜八郎氏と藤田伝三郎氏は大阪紡績の設立を機に親交を深め、元請と下請ではなく工事ごとに資金と人員を一体で出していた。1886年3月には琵琶湖疏水、同年12月には佐世保の軍港工事を、両社の協同で相次いで起工した。佐世保では海軍が両組に見積書を出させたうえ、工事の規模と工期の短さを理由に協同での請負を強く求めた。請負金額は約25万円に達し、この工事が両組の合同を促す直接のきっかけとなった。一件ごとの協同を重ねた実績が、単一の会社にまとめる判断の土台になったと推察される。
- 大成建設社史(1963)「五 日本土木会社創立の胎動」
- [21]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- [22]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- [23]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- 大成建設社史(1963)「四 おもな土木工事」
- [24]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- [25]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- [26]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [27]日本土木設立の直接の契機として、軍港施設の拡充を急ぐ海軍当局からの設立要請と、官庁街建設を計画する政府の要望があった
1887年3月17日、有限責任日本土木会社に対する東京府知事の設立認可。創立委員長は渋沢栄一氏、社長には大倉喜八郎氏が就任し、藤田伝三郎氏と渋沢栄一氏が取締役に名を連ねた。資本金200万円は発起人が全額を引き受け、同年の政府財政支出7,945万円と比べても大きな規模である。直接の契機は、軍港を広げる海軍と、日比谷の官庁街建設を計画した臨時建築局が、有力な請負会社の出現を求めたことにある。大倉喜八郎氏は技術の改良を経営の要と位置づけ、土木18名・建築7名の技術者を破格の待遇で迎えた。1890年4月には、現場の規律を定めた工事心得書も設けた。官の大型工事を設計から一括で受ける態勢を、資本と技術の両面で先に備える狙いだったのだろう。
- 大成建設社史(1963)「第二章 一 その誕生と全容」
- [28]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [29]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [30]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [31]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [33]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [32]日本土木はわが国最初の法人建設企業。海軍当局と政府の設立要望が契機。1890年4月に「工事心得書」を定め、会社の信用と冗費節約を求めた
- [35]日本土木はわが国最初の法人建設企業。海軍当局と政府の設立要望が契機。1890年4月に「工事心得書」を定め、会社の信用と冗費節約を求めた
- 大成建設社史(1963)「二 経営の規律」
- [34]日本土木は社員と下請業者に細目にわたる規律を定めた
日本土木会社は6年足らずの存続期間に、主なものだけで105件の工事を施工した。建築では、大倉組商会が1884年に着工した皇居の奥宮殿を引き継ぎ、1887年に完成させた。1889年11月には東京・木挽町の歌舞伎座、1890年3月には日本初の純洋風ホテルである帝国ホテルの完工。土木では、琵琶湖疏水を1890年2月に完成させ、設計から施工まで外国人技師に依存しない初の大工事とした。東京湾の澪筋浚渫では英国から浚渫船を輸入し、請負金44万5,646円の工事を1888年1月から1890年3月まで手がけた。技術者を自前で抱えた点が、前例の乏しい工事を相次ぎ受注する差別化要因になったと思われる。
- 大成建設社史(1963)「三 おもな建築」
- [36]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
- [38]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
- [39]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [37]日本土木が5年8カ月に施工した主な工事は105件。帝国ホテルは1890年完成、歌舞伎座は1888年2月着工・1889年11月完成
- [40]日本土木が5年8カ月に施工した主な工事は105件。帝国ホテルは1890年完成、歌舞伎座は1888年2月着工・1889年11月完成
- 大成建設社史(1963)「四 おもな土木工事」
- [41]琵琶湖疏水は1886年3月起工、日本土木が継承し1890年2月11日完成、設計から施工まですべて国内の技術。東京湾澪筋浚渫・埋立ては1888年1月着工〜1890年3月、英国に浚渫船を発注、請負金445,646円
- [42]琵琶湖疏水は1886年3月起工、日本土木が継承し1890年2月11日完成、設計から施工まですべて国内の技術。東京湾澪筋浚渫・埋立ては1888年1月着工〜1890年3月、英国に浚渫船を発注、請負金445,646円
参考文献[21]-[42]
- 大成建設社史(1963)「五 日本土木会社創立の胎動」
- [21]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- [22]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- [23]大阪紡績設立を契機に親交を深めた大倉と藤田伝三郎は、元請下請でなく工事ごとに資金と人を一体とする協同態勢を整えた。天神橋(長さ130間余)1885年6月着工、琵琶湖疏水1886年3月起工、佐世保軍港1886年12月開始
- 大成建設社史(1963)「四 おもな土木工事」
- [24]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- [25]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- [26]海軍は佐世保軍港工事で大倉組商会・藤田組に見積書を出させ、大工事で工期を急ぐため両組の協同請負を強く勧めた。1886年12月開始、請負金額約25万円。これが日本土木設立の直接のきっかけ
- [41]琵琶湖疏水は1886年3月起工、日本土木が継承し1890年2月11日完成、設計から施工まですべて国内の技術。東京湾澪筋浚渫・埋立ては1888年1月着工〜1890年3月、英国に浚渫船を発注、請負金445,646円
- [42]琵琶湖疏水は1886年3月起工、日本土木が継承し1890年2月11日完成、設計から施工まですべて国内の技術。東京湾澪筋浚渫・埋立ては1888年1月着工〜1890年3月、英国に浚渫船を発注、請負金445,646円
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [27]日本土木設立の直接の契機として、軍港施設の拡充を急ぐ海軍当局からの設立要請と、官庁街建設を計画する政府の要望があった
- [32]日本土木はわが国最初の法人建設企業。海軍当局と政府の設立要望が契機。1890年4月に「工事心得書」を定め、会社の信用と冗費節約を求めた
- [35]日本土木はわが国最初の法人建設企業。海軍当局と政府の設立要望が契機。1890年4月に「工事心得書」を定め、会社の信用と冗費節約を求めた
- [37]日本土木が5年8カ月に施工した主な工事は105件。帝国ホテルは1890年完成、歌舞伎座は1888年2月着工・1889年11月完成
- [40]日本土木が5年8カ月に施工した主な工事は105件。帝国ホテルは1890年完成、歌舞伎座は1888年2月着工・1889年11月完成
- 大成建設社史(1963)「第二章 一 その誕生と全容」
- [28]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [29]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [30]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [31]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- [33]1887年1月14日申請、3月17日東京府知事認可。創立委員長渋沢、社長大倉、取締役藤田・渋沢。資本金200万円を発起人が全額引受(同年の政府財政支出7,945万円)。海軍の合体勧奨と臨時建築局の官庁街構想が契機。技術改良を重視し土木18名・建築7名の技術者を破格の優遇で集めた
- 大成建設社史(1963)「二 経営の規律」
- [34]日本土木は社員と下請業者に細目にわたる規律を定めた
- 大成建設社史(1963)「三 おもな建築」
- [36]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
- [38]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
- [39]日本土木が6年間に施工した工事は主なものだけで105件。皇居造営の奥宮殿は大倉組商会が1884年に着工、日本土木が継承して1887年完成。帝国ホテルは1890年3月完工、わが国最初の純洋風ホテル。歌舞伎座は1889年11月完成
1892年〜会計法の競争入札と、女婿の大倉粂馬氏に任せた大倉土木組の京釜・京義鉄道
1892年11月、大倉喜八郎氏は株主総会の同意を得て全社員を集め、設立から5年8カ月目の日本土木会社の解散を宣言した。背景には、1889年2月に公布された会計法が、国の工事契約を原則として一般競争によると定めたことがある。日本土木会社は、官庁や陸海軍の工事を特命の見積もりで受ける前提で発足していた。1890年4月の施行後は、組織の維持費が軽い小規模業者との入札競争にさらされた。大倉喜八郎氏は請負件数の減少で株主に損失が及ぶことを避け、残工事と清算を引き継いで個人の責任で事業を続ける方針を示した。大組織の固定費が入札制度の下で競争劣位に転じると、首脳部が早い段階で見切ったのだろう。
- 大成建設社史(1963)「六 抱負空しく解体へ」
- [43]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [45]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [46]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [48]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [44]会計法は1889年2月公布・1890年4月施行、競争入札と入札保証金を定めた。組織・技術力維持の負担の少ない群小業者との競争で不利となり、首脳部は「大資本、大組織より個人組織の方が有利」と結論、1892年11月に解散
- [47]会計法は1889年2月公布・1890年4月施行、競争入札と入札保証金を定めた。組織・技術力維持の負担の少ない群小業者との競争で不利となり、首脳部は「大資本、大組織より個人組織の方が有利」と結論、1892年11月に解散
1893年6月、大倉喜八郎氏は個人経営の大倉土木組を設け、日本土木会社の残工事と清算を引き継いだ。組名は大倉組商会と日本土木会社の名を組み合わせたもので、鹿鳴館を施工した土木用達組もこのとき大倉土木組に吸収されている。同年11月には大倉系事業の中核として合名会社大倉組を設立し、大倉喜八郎氏は頭取として事業全体の統括に就任した。1894年4月、大倉土木組の経営は、帝国大学工科大学を出て日本土木会社に入った女婿の大倉粂馬氏に委ねられた。社員は1894年4月の45名から1897年末に161名へ増え、1898年の請負実績は371万6,000円。日清戦争後に陸軍は7個師団を1900年までに13個師団へ増やし、各地で兵営工事を発注した。増員の多くは、この軍備拡張の工事量に応じたものとみられる。
- 大成建設社史(1963)「第三章 一 組織と規模」
- [49]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [51]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [53]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [54]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [56]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [50]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- [52]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- [57]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- 大成建設社史(1963)「二 店主大倉粂馬」
- [55]大倉粂馬は1866年生まれ、帝国大学工科大学を卒業し日本土木に入社。日本土木解散後は清算事務に当たり、大倉土木組を預けられた。日清戦争時は戦地用建築材料の調達に店員をあげて当たった
- 大成建設社史(1963)「四 台湾と朝鮮への進出」
- [58]日清戦争後の軍備拡張で陸軍は7個師団を1900年までに13個師団とした
1902年7月、大倉喜八郎氏は資本金35万円の釜山埋築株式会社を設けて社長に就任し、釜山港の埋め立てを大倉土木組に請け負わせた。埋め立ては1908年8月までに4万1,300坪に達し、請負金額は67万8,000円に上った。1902年8月からは京釜鉄道の建設にも加わり、工費33万2,000円の第9工区などを手がけている。1904年2月に日露戦争が始まると平常の業務を止め、陸軍の委託で京義線などの軍用鉄道を工区ごとに受注した。白馬山隧道では請負金額13万9,000円の工事を1906年11月に仕上げた。戦後は1906年に奉天、1908年に大連へ出張所を開設し、南満洲鉄道の工事を現地で受注できるようにした。
- 大成建設社史(1963)「四 台湾と朝鮮への進出」
- [59]1902年7月、資本金35万円の釜山埋築株式会社を設立し大倉が社長。工事は大倉土木組が請負い、1908年8月までに41,300坪を埋立て、請負金額678,000円
- [60]1902年7月、資本金35万円の釜山埋築株式会社を設立し大倉が社長。工事は大倉土木組が請負い、1908年8月までに41,300坪を埋立て、請負金額678,000円
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [61]釜山埋築会社の工事を大倉土木組が施工、1902年着工、1908年8月までに約41,300坪。京釜線の多くの工区と錦江橋を施工
- [63]釜山埋築会社の工事を大倉土木組が施工、1902年着工、1908年8月までに約41,300坪。京釜線の多くの工区と錦江橋を施工
- 大成建設社史(1963)「五 軍備拡張工事」
- [62]京釜線は1902年夏から建設開始。大倉土木組は1902年8月から翌年5月まで第9工区線路(工費332,000円)ほか各工区と錦江橋を施工
- 大成建設社史(1963)「第四章 一 日露戦争」
- [64]1904年2月開戦。大倉土木組は平常業務を中止し戦争関係工事に従事。陸軍の臨時軍用鉄道監から京義線など軍用鉄道工区を受託、白馬山隧道は1905年11月〜1906年11月・請負金額139,000円
- [65]1904年2月開戦。大倉土木組は平常業務を中止し戦争関係工事に従事。陸軍の臨時軍用鉄道監から京義線など軍用鉄道工区を受託、白馬山隧道は1905年11月〜1906年11月・請負金額139,000円
- 大成建設社史(1963)「二 戦後の経営」
- [66]1906年11月南満洲鉄道設立で鉄道工事が膨大となり、大倉土木組は1906年に奉天、1908年に大連に出張所を設置
参考文献[43]-[66]
- 大成建設社史(1963)「六 抱負空しく解体へ」
- [43]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [45]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [46]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- [48]1892年11月、大倉は株主総会の賛成を得たうえ全社員を集めて解散を宣言。会計法規で競争入札となり請負件数の減少と株主への迷惑を懸念、今後は個人の責任で事業を継続。設立から5年8カ月。会計法は1889年2月公布、国の工事契約は原則一般競争。日本土木は特命見積式を前提に発足していた
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」
- [44]会計法は1889年2月公布・1890年4月施行、競争入札と入札保証金を定めた。組織・技術力維持の負担の少ない群小業者との競争で不利となり、首脳部は「大資本、大組織より個人組織の方が有利」と結論、1892年11月に解散
- [47]会計法は1889年2月公布・1890年4月施行、競争入札と入札保証金を定めた。組織・技術力維持の負担の少ない群小業者との競争で不利となり、首脳部は「大資本、大組織より個人組織の方が有利」と結論、1892年11月に解散
- [50]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- [52]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- [57]大倉土木組は1893年6月設立、土木用達組を吸収。1894年4月粂馬に委ね、日清戦争では陸軍省から軍夫供給・資材納入・急設工事を命じられた。旭川第七師団設営を1899年6月から1902年に施工
- [61]釜山埋築会社の工事を大倉土木組が施工、1902年着工、1908年8月までに約41,300坪。京釜線の多くの工区と錦江橋を施工
- [63]釜山埋築会社の工事を大倉土木組が施工、1902年着工、1908年8月までに約41,300坪。京釜線の多くの工区と錦江橋を施工
- 大成建設社史(1963)「第三章 一 組織と規模」
- [49]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [51]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [53]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [54]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- [56]1893年6月大倉土木組設立、商号は大倉組商会と日本土木会社の組合せ、残工事と清算を継承し土木用達組を吸収。1893年11月29日合名会社大倉組設立(頭取大倉)。1894年4月事業を女婿大倉粂馬に継承。社員は1894年4月45名、1897年末161名。請負実績は1894年578,000円、1898年3,716,000円
- 大成建設社史(1963)「二 店主大倉粂馬」
- [55]大倉粂馬は1866年生まれ、帝国大学工科大学を卒業し日本土木に入社。日本土木解散後は清算事務に当たり、大倉土木組を預けられた。日清戦争時は戦地用建築材料の調達に店員をあげて当たった
- 大成建設社史(1963)「四 台湾と朝鮮への進出」
- [58]日清戦争後の軍備拡張で陸軍は7個師団を1900年までに13個師団とした
- [59]1902年7月、資本金35万円の釜山埋築株式会社を設立し大倉が社長。工事は大倉土木組が請負い、1908年8月までに41,300坪を埋立て、請負金額678,000円
- [60]1902年7月、資本金35万円の釜山埋築株式会社を設立し大倉が社長。工事は大倉土木組が請負い、1908年8月までに41,300坪を埋立て、請負金額678,000円
- 大成建設社史(1963)「五 軍備拡張工事」
- [62]京釜線は1902年夏から建設開始。大倉土木組は1902年8月から翌年5月まで第9工区線路(工費332,000円)ほか各工区と錦江橋を施工
- 大成建設社史(1963)「第四章 一 日露戦争」
- [64]1904年2月開戦。大倉土木組は平常業務を中止し戦争関係工事に従事。陸軍の臨時軍用鉄道監から京義線など軍用鉄道工区を受託、白馬山隧道は1905年11月〜1906年11月・請負金額139,000円
- [65]1904年2月開戦。大倉土木組は平常業務を中止し戦争関係工事に従事。陸軍の臨時軍用鉄道監から京義線など軍用鉄道工区を受託、白馬山隧道は1905年11月〜1906年11月・請負金額139,000円
- 大成建設社史(1963)「二 戦後の経営」
- [66]1906年11月南満洲鉄道設立で鉄道工事が膨大となり、大倉土木組は1906年に奉天、1908年に大連に出張所を設置
出典・参考
18件
- 大成建設社史(1963)「第一章 一 壮年期に入る」
- 大成建設社史(1963)「六 新橋駅工事と銀座復興」
- 大成建設社史(1963)「七 第一回の洋行」
- 大成建設社史(1963)「二 海峡を越えて」
- 大成建設社史(1963)「三 商法会議所の創立を中心として」
- 大成建設社史(1963)「五 日本土木会社創立の胎動」
- 大成建設社史(1963)「四 おもな土木工事」
- 大成建設社史(1963)「第二章 一 その誕生と全容」
- 大成建設社史(1963)「二 経営の規律」
- 大成建設社史(1963)「三 おもな建築」
- 大成建設社史(1963)「六 抱負空しく解体へ」
- 大成建設社史(1963)「第三章 一 組織と規模」
- 大成建設社史(1963)「二 店主大倉粂馬」
- 大成建設社史(1963)「四 台湾と朝鮮への進出」
- 大成建設社史(1963)「五 軍備拡張工事」
- 大成建設社史(1963)「第四章 一 日露戦争」
- 大成建設社史(1963)「二 戦後の経営」
- 産業フロンティア物語 第28(1967)「建設〈大成建設〉」