関西電力:電気事業再編成による発足と黒部川第四発電所の建設
1951年〜電気事業再編成が生んだ関西の一社
1951年5月1日、電気事業再編成令にもとづき、日本発送電と9つの配電会社が解散し、発送配電を一貫して営む9社が発足した。関西電力はその一社として、日本発送電から8億4000万円、関西配電から8億5000万円の現物出資を受け、資本金16億9000万円をもって設立された。発足時の発電設備は水力113万kWと火力115万kWの合計228万kW、年間販売電力量は5655百万kWh、年度末の契約口数は268万3000口だった。会長には堀新氏、社長には太田垣士郎氏が就任し、本社を大阪市北区梅ケ枝町に置いた。同年7月に大阪証券取引所、8月に東京証券取引所へ株式を上場し、額面500円の株式338万株のうち関西配電分が170万株、日本発送電分が168万株を占めた。
- 証券 1951年10(24)
- [1]1951年5月1日 電気事業再編成令により日本発送電と9配電会社が解散、発送配電一貫の9社が発足
- [2]設立時の現物出資 日本発送電8億4000万円・関西配電8億5000万円
- [6]設立時の会長 堀新・社長 太田垣士郎
- [9]上場株式338万株(額面500円)、関西配電分170万株・日本発送電分168万株
- 関西電力 有価証券報告書【沿革】
- [3]設立時資本金 16億9000万円
- [4]設立当初の発電設備 水力1,130,126kW・火力1,153,580kW・合計2,283,706kW
- [5]設立当初の年間販売電力量5,655百万kWh・年度末契約口数2,683千口
- [7]設立時の本社 大阪市北区梅ヶ枝町
- [8]1951年7月 大阪証券取引所上場、1951年8月 東京証券取引所上場
京阪神急行電鉄の社長だった太田垣士郎氏は、1950年4月の参議院電力特別委員会で公述人を務めている。そこでは、責任の帰属があいまいで独立採算も顧みられていないという理由を挙げ、発送配電を一貫して担う9ブロック会社の設立を支持した。初代社長の候補に推されたのは、この太田垣氏である。会長となる堀新氏は、引き受けの条件として社長の人選を任されていたとされ、関係者は三顧の礼を尽くしてようやく就任を取りつけた。内定から就任までの短期間に太田垣氏がまとめたのは、電力需給・料金・労使関係の三つの安定を掲げる方針で、需給は電源開発を積極的に進めて、料金は適正水準への引き上げと社内の合理化で、労使は企業別組合との交渉で解くという、発足時の三つの難問にそのまま応じる組み立てだった。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [10]1950年4月 第7通常国会参議院電力特別委員会で太田垣が公述人となり、国家管理は責任の帰属が不明確で独立採算も無視していると述べ9ブロックの発送配電一貫会社設立を支持
- [11]関西電力初代社長に推されたのは当時京阪神急行電鉄社長の太田垣士郎
- [12]堀新は会長就任を引き受ける際に社長人事の一任を取りつけたという
- [13]堀ら関係者が三顧の礼をつくして太田垣の関西電力社長就任を実現
- [14]太田垣は社長内定から正式就任までに電力需給の安定・料金の安定・労使関係の安定の三大方針をまとめ提唱
- [15]三大方針は抽象的な一般論ではなく発足当時の三つの大問題に取り組む処方箋であった
発足した1951年の夏から冬にかけて、関西地域は異常渇水に見舞われた。1951年度末の水力発電所133カ所のうち97カ所、72%は流水量を調整できない流込式で、渇水はそのまま発電能力の低下を意味した。水力を補うべき火力も、石炭不足で役割を果たせない。発足当時の貯炭量は約8万トンと、平水時の1カ月の消費量にあたるだけだった。朝鮮動乱ブームのさなかで産炭地には現金を持参した買い手が殺到し、本来は電力へ向かうはずの石炭が特需へさらわれた。9月には公益事業委員会が告示制限に踏み切り、大口工場へ週2日の休電日と使用電力量の50%抑制を課し、一般には週3回の昼間停電を行なった。太田垣氏ら経営陣は九州へ出向き、数日にわたって徹夜の買付交渉を繰り返した。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [16]1951年(昭和26年)夏から冬にかけての異常渇水で関西地域は深刻な電力不足に陥った
- [17]1951年度末の水力発電所133カ所のうち流込式97カ所・調整池式34カ所・貯水池式2カ所で流込式が72%
- [18]水力の不振を補うべき火力発電所は深刻な石炭不足で役割を果たせなかった
- [19]発足当時の貯炭量は約8万トンで平水時の1カ月の消費量に相当するのみ
- [20]朝鮮動乱ブームで産炭地に現金を持参した買い手が殺到し、電力向けの石炭が特需向けにさらわれた
- [21]1951年9月 公益事業委員会の告示制限で大口工場に週2日の休電日・最大電力30%抑制・使用電力量50%抑制、一般に週3回の昼間停電
- [22]太田垣社長ら経営陣も九州へ出向き数日間にわたって徹夜で石炭の買付交渉を続けた
参考文献[1]-[22]
- 証券 1951年10(24)
- [1]1951年5月1日 電気事業再編成令により日本発送電と9配電会社が解散、発送配電一貫の9社が発足
- [2]設立時の現物出資 日本発送電8億4000万円・関西配電8億5000万円
- [6]設立時の会長 堀新・社長 太田垣士郎
- [9]上場株式338万株(額面500円)、関西配電分170万株・日本発送電分168万株
- 関西電力 有価証券報告書【沿革】
- [3]設立時資本金 16億9000万円
- [4]設立当初の発電設備 水力1,130,126kW・火力1,153,580kW・合計2,283,706kW
- [5]設立当初の年間販売電力量5,655百万kWh・年度末契約口数2,683千口
- [7]設立時の本社 大阪市北区梅ヶ枝町
- [8]1951年7月 大阪証券取引所上場、1951年8月 東京証券取引所上場
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [10]1950年4月 第7通常国会参議院電力特別委員会で太田垣が公述人となり、国家管理は責任の帰属が不明確で独立採算も無視していると述べ9ブロックの発送配電一貫会社設立を支持
- [11]関西電力初代社長に推されたのは当時京阪神急行電鉄社長の太田垣士郎
- [12]堀新は会長就任を引き受ける際に社長人事の一任を取りつけたという
- [13]堀ら関係者が三顧の礼をつくして太田垣の関西電力社長就任を実現
- [14]太田垣は社長内定から正式就任までに電力需給の安定・料金の安定・労使関係の安定の三大方針をまとめ提唱
- [15]三大方針は抽象的な一般論ではなく発足当時の三つの大問題に取り組む処方箋であった
- [16]1951年(昭和26年)夏から冬にかけての異常渇水で関西地域は深刻な電力不足に陥った
- [17]1951年度末の水力発電所133カ所のうち流込式97カ所・調整池式34カ所・貯水池式2カ所で流込式が72%
- [18]水力の不振を補うべき火力発電所は深刻な石炭不足で役割を果たせなかった
- [19]発足当時の貯炭量は約8万トンで平水時の1カ月の消費量に相当するのみ
- [20]朝鮮動乱ブームで産炭地に現金を持参した買い手が殺到し、電力向けの石炭が特需向けにさらわれた
- [21]1951年9月 公益事業委員会の告示制限で大口工場に週2日の休電日・最大電力30%抑制・使用電力量50%抑制、一般に週3回の昼間停電
- [22]太田垣社長ら経営陣も九州へ出向き数日間にわたって徹夜で石炭の買付交渉を続けた
1951年〜三次の料金改定と企業別組合への移行
発足直後の関西電力が抱えた課題は需要の伸びに供給が追いつかないことで、管内の電力需要は年10%程度の増加が続いていた。1951年度から1953年度までの3年間で水力65万kW・火力32万kWの合計97万kWを開発する計画を立てても、平水年で年30億kWh以上の不足が残る見通しだった。同年、関西電力は公益事業委員会へ料金の改定を申請し、定額電灯40%、従量電灯26%、大口電灯31%の引き上げが認められた。申請の理由には物件費と人件費の上昇、需要増にともなう修繕費の増加、減価償却費の増加が挙げられている。改定は1951年8月、1952年5月、1954年10月の3次にわたり、以後は合理化で原価の上昇を吸収して1968年まで料金を改定しなかった。
- 証券 1951年10(24)
- [23]関西電力の電力需要量は年約10%増加の趨勢
- [24]1951〜53年度の電源開発計画 水力65万kW・火力32万kW・計97万kW
- [25]計画達成後も平水年で毎年30億kWh時以上の電力量が不足
- [26]1951年の料金改定率 定額電灯40%・従量電灯26%・大口電灯31%
- [27]値上げ理由=物件費・人件費の値上り、需要増に伴う修繕費の増嵩、減価償却金の増加
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [28]発足後の電気料金改定は1951年8月・1952年5月・1954年10月の3次
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「関西電力」の項
- [29]昭和29年(1954年)10月以来料金を改訂せず、1968年時点で全国最安の料金水準
発足時の電気事業が向き合っていたのは、9社を横断する産業別組合の電産だった。関西では1953年5月2日、有志3500名の手で企業別の関西電力労働組合が生まれた。1952年秋の大争議を受けて、電気事業及び石炭鉱業の争議行為の方法の規制に関する法律ができたのは1953年8月である。この間の1953年7月に会社は関労と初の労働協約を交わし、8月には加入者が従業員の過半を占めた。1956年5月の電産関西地方本部の解散で、従業員の組合は関労ひとつに絞られる。1958年4月に結んだ新協約は、双方の理解と信頼を土台に企業の運営を滑らかに進めることをうたった。賃金の面では、物価の変動に連動する電産型の体系が1956年になくなり、1955年からは毎年4月に定期昇給を行う制度が定着した。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [30]電産は日本発送電と九配電会社による電気事業経営者会議との間で電産型賃金体系を締結していた産業別組合
- [31]1953年5月2日 有志3500名が関西電力労働組合(関労)を結成
- [32]1953年8月 電気事業及び石炭鉱業の争議行為の方法の規制に関する法律(スト規制法)が制定
- [33]1953年7月 関西電力と関労の間で初めて労働協約を締結
- [34]関労は1953年8月に従業員の過半数の加入を得た
- [35]1956年5月 電産関西地方本部の解散により関労が従業員の組織する唯一の組合となった
- [37]1956年に電産型賃金体系が消滅、1955年以降は毎年4月の定期昇給が制度化
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [36]1958年4月 相互の理解と信頼の上に立ち企業運営の円滑化・生産性の向上を図ると定めた新労働協約を締結
合理化の成果は送配電の損失に表れた。総合ロス率は発足した1951年度末に32.1%と、全国平均の26.4%を大幅に上回っていたが、1955年度末に22.7%、1957年度には17.9%まで下がった。合理化の方向は、1955年春に示された経営合理化10原則で具体的に定まった。それに先立つ1951年12月の組織簡素化では、役職を外れた部課長約30名が3人ずつ10班に分けられた。この移動特命チームが管内8支店4支社を巡り、経理の状態、資材の扱い、サービスの状態を点検している。堀会長が1957年の年頭挨拶で説いたのは、サービスの心を見失った合理化など、血の通わない死物と変わらないということだった『経営合理化を進める上には、その裏付けとして、需要家に対するサービスの点に特に留意すべきであります。サービスの精神を没却した合理化は血の通わない死物同然のものというべきであって、それではまことの社業の発展はあり得ないのであります』。1959年度になると供給に余力が見込めるようになり、電気の質を高めることとサービス活動を積極的に進めることが重点となった。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [38]総合ロス率は1951年度末32.1%(全国平均26.4%)から1955年度末22.7%、1957年度17.9%へ低下
- [39]1955年春 経営合理化10原則によって合理化の具体的方向を提示
- [41]1959年度から本格的なサービス向上対策に着手し、電気の質の改善・サービス活動の積極化・サービス精神の高揚の3点を重点とした
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [40]1951年12月の組織機構簡素化で役職を離れた部課長約30名を3人ずつ10班の移動特命チームとし管内8支店4支社を巡回点検させた
参考文献[23]-[41]
- 証券 1951年10(24)
- [23]関西電力の電力需要量は年約10%増加の趨勢
- [24]1951〜53年度の電源開発計画 水力65万kW・火力32万kW・計97万kW
- [25]計画達成後も平水年で毎年30億kWh時以上の電力量が不足
- [26]1951年の料金改定率 定額電灯40%・従量電灯26%・大口電灯31%
- [27]値上げ理由=物件費・人件費の値上り、需要増に伴う修繕費の増嵩、減価償却金の増加
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- [28]発足後の電気料金改定は1951年8月・1952年5月・1954年10月の3次
- [30]電産は日本発送電と九配電会社による電気事業経営者会議との間で電産型賃金体系を締結していた産業別組合
- [31]1953年5月2日 有志3500名が関西電力労働組合(関労)を結成
- [32]1953年8月 電気事業及び石炭鉱業の争議行為の方法の規制に関する法律(スト規制法)が制定
- [33]1953年7月 関西電力と関労の間で初めて労働協約を締結
- [34]関労は1953年8月に従業員の過半数の加入を得た
- [35]1956年5月 電産関西地方本部の解散により関労が従業員の組織する唯一の組合となった
- [37]1956年に電産型賃金体系が消滅、1955年以降は毎年4月の定期昇給が制度化
- [40]1951年12月の組織機構簡素化で役職を離れた部課長約30名を3人ずつ10班の移動特命チームとし管内8支店4支社を巡回点検させた
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「関西電力」の項
- [29]昭和29年(1954年)10月以来料金を改訂せず、1968年時点で全国最安の料金水準
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [36]1958年4月 相互の理解と信頼の上に立ち企業運営の円滑化・生産性の向上を図ると定めた新労働協約を締結
- [38]総合ロス率は1951年度末32.1%(全国平均26.4%)から1955年度末22.7%、1957年度17.9%へ低下
- [39]1955年春 経営合理化10原則によって合理化の具体的方向を提示
- [41]1959年度から本格的なサービス向上対策に着手し、電気の質の改善・サービス活動の積極化・サービス精神の高揚の3点を重点とした
1956年〜破砕帯に阻まれた黒部川第四発電所の工事
1950年代のなかばには全国で水力開発が最盛期を迎え、佐久間、田子倉、御母衣、奥只見といった大規模地点が相次いで工事に入っていた。黒部川の電源開発は北陸電力・電源開発・関西電力の三社が計画しており、1956年5月に電源開発調整審議会が事業主体を関西電力と決め、同年6月に出力25万8000kWの黒部川第四発電所の計画が発表された。7月には長野県大町に建設事務所を開設し、工区ごとに特命で工事契約を締結した。大町から赤沢岳を貫きダムサイトへ至る第三工区は熊谷組、高さ182m・堤頂長526mのアーチダム本体は間組、地下150mの発電所は大成建設が請け負い、鹿島建設・佐藤工業・清水建設なども工区を分担した。
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-巨大工事にいどむ」
- [42]1950年代半ばは佐久間・田子倉・御母衣・奥只見が工事中で水力電源開発がピーク
- [43]黒部の電源開発を北陸電力・電源開発・関西電力の三社が企画
- [44]1956年5月 電源開発調整審議会が黒部第四の事業主体を関西電力に決定、6月に関電が発表
- [45]黒部第四発電所の出力25.8万kW
- [46]1956年7月 長野県大町に建設事務所を開設し特命で工事契約
- [47]第三工区大町ルート=熊谷組、アーチダム本体(高さ182m・堤頂長526m)=間組、地下150mの発電所=大成建設、他に鹿島建設・佐藤工業・清水建設
- [48]アーチダム本体 高さ182メートル・堤頂長526メートル
工事は大町ルートで80mにおよぶ破砕帯に突き当たり、ダム地点では第7号台風、黒部ルートと地下発電所では高熱と高湿に見舞われた。工費は当初見込んだ370億円から、500億円あまりへとかさんだ。難所の突破には、28トンダンプ、ドリルジャンボー、ロッカーショベル、長大ベルトコンベヤーなどの大型機械を組み合わせて当たっている。ルートを捨てるべきだという声もあったが、経営陣は工事の続行を選んだ。技術者はこれを機に奮い立ち、全社員がこの工事を注視するようになった。太田垣氏は、九分九厘安全と分かっている仕事なら誰でもこなせるとし、現にある危険をどう乗り越えるかに経営者の力量が問われると書いた。1963年6月に竣工式が開かれた。佐久間や黒部第四のような大工事を通じ、日本の土木事業では機械の導入が本格的に進んだ。
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-巨大工事にいどむ」
- [49]大町ルートの80mに及ぶ破砕帯、ダム地点の第7号台風、黒部ルートと地下発電所の高熱・高湿
- [50]黒部第四の工費 当初370億円の予定を超過し500億円余
- [51]28トンダンプ・ドリルジャンボー・ロッカーショベル・長大ベルトコンベヤーなど大規模機械設備の編成
- [54]1963年6月 黒部第四の竣工式
- [55]佐久間・黒部に代表される大土木工事を通じ土木事業への機械導入が本格化
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [52]大町トンネルの破砕帯でルート放棄の意見が出たが経営陣は工事続行を決定し、これを契機に技術者が奮起して全社員の目が注がれた
- [53]太田垣は『中央公論』1961年8月号「合理主義に生きる」で、九分九厘まで安全とわかっている仕事なら誰にでもでき、存在する危険をいかに克服するかに経営者の手腕がかかると述べた
関西電力は黒部川第四発電所と同じ1956年に、大容量高性能の新鋭火力である大阪発電所の建設にも着工している。水力は地理的にも経済的にも開発可能な地点が残り少なく、急増する需要をまかなうには供給の基礎を火力に置き、調整能力を持つ水力をピーク負荷へ充当する火主水従へ転じるほかなかった。1961年には九電力合計で火力975万kWが水力944万kWを上回り、大正以来の水主火従は主役の座を譲った。燃料も石炭から石油へ移り、石炭と石油の比率は1955年度の92対8から1965年度には45対54へ逆転する。1959年11月、太田垣氏は会長へ退き、芦原義重副社長が社長に就任した。在任8年余の間に資本金は6回の増資で315億円となり、発電設備364万kW、販売電力量は創立時の2.4倍の138億kWhに達していた。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [56]1956年(昭和31年)に調整能力を持つ黒部川第四発電所と大容量高性能の新鋭大阪火力発電所の建設に着工
- [57]水力は開発可能地点が残り少なく、供給の基礎を火力に置きピーク負荷を水力が担う火主水従方式へ転換せざるをえなかった
- [58]1961年(昭和36年)に九電力合計で水力944万kW・火力975万kWとなり火力発電設備が水力を超えた
- [59]火力発電用燃料の石炭と石油の比率は1955年度92対8から1965年度45対54へ逆転
- [60]1959年11月 太田垣士郎社長が会長に退き芦原義重副社長が社長に就任
- [61]太田垣社長在任中の9年間に6回の増資で資本金315億円、発電設備364万kW、販売電力量は創立時の2.4倍の138億kWh
参考文献[42]-[61]
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-巨大工事にいどむ」
- [42]1950年代半ばは佐久間・田子倉・御母衣・奥只見が工事中で水力電源開発がピーク
- [43]黒部の電源開発を北陸電力・電源開発・関西電力の三社が企画
- [44]1956年5月 電源開発調整審議会が黒部第四の事業主体を関西電力に決定、6月に関電が発表
- [45]黒部第四発電所の出力25.8万kW
- [46]1956年7月 長野県大町に建設事務所を開設し特命で工事契約
- [47]第三工区大町ルート=熊谷組、アーチダム本体(高さ182m・堤頂長526m)=間組、地下150mの発電所=大成建設、他に鹿島建設・佐藤工業・清水建設
- [48]アーチダム本体 高さ182メートル・堤頂長526メートル
- [49]大町ルートの80mに及ぶ破砕帯、ダム地点の第7号台風、黒部ルートと地下発電所の高熱・高湿
- [50]黒部第四の工費 当初370億円の予定を超過し500億円余
- [51]28トンダンプ・ドリルジャンボー・ロッカーショベル・長大ベルトコンベヤーなど大規模機械設備の編成
- [54]1963年6月 黒部第四の竣工式
- [55]佐久間・黒部に代表される大土木工事を通じ土木事業への機械導入が本格化
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- [52]大町トンネルの破砕帯でルート放棄の意見が出たが経営陣は工事続行を決定し、これを契機に技術者が奮起して全社員の目が注がれた
- [53]太田垣は『中央公論』1961年8月号「合理主義に生きる」で、九分九厘まで安全とわかっている仕事なら誰にでもでき、存在する危険をいかに克服するかに経営者の手腕がかかると述べた
- [56]1956年(昭和31年)に調整能力を持つ黒部川第四発電所と大容量高性能の新鋭大阪火力発電所の建設に着工
- [57]水力は開発可能地点が残り少なく、供給の基礎を火力に置きピーク負荷を水力が担う火主水従方式へ転換せざるをえなかった
- [58]1961年(昭和36年)に九電力合計で水力944万kW・火力975万kWとなり火力発電設備が水力を超えた
- [59]火力発電用燃料の石炭と石油の比率は1955年度92対8から1965年度45対54へ逆転
- [60]1959年11月 太田垣士郎社長が会長に退き芦原義重副社長が社長に就任
- [61]太田垣社長在任中の9年間に6回の増資で資本金315億円、発電設備364万kW、販売電力量は創立時の2.4倍の138億kWh
筆者考察
創業期の関西電力が解かねばならなかったのは、電気をどう作るかではなく、作るための資金をどこから取るかという問いだった。1951年に引き継いだのは228万kWの設備だが、水力発電所133カ所のうち97カ所は流水量を調整できない流込式で、渇水が来れば出力はそのまま低下する。補うべき火力には九州の中小炭鉱からの石炭が届かず、貯炭は1カ月の消費量しかなかった。太田垣士郎氏が掲げた需給・料金・労使の三つの安定は、並列の目標ではない。料金を適正な水準へ改めて資金を作り、争議を止めて操業を保ち、その資金で電源を開発するという、一本の順序である。
黒部川第四発電所は、その順序が届いた先にあった。370億円の見積もりが500億円余へ膨らむ工事を発足5年の会社が引き受けられたのは、3次の改定で原価を賄える料金を得ていたからである。ところが黒四が竣工した1963年、水力はすでに主役ではなかった。1961年に全国の火力設備が水力を超え、黒四は最大級の水力であると同時に、火力が担うベース負荷の脇でピークを調整する装置として位置づけ直される。社運を託した工事は、水主火従という時代の最後の記念碑になった。
- 単体・半期合算。1957年3月期576億6600万円から1963年3月期1284億5400万円へ2.2倍。
- 出所は上場会社総覧(1959年版)および会社年鑑(1963年版・1967年版)。
1951年〜1963年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 409 | n/a | 33 | 14 | 3.6% | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 463 | +13.1% | 81 | 10 | 2.3% | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 465 | +0.4% | 52 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 576 | n/a | 60 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 655 | +13.6% | 85 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 682 | +4.2% | n/a | 28 | 4.1% | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 800 | +17.3% | n/a | 29 | 3.7% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 1,000 | +24.9% | n/a | 38 | 3.8% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 1,154 | +15.4% | n/a | 52 | 4.5% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 1,284 | +11.2% | n/a | 90 | 7.0% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算
出典・参考
6件
- 関西電力 有価証券報告書【沿革】
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)1章 関西電力の発足と初期の苦難
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)2章 関西電力の基礎の確立
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社, 1968)「関西電力」の項
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-巨大工事にいどむ」
- 証券 1951年10(24)