関西電力:美浜発電所1号機の運転開始と原子力への傾斜
1965年〜据え置きを支えた生産性と美浜への着手
1965年の日本経済は不況のうちに明けた。5月には山一証券の経営が行き詰まり、日本銀行法25条の発動による無担保・無制限融資で最悪の事態だけが回避された。産業界の不振は関西電力の販売電力量に直に響く。1965年度の産業向け販売電力量の伸びはわずか2.9%にとどまり、翌年以降の増加率と対照をなした。管内の電力多消費業種を前年度比の指数でみると、鉄鋼94.7、電気機械96.8と前年を割り込んでいる。芦原義重社長は同年7月の定例幹部会議で、不況対策を短期ではなく長期の視野から立てる方針を示し、種別と地域の特性に応じた販売促進を指示した。促進はサービスの向上と表裏一体で進めるものとされ、電気を多く売って収益を上げればよいという立て方は退けられた。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)3章 技術革新と成長の時代
- [1]昭和40年(1965年)は不況のうちに明け、日銀は1月9日・4月2日と公定歩合を引き下げたが景気は回復しなかった
- [2]1965年5月 山一証券の経営破綻に対し日銀法25条発動(無担保・無制限融資)で最悪事態を回避
- [3]1965年度の関西電力の産業(大口)向け販売電力量の伸び率は2.9%と低く、1966年以降と対照的
- [4]1965年度の産業別電力消費量の対前年度比指数は鉄鋼94.7・化学108.3・繊維105.4・紙パルプ101.5・窯業土石108.6・電気機械96.8
- [5]1965年7月の定例幹部会議で芦原社長は不況対策を長期的視野から立てること、電燈・業務用・産業用など種別と地域特性に応じた販売促進を訴えた
- [6]販売促進はサービスの向上と表裏一体として実施すべきで、電気を多く売って収益増加を図ればよいということではないとした
原子力の調査と研究は発足直後から始まっていた。福井県美浜町丹生地区が建設予定地と定まったのは1962年11月で、その前年の1961年には、原子力委員会の第1次原子力開発利用長期計画に1号炉がすでに組み込まれていた。1966年1月には社長を委員長とする原子力発電所建設推進会議を置き、同月の定例幹部会議で芦原社長は、黒四の破砕帯での苦労をはるかに超える困難に必ずぶつかると覚悟するよう社員に求めた。美浜発電所建設事務所の開設は同年12月で、万国博に原子の灯をを合言葉に工事が始まる。1970年8月8日には出力1万kWの電気が27万5000Vの若狭幹線で万国博会場に届けられ、営業運転は同年11月28日に始まった。総工事費は315億円だった。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)3章 技術革新と成長の時代
- [7]関西電力は発足直後から原子力の調査・研究を開始し技術者の養成訓練と社内体制の整備を進めた
- [8]1961年 原子力委員会の第1次原子力開発利用長期計画に当社1号炉が組み込まれ、1962年11月に建設予定地を福井県美浜町丹生地区に決定
- [9]1966年1月 原子力発電所建設推進会議を設置し社長が委員長として自ら指揮
- [10]1966年1月の定例幹部会議で芦原社長は、黒四の破砕帯で経験した苦難をはるかに上回る苦難に必ず遭遇すると覚悟して取り組む必要があると述べた
- [11]1966年12月 美浜発電所建設事務所を開設し「万国博に原子の灯を」を合言葉に本格着工
- [12]1970年8月8日 美浜発電所で出力1万kWの発電を行い27万5000Vの若狭幹線で万国博会場へ送電、同年11月28日に営業運転開始
- [13]美浜発電所の総工事費315億円
料金を据え置いたまま、業績は伸びた。期間総利益は1966年度193億円、1968年度258億円、1969年度276億円、1970年度258億円と推移している。原価の上昇要因を抱えながら決算が保てた理由は、設備の合理化と省力化にあった。従業員1人当たりの電気事業固定資産額は1961年度の1214万円から1965年度1848万円、1970年度2839万円へ増え、1人当たり販売電力量は1961年度の84万1000kWhから1965年度125万kWh、1970年度240万6000kWhへ伸びた。1970年時点の料金単価は、電燈と電力の合計で東京電力が6円69銭、関西電力が5円89銭と、1kWh当たり60銭の開きがあった。1970年11月27日、芦原社長が会長へ、吉村清三副社長が社長に就任した。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)3章 技術革新と成長の時代
- [14]期間総利益は1966年度193億円・1968年度258億円・1969年度276億円・1970年度258億円
- [15]料金据置きのまま順当な決算ができた理由は設備合理化・省力化・ムダの排除による徹底したコストダウン
- [16]労働装備率(従業員1人当り電気事業固定資産額)は1961年度1214万円・1965年度1848万円・1970年度2839万円
- [17]1人当り販売電力量は1961年度84万1000kWh・1965年度125万kWh・1970年度240万6000kWh
- [18]1970年の料金単価は電燈・電力合計で東京電力6円69銭、関西電力5円89銭
- [19]1970年11月27日 芦原義重社長が会長に、吉村清三副社長が社長に就任
参考文献[1]-[19]
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)3章 技術革新と成長の時代
- [1]昭和40年(1965年)は不況のうちに明け、日銀は1月9日・4月2日と公定歩合を引き下げたが景気は回復しなかった
- [2]1965年5月 山一証券の経営破綻に対し日銀法25条発動(無担保・無制限融資)で最悪事態を回避
- [3]1965年度の関西電力の産業(大口)向け販売電力量の伸び率は2.9%と低く、1966年以降と対照的
- [4]1965年度の産業別電力消費量の対前年度比指数は鉄鋼94.7・化学108.3・繊維105.4・紙パルプ101.5・窯業土石108.6・電気機械96.8
- [5]1965年7月の定例幹部会議で芦原社長は不況対策を長期的視野から立てること、電燈・業務用・産業用など種別と地域特性に応じた販売促進を訴えた
- [6]販売促進はサービスの向上と表裏一体として実施すべきで、電気を多く売って収益増加を図ればよいということではないとした
- [7]関西電力は発足直後から原子力の調査・研究を開始し技術者の養成訓練と社内体制の整備を進めた
- [8]1961年 原子力委員会の第1次原子力開発利用長期計画に当社1号炉が組み込まれ、1962年11月に建設予定地を福井県美浜町丹生地区に決定
- [9]1966年1月 原子力発電所建設推進会議を設置し社長が委員長として自ら指揮
- [10]1966年1月の定例幹部会議で芦原社長は、黒四の破砕帯で経験した苦難をはるかに上回る苦難に必ず遭遇すると覚悟して取り組む必要があると述べた
- [11]1966年12月 美浜発電所建設事務所を開設し「万国博に原子の灯を」を合言葉に本格着工
- [12]1970年8月8日 美浜発電所で出力1万kWの発電を行い27万5000Vの若狭幹線で万国博会場へ送電、同年11月28日に営業運転開始
- [13]美浜発電所の総工事費315億円
- [14]期間総利益は1966年度193億円・1968年度258億円・1969年度276億円・1970年度258億円
- [15]料金据置きのまま順当な決算ができた理由は設備合理化・省力化・ムダの排除による徹底したコストダウン
- [16]労働装備率(従業員1人当り電気事業固定資産額)は1961年度1214万円・1965年度1848万円・1970年度2839万円
- [17]1人当り販売電力量は1961年度84万1000kWh・1965年度125万kWh・1970年度240万6000kWh
- [18]1970年の料金単価は電燈・電力合計で東京電力6円69銭、関西電力5円89銭
- [19]1970年11月27日 芦原義重社長が会長に、吉村清三副社長が社長に就任
1972年〜電力危機の震源地と呼ばれた夏
運転開始を控えた海南発電所3号機は、総合試運転の最中だった。1972年6月5日、この機でタービンと発電機が壊れて火が出て、3号機と4号機の計120万kWが停止した。6月15日には美浜発電所1号機も、蒸気発生器の細管から一次冷却水が漏れて止まり、調べて直すまでに相当の日数がかかると判明する。この夏、供給の見込みは大きく外れた。翌1973年の夏も、7月初旬から平年を3度近く上回る炎暑となり、7月10日から13日にかけて初の4日連続となるピークカットを実施している。光化学スモッグの予報や注意報が出るたび自治体は発電所の出力を落とすよう指示し、関西電力は契約電力500kW以上の2660軒へ節電を要請した。前年の夏に1回だったピークカットは、この夏13回に及んだ。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [20]1972年6月5日 総合試運転中の海南発電所3号機(60万kW)がタービン・発電機の損壊と火災を伴う事故を起こし3・4号機計120万kWが停止
- [21]1972年6月15日 美浜発電所1号機(34万kW)が一次冷却水の蒸気発生器細管からの漏洩事故で停止し調査と修理に日時を要した
- [22]1973年は7月初旬から平年より3度近く高い炎暑となり7月10日から13日まで初の4日連続ピークカットを実施
- [23]光化学予報ないし注意報が出されると各自治体は発電所に出力を落とすよう指示した
- [24]1973年 ピークカット対象356軒とは別に契約電力500kW以上の2660軒へ節電を要請
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [25]1973年夏のピークカットは13回に及び、前年の夏は1回だった
立地の条件は反転した。管内の人口と工場は大阪湾と瀬戸内海の沿岸に集中していた。そのため臨海部の火力発電所は需要地に近く、送電設備の負担も送電損失も小さく済んだが、公害問題が深まると、人の多い地域で新設や増設を進めることはきわめて難しくなった。人口の少ない地域に移ろうとしても、残された海岸線は大半が国立公園または国定公園の指定を受けていた。企業が公害防止にどう向き合うかが厳しく問われるきっかけは、1972年の四日市公害訴訟での被害者側の全面勝訴だった。大阪地裁には1973年12月、多奈川第二発電所の建設差し止めと損害賠償を求める訴えが起こされ、1974年3月には105名の第2次原告団も加わった。大阪府が出力規模を半減すれば府の環境管理計画に適合すると判断したため、関西電力は4基の方針を2基へ改め、1974年5月6日に黒田知事と公害防止協定を結んだ。
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [26]管内の人口・工場は大阪湾や瀬戸内海沿岸に集積し臨海火力と需要地が近接して送電設備負担と送電ロスが小さかったが、公害問題で人口集積地帯の火力新増設が困難になった
- [27]過疎地へ遠隔立地しようにも残る海岸線のほとんどは国立公園か国定公園だった
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [28]1972年の四日市公害訴訟で原告側(被害者)全面勝訴判決が出され、企業の事業実施と公害防止に対する態度が厳しく問い直された
- [29]1973年12月 多奈川第二発電所の建設差し止めおよび損害賠償請求が大阪地裁に提訴され、1974年3月に第2次原告団105名が同様の訴えを起こした
- [30]1973年12月 大阪府は出力規模を半減すれば窒素酸化物と硫黄酸化物の双方が府環境管理計画に適合するとの正式見解を発表
- [31]1974年5月6日 黒田知事と吉村社長が多奈川第二発電所の建設に伴う公害防止協定書に調印、建設は60万kW2基となった
内部留保の充実を設備への資産積み増しより優先したため、設備投資は必要最小限に抑えられ、需要業界からは合理化のための合理化と批判された。供給力の薄さは、こうした経営姿勢そのものに根があった。1966年度末の自己資本比率は38.5%と東京電力の26.9%を10ポイント以上上回り、設備投資額は1968年度の1057億円から1972年度の2954億円へ増えた。一方、1962年に無公害を掲げてミナス原油と長期契約のLNGへ踏み切った東京電力から共同購入を持ちかけられた際、関西電力は原子力へ一気に移る自信を背景にこれを断っていた。芦原会長は、1961年に東京電力と同じ値上げをしていればどれだけの内部留保ができていたかを悔やんだ『うちが36年に東京電力と同じに13.7%の値上げをやっていれば、年間500億円の増収で、ざっと6000億円の内部留保ができていたのに』。
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [32]財務体質強化を優先し設備ではなく内部留保で蓄積するやり方は設備を必要最小限に抑えることを意味し、合理化のための合理化で供給責任に遅れをとったと需要業界から批判された
- [33]1966年度末の自己資本比率は東京電力26.9%に対し関西電力38.5%
- [34]関西電力の設備投資額は1968年度1057億円から1972年度2954億円へ増加(東京電力は1972年度3153億円)
- [35]東京電力は1962年に無公害目標を表明しミナス原油とアラスカ・ブルネイからのLNG15年長期契約に踏み切り、木川田一隆社長が芦原社長に共同購入を呼びかけたが関西電力は断った
参考文献[20]-[35]
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [20]1972年6月5日 総合試運転中の海南発電所3号機(60万kW)がタービン・発電機の損壊と火災を伴う事故を起こし3・4号機計120万kWが停止
- [21]1972年6月15日 美浜発電所1号機(34万kW)が一次冷却水の蒸気発生器細管からの漏洩事故で停止し調査と修理に日時を要した
- [22]1973年は7月初旬から平年より3度近く高い炎暑となり7月10日から13日まで初の4日連続ピークカットを実施
- [23]光化学予報ないし注意報が出されると各自治体は発電所に出力を落とすよう指示した
- [24]1973年 ピークカット対象356軒とは別に契約電力500kW以上の2660軒へ節電を要請
- [28]1972年の四日市公害訴訟で原告側(被害者)全面勝訴判決が出され、企業の事業実施と公害防止に対する態度が厳しく問い直された
- [29]1973年12月 多奈川第二発電所の建設差し止めおよび損害賠償請求が大阪地裁に提訴され、1974年3月に第2次原告団105名が同様の訴えを起こした
- [30]1973年12月 大阪府は出力規模を半減すれば窒素酸化物と硫黄酸化物の双方が府環境管理計画に適合するとの正式見解を発表
- [31]1974年5月6日 黒田知事と吉村社長が多奈川第二発電所の建設に伴う公害防止協定書に調印、建設は60万kW2基となった
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [25]1973年夏のピークカットは13回に及び、前年の夏は1回だった
- [26]管内の人口・工場は大阪湾や瀬戸内海沿岸に集積し臨海火力と需要地が近接して送電設備負担と送電ロスが小さかったが、公害問題で人口集積地帯の火力新増設が困難になった
- [27]過疎地へ遠隔立地しようにも残る海岸線のほとんどは国立公園か国定公園だった
- [32]財務体質強化を優先し設備ではなく内部留保で蓄積するやり方は設備を必要最小限に抑えることを意味し、合理化のための合理化で供給責任に遅れをとったと需要業界から批判された
- [33]1966年度末の自己資本比率は東京電力26.9%に対し関西電力38.5%
- [34]関西電力の設備投資額は1968年度1057億円から1972年度2954億円へ増加(東京電力は1972年度3153億円)
- [35]東京電力は1962年に無公害目標を表明しミナス原油とアラスカ・ブルネイからのLNG15年長期契約に踏み切り、木川田一隆社長が芦原社長に共同購入を呼びかけたが関西電力は断った
1973年〜19年ぶりの改定と原子力を基軸に据えた計画
1972年度の料金は、九電力会社のなかで最低の水準にあった。1954年10月を100とする1972年10月の料金指数は、大阪の都市ガス112、水道163、国鉄の旅客1km200、大阪市営地下鉄333で、電気だけが据え置かれている。据え置きを支えたのは生産性だった。管内の電力需要が約8倍に増えるあいだ、従業員数は1954年度末の2万3700人から1972年度末の2万1600人へ1割ほど減り、火力の熱効率は22.2%から37.7%へ、電力損失率は24.7%から9.6%へ改善した。だが効率と損失率の曲線は1972年度に近づくにつれ水平になり、長く料金の安定に寄与してきた合理化のメリットは技術的な限界に達していた。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [36]1954年10月の九社一斉改定以来1972年まで19年間値上げせず、1972年度の関西電力の料金は九電力会社中で最低水準
- [37]1954年10月を100とする1972年10月の料金指数は都市ガス(大阪)112・水道(大阪)163・国鉄旅客1km200・郵便はがき200・地下鉄(大阪大人1区)333
- [38]据置き19年間に管内の電力需要は約8倍に増えたが従業員数は1954年度末2万3700人から1972年度末2万1600人へ約10%減
- [39]火力の熱効率は1954年度22.2%から1972年度37.7%へ、電力損失率は24.7%から9.6%へ改善
- [40]熱効率向上や電力ロス率低減という合理化のメリットはほぼ技術的限界に達し、効率・損失率の曲線は1972年度に近づくにつれ水平化した
コストの上昇は加速した。1968年度から1972年度までの5年間で公害対策に約360億円を投じ、1972年度末に作った10年間の長期計画では火力部門の公害対策投資が910億円、総投資額の4分の1を占める見込みとなった。使用燃料の硫黄含有率は1965年度の2.5%から1972年度の0.68%へ下がったが、そのミナス原油の1972年価格は1969年比で約50%高に達している。1973年6月20日に通産省へ申請した改定は、電燈平均15.8%に対し電力平均35.2%と、産業用へ寄せた配分だった。石油ショックを挟んだ1974年4月8日の再申請は53.40%、内訳は電燈33.89%・電力63.31%に及び、家庭用には月100kWhまでを低廉に抑える3段階料金制が導入された。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [41]1968年度から1972年度までの5年間で約360億円の公害対策投資を実施
- [42]1972年度末作成の10年間の電力長期計画では火力部門の公害対策投資額910億円で総投資額の4分の1を占める見込み
- [43]使用燃料の硫黄含有率は1965年度2.5%から1972年度0.68%へ低下し、ミナス原油の1972年価格は1969年価格の約50%高に達した
- [45]1974年4月8日申請の関西電力の引上げ率は53.40%(電燈33.89%・電力63.31%)、九社平均は62.89%
- [46]電燈料金に3段階料金制度を導入し、月間使用量100kWhまで・101〜200kWh・201kWh以上に区分、2段階目を1として1段階目0.8・3段階目1.1で逓増
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [44]1973年6月20日に通産省へ申請した第1次値上げ案は電灯平均15.8%・電力平均35.2%
原子力を軸に供給力を確保することが、電源立地の重点項目とされた。それを掲げたのが1975年4月に発表された新経営5カ年計画である。計画は、高度成長期の惰性から抜け出し、乏しい資源と資金を最も生かす道として、原子力発電に全力を注ぐとした。1980年3月期、売上高は1兆2224億1100万円まで増える。しかし経常損益は311億3700万円、当期損益は187億6700万円と、いずれも損失だった。1979年にトラブルが続いて原子力の稼働が落ちたうえ、石油価格の高騰と急速な円安で燃料費がかさんだことが響いた。中間配当は年6分相当に引き下げられ、小林庄一郎社長はこの事態を創業以来の業績悪化と位置づけた。九電力で最高の原子力比率は、動かない年には最大の負担へ転じた。
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [47]1975年の新経営5カ年計画では「原子力を基軸とする供給力の確保」を重点項目として電源立地計画の完遂に全力を傾注することとした
- [48]1975年4月 新経営5カ年計画「新時代に応える経営革新の展開」を発表
- [49]吉村社長は5カ年計画について、高度成長の惰性を排し限られた資源と資金を最大限活用するには技術革新、特に原子力発電分野での全力投球が必要と説明
- 会社年鑑(1986年版)
- [50]1980年3月期の売上高 1兆2224億1100万円(単体)
- [51]1980年3月期の経常損益は311億3700万円の損失、当期損益は187億6700万円の損失(単体)
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)関西電力 小林庄一郎「原発への信頼戻し開発を促進」
- [52]小林庄一郎社長は1980年年頭に、石油価格高騰と急テンポの円安による燃料費の負担増で収支が極度に悪化し、中間配当も年6分相当への減配を余儀なくされる創業時以来の業績悪化を来たしたと述べた
参考文献[36]-[52]
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- [36]1954年10月の九社一斉改定以来1972年まで19年間値上げせず、1972年度の関西電力の料金は九電力会社中で最低水準
- [37]1954年10月を100とする1972年10月の料金指数は都市ガス(大阪)112・水道(大阪)163・国鉄旅客1km200・郵便はがき200・地下鉄(大阪大人1区)333
- [38]据置き19年間に管内の電力需要は約8倍に増えたが従業員数は1954年度末2万3700人から1972年度末2万1600人へ約10%減
- [39]火力の熱効率は1954年度22.2%から1972年度37.7%へ、電力損失率は24.7%から9.6%へ改善
- [40]熱効率向上や電力ロス率低減という合理化のメリットはほぼ技術的限界に達し、効率・損失率の曲線は1972年度に近づくにつれ水平化した
- [41]1968年度から1972年度までの5年間で約360億円の公害対策投資を実施
- [42]1972年度末作成の10年間の電力長期計画では火力部門の公害対策投資額910億円で総投資額の4分の1を占める見込み
- [43]使用燃料の硫黄含有率は1965年度2.5%から1972年度0.68%へ低下し、ミナス原油の1972年価格は1969年価格の約50%高に達した
- [45]1974年4月8日申請の関西電力の引上げ率は53.40%(電燈33.89%・電力63.31%)、九社平均は62.89%
- [46]電燈料金に3段階料金制度を導入し、月間使用量100kWhまで・101〜200kWh・201kWh以上に区分、2段階目を1として1段階目0.8・3段階目1.1で逓増
- [47]1975年の新経営5カ年計画では「原子力を基軸とする供給力の確保」を重点項目として電源立地計画の完遂に全力を傾注することとした
- [48]1975年4月 新経営5カ年計画「新時代に応える経営革新の展開」を発表
- [49]吉村社長は5カ年計画について、高度成長の惰性を排し限られた資源と資金を最大限活用するには技術革新、特に原子力発電分野での全力投球が必要と説明
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- [44]1973年6月20日に通産省へ申請した第1次値上げ案は電灯平均15.8%・電力平均35.2%
- 会社年鑑(1986年版)
- [50]1980年3月期の売上高 1兆2224億1100万円(単体)
- [51]1980年3月期の経常損益は311億3700万円の損失、当期損益は187億6700万円の損失(単体)
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)関西電力 小林庄一郎「原発への信頼戻し開発を促進」
- [52]小林庄一郎社長は1980年年頭に、石油価格高騰と急テンポの円安による燃料費の負担増で収支が極度に悪化し、中間配当も年6分相当への減配を余儀なくされる創業時以来の業績悪化を来たしたと述べた
筆者考察
19年間料金を据え置いたことは、関西電力の誇りであると同時に負債でもあった。据え置きを支えたのは、従業員を1割減らしながら管内需要を8倍にした生産性であり、火力の熱効率を22.2%から37.7%へ引き上げた技術である。だが設備に蓄えず内部留保に蓄えるという選び方は、供給力の余裕を削減することでもあった。1973年の夏に13回のピークカットを課された管内の工場は、優等生の合理化がどこへ皺寄せされていたのかを知ることになる。電力業界の優等生と呼ばれた会社が、列島を襲う電力危機の震源地と書かれた年である。
芦原義重が悔やんだのは、値上げをしなかったことそのものではない。1961年に東京電力と同じ13.7%を取っていれば6000億円の内部留保ができていたという述懐は、安い料金で得た信用を、立地の同意や燃料の先手に換えそこねたという認識に近い。東京電力がミナス原油とLNGの導入で自治体の信頼を買っていた同じ時期、関西電力は原子力へ一気に移る自信を持って共同購入の誘いを断った。美浜の原子力は1970年に万国博へ灯をともし、1979年のトラブルが重なった1980年3月期には創業以来の赤字の主因になる。一つの電源へ寄せた重みは、上向きにも下向きにも同じだけ効いた。
- 単体。1973年9月と1974年6月の改定を挟んだ1975年3月期に7096億円、1980年の改定を挟んだ1981年3月期に1兆7714億8800万円。
- 出所は会社年鑑(1976年版・1986年版)。
1964年〜1990年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1964年03月期 | 単体 | 1,458 | n/a | n/a | 99 | 6.8% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 1,632 | +11.9% | n/a | 107 | 6.6% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 1,776 | +8.8% | n/a | 115 | 6.5% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 2,004 | +12.8% | n/a | 117 | 5.9% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 2,320 | +15.8% | n/a | 133 | 5.8% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 2,559 | +10.3% | n/a | 160 | 6.3% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 2,892 | +13.0% | n/a | 160 | 5.6% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 3,232 | +11.7% | 258 | 161 | 5.0% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 3,443 | +6.5% | 252 | 173 | 5.0% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 3,825 | +11.1% | 180 | 132 | 3.5% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 4,589 | +20.0% | 63 | 127 | 2.8% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 7,096 | +54.6% | 339 | 202 | 2.8% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 10,879 | n/a | 862 | 526 | 4.8% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 11,167 | +2.7% | 769 | 458 | 4.1% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 12,224 | +9.5% | ▲311 | ▲187 | ▲1.5% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 17,714 | +44.9% | 2,215 | 956 | 5.4% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 18,568 | +4.8% | 1,328 | 540 | 2.9% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 18,914 | +1.9% | 979 | 554 | 2.9% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 20,310 | +7.4% | 1,712 | 647 | 3.2% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 21,007 | +3.4% | 1,614 | 706 | 3.4% | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑、会社年鑑(1986年版)半期合算
出典・参考
5件
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)3章 技術革新と成長の時代
- 『関西電力二十五年史』(関西電力、1978年)4章 試練に挑戦
- 会社年鑑(1986年版)
- 日経ビジネス 1973年9月3日号
- 『80年代わが社の戦略』(1980年)関西電力 小林庄一郎「原発への信頼戻し開発を促進」