ANAホールディングス:国際線不定期便の開始と日本貨物航空の設立
1971年〜45・47体制の国内幹線と、東京-香港の不定期便・ロッキードL-1011
社長の若狭得治氏のもとで、全日本空輸は1971年2月21日に羽田から香港へ国際チャーター第一便をボーイング727-100で飛ばした。根拠は1970年11月20日の閣議了解で、国際航空は原則として日本航空が一元的に運営すると定められた。全日空に認められたのは、日本航空との提携のもとで余裕機材を使う近距離国際チャーターだった。1972年7月1日の運輸大臣通達は国内幹線を5都市に限り、全日空の国際線をチャーター便にとどめた。1975年3月期の売上構成は、定期航空運送事業が97.2%、不定期航空運送事業が1.6%だった。閣議了解と通達による、国際定期線を日本航空1社に限る枠組みは、のちに45・47体制と呼ばれた。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [1]1971年2月21日、国際チャーター第一便(B727-100)が羽田から香港へ出発
- [2]1970年11月20日閣議了解:国際航空は原則として日本航空が一元的に運営
- [3]近距離国際チャーターは日本航空と全日空の提携のもとに余裕機材を活用
- [4]1972年7月1日運輸大臣通達:国内幹線を札幌・東京・大阪・福岡・那覇に限定、全日空の国際線はチャーター便にとどまる
- 証券 1975年8月号
- [5]1975年3月期の事業構成:定期航空運送97.2%、不定期航空運送1.6%
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [6]国際定期線は日本航空一社と決めた体制を四五・四七体制と呼ぶ
1972年10月30日、全日本空輸の取締役会は大型機にロッキードL-1011トライスターの採用を承認した。東京-大阪はボーイング機で1日15往復に達し、羽田と伊丹の発着回数が逼迫して増便が難しかった。機材を大型化して需要に応じるほかなかった。元社長の大庭哲夫氏は、日本航空が1972年にDC-10を5機導入する予定で、東京-千歳などで対抗する必要があったと振り返っている。社内では技術部門がL-1011、経理部がB747SRを推し、社長の若狭得治氏は技術担当役員の意向を重んじて決めた。全日空は1973年1月12日に6機を正式に発注し、1974年3月10日に東京-沖縄線へ就航させた。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [7]1972年10月30日、取締役会がロッキードL-1011の採用を承認
- [8]東京-大阪1日15往復、東京・大阪の発着回数逼迫で増便困難、機材大型化で需要に対応する必要
- [9]東京-大阪1日15往復、東京・大阪の発着回数逼迫で増便困難、機材大型化で需要に対応する必要
- [11]社内で技術部門はL-1011、経理部はB747SRを推し、若狭社長は技術担当役員の意向を尊重
- [12]1973年1月12日に6機を正式発注、1974年3月10日東京-沖縄線に就航
- 日経ビジネス 1977年10月10日号
- [10]大庭哲夫元社長:日本航空が1972年にDC-10を5機導入予定で、東京-千歳などで対抗する必要があった
日本近距離航空は1974年3月13日、資本金6億円で発足し、同年5月には副社長の渡辺尚次氏が取締役を兼ねた。1972年5月の横浜航空の事故を受け、航空審議会は同年12月28日に離島・辺地の航空会社の集約を答申した。答申は出資比率を全日空30%、東亜国内航空20%、日本航空10%などとした。日本近距離航空は初年度に3億2千万円の欠損を計上し、全日空は1976年に出資比率を76.8%へ上げた。全日空は1978年3月の東京-大島線と東京-三宅島線から、YS-11の離島路線を順次移管した。大型機を幹線に集める一方、採算の取りにくい生活路線を別会社の費用で運ぶ体制に移したのだろう。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [13]1974年3月13日、日本近距離航空が資本金6億円で発足
- [15]1972年5月の横浜航空事故を契機に、同年12月28日航空審議会が離島・辺地の航空会社集約を答申
- [16]答申の出資比率:全日空30%、東亜国内航空20%、日本航空10%、小型機事業者20%、地方公共団体20%
- [17]初年度3億2千万円の欠損、1976年の再建で全日空の出資比率76.8%(1976年8月現在)
- [18]1978年3月東京-大島・東京-三宅島線を皮切りにYS離島路線を日本近距離航空へ委譲
- 日本企業要覧 1975年版「全日本空輸」
- [14]副社長渡辺尚次が1974年5月に日本近距離航空取締役
参考文献[1]-[18]
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [1]1971年2月21日、国際チャーター第一便(B727-100)が羽田から香港へ出発
- [2]1970年11月20日閣議了解:国際航空は原則として日本航空が一元的に運営
- [3]近距離国際チャーターは日本航空と全日空の提携のもとに余裕機材を活用
- [4]1972年7月1日運輸大臣通達:国内幹線を札幌・東京・大阪・福岡・那覇に限定、全日空の国際線はチャーター便にとどまる
- [7]1972年10月30日、取締役会がロッキードL-1011の採用を承認
- [8]東京-大阪1日15往復、東京・大阪の発着回数逼迫で増便困難、機材大型化で需要に対応する必要
- [9]東京-大阪1日15往復、東京・大阪の発着回数逼迫で増便困難、機材大型化で需要に対応する必要
- [11]社内で技術部門はL-1011、経理部はB747SRを推し、若狭社長は技術担当役員の意向を尊重
- [12]1973年1月12日に6機を正式発注、1974年3月10日東京-沖縄線に就航
- [13]1974年3月13日、日本近距離航空が資本金6億円で発足
- [15]1972年5月の横浜航空事故を契機に、同年12月28日航空審議会が離島・辺地の航空会社集約を答申
- [16]答申の出資比率:全日空30%、東亜国内航空20%、日本航空10%、小型機事業者20%、地方公共団体20%
- [17]初年度3億2千万円の欠損、1976年の再建で全日空の出資比率76.8%(1976年8月現在)
- [18]1978年3月東京-大島・東京-三宅島線を皮切りにYS離島路線を日本近距離航空へ委譲
- 証券 1975年8月号
- [5]1975年3月期の事業構成:定期航空運送97.2%、不定期航空運送1.6%
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [6]国際定期線は日本航空一社と決めた体制を四五・四七体制と呼ぶ
- 日経ビジネス 1977年10月10日号
- [10]大庭哲夫元社長:日本航空が1972年にDC-10を5機導入予定で、東京-千歳などで対抗する必要があった
- 日本企業要覧 1975年版「全日本空輸」
- [14]副社長渡辺尚次が1974年5月に日本近距離航空取締役
1975年〜ロッキード事件で退任した若狭得治氏と、海運会社と組んだ日本貨物航空
1976年12月17日、全日本空輸の取締役会と臨時株主総会は、若狭得治氏の会長就任と監査役の安西正道氏の社長就任を決めた。発端は同年2月4日の米上院小委員会で、ロッキード社の対日工作費を明かした証言だった。L-1011の選定にも疑惑が及び、若狭得治氏ら6人の役職員が外為法違反などで逮捕・起訴された。若狭得治氏は逮捕の直後に辞意を示したが、役員の慰留で会長として経営陣にとどまった。1982年1月26日の一審は執行猶予付きの有罪とし、控訴した若狭得治氏の刑は1992年9月に懲役3年・執行猶予5年で確定した。後任の安西正道氏は、若狭得治氏と同じ運輸省の出身だった。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [19]1976年12月17日、取締役会と臨時株主総会が若狭社長の会長、安西正道監査役の社長就任を決定
- [20]1976年2月4日、米上院多国籍企業小委員会でロッキード社の対日工作費支出が証言される
- [21]L-1011選定に疑惑が及び、若狭社長以下6人の役職員が逮捕・起訴
- [23]1982年1月26日一審有罪(執行猶予付)、同年2月9日若狭会長のみ控訴
- Decide 1985年
- [22]若狭得治は逮捕直後に辞意を表明したが、役員の慰留で会長にとどまった
- [25]若狭会長と安西正道は運輸省OB
- Decide 1996年
- [24]1992年9月の最高裁上告棄却で懲役3年・執行猶予5年が確定
1978年9月21日、国際航空貨物の専門会社として日本貨物航空が発足した。出資は全日本空輸と川崎汽船、日本郵船、大阪商船三井船舶、山下新日本汽船の5社で、比率は各20%だった。全日空は1970年11月から川崎汽船などと共同研究を進め、日本郵船が当初構想した日本航空との提携より計画が先行した。運輸省が海運会社の一本化を免許の前提とし、2つのグループは1978年6月に統合した。日本郵船の会長で、日本貨物航空の会長も務めた菊地庄次郎氏は、海上から空へ移る貨物を追うための参入と位置づけ、運航の知見を全日空に求めた。運輸省の免許は約4年棚上げされ、営業開始は1985年にずれ込んだ。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [26]1978年9月21日、日本貨物航空(NAC)が正式に発足
- [27]出資比率は全日空・川崎汽船・日本郵船・大阪商船三井船舶・山下新日本汽船の各20%
- [28]1970年11月、川崎汽船・山下新日本汽船・日本通運・全日空の4社が国際航空貨物の共同研究を開始
- [32]免許は足掛け4年棚上げ、1985年早々に営業開始の予定
- 私の履歴書 経済人22(1987)「菊地庄次郎(日本郵船・会長)」
- [29]郵船は当初日本航空と組む構想だったが、日航が消極化し全日空と組んだグループの計画が先行
- [30]運輸省が海運会社の一本化を免許の前提とし、両グループが統合(統合は1978年6月、社史)
- [31]菊地庄次郎(NAC会長):航空貨物への進出は貨物を追う自衛の行動、運航ノウハウは全日空の協力
1979年10月1日、全日本空輸はB727とB737の後継にボーイング767を確定25機・オプション15機で導入すると決めた。1970年度に営業費の8.4%だった燃油費は、1980年度に30%を超す見込みだった。社長の安西正道氏は1980年、着陸料などの公租公課の引き上げと1979年度の燃料税倍増を挙げ、年度末の大幅な赤字を見込んだ。安西正道氏は対策として合理化と運賃の値上げを掲げた。1979年10月に総工費72億円で完成した乗員訓練センターは、実機訓練を減らして年間3000キロリットルの燃料を節約できるとした。燃費の低い中型機への更新は、本業の費用構造を立て直す手段だったと推察される。
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [33]1979年10月1日、B727・B737後継にB767導入を正式決定(確定25機・オプション15機、1983年度から)
- [34]燃油費は1970年度の営業費の8.4%から1980年度に30%超の見込み
- 80年代わが社の戦略(1980)「全日本空輸 安西正道」
- [35]安西正道:1977〜78年度の着陸料・航行援助施設利用料の引き上げと1979年度の燃料税倍増で、年度末に大きな赤字を見込む
- [36]安西正道:対策は経営の合理化と運賃値上げ
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- [37]乗員訓練センター:総工費72億円、1979年10月完成、シミュレーターで燃料年間3000キロリットル節約
参考文献[19]-[37]
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [19]1976年12月17日、取締役会と臨時株主総会が若狭社長の会長、安西正道監査役の社長就任を決定
- [20]1976年2月4日、米上院多国籍企業小委員会でロッキード社の対日工作費支出が証言される
- [21]L-1011選定に疑惑が及び、若狭社長以下6人の役職員が逮捕・起訴
- [23]1982年1月26日一審有罪(執行猶予付)、同年2月9日若狭会長のみ控訴
- [26]1978年9月21日、日本貨物航空(NAC)が正式に発足
- [27]出資比率は全日空・川崎汽船・日本郵船・大阪商船三井船舶・山下新日本汽船の各20%
- [28]1970年11月、川崎汽船・山下新日本汽船・日本通運・全日空の4社が国際航空貨物の共同研究を開始
- [32]免許は足掛け4年棚上げ、1985年早々に営業開始の予定
- [33]1979年10月1日、B727・B737後継にB767導入を正式決定(確定25機・オプション15機、1983年度から)
- [34]燃油費は1970年度の営業費の8.4%から1980年度に30%超の見込み
- Decide 1985年
- [22]若狭得治は逮捕直後に辞意を表明したが、役員の慰留で会長にとどまった
- [25]若狭会長と安西正道は運輸省OB
- Decide 1996年
- [24]1992年9月の最高裁上告棄却で懲役3年・執行猶予5年が確定
- 私の履歴書 経済人22(1987)「菊地庄次郎(日本郵船・会長)」
- [29]郵船は当初日本航空と組む構想だったが、日航が消極化し全日空と組んだグループの計画が先行
- [30]運輸省が海運会社の一本化を免許の前提とし、両グループが統合(統合は1978年6月、社史)
- [31]菊地庄次郎(NAC会長):航空貨物への進出は貨物を追う自衛の行動、運航ノウハウは全日空の協力
- 80年代わが社の戦略(1980)「全日本空輸 安西正道」
- [35]安西正道:1977〜78年度の着陸料・航行援助施設利用料の引き上げと1979年度の燃料税倍増で、年度末に大きな赤字を見込む
- [36]安西正道:対策は経営の合理化と運賃値上げ
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- [37]乗員訓練センター:総工費72億円、1979年10月完成、シミュレーターで燃料年間3000キロリットル節約
1981年〜運輸次官出身の中村大造社長とボーイング767、国際線を開いた1985年の複数社制
1983年6月、中村大造氏が全日本空輸の社長に就任した。中村大造氏は1946年に運輸省に入り、1976年に事務次官となり、1978年の退官後は新東京国際空港公団の総裁を務めた。前任の安西正道氏と会長の若狭得治氏も運輸省の出身で、全日空には元運輸官僚が約200人いたとされる。社長就任の年には767の受け入れ準備が進み、1号機は1983年4月25日に受領する予定だった。767は主にローカル線に使う計画で、1,800mの滑走路でも運航でき、成田-香港などの近距離国際線にも使える機材だった。路線と運賃が認可で決まる業界で、官庁の手続きに通じた人材を経営陣に置く判断が続いたと思われる。
- 日経ビジネス 1983年11月21日号
- [38]中村大造が1983年6月全日空社長に就任
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [39]中村大造:1946年運輸省入省、1974年航空局長、1976年事務次官、1978年退官、新東京国際空港公団総裁を経る
- Decide 1985年
- [40]安西正道・若狭得治は運輸省OB、全日空の元運輸官僚は約200人
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [41]B767の1号機は1983年4月25日にボーイング社エバレット工場で受領予定
- [42]B767は主にローカル線に使用、1,800m滑走路で運航可能、成田-香港などの近距離国際線に運航可能
1985年4月30日の日米航空暫定協定は、日米双方が新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れると定め、全日本空輸に国際定期線への道を開いた。発端は日本貨物航空の米国乗り入れで、米国は1984年9月の交渉で反対し、12月に見返りの乗り入れを求めた。運輸省と全日空は日本側も複数社を乗り入れさせ、双方の枠を広げる案で応じた。交渉の間、会長の若狭得治氏の自宅には運輸省幹部が意見を聞きに通い、米側の交渉代表も面会を申し出た。運輸省は1985年9月、運輸政策審議会に航空企業の運営のあり方を諮問した。貨物子会社の懸案を、旅客の国際定期線を獲得する機会に結びつけたのは会長の若狭得治氏だったとみられる。
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [43]暫定協定は日米双方が新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れる内容
- [48]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ航空企業運営のあり方を諮問
- Decide 1985年
- [44]1985年4月30日の日米航空暫定協定で全日空・東亜国内航空に国際定期線への道
- [45]NCAの太平洋就航は1984年9月の交渉で米国が反対、12月に米側数社の見返り乗り入れを要求
- [46]運輸省と全日空は日本側も数社乗り入れる拡大均衡案で対応
- [47]運輸省幹部が若狭氏の府中の自宅に通い、米交渉代表フェリス国務次官補代理が面会を申し出た
国際定期線への参入が認められた1985年、全日本空輸の国内線シェアは54%で、年間旅客数の上位20路線では58%を占めた。国際線の運航経験は、近距離チャーターと1984年9月からのハワイ・チャーター便に限られた。運輸政策審議会は1985年12月の中間答申を経て、1986年の最終答申で45・47体制は使命を終えたとした。全日空は米国5地点のうち3地点への乗り入れを希望し、その先に中国線を置いた。社長の中村大造氏は1986年、当面の方針を『国内線で稼ぎ、その余力で国際線をやるという状況ですね』と説明した。国内線の利益で国際線の立ち上げを賄う条件のもとで、全日空は次の時代に入ったと考えられる。
- Decide 1985年
- [49]全日空の国内線シェアは54%
- [50]年間旅客数上位20路線のシェア:全日空58%、日航32%、東亜国内10%
- [51]全日空は1984年9月にハワイ・チャーター便を就航
- [53]全日空は米国5地点のうち3地点の乗り入れを希望、真の狙いは中国線
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [52]1985年12月中間答申、1986年最終答申で四五・四七体制は使命を終えたと結論
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [54]中村大造(1986):当分の間は国内線で稼ぎ、その余力で国際線をやる
参考文献[38]-[54]
- 日経ビジネス 1983年11月21日号
- [38]中村大造が1983年6月全日空社長に就任
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- [39]中村大造:1946年運輸省入省、1974年航空局長、1976年事務次官、1978年退官、新東京国際空港公団総裁を経る
- [54]中村大造(1986):当分の間は国内線で稼ぎ、その余力で国際線をやる
- Decide 1985年
- [40]安西正道・若狭得治は運輸省OB、全日空の元運輸官僚は約200人
- [44]1985年4月30日の日米航空暫定協定で全日空・東亜国内航空に国際定期線への道
- [45]NCAの太平洋就航は1984年9月の交渉で米国が反対、12月に米側数社の見返り乗り入れを要求
- [46]運輸省と全日空は日本側も数社乗り入れる拡大均衡案で対応
- [47]運輸省幹部が若狭氏の府中の自宅に通い、米交渉代表フェリス国務次官補代理が面会を申し出た
- [49]全日空の国内線シェアは54%
- [50]年間旅客数上位20路線のシェア:全日空58%、日航32%、東亜国内10%
- [51]全日空は1984年9月にハワイ・チャーター便を就航
- [53]全日空は米国5地点のうち3地点の乗り入れを希望、真の狙いは中国線
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- [41]B767の1号機は1983年4月25日にボーイング社エバレット工場で受領予定
- [42]B767は主にローカル線に使用、1,800m滑走路で運航可能、成田-香港などの近距離国際線に運航可能
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- [43]暫定協定は日米双方が新たに3社ずつ太平洋路線に乗り入れる内容
- [48]運輸省は1985年9月に運輸政策審議会へ航空企業運営のあり方を諮問
- [52]1985年12月中間答申、1986年最終答申で四五・四七体制は使命を終えたと結論
1971年〜1985年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1971年03月期 | 単体 | 555 | n/a | n/a | 37 | 19 | 3.4% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 646 | +16.4% | n/a | ▲17 | 1 | 0.2% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 862 | +33.4% | n/a | 20 | 38 | 4.4% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,179 | +36.8% | n/a | 86 | 29 | 2.5% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,480 | +25.5% | n/a | 13 | 8 | 0.5% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 1,849 | +25.0% | n/a | 26 | 15 | 0.8% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 2,004 | +8.4% | n/a | 78 | 37 | 1.9% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 2,318 | +15.7% | n/a | 96 | 36 | 1.6% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 2,655 | +14.5% | n/a | 95 | 37 | 1.4% | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 3,078 | +15.9% | n/a | 4 | 19 | 0.6% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 3,773 | +22.6% | 9 | 47 | 27 | 0.7% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 3,973 | +5.3% | n/a | 58 | 65 | 1.6% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 4,218 | +6.2% | n/a | 28 | 68 | 1.6% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 4,122 | ▲2.3% | n/a | 79 | 80 | 1.9% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 4,532 | +9.9% | n/a | 75 | 75 | 1.7% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
12件
- 私の履歴書 経済人22(1987)「菊地庄次郎(日本郵船・会長)」
- 日本産業史 第4巻 運輸・物流(1994)「運輸-四五・四七体制の終焉」
- 証券 1975年8月号
- 日経ビジネス 1977年10月10日号
- 日経ビジネス 1980年8月11日号
- 日経ビジネス 1983年11月21日号
- 日経ビジネス 1986年12月8日号
- 日本企業要覧 1975年版「全日本空輸」
- 80年代わが社の戦略(1980)「全日本空輸 安西正道」
- 全日本空輸『限りなく大空へ 全日空の30年』(1983)5章 飛躍の時代
- Decide 1985年
- Decide 1996年