第1章 年〜年

商船三井:大阪商船と三井船舶の対等合併による大阪商船三井船舶の発足

1884年〜零細船主の抗争を止めるために設立された共同出資会社

西南戦争が終わると瀬戸内海には船が余り、船主は互いに運賃を引き下げて貨客を奪い合った。大阪府は1879年5月に西洋型商船及び問屋取締假規則を布達して運賃競争を禁じ、船主と問屋の連合を勧奨した。それでも裏では運賃競争が続き、船舶を酷使して修繕も行き届かず、瀬戸内海の航海は不安なものになった。運賃は認可制とされ、船主には申合規則を設けることが義務づけられた。根拠は、1881年2月に大阪府が関係13県と組んで布達した小型旅客汽船取締規則と、これにより置かれた商船取締所である。船主側はこれに応え、同年4月に大阪汽船取扱会社を、翌年5月には汽船持主盟約証書を取り交わして同盟汽船取扱会社を立ち上げた。それでも協定に背いて自分の利益を図る船主は後を絶たず、手を結んでは争い、争っては再び手を結ぶことが繰り返された。

  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [1]西南戦争終了後 急増した船腹の消化のため瀬戸内の船主間で運賃引き下げ競争が激化
    • [2]1879年5月 大阪府が西洋型商船及び問屋取締假規則を布達し運賃競争を禁止、船主と問屋の連合を勧奨
    • [3]規則の布達後も運賃競争が続き、船舶の酷使と修繕不足で海上事故が増加し瀬戸内海の航海が不安になった
    • [4]1881年2月 大阪府が関係13県と連合して小型旅客汽船取締規則を布達、商船取締所の設置と運賃の認可、船主の申合規則を規定
    • [5]1881年4月 元扱い機関として大阪汽船取扱会社を設立、1882年5月 汽船持主盟約証書により資本金8000円の同盟汽船取扱会社を設立
    • [6]同盟汽船取扱会社の設立後も協定を破る船主があり、瀬戸内海運は競争と同盟を繰り返した

会社設立を主導したのは、同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發と住友家総理の廣瀬宰平ら7名で、1882年11月に大阪出入港の各汽船を団結して商船会社を設立する旨の誓約書を作り、廣瀬宰平を総理に推した。翌12月には住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志と大手船主17名が発起人となった。創立証書は営業を大阪以西の内国航路に限り、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には農商務省管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた。船を現金に換えずそのまま資本へ振り替える仕組みで、運用資本の乏しい船主でも持ち船の評価額のぶんだけ株主になれた。1884年4月の第1回船舶検査では76隻・約84万7200円が評価され、同月の臨時株主総会で資本金は120万円に改められた。

  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [7]1882年11月 同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發、住友家総理の廣瀬宰平ら7名が商船会社設立の誓約書を作成し廣瀬宰平を総理に推挙
    • [8]1882年12月 住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志および大手船主17名が発起人となった
    • [9]創立証書と創立旨意書は営業範囲を大阪以西の内国航路とし、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた
    • [10]1884年4月6日 第1回船舶検査が完了し76隻・約84万7200円の評価表を発表
    • [11]1884年4月の臨時株主総会で資本金を120万円に改定

1884年5月1日、有限責任大阪商船会社は大阪府北区富島町に本社を置き、資本金120万円で開業した。創業時の株主は590名で、10株未満の株主が54%を占め、汽船出資株主が全体の86%にのぼった。開業後も共榮社や宇和島運輸をはじめ各地の船主が経営航路へ入り、競争は全海域へ広がった。1890年7月、大阪商船は船主会に合併計算配当方法を提案し、大阪に乗船券合併発売所を置いて出港船に乗客定員率で利益を配分する方式を試みた。この方式が好成績を収めたため翌年には細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ広げ、1893年には關西同盟汽船合併計算組本部として規約と制裁力を整えた。純益を計上できない年を1888年と1889年に挟みながら、1893年には純益金14万9000円まで戻して8分の配当を実行した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [12]1884年5月1日 有限責任大阪商船会社が大阪府北区富島町14番地に本社を置き資本金120万円で開業
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [13]創業時の株主は590名、10株未満の株主が54%、汽船出資株主が86%
    • [14]開業後 共榮社・宇和島運輸・伊豫汽船・日本共立汽船など各地の船主が経営航路へ侵入し競争が激化
    • [15]1890年7月 船主会に合併計算配当方法を提案、大阪に乗船券合併発売所を設け中国航路向け出港船に乗客定員率で利益配当
    • [16]1891年3月より細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ拡大、1893年に同盟規約を改正し關西同盟汽船合併計算組本部と称した
    • [17]競争の激化により1888年度・1889年度は純益金の計上がなかった
    • [18]1893年は關西同盟汽船合併計算の本格化により純益金14万9000円、8分の株主配当を実行
参考文献[1]-[18]
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [1]西南戦争終了後 急増した船腹の消化のため瀬戸内の船主間で運賃引き下げ競争が激化
    • [2]1879年5月 大阪府が西洋型商船及び問屋取締假規則を布達し運賃競争を禁止、船主と問屋の連合を勧奨
    • [3]規則の布達後も運賃競争が続き、船舶の酷使と修繕不足で海上事故が増加し瀬戸内海の航海が不安になった
    • [4]1881年2月 大阪府が関係13県と連合して小型旅客汽船取締規則を布達、商船取締所の設置と運賃の認可、船主の申合規則を規定
    • [5]1881年4月 元扱い機関として大阪汽船取扱会社を設立、1882年5月 汽船持主盟約証書により資本金8000円の同盟汽船取扱会社を設立
    • [6]同盟汽船取扱会社の設立後も協定を破る船主があり、瀬戸内海運は競争と同盟を繰り返した
    • [7]1882年11月 同盟汽船取扱会社頭取の中原昌發、住友家総理の廣瀬宰平ら7名が商船会社設立の誓約書を作成し廣瀬宰平を総理に推挙
    • [8]1882年12月 住友吉左衞門・田中市兵衛ら大阪財界の有志および大手船主17名が発起人となった
    • [9]創立証書と創立旨意書は営業範囲を大阪以西の内国航路とし、資本金を汽船出資と通貨出資に分け、汽船出資には管船局の評価額に相当する株券を交付すると定めた
    • [10]1884年4月6日 第1回船舶検査が完了し76隻・約84万7200円の評価表を発表
    • [11]1884年4月の臨時株主総会で資本金を120万円に改定
    • [13]創業時の株主は590名、10株未満の株主が54%、汽船出資株主が86%
    • [14]開業後 共榮社・宇和島運輸・伊豫汽船・日本共立汽船など各地の船主が経営航路へ侵入し競争が激化
    • [15]1890年7月 船主会に合併計算配当方法を提案、大阪に乗船券合併発売所を設け中国航路向け出港船に乗客定員率で利益配当
    • [16]1891年3月より細島・宇和島・岡山・九州の各航路へ拡大、1893年に同盟規約を改正し關西同盟汽船合併計算組本部と称した
    • [17]競争の激化により1888年度・1889年度は純益金の計上がなかった
    • [18]1893年は關西同盟汽船合併計算の本格化により純益金14万9000円、8分の株主配当を実行
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [12]1884年5月1日 有限責任大阪商船会社が大阪府北区富島町14番地に本社を置き資本金120万円で開業

1876年〜三井物産の荷を運ぶ船舶部から独立した外航会社

三井船舶の起こりは官営三池炭鉱の石炭を運ぶ仕事にあり、1876年設立の三井物産が扱い荷の海上輸送に手を出したところから実質的な歩みが始まる。組織として初めて姿を見せたのは1903年4月で、三井物産の門司支店に船舶部が設けられた。荷主を兼ねる商社の一部門として始まったので、配船は自社の取扱貨物を運ぶことが柱となり、行き先を決めない不定期の運航が中心だった。このころ大阪商船はすでに近海へ進んでいた。1890年開設の大阪・釜山航路で旧来の沿岸海運から一歩踏み出し、日清戦争後は台湾・揚子江・華南・華北に定期航路を開いて近海の航権を固めていた。荷主を持たず航路そのものを商品にした会社と、自社の荷を運ぶために船を持った会社という、動機の異なる二つの船隊が並行して育った。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [19]三井物産が開始した官営三池炭鉱の石炭輸送が三井船舶の胚胎
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [20]三井船舶の実質的歴史は明治9年設立の三井物産が取扱貨物の海上輸送を手がけた時点に起源する
    • [21]1903年4月 三井物産門司支店内に船舶部を創設
    • [22]三井物産船舶部は社内取扱貨物の輸送を根幹としたため不定期的な配船が多かった
    • [23]大阪商船は1890年に大阪・釜山航路を開設して沿岸海運の域を脱し、日清戦争後に台湾・揚子江・華南・華北へ定期航路を開設して近海水域の航権を確立

1917年の三井物産船舶部は、社船21隻・10万重量トンを含む総計約128万重量トンの船腹を持ち、不定期船の世界で国際的な位置を占めていた。そこまで膨らんだのは第一次世界大戦を機に遠洋へ配船を広げたためで、社船の航路は北米・南米からアフリカ・地中海・欧州に及び、多数の用船も加えて世界中に船を回した。大戦後に海運が不況へ転じると、船舶部は次の段階に備え、定期航路に乗り出すことを検討した。最初の定期航路は1920年1月、剣山丸を第一船として大連・神戸・横浜・シアトルを結んだ北米線で、1938年ごろにかけて北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ広がった。油槽船部門への進出は1936年である。社外荷の取扱いが進んだ結果、1942年12月に船舶部は三井物産から分離独立して三井船舶となった。第二次世界大戦では約80隻・50万重量トンを失い、残った船腹は15隻・5万7000重量トンにすぎなかった。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [24]1917年 社船21隻・10万重量トンを含め総計約128万重量トンの船腹を擁し国際的不定期船業者の地位を確立
    • [25]第一次世界大戦の勃発で三井物産船舶部は遠洋配船を実施、社船航路を北米・南米からアフリカ・地中海・欧州まで伸張
    • [26]第一次大戦終了後の不況期に三井物産船舶部は定期航路への進出を検討
    • [27]1920年1月 剣山丸を第一船とする大連・神戸・横浜・シアトル間の北米定期航路を開設、1938年ごろまでに北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ定期航路を拡大、1936年に油槽船部門へ進出
    • [29]第二次大戦で三井船舶は約80隻・50万重量トンを喪失し残存船腹は15隻・5万7000重量トン
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1942年12月 三井物産の船舶部が分離独立して三井船舶が設立(外航海運会社)
参考文献[19]-[29]
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [19]三井物産が開始した官営三池炭鉱の石炭輸送が三井船舶の胚胎
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [20]三井船舶の実質的歴史は明治9年設立の三井物産が取扱貨物の海上輸送を手がけた時点に起源する
    • [21]1903年4月 三井物産門司支店内に船舶部を創設
    • [22]三井物産船舶部は社内取扱貨物の輸送を根幹としたため不定期的な配船が多かった
    • [23]大阪商船は1890年に大阪・釜山航路を開設して沿岸海運の域を脱し、日清戦争後に台湾・揚子江・華南・華北へ定期航路を開設して近海水域の航権を確立
    • [24]1917年 社船21隻・10万重量トンを含め総計約128万重量トンの船腹を擁し国際的不定期船業者の地位を確立
    • [25]第一次世界大戦の勃発で三井物産船舶部は遠洋配船を実施、社船航路を北米・南米からアフリカ・地中海・欧州まで伸張
    • [26]第一次大戦終了後の不況期に三井物産船舶部は定期航路への進出を検討
    • [27]1920年1月 剣山丸を第一船とする大連・神戸・横浜・シアトル間の北米定期航路を開設、1938年ごろまでに北米・ニューヨーク・マドラス・イラン湾・ボンベイ・天津などへ定期航路を拡大、1936年に油槽船部門へ進出
    • [29]第二次大戦で三井船舶は約80隻・50万重量トンを喪失し残存船腹は15隻・5万7000重量トン
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [28]1942年12月 三井物産の船舶部が分離独立して三井船舶が設立(外航海運会社)

1946年〜戦時補償の打切りと海運二法が決めた合併

敗戦後の大阪商船は、船腹を開戦時の19%にあたる10万7000総トンまで減らしていたうえ、占領下の指定も重なって、1946年6月4日に関係会社32社と並んで制限会社とされたのを皮切りに、同年8月15日に特別経理会社、12月7日に持株会社、1948年2月8日には過度経済力集中排除会社の指定を受けた。財務の打撃は1946年10月公布の戦時補償特別措置法で、戦時補償請求権は全額が特別税として取り上げられ、海運業者の失った請求権は25億円に達し、大阪商船の負担4億5000万円は業界で最も重かった。1949年4月に出した整備計画は、増資して存続し、資本金を3億6000万円、保有船舶を36隻8万4000総トンとする内容だった。インフレが進んだことで土地・建物・船舶・株式を有利に処分でき、特別損失は消え、株主・債権者のいずれにも損を負わせずに計画は成立した。

  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [30]大阪商船の終戦時の船腹は開戦時の19%・10万7000総トン
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [31]大阪商船は1946年6月4日に制限会社(関係会社32社とともに)、1946年8月15日に特別経理会社、1946年12月7日に持株会社、1948年2月8日に過度経済力集中排除会社の指定を受けた
    • [32]1946年10月18日 戦時補償特別措置法の公布により戦時補償請求権は全額が特別税として課税され、海運業者が失った請求権は25億円
    • [33]戦時補償特別税の大阪商船負担額は4億5000万円で海運業界最高
    • [34]1949年4月12日提出の整備計画は増資存続・資本金3億6000万円・保有船舶36隻8万4000総トン
    • [35]インフレーションの進行で土地・建物・船舶・株式の処分が有利に進み、特別損失は解消して株主にも債権者にも損失を与えなかった

戦後の日本海運は、戦時補償の打切りで自己資本を失ったまま、借入金だけで船を作り直した。1963年に業界が背負っていた負債は、財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円に運転資金700億円と修繕費の未払300億円を加えて約5000億円にのぼり、打ち切られた戦時補償の額にほぼ見合っていた。海運会社への助成に政府が付けた条件は、5年以内に法定の償却不足をなくすことと、合併で運航船腹を社船50万重量トンを含めた100万重量トン以上にすることであった。助成の根拠は海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正で、施行は1963年7月1日である。これにより政府は、計画造船の支払利子の猶予と、以後の新造船への利子補給の強化を打ち出した。背景には、計画造船の新造船を多くの会社へ総花的に割り当てた結果、海運会社が一時200社を超え、過当競争で各社の経営が一段と弱っていたことがある。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [36]1947年に戦時補償が打ち切られたため、日本海運の現有船腹はすべて借入金によって建造された
    • [37]1963年時点の海運業界の負債は財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円・運転資金700億円・修繕費未払300億円で全体約5000億円、戦時補償打切額にほぼ見合う
    • [38]助成の条件として5年以内の償却不足解消と、合併により社船50万重量トンを含む運航船腹100万重量トン以上となることが課された
    • [40]計画造船の新造船割当が総花的に行われ海運会社は一時200社を超え、過当競争が各社の経営を弱めた
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [39]1963年7月1日 海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正が施行され、第17次以前の計画造船の支払利子を猶予し第18次以降の新造船への利子補給を強化

大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し、1964年4月1日に他の5中核体と一斉に発足した。新会社の資本金は131億円、所有船舶は86隻・127万重量トンだった。同じ集約で日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野海運から分離した飯野汽船を吸収し、日東商船と大同海運はジャパン・ラインに、山下汽船と新日本汽船は山下新日本汽船に、日本油槽船と日産汽船は昭和海運になって、6つの中核体が生まれた。大阪商船三井船舶には系列会社5社と専属会社26社が属した。社章は大阪商船の大と三井船舶の三を組み合わせ、新会社の発足にあたって制定された。一つの業界を対象に集約を前提とした助成は、ほかの業界にも世界にも例がなかった『このような1つの業界を対象として集約を前提とした助成は、恐らく他業界にはみられませんし、世界にもその類はないようであります。戦前の総動員法にも匹敵するものといえましよう』。

  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [41]大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し1964年4月1日に他の5中核体と一斉にスタート
    • [43]集約により日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野汽船を吸収合併し、日東商船と大同海運がジャパン・ライン、山下汽船と新日本汽船が山下新日本汽船、日本油槽船と日産汽船が昭和海運となり6中核体が誕生
    • [44]合併後の大阪商船三井船舶に属した系列会社は5社、専属会社は26社
    • [46]1つの業界を対象として集約を前提とした助成は他業界にも世界にも類がなく、戦前の総動員法に匹敵するものだった
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]合併時 資本金131億円・所有船舶86隻127万重量トン
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [45]社章は大阪商船の「大」と三井船舶の「三」を組み合わせ、1964年の新会社スタートにあたって制定
参考文献[30]-[46]
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
    • [30]大阪商船の終戦時の船腹は開戦時の19%・10万7000総トン
    • [45]社章は大阪商船の「大」と三井船舶の「三」を組み合わせ、1964年の新会社スタートにあたって制定
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
    • [31]大阪商船は1946年6月4日に制限会社(関係会社32社とともに)、1946年8月15日に特別経理会社、1946年12月7日に持株会社、1948年2月8日に過度経済力集中排除会社の指定を受けた
    • [32]1946年10月18日 戦時補償特別措置法の公布により戦時補償請求権は全額が特別税として課税され、海運業者が失った請求権は25億円
    • [33]戦時補償特別税の大阪商船負担額は4億5000万円で海運業界最高
    • [34]1949年4月12日提出の整備計画は増資存続・資本金3億6000万円・保有船舶36隻8万4000総トン
    • [35]インフレーションの進行で土地・建物・船舶・株式の処分が有利に進み、特別損失は解消して株主にも債権者にも損失を与えなかった
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
    • [36]1947年に戦時補償が打ち切られたため、日本海運の現有船腹はすべて借入金によって建造された
    • [37]1963年時点の海運業界の負債は財政資金1900億円・市中銀行1110億円・造船会社への延払860億円・運転資金700億円・修繕費未払300億円で全体約5000億円、戦時補償打切額にほぼ見合う
    • [38]助成の条件として5年以内の償却不足解消と、合併により社船50万重量トンを含む運航船腹100万重量トン以上となることが課された
    • [40]計画造船の新造船割当が総花的に行われ海運会社は一時200社を超え、過当競争が各社の経営を弱めた
    • [41]大阪商船と三井船舶は1963年12月9日に合併調印し1964年4月1日に他の5中核体と一斉にスタート
    • [43]集約により日本郵船は三菱海運を、川崎汽船は飯野汽船を吸収合併し、日東商船と大同海運がジャパン・ライン、山下汽船と新日本汽船が山下新日本汽船、日本油槽船と日産汽船が昭和海運となり6中核体が誕生
    • [44]合併後の大阪商船三井船舶に属した系列会社は5社、専属会社は26社
    • [46]1つの業界を対象として集約を前提とした助成は他業界にも世界にも類がなく、戦前の総動員法に匹敵するものだった
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎
    • [39]1963年7月1日 海運業の再建整備に関する臨時措置法と利子補給法の改正が施行され、第17次以前の計画造船の支払利子を猶予し第18次以降の新造船への利子補給を強化
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
    • [42]合併時 資本金131億円・所有船舶86隻127万重量トン

出典・参考

5件
出典・参考
  • 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
  • 大阪商船株式会社八十年史(大阪商船三井船舶, 1966)
  • 企業の歴史 明治百年(1968)「大阪商船三井船舶」
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 3巻11号 武田正男
  • 証券アナリストジャーナル 1968年 6巻8号 宮本清四郎

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