名古屋鉄道:名古屋電気鉄道の創業と名古屋の市内電車
1894年〜京都の電気技術を入れた名古屋の馬車鉄道計画と、日本で2番目の電気軌道
名古屋電気鉄道の起点は、1894年6月12日に設立認可を得た愛知馬車鉄道である。県会議員の小塚逸夫氏・岡本清三氏・堀尾茂助氏の3人が、1893年6月23日に馬車鉄道の特許を出願した。特許出願書は枇杷島町について『抑モ同町ハ本市ノ咽喉ニシテ貨物輻輳ノ地タリ』と記し、狭い在来の道路しかない区間に新道を築く計画を掲げた。1894年3月17日に得た特許は、笹島~久屋町(県庁前)2.13キロ、本町~本町御門0.98キロ、笹島~枇杷島4.54キロの3路線。株式の引受者は少なく、設立登記は1895年4月5日まで遅れた。官鉄の名古屋駅と城下の市街、尾張西部の物流の結節点をつなぐ交通を、県政の有力者が先に押さえようとしたとみられる。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [1]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [2]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [4]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [5]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- 愛知馬車鉄道 特許出願書(1893年)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- [3]愛知馬車鉄道の特許出願書は枇杷島町を名古屋の咽喉で尾張西部の貨物が経由する地とし、名古屋停車場から同町まで新道を築く計画を記す
愛知馬車鉄道は1895年4月2日の株主総会で動力を電気に変える決議をし、1896年6月19日に社名を名古屋電気鉄道へ改めた。転換を主導したのは、京都で電気事業を率いていた大澤善助氏である。地元の商人は馬車鉄道への出資に消極的で、小塚逸夫氏と岡本清三氏は大澤善助氏を通じて京都財界に支援を求めた。大澤善助氏が掲げた参加の条件は、電車への切り替え。大澤善助氏は資本金を25万円に増やし、うち14万円を松居庄七氏ら京都側で引き受けたうえ、取締役として経営の指導に当たった。1896年6月3日には電気鉄道敷設の特許も下り、本町~熱田町5.7キロの熱田線を追加した。地元で安定した大株主を得られなかったことが、京都の資本と電気技術を同時に招き入れる結果につながったと思われる。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [6]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [7]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [10]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [11]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- 岡本清三 回想(伝記『大澤善助翁』1929年所収)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [8]岡本清三は株式引受者が少なく大澤善助を通じ京都財界に支援を求め、大澤が参加の条件として電車運行への切り替えを提案したと回想
- [9]岡本清三は株式引受者が少なく大澤善助を通じ京都財界に支援を求め、大澤が参加の条件として電車運行への切り替えを提案したと回想
名古屋電気鉄道の株式は1896年7月に上場し、払込額12円50銭に対して9月には115円まで買い上げられた。会社関係者も仕手戦に加わり、取引所の規制で株価が急落した後、株式の相当数が証券業者の手に残った。1897年1月には西川宇吉郎氏・高橋彦次郎氏ら証券業界に近い人物が取締役に入り、同年2月に白石半助氏が小塚逸夫氏に代わって社長に就任した。電車は1898年5月6日に笹島~県庁前で開業し、1895年開業の京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道となった。開業当日の車両は7両、1両の定員は26人。5月末までの26日間の乗車人員は16万6,283人、収入は3,075円52銭であった。官鉄の名古屋駅から市の中心へ向かう需要は、開業直後から確かな規模を持っていたのだろう。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [12]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [13]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [14]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [15]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [17]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- 名古屋市交通局『市営三十年史』(1952年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [16]開業当日の電車は7両、定員26人(座席12人)
参考文献[1]-[17]
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [1]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [2]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [4]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [5]愛知馬車鉄道は1893年6月23日に小塚逸夫・岡本清三・堀尾茂助が特許出願、1894年3月17日特許(笹島~久屋町2.13km・本町~本町御門0.98km・笹島~枇杷島4.54km)、同年6月12日設立認可、株式引受が少なく設立登記は1895年4月5日
- [6]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [7]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [10]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [11]1895年4月2日株主総会で電気鉄道への変更を決議、大澤善助が資本金を25万円に増資し14万円を松居庄七ら京都側で引受け取締役として経営を指導、1896年6月3日電気鉄道敷設特許(熱田線5.7km追加)、6月19日名古屋電気鉄道に改称
- [12]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [13]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [14]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [15]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- [17]1896年7月上場の株は払込12円50銭が9月115円に騰貴、急落後に証券業者が多く保有、1897年1月西川宇吉郎・高橋彦次郎らが取締役、2月白石半助が社長。1898年5月6日笹島~県庁前開業、京都電気鉄道に次ぐ国内2番目の電気軌道、26日間で16万6,283人・3,075円52銭
- 愛知馬車鉄道 特許出願書(1893年)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- [3]愛知馬車鉄道の特許出願書は枇杷島町を名古屋の咽喉で尾張西部の貨物が経由する地とし、名古屋停車場から同町まで新道を築く計画を記す
- 岡本清三 回想(伝記『大澤善助翁』1929年所収)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [8]岡本清三は株式引受者が少なく大澤善助を通じ京都財界に支援を求め、大澤が参加の条件として電車運行への切り替えを提案したと回想
- [9]岡本清三は株式引受者が少なく大澤善助を通じ京都財界に支援を求め、大澤が参加の条件として電車運行への切り替えを提案したと回想
- 名古屋市交通局『市営三十年史』(1952年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [16]開業当日の電車は7両、定員26人(座席12人)
1899年〜熱田線で上げた利益14万5千円と、紅葉屋一族が掌握した経営
名古屋電気鉄道は1908年5月3日に栄町~熱田駅前4.6キロの熱田線を開業し、港の方角へ路線を広げた。先行した押切線では、沿道の地主の協力を得て1899年4月に私設道路を着工し、道路の整備と一体で軌道を敷いた。熱田線は沿道住民の反対で長く着工できなかった。1905年11月に大津町通の拡幅へ経路を改め、会社は工事費43万円のうち20万円の負担に合意した。背景には熱田港の修築と熱田町の名古屋市編入があり、1907年10月に熱田港は名古屋港と改称して開港場に指定された。会社は1906年9月に資本金を100万円に増やして負担金と工事費の計60万円に充てた。1908年度の利益は14万5千円で前年度比204%となり、配当は上期10%・下期13%であった。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [18]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [20]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [21]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [22]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [23]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [24]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- 名古屋市建設局『名古屋都市計画史(上)』(1957年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [19]押切線のための私設道路は名古屋電鉄が沿道関係地主の協力を求め1899年4月16日着工、1900年11月2日竣成
1908年12月、取締役の富田重助氏が白石半助氏に代わって会長に就任した。富田重助氏は1900年1月に28歳で監査役となり、熱田線の経路にあたる本町通の有力者として住民との仲介を期待された。1907年1月20日には奥田正香氏宅の協議に加わり、尾張電車鉄道3株に名古屋電気鉄道1株を充てて事業を引き継ぐ裁定を受け入れた。会長就任後、経営は富田重助氏と同族の神野金之助氏が担い、両家の旧屋号から紅葉屋と呼ばれる事業グループに属した。1909年1月の組織改正で、会長制は社長制に戻った。上場直後の投機以来、証券業者と京都資本に分かれていた株主の上に、名古屋の土地・金融資本が経営の軸として座ったと考えられる。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [25]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [26]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [28]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [29]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- 富田重助「富田重助重慶日記」(富田企業『紅葉舎類聚 資料編』1977年9月所収)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- [27]1907年1月20日奥田正香宅で尾張電車鉄道買収を協議、尾張電車3株に名電1株の裁定を双方承認(富田出席)
参考文献[18]-[29]
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [18]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [20]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [21]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [22]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [23]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [24]熱田線は住民反対で着工できず、1905年11月大津町通拡幅で合意(工事費43万円中会社20万円)、1906年9月資本金100万円、1907年熱田町編入・名古屋港改称、1908年5月3日栄町~熱田駅前4.6km開通、1908年度利益14万5千円(前年度比204%)・配当上期10%下期13%
- [25]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [26]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [28]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- [29]富田重助(重慶)は1900年1月28歳で監査役、本町通の有力者として熱田線の住民仲介を期待され、1906年12月取締役、1908年12月白石に代わり会長、以後富田・神野金之助(重行)の紅葉屋グループの経営、1909年1月会長を社長に変更
- 名古屋市建設局『名古屋都市計画史(上)』(1957年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- [19]押切線のための私設道路は名古屋電鉄が沿道関係地主の協力を求め1899年4月16日着工、1900年11月2日竣成
- 富田重助「富田重助重慶日記」(富田企業『紅葉舎類聚 資料編』1977年9月所収)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- [27]1907年1月20日奥田正香宅で尾張電車鉄道買収を協議、尾張電車3株に名電1株の裁定を双方承認(富田出席)
1910年〜共進会で膨らんだ利益と、焼打ち事件から決めた市内線の譲渡
1910年3月16日から90日間、名古屋で第10回関西府県連合共進会が開かれ、入場者は236万人に達した。名古屋電気鉄道は築港線・公園線・枇杷島線の3線を急いで敷き、約22万円の増収を得た。熱田線以来の好成績で、取締役の大澤善助氏と監査役の松居庄七氏は地元株主の不満の的となった。同年上期の総会では証券業者系の株主が配当の引き上げを迫り、多数派工作を仕掛けた。専務の岡本清三氏は混乱を避けるため大澤善助氏に退任を求め、後任の取締役に神野金之助氏を迎えた。役員会では、配当を15%にとどめて増収分を積立金に留保する原案の可決。神野金之助氏は同年12月5日に富田重助氏に代わって社長に就任し、1914年には常務取締役の岡本清三氏とともに経営を率いていた。
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [30]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [31]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [32]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [33]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [34]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [35]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- 上遠野富之助「病中雑話」(1928年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- [36]1914年当時の名古屋電気鉄道は神野金之助が社長、岡本清三が常務取締役
名古屋電気鉄道は1912年8月6日に犬山線と一宮線を開業し、名古屋市外へ路線を広げた。発端は1906年夏に現れた尾張電車鉄道と一宮電気鉄道の計画で、会社は対抗出願を経て1907年に両社の事業を相次いで譲り受けた。尾張電車鉄道の発起趣意書は、犬山町を『岐阜県美濃及飛騨地方ハ勿論木曾飛騨両川沿岸ノ小都会ニ達スル咽喉ノ地タリ』と記し、沿線の物産を『米麦類最モ多クシテ重量物速達ノ運輸機関ヲ要スル』と書いた。3路線は軌道条例で特許を得ていたが、1910年4月公布の軽便鉄道法の方が有利となり、1912年3月に同法の免許へ切り替えた。郊外線の総工費は303万6,286円で、電力は火力の自給から名古屋電燈の木曾川発電所からの買電に改めた。犬山・一宮の路線は、1921年6月13日に発足する名古屋鉄道が継承する郊外事業の中核となる。
- 名古屋鉄道百年史(1994)2章 郊外電気鉄道に転進
- [37]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [38]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [40]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [41]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- 尾張電車鉄道 発起趣意書(1906年8月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- [39]尾張電車鉄道発起趣意書(1906年8月)は犬山町を美濃・飛騨への咽喉とし、米麦など重量物の速達運輸機関の必要を記す
- 証券 1955年
- [42]名古屋鉄道は1921年6月13日に名古屋電気鉄道から名古屋~犬山・岩倉~一宮などの郊外電鉄事業を継承して発足
1914年9月6日、運賃値下げを求める鶴舞公園の市民大会の後、群衆が電車や柳橋駅に放火し、軍隊が出動する焼打ち事件が起きた。会社の損害は12万円~13万円にのぼり、社長の神野金之助氏以下の全役員が辞意を表明した。取締役の上遠野富之助氏は、当時の自らを『私は伴食の取締役であった』と振り返った。その上遠野富之助氏が収拾に当たり、1区2銭・2区4銭・3区6銭の運賃で新聞社側と折り合った。新運賃は同年11月1日に実施され、12月に上遠野富之助氏が岡本清三氏に代わって常務となった。1915年12月には富田重助氏が神野金之助氏に代わって再び社長に返り咲いた。事件後は市営電車を望む声が強まり、会社は1920年に市内線を名古屋市へ譲渡することに合意した。1921年6月13日には郊外線を新設の名古屋鉄道に継承させ、市内線と郊外線を切り分けた。
- 名古屋鉄道百年史(1994)2章 郊外電気鉄道に転進
- [43]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [44]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [47]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [48]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [49]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- 上遠野富之助「病中雑話」(1928年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- [45]上遠野富之助は焼打ち事件後に新聞社と折衝し2銭・4銭・6銭の運賃に取り決め、同年12月に常務となったと回想
- [46]上遠野富之助は焼打ち事件後に新聞社と折衝し2銭・4銭・6銭の運賃に取り決め、同年12月に常務となったと回想
- 証券 1955年
- [50]名古屋鉄道は1921年6月13日に名古屋電気鉄道から郊外電鉄事業を継承して発足
参考文献[30]-[50]
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- [30]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [31]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [32]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [33]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [34]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- [35]第10回関西府県連合共進会(1910年3月16日~90日間、入場236万人)で築港・公園・枇杷島線を敷設し約22万円増収。地元株主に大澤善助・松居庄七が疎まれ、上期総会で岡本清三が大澤に引退を求め神野金之助が取締役、配当15%で原案承認、12月5日神野が社長
- 上遠野富之助「病中雑話」(1928年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- [36]1914年当時の名古屋電気鉄道は神野金之助が社長、岡本清三が常務取締役
- [45]上遠野富之助は焼打ち事件後に新聞社と折衝し2銭・4銭・6銭の運賃に取り決め、同年12月に常務となったと回想
- [46]上遠野富之助は焼打ち事件後に新聞社と折衝し2銭・4銭・6銭の運賃に取り決め、同年12月に常務となったと回想
- 名古屋鉄道百年史(1994)2章 郊外電気鉄道に転進
- [37]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [38]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [40]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [41]1906年夏に尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が出現、名電は対抗申請し1907年両社から事業譲受、軽便鉄道法(1910年4月公布)による免許を1912年3月取得、1912年8月6日犬山線・一宮線開通、総工費303万6,286円、名古屋電燈木曾川発電所から受電
- [43]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [44]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [47]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [48]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- [49]1914年9月6日鶴舞公園の市民大会後に焼打ち事件、損害12万~13万円、神野社長以下全役員が辞意。11月1日2・4・6制実施、12月岡本清三が常務を上遠野富之助に譲る、1915年12月富田重助が社長。1920年市内線の市への譲渡に合意
- 尾張電車鉄道 発起趣意書(1906年8月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- [39]尾張電車鉄道発起趣意書(1906年8月)は犬山町を美濃・飛騨への咽喉とし、米麦など重量物の速達運輸機関の必要を記す
- 証券 1955年
- [42]名古屋鉄道は1921年6月13日に名古屋電気鉄道から名古屋~犬山・岩倉~一宮などの郊外電鉄事業を継承して発足
- [50]名古屋鉄道は1921年6月13日に名古屋電気鉄道から郊外電鉄事業を継承して発足
出典・参考
10件
- 愛知馬車鉄道 特許出願書(1893年)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- 尾張電車鉄道 発起趣意書(1906年8月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所収
- 上遠野富之助「病中雑話」(1928年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- 岡本清三 回想(伝記『大澤善助翁』1929年所収)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- 名古屋市交通局『市営三十年史』(1952年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- 名古屋市建設局『名古屋都市計画史(上)』(1957年7月)、名古屋鉄道百年史(1994)1章所引
- 富田重助「富田重助重慶日記」(富田企業『紅葉舎類聚 資料編』1977年9月所収)、名古屋鉄道百年史(1994)2章所引
- 名古屋鉄道百年史(1994)1章 名古屋市内路面電車として誕生
- 名古屋鉄道百年史(1994)2章 郊外電気鉄道に転進
- 証券 1955年