第2章 年〜年

日本板硝子:英国から導入したフロート法と自動車用ガラスの二本立て

1949年〜統制撤廃と高級板ガラス専門工場の新設

板ガラスの生産は1949年に283万函まで戻る一方、ドッジラインの金詰まりや建築需要の落ち込みもあって需給の状況は良い方向に変わっていたことから、1950年4月28日、経済安定本部は板ガラスの統制撤廃に踏み切った。販売が自由になり、取引店は製造業者を好きに選べるようになって、新たな販路を探す動きが盛んになった。価格の統制だけは翌1951年3月23日まで続き、撤廃の時点で価格は終戦時の90倍に達していた。1950年6月28日には当社株が上場し、旧株24万5000株と新株125万5000株が市場に出た。当時の板ガラス製造業者は当社と旭硝子、徳永硝子の3社であり、月産能力は当社の14万8000函に対し旭硝子は27万6000函だった。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「自由販売の復活」
    • [1]板ガラスの生産は1949年に283万函となり、ドッジラインによる金詰まりや建築需要の減退で需給関係が好転した
    • [2]1950年4月28日に経済安定本部が板ガラスの統制撤廃に踏み切った
    • [3]自由販売により取引店が製造業者を自由に選べるようになり、新しい販路を求める動きが活発になった
    • [4]板ガラスの価格統制は1951年3月23日に撤廃され、当時の価格は終戦時の90倍になっていた
  • 証券 1950年
    • [5]1950年6月28日に新規上場し、上場株式は旧株24万5000株・新株125万5000株であった
    • [6]1950年時点で板ガラスを製造していたのは当社・旭硝子・徳永硝子の3社で、月産能力は当社14万8000函、旭硝子27万6000函であった

1949年8月、当社は型板ガラスと磨板ガラスの専門工場を新設する方針を決めた。建築が応急の復旧から高層化・耐火耐震化へ移り、型板・磨板といった高級品が建築用のみならず自動車・鉄道車輛・鏡にも使われ始めていた。磨板ガラスは型板ガラスの厚物を素板とするため両方の設備を一つの工場へまとめるほうが合理的だったが、二島・四日市の既設工場には敷地の余裕が無かった。旧軍用地を中心に30余カ所の候補地を当たったうえで、1949年12月に兵庫県飾磨と京都府舞鶴の二カ所へ絞り、海軍重油槽跡の舞鶴を選んでいる。政府から払い下げを受けた約4万坪の国有地へ、四日市工場の磨板設備と若松工場の型板設備を移す計画であった。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「舞鶴工場の建設」
    • [7]1949年8月に設備計画を検討した結果、型板ガラス・磨板ガラスの専門工場を新設することを決定した
    • [8]建築が応急の復旧から高層化・耐火耐震化へ進み、型板ガラス・磨板ガラスが建築用のほか自動車・鉄道車輛・鏡にも使われるようになった
    • [9]磨板ガラスは型板ガラスの厚物を素板とするため両設備を一工場にまとめるのが得策だったが、二島・四日市両工場には敷地の余裕が無かった
    • [10]第三工場の候補地は旧軍用地を中心に30余カ所に上った
    • [11]1949年12月に候補地を兵庫県飾磨と京都府舞鶴の二カ所へ絞り、海軍重油槽跡の舞鶴を第一候補とした
  • 証券 1950年
    • [12]舞鶴市に政府から払下げを受けた約4万坪の国有地へ新工場を建設し、四日市工場の磨板設備と若松工場の型板設備を移駐する計画であった

戦後の板ガラス輸出は、国内需要さえ満たせない1947年に、GHQの指示による琉球・朝鮮・ジャワ向けの指示輸出から再開した。輸出の窓口を絞り込む整理に当社が乗り出したのは、東南アジア市場で日本の各社が互いに値を競っていたためである。1949年時点の輸出は22万5119函で、同年に生産した283万1284函の8.0パーセントを占めていた。販路が東南アジアに及ぶにつれ、中国やチェコスロバキア、ポーランドなど共産圏の国々が安値で売り込み、伸びの妨げとなった。当社は数の多すぎた商社と現地業者を整理し、行き先ごとに商社は一社、エージェントも一社とし、それもなるべく業界で共通の相手を選ぶやり方に切り替えた。フィリピン、イラン、クウェートなどでは、1957年から1959年にかけて当社が業界共通の現地エージェントを指定した。他業界がまだ日本品同士で過当競争を続けていた時期に、当社はそれに先んじて輸出の秩序をつくり上げた。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「自由販売の復活」
    • [13]1947年にGHQの指示により琉球・朝鮮・ジャワ向けの板ガラス輸出が再開され、当社が二島工場で生産・出荷した
    • [14]1949年の板ガラス輸出は22万5119函で、同年の生産283万1284函の8.0パーセントであった
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
    • [15]輸出拡大の最大の障害は中国・チェコスロバキア・ポーランドなど共産圏諸国による安値輸出であった
    • [16]乱立していた商社と現地販売業者を整理し、仕向地ごとに一商社一エージェント、できる限り業界共通のものを選定する方式へ改めた
    • [17]1957年から1959年にかけてフィリピン、マラヤ連邦、イラン、イラク、クウェート、バーレーンで業界共通の現地エージェントを指定した
参考文献[1]-[17]
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「自由販売の復活」
    • [1]板ガラスの生産は1949年に283万函となり、ドッジラインによる金詰まりや建築需要の減退で需給関係が好転した
    • [2]1950年4月28日に経済安定本部が板ガラスの統制撤廃に踏み切った
    • [3]自由販売により取引店が製造業者を自由に選べるようになり、新しい販路を求める動きが活発になった
    • [4]板ガラスの価格統制は1951年3月23日に撤廃され、当時の価格は終戦時の90倍になっていた
    • [13]1947年にGHQの指示により琉球・朝鮮・ジャワ向けの板ガラス輸出が再開され、当社が二島工場で生産・出荷した
    • [14]1949年の板ガラス輸出は22万5119函で、同年の生産283万1284函の8.0パーセントであった
    • [5]1950年6月28日に新規上場し、上場株式は旧株24万5000株・新株125万5000株であった
    • [6]1950年時点で板ガラスを製造していたのは当社・旭硝子・徳永硝子の3社で、月産能力は当社14万8000函、旭硝子27万6000函であった
    • [12]舞鶴市に政府から払下げを受けた約4万坪の国有地へ新工場を建設し、四日市工場の磨板設備と若松工場の型板設備を移駐する計画であった
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「舞鶴工場の建設」
    • [7]1949年8月に設備計画を検討した結果、型板ガラス・磨板ガラスの専門工場を新設することを決定した
    • [8]建築が応急の復旧から高層化・耐火耐震化へ進み、型板ガラス・磨板ガラスが建築用のほか自動車・鉄道車輛・鏡にも使われるようになった
    • [9]磨板ガラスは型板ガラスの厚物を素板とするため両設備を一工場にまとめるのが得策だったが、二島・四日市両工場には敷地の余裕が無かった
    • [10]第三工場の候補地は旧軍用地を中心に30余カ所に上った
    • [11]1949年12月に候補地を兵庫県飾磨と京都府舞鶴の二カ所へ絞り、海軍重油槽跡の舞鶴を第一候補とした
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
    • [15]輸出拡大の最大の障害は中国・チェコスロバキア・ポーランドなど共産圏諸国による安値輸出であった
    • [16]乱立していた商社と現地販売業者を整理し、仕向地ごとに一商社一エージェント、できる限り業界共通のものを選定する方式へ改めた
    • [17]1957年から1959年にかけてフィリピン、マラヤ連邦、イラン、イラク、クウェート、バーレーンで業界共通の現地エージェントを指定した

1954年〜自動車用安全ガラスへの二次加工進出

1954年5月、経営難で整理会社となっていた帝国化学工業の管理人から、工場設備一切を買い取ってほしいという申し入れが当社に届いた。当社は終戦後に一時作っていた安全ガラスの製造を止め、加工業者へ素板を供給するだけの立場に退いていたが、朝鮮動乱以降の自動車業界の回復で需要が伸び、製造の再開を準備していたところだった。当社が帝国化工から買い取ったのは土地・建物と合せガラスの製造設備だけで、先行きの見込めない他の部門は対象から外した。その合せガラス設備は連続方式で月に4000平方メートルを作る能力があり、東洋工業という手堅い得意先もついていた。安全ガラスはもっぱら二次加工の部門に属するので、製造は別会社に任せることにした。同年11月9日、資本金1000万円の日本安全硝子を全額出資で設け、そこに生産を担わせている。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
    • [18]1954年5月に整理会社となっていた帝国化学工業の管理人から工場設備一切を買い取ってほしいとの申入れがあった
    • [19]当社は終戦後に一時安全ガラスを製造したが需要が少なく停止し、加工業者に素板を供給していた
    • [20]合せガラス部門以外は未経験で将来性も期待できないとして、土地・建物と合せガラス製造設備だけを買収した
    • [21]帝国化工の合せガラス設備は近代的な連続方式で生産能力は月産4000平方メートル、東洋工業という安定した需要先を持っていた
    • [22]1954年11月9日に資本金1000万円・全額当社出資の日本安全硝子株式会社を設立し、安全ガラスの製造を担わせた

自動車のデザインの変化につれて、平らなガラスより曲げガラスが求められるようになり、値段の低い強化ガラスが大きく伸びていた。運輸省が1956年12月に道路運送車輛保安基準を改正し、フロントガラスへの安全ガラス使用を自動車に義務づけた。需要が法令によって押し上げられたのを受け、1958年3月、日本安全硝子は曲げ合せガラスと強化ガラスを連続で作る設備を増設し、能力は月産で合わせて1万100平方メートルになった。当社は従来の東洋工業に加えてトヨタ自動車と日産自動車を得意先とし、素板の供給と販売を当社、製造を日本安全硝子が受け持つ分担を組んだ。磨板ガラスも、自動車工業の発展や建物の高級化を受けて国内の需要が増えた。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
    • [23]自動車のデザインの変化で曲げガラスの要求が増え、合せガラスより価格の安い強化ガラスの伸びが目立っていた
    • [24]1956年12月に運輸省の道路運送車輛保安基準が改正され、自動車のフロントガラスには安全ガラスを使用しなければならなくなった
    • [25]日本安全硝子は1958年3月に曲げ合せガラスおよび強化ガラスの連続式製造設備を増設し、生産能力は月産合計1万100平方メートルとなった
    • [26]従来の得意先である東洋工業に加え、トヨタ自動車・日産自動車をはじめとする新規需要先を獲得した
    • [27]日本安全硝子は当社から素板の供給を受けて安全ガラスを製造し、販売業務は当社が受け持った
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
    • [28]自動車工業の発展と建築様式の高級化により磨板ガラスの国内需要が急激に増加した

板ガラスの輸入自由化は1960年10月から品種別・厚み別に順次進み、1963年8月までに普通板ガラス・型板ガラス・網入板ガラス・安全ガラスを終えて、残るのは磨板ガラスだけとなった。1963年の日本の普通板ガラス生産量は世界の10.5パーセントを占め、ソ連・米国に次ぐ第3位にあった。ところが磨板ガラスの生産量は自由圏のわずか3.5パーセントにとどまっていた。普通板ガラスの需要を100としたときの磨板ガラスの需要は、西欧の30に対して日本では3ないし4に過ぎず、量産体制の遅れがそのまま原価高を招いて、欧米諸国より著しく不利な立場に置かれていた。国民一人当たりの消費量でみても、1962年ごろの日本は米国の10分の1であった。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
    • [29]板ガラスの輸入自由化は1960年10月から品種別・厚み別に実施され、1963年8月までに普通板ガラス・型板ガラス・網入板ガラス・安全ガラスの自由化を終え、磨板ガラスを残すのみとなった
    • [30]1963年の日本の普通板ガラス等の生産量は世界の10.5パーセントでソ連・米国に次ぐ第3位であった
    • [31]1963年の日本の磨板ガラス生産量は自由圏諸国の約3.5パーセントに過ぎなかった
    • [32]普通板ガラスの需要を100とした磨板ガラスの需要は西欧の30に対し日本では3ないし4にとどまっていた
    • [33]磨板ガラスの量産体制の遅れが原価高を招き、欧米諸国より著しく不利な立場にあった
    • [34]1962年ごろの日本の磨板ガラスの一人当たり消費量は米国の10分の1に過ぎなかった
参考文献[18]-[34]
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
    • [18]1954年5月に整理会社となっていた帝国化学工業の管理人から工場設備一切を買い取ってほしいとの申入れがあった
    • [19]当社は終戦後に一時安全ガラスを製造したが需要が少なく停止し、加工業者に素板を供給していた
    • [20]合せガラス部門以外は未経験で将来性も期待できないとして、土地・建物と合せガラス製造設備だけを買収した
    • [21]帝国化工の合せガラス設備は近代的な連続方式で生産能力は月産4000平方メートル、東洋工業という安定した需要先を持っていた
    • [22]1954年11月9日に資本金1000万円・全額当社出資の日本安全硝子株式会社を設立し、安全ガラスの製造を担わせた
    • [23]自動車のデザインの変化で曲げガラスの要求が増え、合せガラスより価格の安い強化ガラスの伸びが目立っていた
    • [24]1956年12月に運輸省の道路運送車輛保安基準が改正され、自動車のフロントガラスには安全ガラスを使用しなければならなくなった
    • [25]日本安全硝子は1958年3月に曲げ合せガラスおよび強化ガラスの連続式製造設備を増設し、生産能力は月産合計1万100平方メートルとなった
    • [26]従来の得意先である東洋工業に加え、トヨタ自動車・日産自動車をはじめとする新規需要先を獲得した
    • [27]日本安全硝子は当社から素板の供給を受けて安全ガラスを製造し、販売業務は当社が受け持った
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
    • [28]自動車工業の発展と建築様式の高級化により磨板ガラスの国内需要が急激に増加した
    • [29]板ガラスの輸入自由化は1960年10月から品種別・厚み別に実施され、1963年8月までに普通板ガラス・型板ガラス・網入板ガラス・安全ガラスの自由化を終え、磨板ガラスを残すのみとなった
    • [30]1963年の日本の普通板ガラス等の生産量は世界の10.5パーセントでソ連・米国に次ぐ第3位であった
    • [31]1963年の日本の磨板ガラス生産量は自由圏諸国の約3.5パーセントに過ぎなかった
    • [32]普通板ガラスの需要を100とした磨板ガラスの需要は西欧の30に対し日本では3ないし4にとどまっていた
    • [33]磨板ガラスの量産体制の遅れが原価高を招き、欧米諸国より著しく不利な立場にあった
    • [34]1962年ごろの日本の磨板ガラスの一人当たり消費量は米国の10分の1に過ぎなかった

1959年〜フロート法の技術導入と1970年代の減量経営

1959年1月、英国のピルキントン・ブラザーズ社がフロート方式の企業化に成功したと全世界へ発表した。熔かした金属の上にガラスを浮かべて両面を平らにする製法で、磨く工程を経ずに磨板ガラスと同じ平坦さを得られ、製造コストも大幅に下がる。当社は発表の一週間後に技術供与の意向を打診したが、技術の一部が未完成であることを理由に断られている。中村文夫社長が英国へ渡って重ねて申し入れたのは、2年半後の1961年秋だった。ピルキントン社のハリー・ピルキントン社長は、世界の最高度の技術水準にある板ガラスメーカーにのみ輸出する方針を強調したうえで、近い将来の供与を約束している。1964年3月、滝本常務らがロンドンで導入契約に調印した。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「フロート板ガラスへの進出」
    • [35]ピルキントン・ブラザーズ社は1959年1月にフロート方式の企業化成功を全世界に発表した
    • [36]フロート方式は熔融金属の上にガラスを浮かべて両面を平らにする製法で、磨板ガラスの製法に比べ工程が簡単で製造コストを大幅に節減できる
    • [37]発表の一週間後に技術供与の意向を打診したが、技術の一部が未完成であることを理由に供与できないとの回答を受けた
    • [38]中村文夫社長がピルキントン社を訪ねて重ねて技術導入を申し入れたのは1961年秋であった
    • [39]ハリー・ピルキントン社長は世界最高度の技術水準にある板ガラスメーカーにのみ輸出する方針を強調し、近い将来の供与を約束した
    • [40]1964年3月に滝本常務・坂井取締役がロンドンでフロート板ガラス製造技術導入の契約に調印した

フロート方式の導入には政府の認可という関門があった。一窯の生産能力は年間50万函に達し、当社・旭硝子・セントラル硝子の3社が導入すれば年産150万函となるのに対し、当時の磨板ガラスの国内需要は年間5、60万函に過ぎなかった。中村会長らが通商産業大臣ら政府関係者を訪ねて意義を説き、大蔵省外資審議会の審議を経て、1964年8月11日に認可されている。年産50万函の能力を持つフロート設備が舞鶴工場で動き出したのは1965年11月15日である。建設にあたっては三号窯を改造した。同工場は1959年にも、同一の熔槽で普通板ガラスと型板ガラスを並行して作る改造をやり遂げていた。翌1966年6月、当社は8ミリ厚以上の特厚物をつくる方法を開発した。ピルキントン社でさえまだ開発の途中にあった製品で、8月には世界に先がけて売り出した。特厚物の製法はピルキントン社にノウハウとして供与し、併せて各国で特許を出願した。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「フロート板ガラスへの進出」
    • [41]フロート方式の技術導入契約は政府の認可を要し、当社は1964年5月に技術導入契約認可申請書を政府に提出した
    • [42]フロートは一窯の生産能力が年間50万函に上り、3社が導入すれば年産150万函となる一方、当時の磨板ガラスの需要は年間5、60万函に過ぎなかった
    • [43]中村会長ら首脳が通産大臣ら政府関係筋に説明し、大蔵省外資審議会の審議を経て1964年8月11日にフロート板ガラス技術導入が正式に認可された
    • [44]舞鶴工場三号窯を改造して年産能力50万函のフロート設備を建設し、1965年11月15日に操業を開始した
    • [46]1966年6月にピルキントン社でも開発途上にあった8ミリ厚以上の特厚物の製造方法を開発し、8月から世界で初めて発売した
    • [47]特厚物の製造技術についてはピルキントン社にノウハウを提供するとともに世界各国に特許を申請した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
    • [45]舞鶴工場一号窯は1959年にコルバーン方式とロールアウト方式の製板機を併置して普通板ガラスと型板ガラスの同時生産を始め、世界に例のない試みとして業界の注目を集めた

1968年の創立50周年を機に始めた多角化は、10年と経たずに解消された。1971年に設立したアルミサッシの日本スミサッシは1974年9月に吸収し、同じ年にガラス繊維補強プラスチックの部門からも撤退している。第一次石油危機後の需要減が重なって1976年3月期には33億7600万円の経常欠損を出し、上場以来初めての無配に転落した。約700人の希望退職を募ったうえで川瀬二郎社長と5人の役員が退任し、同年6月に住友化学工業専務の菅沼俊彦氏が社長として送り込まれた。菅沼氏は社長室の全メンバーを入れ替えて在庫と債権を計数で管理し、翌1977年3月期には17億4700万円の経常利益を計上している。1977年末には創業以来の若松工場を閉鎖することで労働組合と合意している。ガラス以外の収益源を持たない会社にとって、減量はそのまま本業の立て直しだった。

  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
    • [48]1968年の創立50周年を機に多角化を開始した
    • [49]1971年に設立したアルミサッシの日本スミサッシを1974年9月に吸収し、同年にFRP部門から撤退した
    • [50]1976年3月期に33億7600万円の経常欠損を出し、上場以来初の無配に転落した
    • [51]約700人の希望退職を募り、川瀬二郎社長と5人の役員が退任、1976年6月に住友化学工業専務の菅沼俊彦が社長に就任した
    • [52]菅沼体制の発足とともに社長室の全メンバーを一新して管理する情報の範囲を広げ、1977年3月期に17億4700万円の経常利益を計上した
    • [53]1977年末に創業以来続いた若松工場を閉鎖することで労働組合と合意し、年間20億円の固定費節減を見込んだ
参考文献[35]-[53]
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「フロート板ガラスへの進出」
    • [35]ピルキントン・ブラザーズ社は1959年1月にフロート方式の企業化成功を全世界に発表した
    • [36]フロート方式は熔融金属の上にガラスを浮かべて両面を平らにする製法で、磨板ガラスの製法に比べ工程が簡単で製造コストを大幅に節減できる
    • [37]発表の一週間後に技術供与の意向を打診したが、技術の一部が未完成であることを理由に供与できないとの回答を受けた
    • [38]中村文夫社長がピルキントン社を訪ねて重ねて技術導入を申し入れたのは1961年秋であった
    • [39]ハリー・ピルキントン社長は世界最高度の技術水準にある板ガラスメーカーにのみ輸出する方針を強調し、近い将来の供与を約束した
    • [40]1964年3月に滝本常務・坂井取締役がロンドンでフロート板ガラス製造技術導入の契約に調印した
    • [41]フロート方式の技術導入契約は政府の認可を要し、当社は1964年5月に技術導入契約認可申請書を政府に提出した
    • [42]フロートは一窯の生産能力が年間50万函に上り、3社が導入すれば年産150万函となる一方、当時の磨板ガラスの需要は年間5、60万函に過ぎなかった
    • [43]中村会長ら首脳が通産大臣ら政府関係筋に説明し、大蔵省外資審議会の審議を経て1964年8月11日にフロート板ガラス技術導入が正式に認可された
    • [44]舞鶴工場三号窯を改造して年産能力50万函のフロート設備を建設し、1965年11月15日に操業を開始した
    • [46]1966年6月にピルキントン社でも開発途上にあった8ミリ厚以上の特厚物の製造方法を開発し、8月から世界で初めて発売した
    • [47]特厚物の製造技術についてはピルキントン社にノウハウを提供するとともに世界各国に特許を申請した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
    • [45]舞鶴工場一号窯は1959年にコルバーン方式とロールアウト方式の製板機を併置して普通板ガラスと型板ガラスの同時生産を始め、世界に例のない試みとして業界の注目を集めた
  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
    • [48]1968年の創立50周年を機に多角化を開始した
    • [49]1971年に設立したアルミサッシの日本スミサッシを1974年9月に吸収し、同年にFRP部門から撤退した
    • [50]1976年3月期に33億7600万円の経常欠損を出し、上場以来初の無配に転落した
    • [51]約700人の希望退職を募り、川瀬二郎社長と5人の役員が退任、1976年6月に住友化学工業専務の菅沼俊彦が社長に就任した
    • [52]菅沼体制の発足とともに社長室の全メンバーを一新して管理する情報の範囲を広げ、1977年3月期に17億4700万円の経常利益を計上した
    • [53]1977年末に創業以来続いた若松工場を閉鎖することで労働組合と合意し、年間20億円の固定費節減を見込んだ

1950年〜1985年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 95 n/a 19 n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 100 +5.3% 16 n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 106 +6.0% n/a n/a 8 7.5% n/a
1960年03月期 単体 133 +25.5% n/a n/a 9 6.8% n/a
1961年03月期 単体 157 +18.0% n/a n/a 10 6.4% n/a
1962年03月期 単体 179 +14.0% n/a n/a 13 7.3% n/a
1963年03月期 単体 189 +5.6% n/a n/a 14 7.4% n/a
1964年03月期 単体 221 +16.9% n/a n/a 15 6.8% n/a
1965年03月期 単体 241 +9.0% n/a n/a 16 6.6% n/a
1966年03月期 単体 243 +0.8% n/a n/a 16 6.6% n/a
1967年03月期 単体 270 +11.1% n/a n/a 16 5.9% n/a
1968年03月期 単体 312 +15.6% n/a n/a 18 5.8% n/a
1969年03月期 単体 350 +12.2% n/a n/a 21 6.0% n/a
1970年03月期 単体 380 +8.6% n/a n/a 22 5.8% n/a
1971年03月期 単体 426 +12.1% n/a 39 23 5.4% n/a
1972年03月期 単体 429 +0.7% n/a 22 15 3.5% n/a
1973年03月期 単体 509 +18.6% n/a 19 15 2.9% n/a
1974年03月期 単体 649 +27.5% n/a 26 13 2.0% n/a
1975年03月期 単体 676 +4.2% n/a 7 11 1.6% n/a
1976年03月期 単体 731 +8.1% n/a ▲34 ▲2 ▲0.3% n/a
1977年03月期 単体 848 +16.0% n/a 17 1 0.1% n/a
1978年03月期 単体 825 ▲2.7% n/a 20 1 0.1% n/a
1979年03月期 単体 955 +15.8% n/a 78 26 2.7% 舞鶴工場にフロート方式による板ガラス製造設備を新設(1978/06)
1980年03月期 単体 1,333 +39.6% n/a 136 48 3.6% n/a
1981年03月期 単体 1,578 +18.4% n/a 100 46 2.9% n/a
1982年03月期 単体 1,684 +6.7% n/a 104 38 2.3% n/a
1983年03月期 単体 1,774 +5.3% n/a 108 40 2.3% n/a
1984年03月期 単体 1,822 +2.7% n/a 136 55 3.0% 筑波研究所を設置(1983/10)
1985年03月期 単体 1,940 +6.5% n/a 141 57 2.9% n/a

出所:上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「自由販売の復活」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「舞鶴工場の建設」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「貿易の自由化と板ガラス」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「安全ガラス部門への進出」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「フロート板ガラスへの進出」
  • 日経ビジネス 1978年1月30日号
  • 証券 1950年

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