第1章 年〜年

日本板硝子:米国の製法特許と住友本社の資金による日米板硝子の設立

1918年〜特許を現物出資として受け取った創立

1918年11月22日、日米板硝子株式会社が大阪で設立された。創立資本金は300万円で半額払込、出資したのは米国のリビー・オーエンス・シート・グラス社と住友、旭硝子である。会社を構想したのは杉田與三郎氏だった。1885年に大阪の薪炭商の家に生まれ、その家は住友別子鉱業所へ木炭を納めていた。1909年にシカゴ大学を卒業して大阪の島商店に入り、1914年に製瓶機械の導入交渉で渡米した折、トレド社がコルバーン式の板ガラス製法を工業化しようとしている現場をたまたま見学した。この見学が板ガラスへの転身を決めさせている。当時の国内では板ガラスの工業化が幾度も試みられては技術の壁で失敗しており、機械製法を持つことがそのまま事業の成否を意味していた。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [1]1918年11月22日に日米板硝子株式会社が設立された
    • [2]創立資本金は300万円で半額払込だった
    • [3]出資者は米リビー・オーエンス・シート・グラス社、住友、旭硝子である
    • [6]国内では板ガラスの工業化が明治期を通じて技術的困難により失敗を繰り返していた
  • NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法(連続板引法)の導入」
    • [4]会社を構想したのは杉田與三郎で、1885年に大阪の薪炭商の家に生まれた
    • [5]杉田與三郎は1909年にシカゴ大学を卒業し、1912年に島商店へ入社、1914年に渡米してトレド社のコルバーン式研究を見学した

住友総本店支配人の山下芳太郎氏がいたのはニューヨークで、1917年9月にふたたび米国へ渡った杉田氏はそこを訪れて支援を頼んだ。国のためになる仕事なら進んで乗り出すべきだというのが、山下氏の返事だった。特許を得られるかどうかに事業の成り行きがかかっていた。権利料は200万円前後と見込んでいたが、リビー・オーエンス社は400万円を下回っては応じないとして交渉は止まり、何度かのやり取りの末に同年12月、契約がまとまった。対価として同社が得たのは、新会社の株式2万株(額面100万円、発行株数の3分の1)と10万ドルで、特許の代金を現金ではなく株で支払う格好になった。当時はリビー社も板ガラス製品を出してからまだ数か月にすぎず、世界でこの特許の譲渡を受けた者は杉田氏一人に限られた。

  • NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法(連続板引法)の導入」
    • [7]1917年9月に渡米した杉田與三郎は住友総本店支配人の山下芳太郎をニューヨークに訪ねて援助を求めた
    • [8]特許権料は当初200万円程度の見込みに対し、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲渡できないとした
    • [9]リビー社は特許料として新会社株式2万株(額面100万円・発行株数の3分の1)と10万ドルを受け取った
    • [10]この特許を世界で譲り受けたのは杉田與三郎ただ一人だった

社名の日米板硝子は、リビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた。会社の出自をそのまま社名に書き込んでいる。1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、同年11月に米国からコルバーン機が届いた。12月には現場監督のオットー・C・ミラー氏らリビー社の技術陣が来日して据付を指導する。1920年10月1日午前零時、引上げ作業が始まった。午前1時に板状のガラスが切台へ姿を現し、初めは斑点が一面に出ていたものの、朝8時ごろにはくもりが消えて3ミリほどの厚みのガラスが順調に出るようになった。国内で最初の自動連続引上法による板ガラスであり、手吹きから機械生産への転換にあたる。

  • NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法(連続板引法)の導入」
    • [11]社名の日米板硝子はリビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた
    • [13]リビー社の現場監督オットー・C・ミラーらが1919年12月に来日して据付を指導した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「二島工場建設」
    • [12]1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、1920年10月に操業を開始した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [14]1920年10月1日午前零時に引上げ作業が始まり、国内最初の自動連続引上法による板ガラスとなった
参考文献[1]-[14]
    • [1]1918年11月22日に日米板硝子株式会社が設立された
    • [2]創立資本金は300万円で半額払込だった
    • [3]出資者は米リビー・オーエンス・シート・グラス社、住友、旭硝子である
    • [6]国内では板ガラスの工業化が明治期を通じて技術的困難により失敗を繰り返していた
    • [14]1920年10月1日午前零時に引上げ作業が始まり、国内最初の自動連続引上法による板ガラスとなった
    • [4]会社を構想したのは杉田與三郎で、1885年に大阪の薪炭商の家に生まれた
    • [5]杉田與三郎は1909年にシカゴ大学を卒業し、1912年に島商店へ入社、1914年に渡米してトレド社のコルバーン式研究を見学した
    • [7]1917年9月に渡米した杉田與三郎は住友総本店支配人の山下芳太郎をニューヨークに訪ねて援助を求めた
    • [8]特許権料は当初200万円程度の見込みに対し、リビー・オーエンス社は400万円以下では譲渡できないとした
    • [9]リビー社は特許料として新会社株式2万株(額面100万円・発行株数の3分の1)と10万ドルを受け取った
    • [10]この特許を世界で譲り受けたのは杉田與三郎ただ一人だった
    • [11]社名の日米板硝子はリビー・オーエンス社との関係を示すために選ばれた
    • [13]リビー社の現場監督オットー・C・ミラーらが1919年12月に来日して据付を指導した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「二島工場建設」
    • [12]1919年に福岡県遠賀郡の二島で工場建設が始まり、1920年10月に操業を開始した

1922年〜住友への経営委任と四日市への生産拠点移転

操業にこぎつけて間もなく、第一次世界大戦後の反動不況が来た。業績は悪化し、経営は行き詰まる。1922年8月、臨時株主総会の決議によって、資金と経営の一切を住友本社へ一任した。技術を米国から、資金と経営を住友から借りる形が、ここで定まっている。以後は住友財閥の傘下に入り、1928年2月に資本金を400万円へ増やして若松工場の設備を改良した。1931年1月には社名を日本板硝子へ改めている。米国との関係を掲げた社名を13年で下ろした形だが、リビー社との関係自体は続き、1922年から1938年まで同社は代表者を役員として送り込んで経営に加わった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [15]1922年8月の臨時株主総会決議により資金と経営の一切を住友本社へ一任し、住友財閥傘下に入った
    • [17]1922年から1938年までリビー社は代表者を役員として派遣し経営に参画した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1931年1月に社名を日本板硝子へ変更した

関東の大地震で当社が受けた損害は、東京販売店の主任がけがを負い、1万5319円分の製品が焼けた程度で済んだ。1923年9月1日のこの地震は、復興資材である板ガラスに突然大きな需要を生んだ。その日の夕方には品種や品質を問わず注文が押し寄せ、工場の在庫は数カ月で底をついた。一時は15万円余りにのぼった住友合資会社の融資は同年11月までに返し終え、1924年6月には東京株式取引所の実物市場に当社株が初めて登場した。しかし需要の高まりは長くは続かなかった。復興のため関税がかからなくなり、30万函を超える板ガラスが海外から入ってきた。並板の価格は震災後の一函13円から1926年7月に8円、翌年には7円50銭へと下落し、1927年上期は12万余円の損失を出した。震災で片づいたのは借金であり、輸入品との値段の開きは残った。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「関東大震災と輸入品の流入」
    • [18]関東大震災による当社の被害は東京販売店主任の負傷と1万5319円相当の製品焼失にとどまった
    • [19]1923年9月1日の関東大震災は復興資材として板ガラスの突発的な大需要を呼んだ
    • [20]震災当日夕刻から品種・品質・サイズを問わない注文が殺到し、工場在庫の大部分は数カ月のうちに売り尽くされた
    • [21]一時15万円余に達していた住友合資会社からの融資金を1923年11月までに完済した
    • [22]1924年6月に株式が東京株式取引所実物市場に初めて上場し、1株17円50銭で100株の取引が成立した
    • [23]震災の復興対策として関税が免除され、30万函を超える板ガラスが輸入された
    • [24]並板の価格は震災後の一函13円から1926年7月に8円、翌年には7円50銭へ下落した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [25]1927年上期に12万余円の損失金を計上した

若松の二島工場は原燃料となる珪砂や石炭を調達しやすい反面、東京・名古屋・大阪といった大消費地から離れており、運賃がかさみ、運ぶ途中で割れる品も多かったため、1934年7月の定時株主総会は第二工場の建設資金として資本金を400万円から1000万円に引き上げる案を可決した。候補地は大阪北港の埋立地でほぼ固まっていたものの、1934年9月の室戸台風で、測量を終えた直後の土地へ汽船が打ち上げられ、計画は取りやめとなった。代わりの四日市は東京と大阪の間に位置して名古屋を背後に持ち、中京地区に板ガラスの工場は一つも無かった。1936年12月1日に第二工場として発足した。二炉を持ちながら、生産過剰を警戒して一炉だけで操業した時期が長く、戦前に二炉がそろって動いたのは1938年7月までの半年余りにすぎない。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「四日市工場の建設」
    • [26]二島工場は原燃料の入手に有利な立地だが大消費地から遠く、製品の運賃が割高で輸送中の破損も多かった
    • [27]1934年7月の第31回定時株主総会で資本金を400万円から1000万円へ増やす増資案が可決された
    • [28]第二工場の建設地は大阪北港埋立地にほぼ内定していたが、1934年9月の室戸台風の高潮被害を受けて計画が中止された
    • [29]四日市を選んだ理由は東京と大阪の中間に位置し大消費地名古屋を控えること、中京方面に板ガラス工場が無いことなどであった
    • [31]四日市工場が戦前に二炉操業を行ったのは1938年7月までの約半年に過ぎなかった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
    • [30]四日市工場は1936年12月1日に第二工場として発足した
参考文献[15]-[31]
    • [15]1922年8月の臨時株主総会決議により資金と経営の一切を住友本社へ一任し、住友財閥傘下に入った
    • [17]1922年から1938年までリビー社は代表者を役員として派遣し経営に参画した
    • [25]1927年上期に12万余円の損失金を計上した
    • [30]四日市工場は1936年12月1日に第二工場として発足した
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
    • [16]1931年1月に社名を日本板硝子へ変更した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「関東大震災と輸入品の流入」
    • [18]関東大震災による当社の被害は東京販売店主任の負傷と1万5319円相当の製品焼失にとどまった
    • [19]1923年9月1日の関東大震災は復興資材として板ガラスの突発的な大需要を呼んだ
    • [20]震災当日夕刻から品種・品質・サイズを問わない注文が殺到し、工場在庫の大部分は数カ月のうちに売り尽くされた
    • [21]一時15万円余に達していた住友合資会社からの融資金を1923年11月までに完済した
    • [22]1924年6月に株式が東京株式取引所実物市場に初めて上場し、1株17円50銭で100株の取引が成立した
    • [23]震災の復興対策として関税が免除され、30万函を超える板ガラスが輸入された
    • [24]並板の価格は震災後の一函13円から1926年7月に8円、翌年には7円50銭へ下落した
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「四日市工場の建設」
    • [26]二島工場は原燃料の入手に有利な立地だが大消費地から遠く、製品の運賃が割高で輸送中の破損も多かった
    • [27]1934年7月の第31回定時株主総会で資本金を400万円から1000万円へ増やす増資案が可決された
    • [28]第二工場の建設地は大阪北港埋立地にほぼ内定していたが、1934年9月の室戸台風の高潮被害を受けて計画が中止された
    • [29]四日市を選んだ理由は東京と大阪の中間に位置し大消費地名古屋を控えること、中京方面に板ガラス工場が無いことなどであった
    • [31]四日市工場が戦前に二炉操業を行ったのは1938年7月までの約半年に過ぎなかった

1938年〜軍需への転換と企業整備が半減させた生産能力

当社のコルバーン式の機械設備は国内に類がなく、部品はすべて米国からの輸入に依存していた。1931年の満州事変以降、部品の入手と設備の修理は次第に困難になり、1937年に輸入為替が許可制となってコルバーン用機械類の輸入が止まると、自給策を講じるほかなくなった。1938年7月、当社は合資会社有光鉄工所と共同で資本金30万円の株式会社日本鉄工所を設立し、翌年11月から工作部門を担わせている。1941年3月には資本金225万円の徳永板硝子製造を合併して尼崎工場を加え、資本金は1225万円となった。開戦とともにリビー・オーエンス・フォード社との連絡は絶たれ、同社の持株は旧敵産管理法によって住友信託の管理下へ移っている。技術を借りた相手との縁が切れたとき、手元に残ったのは機械そのものだけだった。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「四日市工場の建設」
    • [32]当社のコルバーン式機械設備は国内に他に類がなく、部品はすべて米国からの輸入に頼っていた
    • [33]1937年に輸入為替の許可制が実施されコルバーン用機械類の輸入ができなくなり、自給策が必要となった
    • [34]1938年7月に合資会社有光鉄工所と共同で資本金30万円の株式会社日本鉄工所を設立し、翌年11月から操業して工作部門を担当した
  • 証券 1950年
    • [35]1941年3月に資本金225万円の徳永板硝子製造株式会社を合併し、尼崎工場を加えて資本金1225万円となった
    • [36]戦時中リビー社の持株は旧敵産管理法により住友信託が管理人となった

1942年、当社は航空本部の要請を受けて、航空機の風防用となる磨板ガラスの製造に踏み切った。四日市工場には建設時に据えた中型連続磨設備二連があったが、国内需要が少なく数カ月の試験生産を行ったきりで眠っており、この設備と経験が軍の目に留まっている。磨板ガラスは作れば作るほど赤字が増える品だったが、当社はその製造を続けた。同年1月に磨板係を置き、4月から一連の運転に入り、7月11日には名古屋市の愛知化学工業に向けて3ミリ厚の磨品25函を初めて出荷している。価格は1940年10月に定められた公定価格に縛られ、販売開始の段階で製造原価のほうが売値より高かった。それでも続けた理由は、軍とつながりを持つことで資材を調達しやすくなり、主力である普通板ガラスの操業を支える条件になった点にある。同年10月、四日市工場の磨工場は軍管理工場に指定された。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「活路を求めて軍需化へ」
    • [37]航空本部の要請により航空機風防用の磨板ガラスを製造することとなった
    • [38]四日市工場の中型連続磨設備二連は国内需要が少なく数カ月の試験生産を行ったに過ぎず、その設備と経験が軍の着目するところとなった
    • [39]1942年1月に四日市工場へ磨板係を設け4月から一連の運転を始め、7月11日に3ミリ厚磨品25函を名古屋市の愛知化学工業へ初出荷した
    • [40]磨板ガラスは1940年10月制定の公定価格で販売され、販売開始時点で製造原価が販売価格を上回っていた
    • [41]赤字生産を続けたのは軍と結びつくことで資材の入手が容易になり、普通板ガラスの生産を続けるために必要だったためである
    • [42]1942年10月に四日市工場の磨工場が軍管理工場の指定を受けた

国内に12窯あった普通板ガラスの熔槽は、半分の6窯しか動かせなくなった。1943年10月に商工省が発表した板硝子製造業企業整備要綱によるものである。二島工場では1944年1月に普通板ガラスの製造を全て止め、廃止した設備は産業設備営団に売られてスクラップになった。尼崎工場も、防弾ガラスの試作に失敗して遊休となったのち、1944年11月に住友化工材工業へ売り渡された。普通板ガラスの生産量は1943年の87万函から翌年38万函へ落ち、終戦の時点で煙を吐いていたのは二島工場の一窯だけだった。敗戦の報を受けて工場長が窯の火を落とすなか、中村文夫社長は両工場長に直ちに生産を再開するよう命じ、終戦からの4カ月間に約9万函を作っている。1949年8月にはリビー社の持株が管理人の解除とともに返還され、同年11月22日には制限会社の指定も解かれた。

  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「企業整備と当社」
    • [43]1943年10月に商工省が板硝子製造業企業整備要綱を発表し、国内の普通板ガラス熔槽12窯のうち操業を認められたのは6窯だけとなった
    • [44]二島工場の普通板ガラス製造は1944年1月に全面休止し、廃止設備は産業設備営団へ売り渡されてスクラップ化された
    • [45]尼崎工場は防弾ガラスの試作に失敗して遊休工場となり、1944年11月に住友化工材工業へ売却する契約を結んだ
    • [46]普通板ガラスの生産量は1943年の87万函に対し1944年は38万函となった
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「耐乏下の生産増強」
    • [47]終戦時に操業していたのは当社二島工場の一窯だけであった
    • [48]中村文夫社長は生産を停止した両工場長に直ちに生産を再開するよう命じ、終戦時からの4カ月間に約9万函を生産した
  • 証券 1950年
    • [49]1949年8月に管理人の解除とともにリビー社へ持株が返還され、同年11月22日に制限会社の指定が解除された
参考文献[32]-[49]
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「四日市工場の建設」
    • [32]当社のコルバーン式機械設備は国内に他に類がなく、部品はすべて米国からの輸入に頼っていた
    • [33]1937年に輸入為替の許可制が実施されコルバーン用機械類の輸入ができなくなり、自給策が必要となった
    • [34]1938年7月に合資会社有光鉄工所と共同で資本金30万円の株式会社日本鉄工所を設立し、翌年11月から操業して工作部門を担当した
    • [35]1941年3月に資本金225万円の徳永板硝子製造株式会社を合併し、尼崎工場を加えて資本金1225万円となった
    • [36]戦時中リビー社の持株は旧敵産管理法により住友信託が管理人となった
    • [49]1949年8月に管理人の解除とともにリビー社へ持株が返還され、同年11月22日に制限会社の指定が解除された
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「活路を求めて軍需化へ」
    • [37]航空本部の要請により航空機風防用の磨板ガラスを製造することとなった
    • [38]四日市工場の中型連続磨設備二連は国内需要が少なく数カ月の試験生産を行ったに過ぎず、その設備と経験が軍の着目するところとなった
    • [39]1942年1月に四日市工場へ磨板係を設け4月から一連の運転を始め、7月11日に3ミリ厚磨品25函を名古屋市の愛知化学工業へ初出荷した
    • [40]磨板ガラスは1940年10月制定の公定価格で販売され、販売開始時点で製造原価が販売価格を上回っていた
    • [41]赤字生産を続けたのは軍と結びつくことで資材の入手が容易になり、普通板ガラスの生産を続けるために必要だったためである
    • [42]1942年10月に四日市工場の磨工場が軍管理工場の指定を受けた
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「企業整備と当社」
    • [43]1943年10月に商工省が板硝子製造業企業整備要綱を発表し、国内の普通板ガラス熔槽12窯のうち操業を認められたのは6窯だけとなった
    • [44]二島工場の普通板ガラス製造は1944年1月に全面休止し、廃止設備は産業設備営団へ売り渡されてスクラップ化された
    • [45]尼崎工場は防弾ガラスの試作に失敗して遊休工場となり、1944年11月に住友化工材工業へ売却する契約を結んだ
    • [46]普通板ガラスの生産量は1943年の87万函に対し1944年は38万函となった
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「耐乏下の生産増強」
    • [47]終戦時に操業していたのは当社二島工場の一窯だけであった
    • [48]中村文夫社長は生産を停止した両工場長に直ちに生産を再開するよう命じ、終戦時からの4カ月間に約9万函を生産した

出典・参考

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出典・参考
  • 日本板硝子 有価証券報告書【沿革】
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「二島工場建設」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「関東大震災と輸入品の流入」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「四日市工場の建設」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「活路を求めて軍需化へ」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「企業整備と当社」
  • 日本板硝子株式会社五十年史 1968年「耐乏下の生産増強」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
  • 証券 1950年
  • NSGグループ100周年記念サイト「コルバーン製法(連続板引法)の導入」

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