杉田與三郎
経歴1912〜1966年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1912年主要役職の状況(推定含む目安)1966年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 島商店(現島貿易) | 1912 | 入社 | ||
| 日本硝子工業 | 1916 | 設立 | |||
| 日米板硝子(現日本板硝子) | 1918 | 創業 | |||
| 1922 | 退任 | ||||
| 1928 | 退任 | ||||
| 1966 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
杉田與三郎氏は1885年に大阪市で生まれた。生家は古くから薪炭を商い、住友の別子鉱業所へ木炭を納めるなど住友家と深い取引があった。中学校を出てすぐ渡米し、6年間の留学を経て1909年にシカゴ大学を卒業し、ニューヨークとロンドンで商工業の実地を見て帰国した。1912年に大阪の貿易商社、島商店へ入り、輸出部の責任者を務めた。
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)技術導入の先駆者杉田與三郎
- [1]杉田は明治一八年(一八八五)大阪市の生れ。杉田の家は古くから薪炭商を営み、住友家銅吹所の炭方をつとめていた。その後も住友別子鉱業所に木炭を納入するなど、住友家とは特に密接な関係にあった
- [2]杉田は明治一八年(一八八五)大阪市の生れ。杉田の家は古くから薪炭商を営み、住友家銅吹所の炭方をつとめていた。その後も住友別子鉱業所に木炭を納入するなど、住友家とは特に密接な関係にあった
- [3]杉田は中学校を終えると同時に渡米し、六年間の留学生活を送った。明治四二年シカゴ大学を卒業、ニューヨーク、ロンドンで広く商工業の実際を見聞して帰国した。大正元年、株式会社島商店に入社して輸出部の責任者になった
- [4]杉田は中学校を終えると同時に渡米し、六年間の留学生活を送った。明治四二年シカゴ大学を卒業、ニューヨーク、ロンドンで広く商工業の実際を見聞して帰国した。大正元年、株式会社島商店に入社して輸出部の責任者になった
ガラスとの接点は、香港の取引先から受けたビール瓶の大口の引き合いだった。大阪の製瓶工場では手吹きが中心で、工賃が原価の5割を占めると知った杉田與三郎氏は、米国のオーエンス製瓶機の導入交渉を自ら買って出た。1914年に第一次世界大戦を避けて米国へ渡り、特許権を30万円で譲り受ける合意をまとめ、1916年6月には資本金300万円の日本硝子工業の設立にこぎつけて取締役支配人に就任した。この渡米の際に、トレド社がコルバーン式の板ガラス製法を工業化しようとしている工場を見学し、板ガラス事業に強い関心を抱いた。
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)技術導入の先駆者杉田與三郎
- [5]島商店に香港の取引先からビール壜の大量引合いがあった。杉田は大阪製壜所を訪れ、わが国の製壜がいまだに手吹きが主で、工賃が原価の五〇パーセントも占めていることを知った。所長の上杉正八の苦衷を聞き、自分が導入交渉に当ろうと決意した
- [6]島商店に香港の取引先からビール壜の大量引合いがあった。杉田は大阪製壜所を訪れ、わが国の製壜がいまだに手吹きが主で、工賃が原価の五〇パーセントも占めていることを知った。所長の上杉正八の苦衷を聞き、自分が導入交渉に当ろうと決意した
- [7]大正三年商用で渡欧した杉田は第一次世界大戦勃発のため米国へのがれ、トレド市のオーエンス・ボトル・マシン・カンパニーと製壜機導入の交渉を行い、特許権を三〇万円で譲り受けることになった。大正五年六月創立総会を開き、資本金三〇〇万円の日本硝子工業株式会社が設立され、社長には島定治郎が就任、杉田は取締役支配人となった
- NSGグループ 100周年記念サイト「人と技術の物語 Story1 コルバーン製法の導入」
- [8]1914年 オーウェンス製ビン機械の導入交渉のため米国を訪問した。このとき杉田はたまたまトレド社がコルバーン式板ガラス製法の工業化を目指して研究しているのを見学する機会があり、板ガラス事業に深い関心を抱くことになった
1917年に日本硝子工業が大日本麦酒の子会社になると、杉田與三郎氏は板ガラス製造への転身を決めた。同年9月に再び渡米し、ニューヨークで住友総本店の山下芳太郎氏に援助を求めると、山下芳太郎氏は国のためになる事業だとして賛同した。特許権の交渉は、当初200万円ほどと見込んだ対価を相手が400万円以下では譲らないとして難航したが、12月15日にリビー・オーエンス社との契約に至った。対価は新会社の株式2万株と10万ドルで、この特許を譲り受けたのは世界で杉田與三郎氏ただ一人だった。
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)コルバーン式板ガラス製法の導入
- [9]大正六年には、日本硝子工業が大日本麦酒の子会社になったことなどから、ひそかに板ガラス製造事業への転身を決意した
- NSGグループ 100周年記念サイト「人と技術の物語 Story1 コルバーン製法の導入」
- [10]1917年9月 再度渡米した折に、住友総本店支配人 山下芳太郎をニューヨークに訪問し、板ガラス製造計画への援助を懇願した。山下も「国家のためになる事業には積極的に進出すべき」と賛同した。当初200万円程度とみていた特許権料は400万円以下では譲渡できないと交渉は暗礁に乗り上げたが、1917年12月 特許権譲渡の契約書が取り交された
- [11]1917年9月 再度渡米した折に、住友総本店支配人 山下芳太郎をニューヨークに訪問し、板ガラス製造計画への援助を懇願した。山下も「国家のためになる事業には積極的に進出すべき」と賛同した。当初200万円程度とみていた特許権料は400万円以下では譲渡できないと交渉は暗礁に乗り上げたが、1917年12月 特許権譲渡の契約書が取り交された
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)リビー社との契約成立
- [12]リビー社は特許権料として新会社の株式二万株と米貨一〇万ドルを受取る。米国はもとより世界中でこの特許を譲り受けたのは杉田ただ一人であった
1918年6月に創立総会を開いたものの、日本での特許が手違いで取り消されていたため再び渡米して契約を結び直し、11月22日に日米板硝子株式会社を設立した。資本金300万円のうち3分の1はリビー社の特許の現物出資で、社長は置かず、杉田與三郎氏が代表取締役・常務取締役として経営を担った。工場は福岡県の二島に定め、1920年10月1日に米国人技術者の手でコルバーン機による板ガラスの引き上げが始まった。
- NSGグループ 100周年記念サイト「人と技術の物語 Story1 コルバーン製法の導入」
- [13]創立総会が1918年6月25日に開催されたが、手違いにより日本での特許権は取り消されていた。杉田は再度渡米し、さきの特許譲渡契約書を取消し新たな契約書を締結した。帰国後、創立総会は11月22日に開催され、日米板硝子株式会社が設立された
- [15]工場用地は福岡県遠賀郡島郷村の二島に決定し、1919年に二島工場の建設が始まった。ガラスの引上げ作業が1920年10月1日午前零時に開始され、ミラーら外国人技術者の手でコルバーン式製板機の運転が始められた
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)
- [14]創立時の当社の資本金は三〇〇万円、そのうちリビー社からの特許権の現物出資額は一〇〇万円で、現金出資は二〇〇万円に過ぎなかった。創立総会後の取締役会で「杉田與三郎が代表取締役、常務取締役に就任」。これまで当社が社長をおかなかったのは、創立者の杉田與三郎が住友忠輝を社長に迎える考えであったが実現しないまま住友の経営となったためで、昭和一八年一二月に社長制を復活した
ところが操業の直前に起きた1920年3月の恐慌、輸入品の投げ売りによる値崩れ、不良品の多さによる原価高が重なり、現金出資が200万円にとどまった会社はたちまち資金難に陥った。三菱銀行と住友銀行が追加の融資を渋るなか、住友が自ら経営を引き受けることになり、1922年8月29日の臨時株主総会で杉田與三郎氏は常務を辞して大隅行一氏に後を譲った。非常勤の取締役として残ったが、1928年1月に自らの事業に専念するため退任し、1966年2月に宮崎県東郷村で死去した。
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)資本の過小と金融難
- [16]好景気に沸いた経済界は九年三月の株式市場の暴落に端を発して恐慌に陥った。生産能率の低さと不良品の続出からくる原価高、輸入品の投売りによる販売価格の暴落、売行不振のため業績は悪化の一途をたどった。創立時の現金出資は二〇〇万円に過ぎず、操業早々運転資金の調達難に直面した
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)住友の援助
- [17]三菱銀行は借入金の増額に応じず、一〇年二月には住友銀行もこれ以上の融資を拒んだ。住友としては自ら経営者を選び、不足資金を融通して当社の経営に直接参画する以外に局面打開の道はなかった。同年八月二九日の臨時株主総会で杉田取締役は常務を辞任し、これに代って大隅行一が常務取締役に就任した
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)
- [18]常務を辞任した杉田は非常勤の取締役として引続き当社に残ったが、昭和三年一月自家の事業に専念するため取締役も辞任した。昭和四一年二月、農場経営にその余生を送っていた宮崎県東郷村で八〇年の生涯を閉じた
参考文献2件
参考文献
- 日本板硝子株式会社五十年史(日本板硝子, 1968年)
- NSGグループ 100周年記念サイト「人と技術の物語 Story1 コルバーン製法の導入」
事実根拠:出所(日本板硝子)