第2章 年〜年

資生堂:チェインストアの導入による流通の垂直統合

チェインストア制の確立から大陸網の喪失へ

1923年〜乱売と関東大震災が開いた、問屋依存からの離脱

乱売と問屋の無関心に行き詰まる

創業から30年、40年を経た化粧品業界は乱売によって疲弊し、メーカー、問屋、小売店のいずれからも倒産者が続出する恐慌の様相を呈していた。資生堂は公正な利潤の確保こそ消費者への正しいサービスであると考え、販売組織の研究を始めた。当時の問屋は、開発された新製品への関心が薄く、小売店へ商品を引き渡すだけで説明もしなかったため、メーカーの側に不満が積もっていた。薬学の処方によって他と分けたはずの製品の違いは、売り方を問屋に委ねる限り売り場まで届かない。資生堂が抱えた問題は価格でも品質でもなく、製品と買い手のあいだに誰を置くかであった。

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [1]創業30〜40年後の化粧品業界は乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態にあった
    • [2]資生堂は公正な利潤の確保を消費者への正しいサービスと考えて販売組織の研究を始めた
    • [3]当時の問屋は新製品への関心が薄く、小売店へ商品を引き渡すだけで説明もしないため、メーカー側に不満があった
震災が空けた機構の空白を組み替えに使う

1923年9月の関東大震災で、資生堂は大きな被害を受けた。同時に、それまでの配給機構が全く壊滅して流通は混乱した。資生堂はこの混乱を機に、系統だった販売組織の確立へ着手している。同じ年、大阪の吹田に工場を増設して生産の場を東京の外へ広げる一方、12月にはチェインストア制度を採用した。翌1924年には取次店制度を実施し、1926年にはセールスメンバー販売組織を実施して、歯磨や石鹸を扱う店を化粧品とは別の販売網に組織化している。問屋に頼ってきた流れを作り替えるには、平時であれば既存の取引関係が壁になったはずで、震災が空けた機構の空白がその組み替えを可能にした。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [4]大正12年 関東大震災で大被害を受けたが再建に立ち上がった
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [5]関東大震災で配給機構が全く壊滅し混乱した
    • [6]配給機構の壊滅を機に、資生堂は系統だった販売組織の確立に着手した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [7]大正12年 大阪・吹田に工場を増設した
    • [9]大正13年 取次店制度を実施した
    • [10]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施した
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [8]1923年12月 チェインストア制度を採用
米国の仕組みを換骨奪胎して店網を組む

震災のあと資生堂が取りかかったのは、問屋に別会計を立ててもらって自社の営業代理部とし、次いでその問屋を資生堂製品だけを扱う販売会社に改める組織づくりであった。この仕組みの原型は、のちの社長松本昇氏がアメリカで調べてきたボランタリー・チェーンにあり、松本氏はそれを日本の実情に合わせたチェーンに作り替えるつもりだったが、商工省が取り合わず、案はそのまま寝かされていた。協力店の数は当初20店ほどと見込まれていたのに、ほどなく数千店に広がった。長く眠っていた案が動き出したのは、仕組みに手が加わったためではなく、受け手の事情が震災によって変わったためである。

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [11]資生堂は問屋に別会計を求めて自社の営業代理部とし、さらに問屋を資生堂製品専業の販売会社へ組織替えした
    • [12]のちの社長・松本昇がアメリカのボランタリー・チェーンを調べて持ち帰った
    • [13]松本昇は換骨奪胎して日本的なチェーンに組織しようと考えたが、商工省に取り上げられず棚上げされていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [14]当初20店程度という予想を超えて、まもなく数千の協力店を得るまでにチェインストア組織が発展した
参考文献[1]-[14]
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [1]創業30〜40年後の化粧品業界は乱売でメーカー・問屋・小売店に倒産者が続出する恐慌状態にあった
    • [2]資生堂は公正な利潤の確保を消費者への正しいサービスと考えて販売組織の研究を始めた
    • [3]当時の問屋は新製品への関心が薄く、小売店へ商品を引き渡すだけで説明もしないため、メーカー側に不満があった
    • [5]関東大震災で配給機構が全く壊滅し混乱した
    • [6]配給機構の壊滅を機に、資生堂は系統だった販売組織の確立に着手した
    • [11]資生堂は問屋に別会計を求めて自社の営業代理部とし、さらに問屋を資生堂製品専業の販売会社へ組織替えした
    • [12]のちの社長・松本昇がアメリカのボランタリー・チェーンを調べて持ち帰った
    • [13]松本昇は換骨奪胎して日本的なチェーンに組織しようと考えたが、商工省に取り上げられず棚上げされていた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [4]大正12年 関東大震災で大被害を受けたが再建に立ち上がった
    • [14]当初20店程度という予想を超えて、まもなく数千の協力店を得るまでにチェインストア組織が発展した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [7]大正12年 大阪・吹田に工場を増設した
    • [9]大正13年 取次店制度を実施した
    • [10]大正15年 セールスメンバー販売組織を実施した
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [8]1923年12月 チェインストア制度を採用

1927年〜販売会社制度と花椿会による、川下までの系列化

株式会社へ改組して販売会社制度を敷く

1927年6月、資生堂は資本金150万円で合資会社を株式会社組織へ改めた。設立の日は同月24日である。同じ年の1月には向島へ石鹸工場を開設して飛躍を期しており、6月の改組に続いて8月には取次店制度を発展させた販売会社制度を採用した。これが現在まで続く販売態勢の基礎となっている。翌1928年3月には東京の品川で新工場が竣工し、大阪工場を合体した。震災を機に東京の外へ広げた化粧品の生産は、株式会社化から1年を経ずに品川へ集約されている。法人格を株式会社へ進めた年に販売会社制度を敷いたことで、流通の組み替えは会社の形と一体になって固まり、以後の増資と工場投資はこの枠組みの上に重ねられていった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [15]昭和2年6月 資本金150万円の株式会社に改組
    • [17]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設した
    • [19]取次店制度を発展させた販売会社制度が現在の販売態勢の基礎を確立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]株式会社資生堂の設立は昭和2年6月24日
    • [20]昭和3年3月 東京・品川に新工場が竣工し大阪工場を合体した
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更、1927年8月 販売会社制度を採用
販売会社の株式を小売店に持たせる

販売会社制度の要は、資本の配り方にあった。資生堂は販売会社の株式を所属するチェインストア全部に持たせ、『これはあなた方の会社だ』という意識で小売店と利害を共にする関係を作っている。問屋を資生堂製品専業の販売会社へ組織替えした結果、値引き販売の防止が初めて小売店にまで徹底した。全国に散在する販売会社は法的には独立した会社であったが、本社から経営陣を送り込み、本社の指令通りに一糸みだれず動いた。欠損を出した販売会社には、本社が常に保障を与えている。統制を受け入れる見返りに保護を与える関係によって、資生堂は小売の店頭までを自らの秩序の下に置いた。

  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [21]販売会社の株式を所属チェインストア全部に持たせ、小売店と利害を共にする関係で結びつけた
    • [22]問屋を資生堂製品専業の販売会社へ組織替えした結果、値引き販売の防止が初めて小売店にまで徹底した
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [23]販売会社は法的には独立しているが、本社から経営陣を送り込み本社の指令通りに一糸みだれず動いた
    • [24]販売会社が欠損を出した場合は本社が常に保障した
消費者を花椿会に組織する

売り場の先にいる消費者も組織された。1937年1月、資生堂は消費者組織の花椿会を発足させている。チェインストアである小売店は利用者を花椿会として組織し、雑誌花椿の配布や景品、映画への招待によって消費者を囲い込んだ。資生堂には徳義尊重、小売、共存共栄、品質本位、堅実主義という五つの方針があり、第一次世界大戦後の恐慌期に取引関係をいっそう緊密にするために打ち出されたものであった。花椿会は、その共存共栄を消費者の側まで延ばす仕掛けである。経済誌はのちに、資生堂の中央集権的に組織化されたチェーン・システムを、自主性を尊重する中山太陽堂の代理店システムと対置している。

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [25]1937年1月 資生堂花椿会(現、花椿CLUB)発足
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [26]チェインストアである小売店は利用者を「花椿会」として組織化し、雑誌「花椿」の配布や景品・映画招待で消費者を囲い込んだ
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [27]徳義尊重・小売・共存共栄・品質本位・堅実主義の五つの方針は、欧州大戦後の恐慌時代に取引関係を緊密にするため打ち出された
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [28]経済誌は資生堂の「中央集権的に組織化されたチェーン・システム」を、自主性を尊重する中山太陽堂の代理店システムと対置した
参考文献[15]-[28]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [15]昭和2年6月 資本金150万円の株式会社に改組
    • [17]昭和2年1月 向島に石鹸工場を開設した
    • [19]取次店制度を発展させた販売会社制度が現在の販売態勢の基礎を確立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [16]株式会社資生堂の設立は昭和2年6月24日
    • [20]昭和3年3月 東京・品川に新工場が竣工し大阪工場を合体した
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [18]1927年6月 合資会社を株式会社組織に変更、1927年8月 販売会社制度を採用
    • [25]1937年1月 資生堂花椿会(現、花椿CLUB)発足
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
    • [21]販売会社の株式を所属チェインストア全部に持たせ、小売店と利害を共にする関係で結びつけた
    • [22]問屋を資生堂製品専業の販売会社へ組織替えした結果、値引き販売の防止が初めて小売店にまで徹底した
    • [26]チェインストアである小売店は利用者を「花椿会」として組織化し、雑誌「花椿」の配布や景品・映画招待で消費者を囲い込んだ
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [23]販売会社は法的には独立しているが、本社から経営陣を送り込み本社の指令通りに一糸みだれず動いた
    • [24]販売会社が欠損を出した場合は本社が常に保障した
    • [27]徳義尊重・小売・共存共栄・品質本位・堅実主義の五つの方針は、欧州大戦後の恐慌時代に取引関係を緊密にするため打ち出された
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
    • [28]経済誌は資生堂の「中央集権的に組織化されたチェーン・システム」を、自主性を尊重する中山太陽堂の代理店システムと対置した

1939年〜大陸網の拡張と、統制と敗戦による組織の喪失

販売会社の形を外地へ展開する

1939年9月、資生堂は資生堂化学研究所を完成させ、製品の改良を進めた。生産の面では撫順と上海に工場を建て、台湾と海南島では農園を営んだ。この時期の資生堂は、時代の流れを背に大陸への進出を図っており、外地の販売会社は10社を超え、売り先は中国大陸から台湾・朝鮮・満州・東南アジアにまで広がった。化粧品会社としてアジアで最大の組織を抱えるまでになり、東洋最大の化粧品メーカーの名を名実ともに得ている。国内で組み上げた販売会社とチェインストアの形は、そっくり外地に持ち込まれた。処方を磨くための研究所建設と、外へ向けた販売網の拡大が、同じ時期に並行して進んだわけである。

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [29]1939年9月 資生堂化学研究所(のちのグローバルイノベーションセンター)完成
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [30]資生堂化学研究所を設けて製品の改良を図った
    • [31]撫順および上海に工場を建設し、台湾・海南島で農園を経営した
    • [34]化粧品業者としてはアジア最大の組織を擁するに至った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [32]当時の情勢を背景に大陸進出をはかった
    • [33]外地における販売会社は10社を越え、販売網は中国大陸から台湾・朝鮮・満州・東南アジアに及んだ
    • [35]名実共に東洋最大の化粧品メーカーとなった
統制と空襲で生産の場を失う

資生堂は創業以来の主な難関として、第一次世界大戦後の恐慌、関東大震災と並べて、この太平洋戦争を数えている。戦局が次第に激しさを増すにつれて事業は深刻な打撃を被り、終戦時には立ち直れないと思えるほどの痛手を負っていた。国内の工場で焼け残ったのは東京工場のみである。花椿香油や資生堂石鹸といった創業以来の主力商品も戦争で姿を消し、復活したのは1950年になってからである。再起不能とまで言われた終戦時の記録に残るのは、『幸いに人だけは残った』という一行である。半世紀をかけて薬学の処方と流通の系列を積み上げてきた会社に残ったのは、一つの工場と、その系列を動かしてきた人だけであった。

  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [36]資生堂が突き当たった主な難関として、第一次世界大戦後の恐慌時代・関東大震災・大東亜戦争が挙げられた
    • [37]大東亜戦争は逐次熾烈を極め、資生堂の事業に大きな影響をもたらした
    • [38]終戦時はほとんど再起不能と思われるほどの打撃を受けていた
    • [41]終戦時の打撃について「しかし幸いに人だけは残った」と記録された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [39]戦火を免れた東京工場をもとに再建に入った
    • [40]戦争で姿を消していた「花椿香油」「資生堂石鹸」が昭和25年にやっと復活した
残った人と東京工場から再建に入る

東京証券取引所に株式を上場したのは1949年5月で、その前年の1948年12月には大阪資生堂を立ち上げて大阪の生産を建て直していた。そこに至るまでの再建は容易ではなかった。統制が続く中で社内から資生堂を立て直そうという声が起こり、社員が総出で再建に取り組んだ。焼け残った東京工場を整え、生産と販売網を充実させることに力を注いでいる。窮乏した戦後の暮らしのなかで、苦しい局面は多かった。設備の損失の大きさの割に立ち直りが速かったのは、戦前に築いた販売会社とチェインストアの網が、資産ではなく人と店のつながりとして生き残っていたためだと考えられる。

  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [42]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [43]1948年12月 大阪資生堂㈱(現、大阪工場)設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [44]戦後の再建には相当な困難が伴った
    • [46]戦火を免れた東京工場を整備するなど生産販売網の充実に努めた
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [45]統制の下に資生堂再建の声があがり、全社員が一丸となって再建工作がなされた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [47]窮乏した戦後社会生活の中で大きな苦難を余儀なくされた
参考文献[29]-[47]
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
    • [29]1939年9月 資生堂化学研究所(のちのグローバルイノベーションセンター)完成
    • [42]1949年5月 東京証券取引所に株式を上場
    • [43]1948年12月 大阪資生堂㈱(現、大阪工場)設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
    • [30]資生堂化学研究所を設けて製品の改良を図った
    • [31]撫順および上海に工場を建設し、台湾・海南島で農園を経営した
    • [34]化粧品業者としてはアジア最大の組織を擁するに至った
    • [44]戦後の再建には相当な困難が伴った
    • [46]戦火を免れた東京工場を整備するなど生産販売網の充実に努めた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
    • [32]当時の情勢を背景に大陸進出をはかった
    • [33]外地における販売会社は10社を越え、販売網は中国大陸から台湾・朝鮮・満州・東南アジアに及んだ
    • [35]名実共に東洋最大の化粧品メーカーとなった
    • [39]戦火を免れた東京工場をもとに再建に入った
    • [40]戦争で姿を消していた「花椿香油」「資生堂石鹸」が昭和25年にやっと復活した
    • [47]窮乏した戦後社会生活の中で大きな苦難を余儀なくされた
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」
    • [36]資生堂が突き当たった主な難関として、第一次世界大戦後の恐慌時代・関東大震災・大東亜戦争が挙げられた
    • [37]大東亜戦争は逐次熾烈を極め、資生堂の事業に大きな影響をもたらした
    • [38]終戦時はほとんど再起不能と思われるほどの打撃を受けていた
    • [41]終戦時の打撃について「しかし幸いに人だけは残った」と記録された
    • [45]統制の下に資生堂再建の声があがり、全社員が一丸となって再建工作がなされた

筆者考察

1923年に資生堂が作り替えたのは、売り方ではなく取引の相手だった。乱売で倒産者が続出する市場において、問屋は新製品に関心を示さず小売店へ引き渡すだけだったから、薬学の処方によって他と分けたはずの製品の違いは、売り場まで届かない。関東大震災が配給機構を壊滅させたとき、資生堂は壊れた機構を元に戻さず、問屋をまず自社の営業代理部に変え、さらに資生堂製品だけを扱う販売会社へ組織替えした。値引きを止めさせる権限を、取引条件の交渉ではなく資本と組織の側から取りにいったところに、この判断の性格がある。

設計の巧みさは、販売会社の株式を小売店に持たせた点にある。本社が経営陣を送り込んで指令通りに動かしながら、欠損は本社が保障し、株主は小売店である。統制を受け入れる見返りに保護を与えるこの関係は、1937年の花椿会によって消費者の側まで延びた。同じ形は大陸と南方へも移され、外地の販売会社は10社を超え、撫順と上海には工場が建った。だが自前で組んだ網は、自前であるがゆえに外の力で一挙に失われる。終戦時に残ったのは戦火を免れた東京工場と人だけで、戦後の再建はその人が担うことになった。

出典・参考

6件
出典・参考
  • 資生堂 有価証券報告書 第126期(2025年12月期)【沿革】
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「資生堂」の項
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「資生堂」の項
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号
  • 東邦経済 1958年「人物月旦 伊与田光男(資生堂社長)」

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