大林組:大林芳五郎の大阪での創業と東京駅丸の内本屋の完成
1892年〜商家の信用を元手にした創業と、大阪市築港工事の7年
1892年1月、大阪の乾物問屋"大徳"の三男である大林芳五郎氏が、大阪市西区阿波座で土木建築の請負業を個人名義で興した。建設業とは無縁の商家に育った氏は、技術の蓄積ではなく、商家として培った信用と人脈を足場に工事を取り込む方針を採った。1月18日に阿部製紙所工場(西成郡川北村西野新田、現・此花区西九条)の新設工事を落札し、独立を果たした7日後の1月25日を創業日と定めている。店舗兼住居は大阪・西区靱南通4丁目62番地(現・西区西本町2丁目5番24号)に構えた。建築と土木のどちらも切らずに並行して請け負う方針は、この出発点から採られている。
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [1]1892年1月 個人企業として創業
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [2]創業者 大林芳五郎氏(乾物問屋「大徳」の三男)
- [3]創業地 大阪市西区阿波座・業種は土木建築の請負
- [4]技術の蓄積ではなく商家の信用と人脈で工事を取り込む方針
- [5]1892年1月18日 阿部製紙所工場の新設工事を落札
- [6]創業日 1月25日(落札の7日後)
- [7]創業時の店舗兼住居 大阪・西区靱南通4丁目62番地
- [8]建築と土木を並行して請け負う方針
創業6年目の1898年、大林組は大阪市築港工事を受注し、7年がかりで1905年に完成させた。安治川河口を掘り込む築港は、1889年の市制施行を経た大阪が近代港湾を得るための事業で、個人企業が請け負う規模ではなかった。続く1903年には第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注し、創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置に進んでいる。1906年には東京支店を設置し、辰野金吾氏が設計した東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)を請け負って首都の官需へ参入した。1909年7月には合資会社へ改組し、個人名義の請負から法人による経営へ移した。
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [9]1898年 大阪市築港工事を受注し1905年に完成
- [10]大阪市築港は安治川河口の近代港湾整備事業
- [11]1889年 大阪市制施行
- [12]1903年 第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注
- [13]創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置
- [15]東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)の設計は辰野金吾氏
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [14]1906年 東京支店を設置
- [16]1909年7月 合資会社へ改組
参考文献[1]-[16]
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [1]1892年1月 個人企業として創業
- [14]1906年 東京支店を設置
- [16]1909年7月 合資会社へ改組
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [2]創業者 大林芳五郎氏(乾物問屋「大徳」の三男)
- [3]創業地 大阪市西区阿波座・業種は土木建築の請負
- [4]技術の蓄積ではなく商家の信用と人脈で工事を取り込む方針
- [5]1892年1月18日 阿部製紙所工場の新設工事を落札
- [6]創業日 1月25日(落札の7日後)
- [7]創業時の店舗兼住居 大阪・西区靱南通4丁目62番地
- [8]建築と土木を並行して請け負う方針
- [9]1898年 大阪市築港工事を受注し1905年に完成
- [10]大阪市築港は安治川河口の近代港湾整備事業
- [11]1889年 大阪市制施行
- [12]1903年 第5回内国勧業博覧会の諸施設工事の大半を受注
- [13]創業から10年ほどで関西の大手業者と並ぶ位置
- [15]東京中央停車場(東京駅丸の内本屋)の設計は辰野金吾氏
1914年〜東京駅と生駒トンネル ── 並び立った建築と土木
1914年、大林組は東西にまたがる二つの大工事を同じ年に完成させた。一つは東京中央停車場、もう一つは大阪電気軌道の生駒トンネルで、当時東洋一の長さとなる3,388メートルを掘り抜いた。生駒トンネルは完成前年の1913年に落盤で作業員20名が死亡する事故を起こしており、湧水と崩落に苦しめられた難工事だった。発注者の大阪電気軌道の資本金は300万円、大林組も同額の300万円で、合計600万円の資本しかない相手に対し、投下資金は820万円ほどに達している。しかも支払いはすべて手形で、その手形に融通性がなかったため、大林組は資金繰りに苦しんだ。
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [17]1914年 東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完成
- [18]生駒トンネルは大阪電気軌道の工事
- [19]生駒トンネルは当時東洋一の長さ 3,388メートル
- [20]1913年の落盤で作業員20名が死亡
- 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
- [21]大阪電気軌道の資本金 300万円・大林組も300万円
- [22]生駒トンネル事業への投下資金 約820万円
- [23]支払いはすべて手形で融通性がなく資金繰りに苦しんだ
東京中央停車場と生駒トンネルはいずれも1911年に受注した工事で、その完工から2年後の1916年、創業者の大林芳五郎氏が死去し、嗣子の大林義雄氏が2代目社長を承継した。第一次世界大戦下の好況で工事量は年々増え、1918年12月には資本金50万円で株式会社大林組を設立、翌1919年3月に合資会社を合併して資本金を200万円へ引き上げた。義雄社長は業務組織の近代化とあわせて技術者の欧米派遣を始め、外部から工法を持ち帰る経路を社内に作っている。新しい技術の導入と機械設備の拡充が続いた結果、大林組はこの時期に全国規模の建設会社として扱われるようになった。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [24]東京中央停車場と生駒トンネルは1911年に受注
- [25]1916年 創業者 大林芳五郎氏が死去
- [26]2代目社長 大林義雄氏(芳五郎氏の嗣子)
- [27]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
- [28]1918年12月 資本金50万円で株式会社大林組を設立
- [29]1919年3月 合資会社を合併し資本金200万円
- [31]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
- 日本会社史総覧 1995年
- [30]技術者の欧米派遣を開始
1919年、大林組の請負金総額は前年比6割増の1,000万円近くに達した。同じ年の工事件数は前年より2割減っており、増えたのは件数ではなく1件あたりの規模だった。第一次世界大戦下の好況で各種企業が勃興し、都市には鉄骨鉄筋コンクリート造のビルが建ち始めていた。ところが翌1920年3月、大恐慌が日本へ波及し、大阪の増田ビルブローカー銀行の破綻を皮切りに一流商社が没落する。建設業界も既定工事の中止と工事費の回収遅延に直面したが、大林組のこの年の受注総額は1,300万円を越えた。社長の大林義雄氏は1919年、25歳で建築業協会理事と日本土木建築請負業者連合会副会長に推されている。恐慌をくぐっても受注を落とさなかったことが、業界団体の役職を引き受ける足場になった。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [32]1919年の請負金総額は前年比6割増の1,000万円近く
- [33]1919年の工事件数は前年より2割減少(工事の大型化による)
- [35]1920年3月 大恐慌が波及し大阪の増田ビルブローカー銀行が破綻
- [36]1920年の受注総額は1,300万円超
- [37]1919年 大林義雄氏が25歳で建築業協会理事・日本土木建築請負業者連合会副会長に就任
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [34]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
参考文献[17]-[37]
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [17]1914年 東京中央停車場と生駒トンネルを同年に完成
- [18]生駒トンネルは大阪電気軌道の工事
- [19]生駒トンネルは当時東洋一の長さ 3,388メートル
- [20]1913年の落盤で作業員20名が死亡
- 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
- [21]大阪電気軌道の資本金 300万円・大林組も300万円
- [22]生駒トンネル事業への投下資金 約820万円
- [23]支払いはすべて手形で融通性がなく資金繰りに苦しんだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [24]東京中央停車場と生駒トンネルは1911年に受注
- [25]1916年 創業者 大林芳五郎氏が死去
- [26]2代目社長 大林義雄氏(芳五郎氏の嗣子)
- [27]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
- [28]1918年12月 資本金50万円で株式会社大林組を設立
- [29]1919年3月 合資会社を合併し資本金200万円
- [31]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
- [34]第一次世界大戦下の好況で工事量が増加
- 日本会社史総覧 1995年
- [30]技術者の欧米派遣を開始
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [32]1919年の請負金総額は前年比6割増の1,000万円近く
- [33]1919年の工事件数は前年より2割減少(工事の大型化による)
- [35]1920年3月 大恐慌が波及し大阪の増田ビルブローカー銀行が破綻
- [36]1920年の受注総額は1,300万円超
- [37]1919年 大林義雄氏が25歳で建築業協会理事・日本土木建築請負業者連合会副会長に就任
1923年〜震災復旧が固めた東京での地歩と、昭和恐慌下の事業分散
1923年9月1日の関東大震災で、大林組の東京支店は同年7月に移転したばかりの日本橋区北新堀町の建物を火災で失い、支店管内の工事現場も4カ所を残してほぼ全滅した。従業員とその家族に死傷は出ず、受注中だった歌舞伎座の現場内に仮事務所を置いている。震災に関わって大林組が請け負った工事は、総額で1,000万円を超えた。本店が大阪にあったため、同社は被災を免れた。震災翌日には社員2名を大阪府の救援船に乗せて送り出し、9月6日には社長の大林義雄氏がみずから汽船玄海丸を借り上げて、社員と資材を東京へ運び込んだ。近畿2府6県が連合で寄付した罹災者用のバラック500棟と、患者1,000人を収める横浜仮病院13棟の工事は、特命で大林組1社に託された。木材の加工は大阪ですべて済ませ、現地で行うのは組み立てのみとする段取りで、契約の1カ月で仕上げている。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [38]1923年9月1日の関東大震災で東京支店が焼失し支店管内の工事現場も4カ所を残し全滅
- [39]従業員とその家族に死傷なし・歌舞伎座現場内に支店仮事務所を設置
- [40]震災関連工事の請負金総額は1,000万円を突破
- [41]1923年9月6日 大林義雄社長が汽船玄海丸を傭船し社員と資材を東上させた
- 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
- [42]近畿2府6県連合が寄付したバラック500棟と患者1,000人収容の横浜仮病院13棟を特命で受注
- [43]木材を大阪で加工し現地で組立てる段取りにより契約どおり1カ月で完成
復興景気に応じるため、大林組は1924年4月に資本金を200万円から500万円へ引き上げ、5月の払込完了で払込済資本金を320万円とした。従業員は1921年10月に役員を含め353名だったものが、1924年1月に570名、1925年1月には681名へ増えている。学校推薦による定時採用も1921年の30名から1926年の86名まで毎年増えた。1925年5月に横浜、7月に名古屋の各出張所を支店へ昇格させ、従来の東京・小倉と合わせて4支店となった。1924年2月には社員2名をアメリカへ派遣してコンクリートミキサや空気圧縮機、スチームハンマなどの新鋭機器を購入させ、その高性能は国産機械を改善する資料として各方面の注目を集めた。同年12月には副社長制を設けて大林賢四郎氏が就任している。震災の復旧で得た仕事を、人と機械と組織へ順に置き換えた時期だった。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [44]1924年4月 資本金を200万円から500万円へ増資し払込済資本金320万円
- [45]従業員数は1921年10月353名・1924年1月570名・1925年1月681名
- [46]学校推薦による定時採用は1921年30名から1926年86名へ増加
- [47]1925年5月に横浜・7月に名古屋の出張所を支店へ昇格し4支店体制
- [48]1924年2月 社員2名をアメリカへ派遣し新鋭建設機械を購入
- [50]1924年12月 副社長制を新設し大林賢四郎氏が就任
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [49]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
1927年の金融恐慌と1929年の金解禁、同年秋の世界恐慌の波及によって、建設業界の受注競争は激しくなった。大林組が政府へ提出した陳情書の工事請負高指数は、1927年上半期を100として1930年上半期に52まで低下した。大林組も株主配当を1928年以降に年1割2分へ減じ、1931年に年1割、1932年には年7分まで引き下げた。打開のために採ったのは、請負の外へ出ることだった。1929年、副社長の大林賢四郎氏の発意で阪神電鉄沿線の浜甲子園の海辺6万坪を宅地に造成し、大阪毎日新聞社と提携して健康住宅の設計を懸賞募集したうえで約500戸を分譲した。同じ1929年には日本郵船の浅間丸と龍田丸の2等公室の内装を21万円で請け負い、陸の建設業者として初めて船内装飾へ入っている。1931年10月には工作所を分離して内外木材工芸を設立した。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [51]1927年の金融恐慌・1929年の金解禁と世界恐慌の波及で受注競争が激化
- [52]工事請負高指数は1927年上半期100に対し1930年上半期52
- [53]株主配当は1928年以降年1割2分・1931年年1割・1932年年7分へ減配
- [54]1929年 浜甲子園の海辺6万坪を宅地造成し約500戸を分譲
- [55]1929年 日本郵船の浅間丸・龍田丸の2等公室内装を21万円で受注
- [56]陸の建設業者が船内装飾へ進出した最初
- [57]1931年10月 工作所を分離して内外木材工芸を設立
不況のさなかに大林義雄氏が力を注いだのは、自社の受注ではなく業界の制度だった。当時、建設や鉄道の労務者は鉱業法にも工場法にも入らず、業務上の災害で保護を受けられなかった。政府が1927年11月に作成した労働者災害扶助法案は、その補償を元請業者の責任としており、労務者を使役するのは下請であって元請には実態を把握しがたいこと、重大災害では業者に補償能力がないことを理由に、業界は異議を唱えた。日本土木建築請負業者連合会の会長だった義雄氏は、反対を唱えるだけでなく、多数の事業主が保険方式で補償を分担する国営業務災害保険法案を対案として作り、1928年4月に内相ほか関係当局を歴訪した。法案は労働者災害扶助法と同責任保険法の二本立てとなって1931年3月に成立し、翌1932年1月から施行された。全産業の労働者を対象とする1947年の労働者災害補償保険法は、この原型から出ている。受注の細った年に業界団体の長を引き受けた義雄氏が残したのは、自社の工事ではなく、業界が災害の費用を負う仕組みのほうだった。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [58]建設・鉄道の労務者は鉱業法・工場法の適用を除外され災害補償を受けられなかった
- [59]1927年11月 政府が労働者災害扶助法案を作成し補償を元請業者の責任とした
- [60]業界が反対した理由は下請が労務者を使役する実態と重大災害での補償能力の欠如
- [61]1928年4月 大林義雄氏が国営業務災害保険法案を携え内相ほか関係当局を歴訪
- [62]1931年3月 労働者災害扶助法と同責任保険法が成立し1932年1月施行
- [63]1947年の労働者災害補償保険法の原型
参考文献[38]-[63]
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [38]1923年9月1日の関東大震災で東京支店が焼失し支店管内の工事現場も4カ所を残し全滅
- [39]従業員とその家族に死傷なし・歌舞伎座現場内に支店仮事務所を設置
- [40]震災関連工事の請負金総額は1,000万円を突破
- [41]1923年9月6日 大林義雄社長が汽船玄海丸を傭船し社員と資材を東上させた
- [44]1924年4月 資本金を200万円から500万円へ増資し払込済資本金320万円
- [45]従業員数は1921年10月353名・1924年1月570名・1925年1月681名
- [46]学校推薦による定時採用は1921年30名から1926年86名へ増加
- [47]1925年5月に横浜・7月に名古屋の出張所を支店へ昇格し4支店体制
- [48]1924年2月 社員2名をアメリカへ派遣し新鋭建設機械を購入
- [50]1924年12月 副社長制を新設し大林賢四郎氏が就任
- [51]1927年の金融恐慌・1929年の金解禁と世界恐慌の波及で受注競争が激化
- [52]工事請負高指数は1927年上半期100に対し1930年上半期52
- [53]株主配当は1928年以降年1割2分・1931年年1割・1932年年7分へ減配
- [54]1929年 浜甲子園の海辺6万坪を宅地造成し約500戸を分譲
- [55]1929年 日本郵船の浅間丸・龍田丸の2等公室内装を21万円で受注
- [56]陸の建設業者が船内装飾へ進出した最初
- [57]1931年10月 工作所を分離して内外木材工芸を設立
- [58]建設・鉄道の労務者は鉱業法・工場法の適用を除外され災害補償を受けられなかった
- [59]1927年11月 政府が労働者災害扶助法案を作成し補償を元請業者の責任とした
- [60]業界が反対した理由は下請が労務者を使役する実態と重大災害での補償能力の欠如
- [61]1928年4月 大林義雄氏が国営業務災害保険法案を携え内相ほか関係当局を歴訪
- [62]1931年3月 労働者災害扶助法と同責任保険法が成立し1932年1月施行
- [63]1947年の労働者災害補償保険法の原型
- 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)
- [42]近畿2府6県連合が寄付したバラック500棟と患者1,000人収容の横浜仮病院13棟を特命で受注
- [43]木材を大阪で加工し現地で組立てる段取りにより契約どおり1カ月で完成
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [49]新技術の導入と近代的な機械設備の拡充
筆者考察
大林組が東京で地歩を得たのは、東京駅を建てたからではなく、大阪に本店を置いたままそれを建てたからである。1923年の関東大震災で東京の業者の多くが被災したとき、大林組の東京支店も焼けたが、本店と加工場と職方は大阪にあった。近畿2府6県が寄付した罹災者用のバラック500棟を1カ月で建てられたのは、木材を大阪で加工して船で運び、現地では組立てだけを行う段取りを組めたからである。地元にいないことが、このときだけは調達の強みに変わった。丸ビルの復旧を特命で任されたのも、それまでに建てた東京駅や日本興業銀行が震災で無傷だったという、10年にわたる実績が先にあったためだった。
続く昭和恐慌で、大林組は請負の外へ出た。浜甲子園の海辺6万坪を宅地に造成して住宅を分譲し、日本郵船の客船の内装を請け、台北と大連に出張所を置いた。どれも工事の受注が細ったところから始まっており、多角化という言葉で括るには動機が単純すぎる。同じ時期に大林義雄氏が力を注いだ国営業務災害保険の運動も、業界の善意から出たものではない。重大災害の補償を元請1社では負えないという計算から出ている。不況は、会社に新しい商売を、業界に新しい制度を、同時に作らせた。
- 出所は大林組八十年史(1972年)。関東大震災は1923年9月。
出典・参考
6件
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- 日本会社史総覧 1995年
- 回顧70年 : 大林組とともに(大林組, 1968)