大林組:第二大林組による再編と大阪・東京での株式上場
1936年〜合併増資による資本の倍増と、軍需が押し上げた工事施工高の首位
1936年12月24日、大林組は資本金10万円の株式会社第二大林組を設立した。工事量の増加と物価騰貴が資金需要を旺盛にし、資本を倍にする必要があったが、その方法として選んだのが合併増資である。翌1937年3月、資本金500万円の株式会社大林組を第二大林組へ吸収合併させ、資本金を1,010万円へ増やしたうえで商号を株式会社大林組に戻した。存続したのは新しく作った側であり、現在の大林組の法律上の設立日は1936年12月である。社長は大林義雄氏が続き、専務取締役に白杉亀造氏、常務取締役に植村克己氏ほか3名が並んだ。創業から44年を経て、経営陣も事業も動かさずに会社だけを取り替えた手続きだった。
- 証券 1960年11月号
- [1]1936年12月24日 資本金10万円で株式会社第二大林組を設立
- [3]1937年3月 資本金500万円の株式会社大林組を吸収合併し資本金1,010万円へ
- [4]法律上の設立日は1936年12月
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [2]工事量増加と物価騰貴による資金需要から資本の倍増を合併増資で行う方針
- [5]合併後の役員は社長大林義雄氏・専務取締役白杉亀造氏・常務取締役植村克己氏ほか
資本を倍にした先にあったのは軍需だった。1936年に受注した工事には三菱重工業横浜造船所、川崎造船各務原飛行機工場、東北振興電力蓬莱発電所、東京電燈信濃川発電所が並ぶ。なかでも信濃川発電所は1936年8月の着工から1941年10月の完成まで5年余を要し、請負金額は677万円に達した。豪雪地帯でありながら除雪機械がなかったため、信濃川の河原から隧道坑口までの4〜5キロに架空索道を5基架け、骨材やセメントを積んだバケットを50秒に1台の割で送って昼夜兼行で運んでいる。銀行や商社のビル、工場と倉庫の建築に発電所・道路・橋梁の土木が重なり、1936年から1940年の平均年間工事施工高は1億1,800万円と、9,371万円の清水組、6,274万円の大倉土木を離して主要10社の首位に立った。創業から業界首位まで約50年を要している。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [6]1936年の受注に三菱重工業横浜造船所・川崎造船各務原飛行機工場・東京電燈信濃川発電所
- [7]東京電燈信濃川発電所は1936年8月着工1941年10月完成・請負金額677万円
- [8]豪雪地帯のため架空索道5基を架けバケットを50秒に1台送って昼夜兼行で施工
- [10]1936年から1940年の平均年間工事施工高は大林組1億1,800万円・清水組9,371万円・大倉土木6,274万円
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [9]銀行・商社のビル、工場・倉庫の建築と発電所・道路・橋梁の土木工事が増加
- 日本会社史総覧 1995年
- [11]創業から業界首位まで約50年
戦時体制が深まるなかで、大林組は人と資産の両方を失った。1940年3月、満州国で日本企業をすべて現地法人とする政策が採られたため、満州国と関東州の支店・出張所を廃して資本金500万円の株式会社満州大林組を設立し、その事業を継承させた。設立当初に駐在役員を含め256名だった在籍者は、終戦時には353名へ増えている。一方で内地では召集と徴用が相次ぎ、1938年に総数1,420名に対し88名だった休職者は、1940年には1,718名に対し230名まで増えた。1943年4月には資本金を1,500万円へ増資したが、同年11月に大林義雄社長が死去し、応召中だった大林芳郎氏が3代目社長に就任するよう命じられた。敗戦によって外地の資産も現地法人も失われ、1945年の施工実績で大林組は竹中工務店、清水組、鹿島組、飛島組に次ぐ5位へ低下した。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [12]1940年3月 満州国の現地法人化政策により資本金500万円の株式会社満州大林組を設立
- [13]満州大林組の在籍者は設立当初256名・終戦時353名
- [14]休職者は1938年に総数1,420名中88名・1940年に1,718名中230名(大半が応召と応徴)
- [17]1945年の施工実績は竹中工務店・清水組・鹿島組・飛島組に次ぐ5位
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [15]1943年4月 資本金1,500万円へ増資
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [16]1943年11月 大林義雄社長の死去により大林芳郎氏が3代目社長を継承(応召中に就任を命じられた)
参考文献[1]-[17]
- 証券 1960年11月号
- [1]1936年12月24日 資本金10万円で株式会社第二大林組を設立
- [3]1937年3月 資本金500万円の株式会社大林組を吸収合併し資本金1,010万円へ
- [4]法律上の設立日は1936年12月
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [2]工事量増加と物価騰貴による資金需要から資本の倍増を合併増資で行う方針
- [5]合併後の役員は社長大林義雄氏・専務取締役白杉亀造氏・常務取締役植村克己氏ほか
- [6]1936年の受注に三菱重工業横浜造船所・川崎造船各務原飛行機工場・東京電燈信濃川発電所
- [7]東京電燈信濃川発電所は1936年8月着工1941年10月完成・請負金額677万円
- [8]豪雪地帯のため架空索道5基を架けバケットを50秒に1台送って昼夜兼行で施工
- [10]1936年から1940年の平均年間工事施工高は大林組1億1,800万円・清水組9,371万円・大倉土木6,274万円
- [12]1940年3月 満州国の現地法人化政策により資本金500万円の株式会社満州大林組を設立
- [13]満州大林組の在籍者は設立当初256名・終戦時353名
- [14]休職者は1938年に総数1,420名中88名・1940年に1,718名中230名(大半が応召と応徴)
- [17]1945年の施工実績は竹中工務店・清水組・鹿島組・飛島組に次ぐ5位
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [9]銀行・商社のビル、工場・倉庫の建築と発電所・道路・橋梁の土木工事が増加
- [15]1943年4月 資本金1,500万円へ増資
- 日本会社史総覧 1995年
- [11]創業から業界首位まで約50年
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [16]1943年11月 大林義雄社長の死去により大林芳郎氏が3代目社長を継承(応召中に就任を命じられた)
1946年〜戦時補償の打切りが迫った増資と、同族会社から離れる最初の一歩
敗戦の直後、建設業は他の産業に先がけて動き出した。占領軍向けの飛行場の整備や兵舎・家族住宅の建築が至上命令として各府県から発注され、業者への工事の配分は1947年2月まで日本建設工業統制組合が行っている。大林組は1945年9月から年末までに伊丹飛行場や神戸製鋼本社工場の復旧を受け、戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手した。ところが同時に、戦前の首位という実績が重荷へ変わる。1946年10月公布の戦時補償特別措置法は、軍工事に対する1945年8月15日以降の支払分を戦時補償とみなして全額を課税するもので、工事量の多い業者ほど打撃が大きかった。大林組は1945年末、規程以上の退職手当に数カ月分の給料を加える条件で希望退職を募り、400名が退職している。課税額が陸海軍工事費と戦時保険を合わせ約2,800万円と決まって決着したのは、1951年5月だった。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [18]進駐軍工事の配分は1947年2月まで日本建設工業統制組合が実施
- [19]1945年9月から年末に伊丹飛行場・神戸製鋼本社工場などの復旧を受注
- [21]1946年10月公布の戦時補償特別措置法は1945年8月15日以降の軍工事支払分に全額課税
- [22]1945年末に希望退職を募り400名が退職
- [23]課税額は陸海軍工事費と戦時保険を合わせ約2,800万円・決着は1951年5月
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [20]戦後は戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手
会社経理応急措置法により特別経理会社に指定された大林組は、1946年8月10日現在で経理を新旧勘定に分け、旧勘定へ6,627万6,000円を棚上げした。企業再建整備法にもとづく整備計画には、認可後1年以内に資本金を5,500万円増やして7,000万円とすることが条件として付いた。大林組は営業網の組み直しも進め、1946年6月に仙台を支店に改めて横浜支店を新たに設け、同年11月に札幌、1947年3月に広島、1948年10月に岡山の出張所をそれぞれ支店へ格上げした。増資はもはや避けられず、1949年4月の臨時株主総会で決め、9月に終えている。この増資で株式の一部が初めて社外に出たが、渡った先は取引先の会社や金融機関といった関係者に限られ、完全な公開とは呼べなかったが、同族経営を抜け出す最初の一歩としては業界の先がけとなった。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [24]1946年8月10日現在で新旧勘定を分離し旧勘定に6,627万6,000円を棚上げ
- [25]企業再建整備法の整備計画で認可後1年以内に資本金を5,500万円増やし7,000万円とする条件
- [27]1949年4月の臨時株主総会で増資を決議し同年9月に完了
- [28]1949年の増資で初めて株式の一部を社外へ放出したが範囲は取引先と金融機関に限られた
- [29]同族会社から脱皮する第一歩として業界のさきがけ
- 証券 1960年11月号
- [26]1946年6月 仙台支店化と横浜支店新設・1946年11月札幌・1947年3月広島・1948年10月岡山の各出張所を支店化
1950年の朝鮮動乱がもたらした好況は、翌1951年以降の受注回復につながった。大林組は1950年の沖縄の米軍工事を鹿島建設・竹中工務店と協力して施工し、那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社による共同施行となっている。1955年時点の社員数は3,000名、年間施工高は約200億円に達した。この規模で請負を回すには、それまでと違う資本が要る。施工の機械化によって機械が固定資本として欠かせなくなり、工事の多様化と巨大化で工費が高額にのぼって、発注者が支払いに条件を付ける傾向もあらわれたためである。大林組は1952年の創業60年を機に資本金を1億5,000万円とし、1954年に3億円、1956年に6億円、1957年に12億円、1959年に24億円と、7年間に5回の倍額増資を重ねた。1956年の受注工事高は314億円、完成工事高は196億円、純利益は2億4,400万円である。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [30]1950年 朝鮮動乱の好況と1951年以降の受注回復
- [32]1955年時点の社員数3,000名・年間施工高約200億円
- 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社, 1980)
- [31]那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社で共同施行
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [33]施工の機械化と工事の巨大化により資本回転率が低下し資本充実が必要になった
- [34]1952年1億5,000万円・1954年3億円・1956年6億円・1957年12億円・1959年24億円と7年間に5回の倍額増資
- [35]1956年の受注工事高314億円・完成工事高196億円・純利益2億4,400万円
参考文献[18]-[35]
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [18]進駐軍工事の配分は1947年2月まで日本建設工業統制組合が実施
- [19]1945年9月から年末に伊丹飛行場・神戸製鋼本社工場などの復旧を受注
- [21]1946年10月公布の戦時補償特別措置法は1945年8月15日以降の軍工事支払分に全額課税
- [22]1945年末に希望退職を募り400名が退職
- [23]課税額は陸海軍工事費と戦時保険を合わせ約2,800万円・決着は1951年5月
- [24]1946年8月10日現在で新旧勘定を分離し旧勘定に6,627万6,000円を棚上げ
- [25]企業再建整備法の整備計画で認可後1年以内に資本金を5,500万円増やし7,000万円とする条件
- [27]1949年4月の臨時株主総会で増資を決議し同年9月に完了
- [28]1949年の増資で初めて株式の一部を社外へ放出したが範囲は取引先と金融機関に限られた
- [29]同族会社から脱皮する第一歩として業界のさきがけ
- [33]施工の機械化と工事の巨大化により資本回転率が低下し資本充実が必要になった
- [34]1952年1億5,000万円・1954年3億円・1956年6億円・1957年12億円・1959年24億円と7年間に5回の倍額増資
- [35]1956年の受注工事高314億円・完成工事高196億円・純利益2億4,400万円
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [20]戦後は戦災復旧工事と進駐軍関連工事から再建に着手
- 証券 1960年11月号
- [26]1946年6月 仙台支店化と横浜支店新設・1946年11月札幌・1947年3月広島・1948年10月岡山の各出張所を支店化
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- [30]1950年 朝鮮動乱の好況と1951年以降の受注回復
- [32]1955年時点の社員数3,000名・年間施工高約200億円
- 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社, 1980)
- [31]那覇の飛行場工事は鹿島・大林・竹中・大成の4社で共同施行
1957年〜建設業で最初の株式公開と、海外へ出るための拠点づくり
日本の建設業界で株式を公開した会社は、財閥解体という特殊な事情を抱えた大成建設を別にすれば、大林組が初めてである。その第一歩は1957年12月の大阪証券市場での店頭売買で、額面50円の株を75円で売り出した。1958年6月に野村證券がアメリカの例にならい、名義書換を一手に引き受ける名義書換代理人制度を始めると、大林組は他社に先んじて野村證券を代理人に指名した。大阪証券取引所に上場した同年12月6日には、株価が295円をつけた。東京では1959年9月に店頭売買を始め、1960年11月1日に東京証券取引所へ上場したときの株価は630円だった。1961年10月に東京証券取引所へ第二部が創設されると、同業20数社がいっせいに株式公開へ踏み切っている。同族企業の枠を先に破った1社があったことが、業界が閉鎖性を解く順番を決めた。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [36]大成建設の特殊事情を除けば建設業界で株式を公開した最初
- [37]1957年12月 大阪証券市場で株式を店頭売買に付した
- [38]店頭売買の売出し価格は額面50円に対し75円
- [39]1958年6月 野村證券の名義書換代理人制度に率先して同社を代理人指定
- [42]1961年10月の東証第二部創設を機に同業20数社が株式公開
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [40]1958年12月6日 大阪証券取引所に上場・株価295円
- [41]1960年11月1日 東京証券取引所に上場・株価630円
海外には上場より先に手を付けていた。1950年8月、通商産業省の発注でパキスタンの首都カラチに開かれた万国産業博覧会の日本館を建設したのが戦後最初の海外工事で、全館アルミ外装の展示館5棟・750坪という小規模なものである。1955年3月にビルマ、1956年3月にタイ、同年5月にパキスタンへ役職員を派遣して各国の事情を調査させ、1956年2月には東京支店に海外工事部を設けた。日本の建設業者の海外進出がおおむね1965年以後であることを思えば、10年近く早い。1956年3月にフィリピンで開かれた汎アジア建設業者会議には大林芳郎社長が出席し、そこで創立されたアジア西太平洋建設業協会国際連盟で1966年度の建設業者賞金賞を受けている。1965年7月にはシンガポール政府発注の工事を受け、1972年1月に現地資本と組んでジャヤ大林を設立した。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [43]1950年8月 カラチ万国産業博覧会の日本館建設が戦後最初の海外工事(展示館5棟750坪)
- [44]1955年3月ビルマ・1956年3月タイ・同年5月パキスタンへ役職員を派遣し事情調査
- [45]1956年2月 東京支店に海外工事部を設置
- [46]日本の建設業者の海外進出はおおむね1965年以後
- [47]1956年3月の汎アジア建設業者会議に大林芳郎社長が出席・1966年度IFAWPCA建設業者賞金賞を受賞
- [48]1965年7月 シンガポール政府発注の工事を受注
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [49]1972年1月 ジャヤ大林を設立
1968年1月、大林組の株式は大阪証券取引所の特定銘柄に指定され、同年10月に資本金を103億円へ増資したときの株価は額面50円に対し296円の高値をつけた。売上高は1959年3月期の347億円から1968年3月期に1,477億円、1972年3月期には2,865億円へ伸びている。規模の変わった会社に対し、大林芳郎社長が最後に動かしたのは本社の位置だった。創業者の大林芳五郎氏が会社を興したのは大阪で、その死後に訪れた危機を乗り切れたのも大阪の財界人が手を貸したからだった。それでも大林組は1970年7月に47億円の増資で資本金を150億円とし、その年の暮れには東京に本社を置いて、大阪本店と並べる二本建ての体制に移った。主力の大部分を東京へ移した理由は、国内外の情報がいち早く集まる場所こそ日々の業務に向くと判断したことにある。外から人と金を入れて資本を薄め続けた35年は、創業の地に本拠を置くという最後の縛りを解くことで区切りを迎えた。
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [50]1968年1月 大阪証券取引所の特定銘柄に指定・同年10月の103億円増資時の株価は額面50円に対し296円
- [52]創業者の没後の危機を越えられたのは大阪財界人の協力による
- [53]1970年7月 47億円を増資し資本金150億円
- [55]東京本社設置の理由は国際・国内の情報が最も早く集中する場所での業務遂行
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [51]売上高は1959年3月期347億円・1968年3月期1,477億円・1972年3月期2,865億円(単体)
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [54]1970年末 東京に本社を設置し大阪本店との二本建てとした
参考文献[36]-[55]
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- [36]大成建設の特殊事情を除けば建設業界で株式を公開した最初
- [37]1957年12月 大阪証券市場で株式を店頭売買に付した
- [38]店頭売買の売出し価格は額面50円に対し75円
- [39]1958年6月 野村證券の名義書換代理人制度に率先して同社を代理人指定
- [42]1961年10月の東証第二部創設を機に同業20数社が株式公開
- [43]1950年8月 カラチ万国産業博覧会の日本館建設が戦後最初の海外工事(展示館5棟750坪)
- [44]1955年3月ビルマ・1956年3月タイ・同年5月パキスタンへ役職員を派遣し事情調査
- [45]1956年2月 東京支店に海外工事部を設置
- [46]日本の建設業者の海外進出はおおむね1965年以後
- [47]1956年3月の汎アジア建設業者会議に大林芳郎社長が出席・1966年度IFAWPCA建設業者賞金賞を受賞
- [48]1965年7月 シンガポール政府発注の工事を受注
- [50]1968年1月 大阪証券取引所の特定銘柄に指定・同年10月の103億円増資時の株価は額面50円に対し296円
- [52]創業者の没後の危機を越えられたのは大阪財界人の協力による
- [53]1970年7月 47億円を増資し資本金150億円
- [55]東京本社設置の理由は国際・国内の情報が最も早く集中する場所での業務遂行
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- [40]1958年12月6日 大阪証券取引所に上場・株価295円
- [41]1960年11月1日 東京証券取引所に上場・株価630円
- [49]1972年1月 ジャヤ大林を設立
- [54]1970年末 東京に本社を設置し大阪本店との二本建てとした
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- [51]売上高は1959年3月期347億円・1968年3月期1,477億円・1972年3月期2,865億円(単体)
筆者考察
大林組は、資本の形を3度作り替えて今の姿になった。1936年に資本金10万円の第二大林組を作り、翌年に本体を吸収させて資本金1,010万円としたのは、会社を新しく作って事業を移す手続きである。1949年に初めて株式を社外へ出したのは、戦時補償特別措置法が課した約2,800万円の税と、企業再建整備法が付けた増資条件に追われてのことだった。1958年12月に大阪証券取引所へ上場し、建設業として最初に株式を公開したときも、動機は資金調達である。大林家の持株比率は、理念ではなく資金繰りの都合で3度薄まった。
薄まった先に何が乗ったかが、この章のもう一つの線である。1936年から1940年の平均年間工事施工高1億1,800万円で主要10社の首位に立った大林組は、敗戦で外地の資産と満州大林組を失い、1945年の施工実績では5位まで低下した。そこから売上高を1959年3月期の347億円から1972年3月期の2,865億円へ積み直す間に、1956年の海外工事部、1965年のシンガポール、1972年のジャヤ大林と、外へ出る経路を先に作っている。1970年末に東京へ本社を置いたのは、大阪の会社という自己規定を最後に外す動きだった。
- 棒はすべて単体。大阪証券取引所への上場は1958年12月、東京証券取引所への上場は1960年11月。
- 出所は大林組百年史。
1936年〜1972年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 347 | n/a | 15 | 13 | 3.7% | 7 | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 415 | +19.6% | 19 | 16 | 3.9% | 7 | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 594 | +43.1% | 31 | 28 | 4.7% | 17 | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 797 | +34.2% | 40 | 35 | 4.4% | 20 | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 898 | +12.7% | 51 | 47 | 5.2% | 28 | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 977 | +8.8% | 60 | 55 | 5.6% | 32 | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 1,156 | +18.3% | 68 | 61 | 5.3% | 37 | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 1,229 | +6.3% | 65 | 56 | 4.6% | 36 | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 1,231 | +0.2% | 70 | 56 | 4.5% | 36 | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 1,477 | +20.0% | 75 | 63 | 4.3% | 37 | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,769 | +19.8% | 96 | 78 | 4.4% | 45 | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 2,261 | +27.8% | 132 | 116 | 5.1% | 69 | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 2,807 | +24.1% | 183 | 168 | 6.0% | 98 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 2,865 | +2.1% | 162 | 163 | 5.7% | 94 | n/a |
出所:大林組百年史
出典・参考
7件
- 大林組 有価証券報告書【沿革】
- 大林組八十年史(大林組社史編集委員会, 1972)
- 大林組百年史(大林組, 1993)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「大林組」の項
- 日本会社史総覧 1995年
- 証券 1960年11月号
- 私の履歴書 経済人7「鹿島守之助」(日本経済新聞社, 1980)