東京建物:新宿センタービルの竣工とマンション分譲への参入
小田急百貨店への賃貸から那須・河口湖のリゾートへ
1957年〜四つの部門を兼ねる総合不動産会社への組み替え
建設請負を捨てた東京建物が次に掲げたのは、不動産の四つの機能を一社で兼ねる形であった。1957年からの営業期にあたり、商業的なものとしての売買、工業的なものとしての宅地造成、金融的なものとしての賃貸、役務的なものとしての仲介と鑑定を兼備し、これらを有機的に結んで運営する総合不動産会社を目標に据えた。当時の収益は賃料に偏り、1956年12月期の収入5,391万3千円のうち86.6パーセントを地代家賃が占めていた。10年後の1966年12月期には収入が7億7,495万9千円へ増え、賃料74.2パーセント、売買益9.9パーセント、仲介手数料10.7パーセント、鑑定報酬5.2パーセントと配分が均された。この四つの柱による再出発から、のちに成長と近代化の時代と呼ばれる10年が始まった。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [1]1957年の再出発にあたり、不動産の売買(商業的)、宅地の造成(工業的)、不動産の賃貸(金融的)、仲介・鑑定(役務的)の四部門を兼備し有機的に結んで運営する総合不動産会社を目標とした
- [2]1956年12月期の収入5,391万3千円の内訳は賃料86.6パーセント、売買益0.4パーセント、仲介手数料8.5パーセント、鑑定報酬4.5パーセントであった
- [3]1966年12月期の収入7億7,495万9千円の内訳は賃料74.2パーセント、売買益9.9パーセント、仲介手数料10.7パーセント、鑑定報酬5.2パーセントであった
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- [4]東京建物は不動産の売買、宅地の造成、不動産の賃貸、仲介・鑑定の4事業を柱に総合不動産会社として再出発し、1955年からの10年と1965年からの10年が成長と近代化の時代となって企業基盤が構築された
四部門のうち東京建物が資本を集中したのは賃貸であった。木造家屋と異なり火災や風水害の危険が小さく、大きな資本の長期固定を要するために乱立的な競争が起こりにくく、入居者も銀行や商社など法人が多くて収入が安定する。1956年9月に着工した本社ビルの増改築は、1929年竣工の旧館へ延1,851坪を継ぎ足し、冷房を備えて1958年3月に竣工した。1958年8月には大阪ビルを増築し、1959年11月に神田ビルが全館完成している。この増築の竣工をもって、東京建物は戦後のビル事業を本格化させた。賃貸面積は1956年末の4.0千坪から1966年末の31.5千坪へ、下期の賃貸収入は4,660万円から5億7,510万円へ増えた。面積で約8倍に対し収入は12倍を超え、賃料単価の上昇が面積の拡大を上回った。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [5]ビル賃貸業務は木造家屋と異なり火災・風水害等の物理的危険が少なく、大きな資本の長期固定を要するため乱立的な競争が行われにくく、入居者も銀行・商社等の法人が多く安定していた
- [6]1956年9月着工の本社ビル増改築は、1929年竣工の旧館に接続して延1,851坪を増築し、旧館にも冷房設備を施して1958年3月末に竣工した
- [7]大阪ビルの増築は1958年8月に完成し、神田ビルは1957年11月着工、1958年12月に一部稼働、1959年11月に全館完成した
- [9]ビル賃貸の面積は1956年末4.0千坪から1966年末31.5千坪(指数780)へ、下期の賃貸収入は4,660万円から5億7,510万円(指数1,324)へ増加した
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [8]1958年3月の旧東京建物本社ビル新館増築工事の竣工により、戦後のビル事業を本格化した
新宿副都心計画が発表されると西口がいずれ栄えるのは確実とみられるようになり、有力百貨店との内交渉では機が熟さなかった東京建物の構想、すなわち新宿西口の所有地に百貨店用のビルを建てる計画について、小田急電鉄との折衝が進んだ。賃貸借の正式契約を結ぶことは1959年暮の両社社長の会談で公式に合意され、基礎工事は1960年7月に始まった。小田急電鉄が小田急百貨店を設けたのは1961年6月で、富士銀行、安田火災、東京建物が株式を1割ずつ持った。地下3階地上8階、延約1万3千坪の新宿ビルは1962年10月に竣工し、11月3日に百貨店が開店している。1964年6月には新宿へ営業所を開き、副都心の客を受ける窓口とした。続く横浜駅西口ビルは従来の所有地をまったく使わない新規投資の第1号であり、区分所有としても第1号であった。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [10]東京建物は新宿西口の所有地に百貨店用ビルを建設する意思を以前から持ち有力百貨店と内交渉したが機が熟さず、新宿副都心計画の発表後に小田急電鉄との折衝が進んだ
- [11]1959年暮の小池・安藤両社長および双方の関係役員の会談で賃貸借の正式契約を締結することが公式に合意され、1960年7月に新宿ビルの基礎工事へ着手した
- [12]小田急電鉄は1961年6月1日に株式会社小田急百貨店を設立し、富士銀行、安田火災、東京建物が各1割の株式を保有した
- [13]新宿ビルは地下3階地上8階、延約1万3千坪で1962年10月に竣工し、11月3日に小田急百貨店が開店した
- [15]横浜駅西口ビルは従来の所有地をまったく使用しない新規投資第1号であり、かつ区分所有第1号でもあった(1962年4月着工、1964年3月竣工)
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [14]1964年6月、新宿営業所を開設した
参考文献[1]-[15]
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [1]1957年の再出発にあたり、不動産の売買(商業的)、宅地の造成(工業的)、不動産の賃貸(金融的)、仲介・鑑定(役務的)の四部門を兼備し有機的に結んで運営する総合不動産会社を目標とした
- [2]1956年12月期の収入5,391万3千円の内訳は賃料86.6パーセント、売買益0.4パーセント、仲介手数料8.5パーセント、鑑定報酬4.5パーセントであった
- [3]1966年12月期の収入7億7,495万9千円の内訳は賃料74.2パーセント、売買益9.9パーセント、仲介手数料10.7パーセント、鑑定報酬5.2パーセントであった
- [5]ビル賃貸業務は木造家屋と異なり火災・風水害等の物理的危険が少なく、大きな資本の長期固定を要するため乱立的な競争が行われにくく、入居者も銀行・商社等の法人が多く安定していた
- [6]1956年9月着工の本社ビル増改築は、1929年竣工の旧館に接続して延1,851坪を増築し、旧館にも冷房設備を施して1958年3月末に竣工した
- [7]大阪ビルの増築は1958年8月に完成し、神田ビルは1957年11月着工、1958年12月に一部稼働、1959年11月に全館完成した
- [9]ビル賃貸の面積は1956年末4.0千坪から1966年末31.5千坪(指数780)へ、下期の賃貸収入は4,660万円から5億7,510万円(指数1,324)へ増加した
- [10]東京建物は新宿西口の所有地に百貨店用ビルを建設する意思を以前から持ち有力百貨店と内交渉したが機が熟さず、新宿副都心計画の発表後に小田急電鉄との折衝が進んだ
- [11]1959年暮の小池・安藤両社長および双方の関係役員の会談で賃貸借の正式契約を締結することが公式に合意され、1960年7月に新宿ビルの基礎工事へ着手した
- [12]小田急電鉄は1961年6月1日に株式会社小田急百貨店を設立し、富士銀行、安田火災、東京建物が各1割の株式を保有した
- [13]新宿ビルは地下3階地上8階、延約1万3千坪で1962年10月に竣工し、11月3日に小田急百貨店が開店した
- [15]横浜駅西口ビルは従来の所有地をまったく使用しない新規投資第1号であり、かつ区分所有第1号でもあった(1962年4月着工、1964年3月竣工)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- [4]東京建物は不動産の売買、宅地の造成、不動産の賃貸、仲介・鑑定の4事業を柱に総合不動産会社として再出発し、1955年からの10年と1965年からの10年が成長と近代化の時代となって企業基盤が構築された
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [8]1958年3月の旧東京建物本社ビル新館増築工事の竣工により、戦後のビル事業を本格化した
- [14]1964年6月、新宿営業所を開設した
1959年〜担保貸付の後退と別荘地・住宅地の分譲
住宅金融公庫や日本住宅公団などの公的機関が長期低利の貸付を拡充し、銀行と信託銀行も住宅ローンに乗り出し、官庁や会社は従業員の持家を後押しする融資を増やしていった。創業以来の柱だった不動産担保金融が活発だったのは1950年の再開から1956年頃までで、加えて住宅をめぐる社会政策的な立法が強まり、住宅を担保にしても、いざ担保権を行使すれば社会から強い反発を受けかねない事情も重なった。東京建物はこの業務から距離を置く方針をとり、1966年末の貸付金残高は2億6,700万円、総資産に対する比率も下がった。東京建物が創業からおよそ半世紀かけて形にした不動産担保金融と住宅ローンのひな形は、公的機関と銀行が制度として提供するものとなり、同社はその市場から退いた。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [16]住宅金融公庫・日本住宅公団等による長期低金利の不動産金融の拡充、銀行・信託銀行による住宅ローンの取り扱い開始、官庁・会社の従業員持家促進融資の拡充により、東京建物は不動産担保金融に消極的な方針をとった
- [17]住宅に対する社会政策的立法の強化により、住宅を担保とする場合の担保権の実行には相当強い社会的抵抗を免れない状況となっていた
- [18]貸付金残高は1956年末1億4,200万円、1966年末2億6,700万円で、総資産に占める比率は低下した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- [19]東京建物はおよそ100年前に今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型をつくり、それを基盤とした不動産業務を生んだ
宅地造成分譲で東京建物が最初に手掛けたのは、住宅地ではなく別荘地であった。湯河原の戦前からの社有地に自動車道路を造成し、1959年に売出しを始めたところ成績が良好で、これが翌年から那須の分譲へ進む動因となった。那須は1960年春から計画したが、冬期の工事ができないため売出しは1963年5月までずれ込んだ。湯河原と那須には、いずれも戦前からの所有地であること、住宅地ではなくレジャー用地であること、既成の有名温泉地であることの三つの共通点があった。湯河原桜山では大手法人企業の保養所や寮の用途に区画分譲を進め、別荘地分譲の先駆けとなった。持ち続けていた土地が、高度成長期の余暇需要によって商品へ変わった。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [20]東京建物が宅地造成分譲で最初に手掛けたのは湯河原の戦前からの社有地であり、自動車道路を造成整備して1959年に売出しを開始し、成績が良好であったことが翌年からの那須の分譲へ進む動因となった
- [21]那須の造成分譲は1960年春から計画されたが、冬期の工事が不可能であったため売出し開始は1963年5月となった
- [22]湯河原と那須の分譲には、戦前からの所有地であること、住宅地ではなくレジャー用地であること、既成の有名温泉地であることの三つの共通点があった
- Decide 1988年10月号
- [23]湯河原桜山では1959年から大手法人企業の保養所・寮の用途に区画分譲を開始し、別荘地分譲の先駆的存在となった
東京建物が戦後の住宅事業に本腰を入れたのは、府中市中河原での分譲からである。1963年4月、造成が途中までの土地を買い取って仕上げ、その年のうちに売り出すと、売り始めてすぐに全区画が売れた。1964年秋に分譲した埼玉県鶴ヶ島も翌年3月末には完売し、その後に千葉県野田と西八王子が続く。西八王子の造成では、それまで経験のない量の土を動かした。宅地造成等規制法を適用した造成として第1号にあたる現場でもある。住宅ローンを東京建物が初めて付けたのも野田と西八王子で、提携先は安田信託銀行だった。1968年9月からは藤沢でマンションの分譲に乗り出した。1972年に川越市などで売りに出したのは、総区画数700という大規模な分譲地である。土地を仕込んで造成し住戸まで建てる流れが、ここで一本につながった。
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [24]1963年8月、府中市中河原にて住宅地開発を開始し、戦後の住宅事業を本格化した
- [29]1968年9月、藤沢市においてマンション分譲事業を開始した
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [25]府中市中河原の分譲は戦後の東京建物が住宅地として造成・分譲した最初のもので、1963年4月に半造成地を購入して完全に造成し、年内に売り出して開始早々に全部売却済みとなった
- [26]埼玉県鶴ヶ島の分譲地は1964年秋に売却を始めて翌年3月末までに全区画を売り尽くし、千葉県野田は1964年着工・同年12月売出し、西八王子は1966年着工・同年末売出しであった
- [27]西八王子の分譲地は大量の土量を動かした東京建物にとって初めての経験であり、宅地造成等規制法の適用を受けた造成の第1号でもあった
- [28]野田と西八王子の両分譲地について、安田信託銀行と提携して東京建物として初めて住宅ローンを適用した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- [30]1972年に川越市等で総区画数700という大規模分譲地「東建富士見ハイツ」の分譲を開始した
参考文献[16]-[30]
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [16]住宅金融公庫・日本住宅公団等による長期低金利の不動産金融の拡充、銀行・信託銀行による住宅ローンの取り扱い開始、官庁・会社の従業員持家促進融資の拡充により、東京建物は不動産担保金融に消極的な方針をとった
- [17]住宅に対する社会政策的立法の強化により、住宅を担保とする場合の担保権の実行には相当強い社会的抵抗を免れない状況となっていた
- [18]貸付金残高は1956年末1億4,200万円、1966年末2億6,700万円で、総資産に占める比率は低下した
- [20]東京建物が宅地造成分譲で最初に手掛けたのは湯河原の戦前からの社有地であり、自動車道路を造成整備して1959年に売出しを開始し、成績が良好であったことが翌年からの那須の分譲へ進む動因となった
- [21]那須の造成分譲は1960年春から計画されたが、冬期の工事が不可能であったため売出し開始は1963年5月となった
- [22]湯河原と那須の分譲には、戦前からの所有地であること、住宅地ではなくレジャー用地であること、既成の有名温泉地であることの三つの共通点があった
- [25]府中市中河原の分譲は戦後の東京建物が住宅地として造成・分譲した最初のもので、1963年4月に半造成地を購入して完全に造成し、年内に売り出して開始早々に全部売却済みとなった
- [26]埼玉県鶴ヶ島の分譲地は1964年秋に売却を始めて翌年3月末までに全区画を売り尽くし、千葉県野田は1964年着工・同年12月売出し、西八王子は1966年着工・同年末売出しであった
- [27]西八王子の分譲地は大量の土量を動かした東京建物にとって初めての経験であり、宅地造成等規制法の適用を受けた造成の第1号でもあった
- [28]野田と西八王子の両分譲地について、安田信託銀行と提携して東京建物として初めて住宅ローンを適用した
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- [19]東京建物はおよそ100年前に今日の不動産担保金融や住宅ローンの原型をつくり、それを基盤とした不動産業務を生んだ
- [30]1972年に川越市等で総区画数700という大規模分譲地「東建富士見ハイツ」の分譲を開始した
- Decide 1988年10月号
- [23]湯河原桜山では1959年から大手法人企業の保養所・寮の用途に区画分譲を開始し、別荘地分譲の先駆的存在となった
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [24]1963年8月、府中市中河原にて住宅地開発を開始し、戦後の住宅事業を本格化した
- [29]1968年9月、藤沢市においてマンション分譲事業を開始した
1967年〜新宿センタービルの竣工とリゾートへの多角化
1967年2月、東京建物は新宿副都心計画の造成街区のうち第10号地約3,900坪を大成建設と共同で取得した。新宿センタービルは大成建設・朝日生命と組んだ共同事業で、用地の取得から竣工まで12年をかけ、1979年11月に超高層ビルとして完成した。その年の3月には、生え抜きの西川英夫前社長に代わって富士銀行副頭取の柴田隆三氏が社長に就いている。不動産業の先行きは情報網をどこまで整え強められるかで決まるとみた柴田氏は、富士銀行が抱える200を超える支店とのつながりを自らの使命の一つに据えた。用地の仕入れも借り手の紹介も情報から始まる事業だけに、銀行出身の社長にはそこでの働きが求められていた。
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [31]1967年2月、新宿副都心計画造成街区の第10号地約3,900坪(約13,000平方メートル)を大成建設株式会社と共同で取得した
- 日本企業要覧 1981年版「東京建物」(日本経済新聞社)
- [32]新宿センタービルは大成建設・朝日生命との共同事業として建設された
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [33]1979年11月、新宿センタービルが竣工した
- 日経ビジネス 1979年6月18日号(日経マグロウヒル社)
- [34]1979年3月、富士銀行取締役副頭取であった柴田隆三氏が、生え抜きの西川英夫前社長の後を受けて東京建物の社長に就任した
- [35]柴田隆三氏は、これからの不動産は情報網の整備強化が死命を制するとして、銀行とのパイプを広げ富士銀行の200以上の支店との連携を進めることを自らの使命の一つに挙げた
収益の構成は1970年代に大きく動いた。単体の売上高は1970年12月期の31億円から1975年12月期に153億円、1979年12月期に218億円へ伸びている。増えたぶんの多くは分譲であり、1980年12月期の営業収益183億7,266万円のうち、土地建物の賃貸収益は94億2,975万円、不動産の売上高は78億2,682万円、仲介と鑑定その他は11億1,609万円であった。事業の構成比では不動産分譲が42.6パーセントを占め、賃貸に次ぐ柱となった。一方で地価と建築資材の値上がりに住宅ローン金利の引き上げが重なり、1980年の住宅市場は冷え込んだ。それでも賃貸が下支えし、1980年12月期の当期利益は前期を4億3,145万円上回る16億689万円を計上している。
- 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社)
- [36]東京建物の単体売上高は1970年12月期31億円、1975年12月期153億円、1979年12月期218億円であった
- 日本企業要覧 1981年版「東京建物」(日本経済新聞社)
- [37]1980年12月期の営業収益183億7,266万円の内訳は、土地建物賃貸収益94億2,975万円、不動産売上高78億2,682万円、仲介鑑定その他11億1,609万円であった
- [38]1980年時点の東京建物の事業内容は不動産分譲42.6パーセント、仲介鑑定他6.1パーセントであった
- [39]地価の騰貴と建築資材の値上がりによる住宅価格の上昇に加え、実質個人所得の伸び悩みと住宅ローン金利の引き上げによる購買力の減退により、1980年の住宅市場は冷え込みをみせた
- [40]1980年12月期の当期利益は前期を4億3,145万円上回る16億689万円であった
別荘地の分譲で得た土地と経験を、東京建物は1980年代に宿泊と運営の事業へ伸ばした。1982年7月には栃木県那須高原へ那須フォレストヒルズを開き、テニスコートとクラブハウスを備えた長期滞在型の別荘地とした。1987年6月には日本ビューホテルなどとの共同出資で河口湖リゾート開発を設立し、山梨県河口湖に地上12階、延べ床面積1万185平方メートルのレジーナ河口湖を1988年7月に開業した。分譲した126戸のうちホテル68戸は客室の運営を子会社へ委託する方式をとり、一般客が泊まった場合には客室売上高の40パーセントを所有者へ返す仕組みを組み込んだ。1988年からの中期経営計画は、1990年12月期に売上750億円、1993年に1,000億円を掲げている。分譲して売り切る事業に、運営して受け取り続ける事業が重ねられた。
- Decide 1988年10月号
- [41]1982年7月、栃木県那須高原に長期滞在型・行動型リゾートを想定したレジャー施設つき別荘地「那須フォレストヒルズ」を開設し、ナイター照明付きセンターコート2面を含むテニスコートとクラブハウスを設けた
- [43]1988年7月、山梨県河口湖に地上12階建て、延べ床面積1万185平方メートルのホテル「レジーナ河口湖」が開業した
- [44]レジーナ河口湖は総戸数126戸のうちホテル68戸をコンドミニアム方式の分譲式ホテルとし、子会社の河口湖リゾート開発と客室の運営委託契約を結んで、一般客にホテルとして使用された場合に客室売上高の40パーセントを所有者へ支払う仕組みとした
- [45]1988年に始まった中期経営計画は、1990年12月期の売上目標を1987年度比90パーセント増の750億円、1993年度に1,000億円と定めた
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [42]1987年6月、東京建物と日本ビューホテル事業などとの共同出資により河口湖リゾート開発株式会社を設立した
参考文献[31]-[45]
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- [31]1967年2月、新宿副都心計画造成街区の第10号地約3,900坪(約13,000平方メートル)を大成建設株式会社と共同で取得した
- 日本企業要覧 1981年版「東京建物」(日本経済新聞社)
- [32]新宿センタービルは大成建設・朝日生命との共同事業として建設された
- [37]1980年12月期の営業収益183億7,266万円の内訳は、土地建物賃貸収益94億2,975万円、不動産売上高78億2,682万円、仲介鑑定その他11億1,609万円であった
- [38]1980年時点の東京建物の事業内容は不動産分譲42.6パーセント、仲介鑑定他6.1パーセントであった
- [39]地価の騰貴と建築資材の値上がりによる住宅価格の上昇に加え、実質個人所得の伸び悩みと住宅ローン金利の引き上げによる購買力の減退により、1980年の住宅市場は冷え込みをみせた
- [40]1980年12月期の当期利益は前期を4億3,145万円上回る16億689万円であった
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- [33]1979年11月、新宿センタービルが竣工した
- [42]1987年6月、東京建物と日本ビューホテル事業などとの共同出資により河口湖リゾート開発株式会社を設立した
- 日経ビジネス 1979年6月18日号(日経マグロウヒル社)
- [34]1979年3月、富士銀行取締役副頭取であった柴田隆三氏が、生え抜きの西川英夫前社長の後を受けて東京建物の社長に就任した
- [35]柴田隆三氏は、これからの不動産は情報網の整備強化が死命を制するとして、銀行とのパイプを広げ富士銀行の200以上の支店との連携を進めることを自らの使命の一つに挙げた
- 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社)
- [36]東京建物の単体売上高は1970年12月期31億円、1975年12月期153億円、1979年12月期218億円であった
- Decide 1988年10月号
- [41]1982年7月、栃木県那須高原に長期滞在型・行動型リゾートを想定したレジャー施設つき別荘地「那須フォレストヒルズ」を開設し、ナイター照明付きセンターコート2面を含むテニスコートとクラブハウスを設けた
- [43]1988年7月、山梨県河口湖に地上12階建て、延べ床面積1万185平方メートルのホテル「レジーナ河口湖」が開業した
- [44]レジーナ河口湖は総戸数126戸のうちホテル68戸をコンドミニアム方式の分譲式ホテルとし、子会社の河口湖リゾート開発と客室の運営委託契約を結んで、一般客にホテルとして使用された場合に客室売上高の40パーセントを所有者へ支払う仕組みとした
- [45]1988年に始まった中期経営計画は、1990年12月期の売上目標を1987年度比90パーセント増の750億円、1993年度に1,000億円と定めた
筆者考察
1957年に東京建物が掲げた総合不動産会社という目標は、四つの事業を並べた標語ではなく、賃料へ偏った収益を組み替える計画であった。1956年12月期は収入5,391万円の86.6パーセントが地代家賃で、売買益は0.4パーセントにすぎない。10年後には収入が7億7,496万円へ増え、賃料74.2パーセント、売買益9.9パーセント、仲介手数料10.7パーセントと配分が均された。組み替えの元手をつくったのは、その賃貸である。本社ビルの増改築から新宿ビルまでを10年で積み上げ、賃貸面積を8倍、賃料収入を12倍にした。安定した賃料が、回収に時間のかかる造成と分譲を支えた。
創業の事業である担保貸付を細らせたのも、同じ組み替えの一部であった。住宅金融公庫と銀行の住宅ローンが制度として行き渡れば、民間の不動産金融は競争劣位に置かれる。東京建物は貸す側から売る側へ移り、湯河原と那須の社有地を別荘地として売り、府中と鶴ヶ島を宅地に造成し、1968年に藤沢でマンションの分譲を始めた。1980年には不動産分譲が事業の42.6パーセントを占める。そして1988年のレジーナ河口湖では、分譲した客室の運営を子会社へ委託し、売上の40パーセントを所有者へ返す形をとった。売って終える事業に、運営して受け取り続ける事業を重ねたのが、この30年であった。
- 単体。出所は会社年鑑 1976年版・1986年版(日本経済新聞社)、Decide 1988年10月号。
1957年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1957年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 「新宿ビル」竣工(1962/10) |
| 1963年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 新宿営業所を開設(1964/06)区分所有ビルの先駆けとなる「横浜駅西口ビル」竣工(1964) |
| 1965年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年12月期 | 単体 | 31 | n/a | n/a | 11 | 7 | 22.6% | n/a |
| 1971年12月期 | 単体 | 35 | +12.9% | n/a | 12 | 8 | 22.9% | n/a |
| 1972年12月期 | 単体 | 43 | +22.9% | n/a | 15 | 9 | 20.9% | n/a |
| 1973年12月期 | 単体 | 52 | +20.9% | n/a | 19 | 12 | 23.1% | n/a |
| 1974年12月期 | 単体 | 59 | +13.5% | n/a | 23 | 12 | 20.3% | n/a |
| 1975年12月期 | 単体 | 153 | +159.3% | n/a | 25 | 12 | 7.8% | n/a |
| 1976年12月期 | 単体 | 149 | ▲2.6% | n/a | 23 | 12 | 8.1% | n/a |
| 1977年12月期 | 単体 | 169 | +13.4% | n/a | 19 | 11 | 6.5% | n/a |
| 1978年12月期 | 単体 | 181 | +7.1% | 33 | 19 | 10 | 5.5% | n/a |
| 1979年12月期 | 単体 | 218 | +20.4% | 36 | 23 | 11 | 5.0% | n/a |
| 1980年12月期 | 単体 | 183 | ▲16.1% | 52 | 30 | 16 | 8.7% | n/a |
| 1981年12月期 | 単体 | 247 | +35.0% | n/a | 34 | 16 | 6.5% | n/a |
| 1982年12月期 | 単体 | 268 | +8.5% | n/a | 27 | 14 | 5.2% | 那須高原に別荘地「那須フォレストヒルズ」を開設(1982/07) |
| 1983年12月期 | 単体 | 249 | ▲7.1% | n/a | 27 | 16 | 6.4% | n/a |
| 1984年12月期 | 単体 | 292 | +17.3% | n/a | 43 | 22 | 7.5% | n/a |
| 1985年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 札幌営業所を開設(1987/11)大崎駅東口市街地再開発事業「大崎ニューシティ」竣工(1987) |
| 1988年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年12月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- 東京建物 有価証券報告書【沿革】
- 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
- 日経ビジネス 1979年6月18日号(日経マグロウヒル社)
- Decide 1988年10月号
- 日本企業要覧 1981年版「東京建物」(日本経済新聞社)
- 会社年鑑 1986年版(日本経済新聞社)