第1章 年〜年

東京建物:東京建物の設立と割賦販売方式による不動産売買

安田善次郎の月賦償却契約から天津・京城の賃貸収益へ

1896年〜創立目論見書が定めた月賦償却契約の不動産金融

安田善次郎ら13名が月賦償却の会社を設立する

初代安田善次郎は、住宅の代金を一度に払える市民が乏しいという都市の事情に、法人組織の不動産金融で応じようとした。当時は住宅金融公庫の融資や銀行の住宅ローンにあたる制度がなく、市民の住宅資金はもっぱら個人の金融業者に依存し、取引上の弊害も多かった。1895年11月から事業計画の調査に入り、翌1896年6月20日に第1回発起人会を日本橋区浜町で開いた。発起人は安田善次郎、安田善四郎、武井守正、馬越恭平、中沢彦吉ら13名であった。創立目論見書は、15年を超えない期間の年月賦償却契約によって東京市内に建物を建てて住まわせ、償還を完済させたのちに所有権を移すことを第一の目的に掲げた。同年10月1日、日本橋呉服町18番地の不動産業三固商会の営業と資産を買収し、そこを本社として開業した。

  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
    • [1]東京建物の設立当時は住宅金融公庫融資や銀行の住宅ローンのような制度がなく、一般市民の住宅資金は個人金融業者に依存し、取引上の不便や弊害が生じていた
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [2]1895年11月から事業計画の調査に着手し、1896年6月20日に日本橋区浜町常盤屋で第1回発起人会を開催した
    • [3]発起人は安田善次郎、安田善四郎、武井守正、境野大吉、馬越恭平、中沢彦吉など13名であった
    • [4]創立目論見書は、15年より長からざる期間において年月賦償却契約により東京市内に建物を建築して住居させ、その償還を完済させた後に所有権を転付することを第一の目的に掲げた
    • [5]日本橋呉服町18番地の不動産業三固商会の営業および資産を買収して本社を定め、1896年10月1日に開業式を挙行した
資本金100万円の使途の半分近くを貸付へ割り当てる

創立目論見書は資本金100万円の使途まで書き込んでいた。土地建物および証券を担保とする貸付資金に45万円、年月賦償却契約による建築資金に30万円、土地と既設建物の購買および臨時の建築資金に24万円という配分であり、最も厚いのは貸付へ充てる資金であった。目論見書は、月賦契約者が元資の10分の6以上を償却したときにその受取証券を担保として貸し付けることも、営業の目的に数えている。設立時の営業目的は月賦建築請負、土地建物担保貸付、土地建物売買およびその仲介であった。1896年12月までの第1期には、月賦償却契約21件、東京建物が所有権を取得して完済後に売り戻す買収月賦67件、抵当貸付47件を扱った。同年11月には横浜市北仲通に支店を開いている。建築を請け負う会社の形を取りながら、収益の源は貸付の利息に置かれていた。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [6]創立目論見書は資本金100万円の使途を、土地建物および証券担保貸付資金45万円、年月賦償却契約建築資金30万円、土地及既設建物購買並に臨時建物建築資金24万円などと定めた
    • [7]創立目論見書は、永年月賦契約者が元資に対する10分の6以上を償却したときに、その受取証券に対して相当の貸付金をなすことを営業目的に掲げた
    • [9]第1期(1896年12月期)の取扱は月賦償却契約21件、買収月賦67件、抵当貸付金47件であった
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [8]東京建物は月賦建築請負、土地建物担保貸付、土地建物売買およびその仲介を営業目的として設立された
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1896年11月1日、横浜市北仲通2丁目31番地に横浜支店を開設した
金融恐慌で無配に落ち、部局を2部へ畳む

日清戦争後の爆発的な好景気は1897年には早くも反動を見せ、東京建物の営業もその波を受けた。1897年下期から1900年下期までは1割の配当を続けたが、1901年に不況が金融恐慌まで発展すると、貸付金の回収を急ぎ、土地建物の売買紹介も建築も減って、配当は7分へ下がった。1902年下期の計上利益はわずか27円にとどまり、無配となった。翌1903年、東京建物は営業部と庶務部の2部へ組織を畳み、東京市内2か所の申込所を閉じ、使用人を整理した。あわせて請負建築と月賦償却契約建築を手控え、貸付は拡張する方針をとった。それでも1903年下期には7万5千円余の損失を出し、8万3千円余を整理勘定として棚上げせざるを得なかった。立て直しを経て、1907年9月には東京株式取引所へ株式を上場した。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [11]日清戦争後の爆発的な好景気は1897年に早くも反動を見せ、米の凶作や貿易の逆調によって地方金融機関や新企業会社の没落が相次いだ
    • [12]1897年下期から1900年下期まで1割配当を続けたが、1901年に不況が金融恐慌へ発展し、貸付金の回収促進、土地建物の売買紹介の減少、建築の手控えにより収益が減少して配当を7分へ引き下げた
    • [13]1902年下期の計上利益は27円にとどまり、無配となった
    • [14]1903年に営業部と庶務部の2部へ部局を統合し、東京市内2か所の申込所を閉鎖して使用人を整理した
    • [15]1903年の営業刷新では請負建築と月賦償却契約建築を手控える一方、貸付金は拡張する方針をとった
    • [16]1903年下期に損失金7万5千円余を計上し、8万3千円余を整理勘定として棚上げした
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
    • [17]1907年9月、株式会社東京株式取引所に株式を上場した
参考文献[1]-[17]
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
    • [1]東京建物の設立当時は住宅金融公庫融資や銀行の住宅ローンのような制度がなく、一般市民の住宅資金は個人金融業者に依存し、取引上の不便や弊害が生じていた
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [2]1895年11月から事業計画の調査に着手し、1896年6月20日に日本橋区浜町常盤屋で第1回発起人会を開催した
    • [3]発起人は安田善次郎、安田善四郎、武井守正、境野大吉、馬越恭平、中沢彦吉など13名であった
    • [4]創立目論見書は、15年より長からざる期間において年月賦償却契約により東京市内に建物を建築して住居させ、その償還を完済させた後に所有権を転付することを第一の目的に掲げた
    • [5]日本橋呉服町18番地の不動産業三固商会の営業および資産を買収して本社を定め、1896年10月1日に開業式を挙行した
    • [6]創立目論見書は資本金100万円の使途を、土地建物および証券担保貸付資金45万円、年月賦償却契約建築資金30万円、土地及既設建物購買並に臨時建物建築資金24万円などと定めた
    • [7]創立目論見書は、永年月賦契約者が元資に対する10分の6以上を償却したときに、その受取証券に対して相当の貸付金をなすことを営業目的に掲げた
    • [9]第1期(1896年12月期)の取扱は月賦償却契約21件、買収月賦67件、抵当貸付金47件であった
    • [11]日清戦争後の爆発的な好景気は1897年に早くも反動を見せ、米の凶作や貿易の逆調によって地方金融機関や新企業会社の没落が相次いだ
    • [12]1897年下期から1900年下期まで1割配当を続けたが、1901年に不況が金融恐慌へ発展し、貸付金の回収促進、土地建物の売買紹介の減少、建築の手控えにより収益が減少して配当を7分へ引き下げた
    • [13]1902年下期の計上利益は27円にとどまり、無配となった
    • [14]1903年に営業部と庶務部の2部へ部局を統合し、東京市内2か所の申込所を閉鎖して使用人を整理した
    • [15]1903年の営業刷新では請負建築と月賦償却契約建築を手控える一方、貸付金は拡張する方針をとった
    • [16]1903年下期に損失金7万5千円余を計上し、8万3千円余を整理勘定として棚上げした
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [8]東京建物は月賦建築請負、土地建物担保貸付、土地建物売買およびその仲介を営業目的として設立された
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1896年11月1日、横浜市北仲通2丁目31番地に横浜支店を開設した
    • [17]1907年9月、株式会社東京株式取引所に株式を上場した

1902年〜天津・京城・漢口へ展開した外地の賃貸事業

天津の居留地46,000坪の払下げを受ける

国内の営業が沈んでいた1902年、外務省は清国天津で日本専管居留地の設営に着手し、第1期設営地区64,600坪の埋立を始めた。東京建物は政府の勧めによって、このうち46,000坪の払下げを受け、居留民の住宅などを建設して経営に当たることになった。同年9月から準備に入り、翌1903年3月、日本租界寿街11番地に天津支店を設置した。工事は日露開戦によって一部の建築を終えただけで中断し、再開は戦後へ持ち越された。建設工事が完了した1908年4月には、建物484棟28,800坪、土地53,800余坪を所有するに至った。この支店は1945年8月の廃止まで営業を続けている。国内で月賦建築を手控えて貸付へ寄せた時期に外地では建てて貸す事業を選んだのは、制度が土地を安く供給する場面と国内の不況が重なったからである。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [18]1902年、外務省は清国天津において日本専管居留地の設営に着手し、第1期設営地区64,600坪の埋立を開始した
    • [19]東京建物は政府の奨めにより天津の第1期設営地区のうち46,000坪の払下げを受け、居留民住宅等を建設してその経営に当たることとなった
    • [20]1902年9月から準備に着手し、1903年3月に天津の日本租界寿街11番地へ支店を設置した
    • [21]天津の設営工事は着手後まもなく日露開戦となり、一部の建築を終えただけで中止せざるを得なくなった
    • [22]天津支店の建設工事は1908年4月に完了し、建物484棟28,800坪、土地53,800余坪を所有するに至った
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
    • [23]天津支店は1903年3月に開設され、1945年8月に廃止された
京城・漢口・鞍山へ賃貸事業を展開する

1907年1月、東京建物は天津企業組合の電力供給事業を継承し、居留地内への電力供給を兼営した。この電力事業は1922年に天津居留民団の直営へ切り替わるまで続き、家賃や蔵敷とともに収益へ大きく寄与した。1908年上期の所有建物は、本店2,547坪90,467円に対して天津支店が23,795坪1,182,992円を占め、金額では本店の13倍に達した。1907年5月に資本金を500万円へ増やし、1910年には京城府黄金町へ派出所を置いて1912年5月に支店へ昇格させた。1917年には南満洲鉄道との契約により満洲興業を設立し、1919年には漢口へ出張所を設けた。貸付で始めた会社の主な収益は、外地の賃料へ移っていた。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [24]1907年1月、東京建物は天津企業組合の電力供給事業を継承し、居留地内の電力供給業務を兼営することになった
    • [25]天津の電力供給事業は1922年に天津居留民団の直営へ切り替わるまで経営され、家賃・蔵敷・電灯料は東京建物の収益に大きく貢献した
    • [26]1908年上期の所有建物は本店2,547坪90,467円、天津支店23,795坪1,182,992円であった
    • [27]1907年5月に増資を行い、資本金500万円(払込済200万円)とした
    • [28]1910年に京城府黄金町へ派出所を設置して本社同様の業務を開始し、1912年5月15日に支店へ昇格させた
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [29]1917年に南満洲鉄道株式会社との契約により満洲興業株式会社を設立し、1919年に漢口へ出張所を設けて埋立整理と建物の築造を開始した
震災で本店を焼き、八重洲口に本社ビルを建てる

1923年9月1日の関東大震災は、東京建物の本拠を直撃した。日本橋呉服町の本店営業所は類焼して庶務の書類を焼失し、横浜支店営業所は全焼、所有建物も約85棟2,500余坪が焼けた。社長安田善雄は本所横網の自邸で罹災して死去し、副社長藪田岩松が社長に就いた。震災損失20万3千円を計上したため当期利益は12万7千円にとどまったが、前期繰越金と保険基金23万4千円を繰り入れて1割の配当を維持した。震災後は復興のための貸付金と月賦償却契約が増え、外地の営業も平常どおりの収益を挙げて、収益は元へ復した。1929年11月、東京駅の東側にあたる八重洲へ地下2階地上8階の本社ビルを建て、2階以上を貸室に充てた。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [30]関東大震災で本店営業所は類焼して庶務書類を焼失し、横浜支店営業所は全焼、所有建物約85棟2,500余坪(簿価約8万2千円)および多数の担保建物を焼失した
    • [31]取締役社長安田善雄は本所横網の自邸で罹災して死去し、副社長藪田岩松が社長に就任した
    • [32]1923年下期は震災損失金20万3千円により当期利益が12万7千円にとどまったが、前期繰越金および保険基金23万4千円を繰り入れて1割配当を行った
    • [33]震災後は本店および横浜支店で震災復興のための貸付金と月賦償却契約が増加し、外地営業も平常通りの収益を挙げて収益は元に復した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
    • [34]1929年11月に東京・八重洲へ地下2階地上8階の東京建物ビルヂングが竣工し、2階以上の貸室は翌期中に大部分の賃借人が決まった
参考文献[18]-[34]
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [18]1902年、外務省は清国天津において日本専管居留地の設営に着手し、第1期設営地区64,600坪の埋立を開始した
    • [19]東京建物は政府の奨めにより天津の第1期設営地区のうち46,000坪の払下げを受け、居留民住宅等を建設してその経営に当たることとなった
    • [20]1902年9月から準備に着手し、1903年3月に天津の日本租界寿街11番地へ支店を設置した
    • [21]天津の設営工事は着手後まもなく日露開戦となり、一部の建築を終えただけで中止せざるを得なくなった
    • [22]天津支店の建設工事は1908年4月に完了し、建物484棟28,800坪、土地53,800余坪を所有するに至った
    • [24]1907年1月、東京建物は天津企業組合の電力供給事業を継承し、居留地内の電力供給業務を兼営することになった
    • [25]天津の電力供給事業は1922年に天津居留民団の直営へ切り替わるまで経営され、家賃・蔵敷・電灯料は東京建物の収益に大きく貢献した
    • [26]1908年上期の所有建物は本店2,547坪90,467円、天津支店23,795坪1,182,992円であった
    • [27]1907年5月に増資を行い、資本金500万円(払込済200万円)とした
    • [28]1910年に京城府黄金町へ派出所を設置して本社同様の業務を開始し、1912年5月15日に支店へ昇格させた
    • [30]関東大震災で本店営業所は類焼して庶務書類を焼失し、横浜支店営業所は全焼、所有建物約85棟2,500余坪(簿価約8万2千円)および多数の担保建物を焼失した
    • [31]取締役社長安田善雄は本所横網の自邸で罹災して死去し、副社長藪田岩松が社長に就任した
    • [32]1923年下期は震災損失金20万3千円により当期利益が12万7千円にとどまったが、前期繰越金および保険基金23万4千円を繰り入れて1割配当を行った
    • [33]震災後は本店および横浜支店で震災復興のための貸付金と月賦償却契約が増加し、外地営業も平常通りの収益を挙げて収益は元に復した
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
    • [23]天津支店は1903年3月に開設され、1945年8月に廃止された
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [29]1917年に南満洲鉄道株式会社との契約により満洲興業株式会社を設立し、1919年に漢口へ出張所を設けて埋立整理と建物の築造を開始した
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物
    • [34]1929年11月に東京・八重洲へ地下2階地上8階の東京建物ビルヂングが竣工し、2階以上の貸室は翌期中に大部分の賃借人が決まった

1937年〜外地資産の喪失と建設請負を経た不動産専業化

全資産の3分の2近くを敗戦で失う

戦時下の東京建物は、外地の資産を厚くしながら、内地では合併によって建物を増やした。1937年3月に満洲興業を吸収合併して鞍山に支店を置き、資本金を1,437万5千円とした。1943年10月には安田ビルディングを合併して京都・大阪・福岡の3ビルを継承し、1944年3月の横浜桟橋倉庫の合併を経て、資本金は2,637万5千円となった。1941年末に所有した土地254,616坪のうち、天津45,601坪、京城42,046坪、漢口20,435坪を外地が占めていた。1945年8月の敗戦で天津・漢口・青島の資産は接収され、京城の資産は現地人への管理委託となった。内外地あわせて土地9万5千坪、建物約5万坪を失い、全資産の3分の2近くが消えた。

  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [35]1937年3月に満洲興業株式会社を吸収合併して鞍山に支店を設け、資本金を1,437万5千円とした
    • [39]終戦により内外地の土地9万5千坪、建物約5万坪(内地の焼失分を含む)を失った
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [36]1943年10月に安田ビルディング株式会社を吸収合併して京都ビル・大阪ビル・福岡ビルを継承し、1944年3月に横浜桟橋倉庫株式会社を吸収合併して資本金2,637万5千円となった
    • [37]1941年12月末の所有土地254,616坪のうち、天津支店45,601坪、京城支店42,046坪、漢口出張所20,435坪が外地であった
    • [38]終戦により天津・漢口・青島の資産は接収され、京城の資産は現地人への管理委託の形となった
建設部門を拡げ、成増の維持管理工事で黒字へ戻す

安田保善社は1945年10月15日、他の財閥に先んじて解散と同族持株の公開を決議し、東京建物でも社長石毛竹次郎らが退任した。同年12月に制限会社、1946年8月に特別経理会社の指定を受け、在外資産損失1,739万4,010円を含む特別損失1,515万7,879円が確定した。資産を失った会社に残っていたのは、引揚者と復員者を含む人手と、月賦建築で培った施工の経験である。東京建物は建設部門を拡張し、1947年に大阪と仙台へ営業所を開いた。同年12月には東京の練馬区成増で連合軍家族住宅の維持管理工事を一手に引き受け、主力をここへ集中して、終戦後の赤字経営を黒字へ転じさせた。1949年上期には売買仲介の増加と建設請負の収益増で390万円の利益を挙げ、繰越損失を償却した。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [40]安田保善社は1945年10月15日に財閥の解散と同族持株の公開を決議し、東京建物では社長石毛竹次郎、取締役安田善五郎らが退任した
    • [41]1945年12月に制限会社、1946年8月に特別経理会社の指定を受け、在外資産損失1,739万4,010円を含む特別損失は1,515万7,879円と確定した
    • [43]1947年12月に東京・練馬区成増へ出張所を置き、連合軍家族住宅の維持管理工事を一手に引き受けて主力を集中し、終戦後の赤字経営から黒字へ転じた
    • [44]1949年上期は売買仲介部門の取引件数増加と建設請負業務の収益増により390万円の利益を挙げ、繰越損失を償却した
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [42]財閥解体後に建設部門を拡張し、1947年6月に大阪、同年8月に仙台へ営業所を設けた(いずれも1953年3月に支店へ昇格)
建設業務を全廃し、不動産専業へ移行する

1950年6月、東京建物は戦時中に中断していた不動産担保貸付を再開した。同年7月に資本金を5,000万円、1952年10月には1億円へ増やしている。朝鮮動乱で鉄鋼類が急騰して建設部門の採算が悪化した局面では、福岡ビルを富士銀行へ7,000万円で譲り、その資金を運転へ充てた。建設請負はその後受注を伸ばしたが、ビル建設ブームで同業者との競争が激しくなり、建築技術の革新と機械化によって大規模な企業ほど有利となった。中程度の規模にとどまる東京建物は競争劣位に置かれ、1956年9月、建設業務の全廃を決めた。技術室に最小限の技術者を残し、事務関係の一部を他部門で受け入れたほかは、ほとんどが大成建設へ移った。創業60年の年に、会社は不動産だけを扱う形へ戻った。

  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [45]1950年6月、戦時中に中断していた不動産担保貸付業務を再開した
    • [47]朝鮮動乱による資材高で資金繰りが逼迫したため、福岡ビルを富士銀行へ7,000万円で譲渡して資金に充当した
    • [48]ビル建設ブーム下で同業者との競争が激化し、建築技術の革新と機械化により大規模な建設企業が有利となって、中程度の企業は不利となった
    • [49]1956年9月、不動産業務に専念するため建設業務の全廃を決定した
    • [50]建設業務廃止に際し技術室を新設して必要最小限の技術者を残し、事務関係者の一部を他部門で受け入れ、それ以外はほとんど全部が大成建設株式会社へ移った
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [46]資本金は1950年7月に5,000万円、1952年10月に1億円となった
参考文献[35]-[50]
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
    • [35]1937年3月に満洲興業株式会社を吸収合併して鞍山に支店を設け、資本金を1,437万5千円とした
    • [39]終戦により内外地の土地9万5千坪、建物約5万坪(内地の焼失分を含む)を失った
    • [42]財閥解体後に建設部門を拡張し、1947年6月に大阪、同年8月に仙台へ営業所を設けた(いずれも1953年3月に支店へ昇格)
    • [46]資本金は1950年7月に5,000万円、1952年10月に1億円となった
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
    • [36]1943年10月に安田ビルディング株式会社を吸収合併して京都ビル・大阪ビル・福岡ビルを継承し、1944年3月に横浜桟橋倉庫株式会社を吸収合併して資本金2,637万5千円となった
    • [37]1941年12月末の所有土地254,616坪のうち、天津支店45,601坪、京城支店42,046坪、漢口出張所20,435坪が外地であった
    • [38]終戦により天津・漢口・青島の資産は接収され、京城の資産は現地人への管理委託の形となった
    • [40]安田保善社は1945年10月15日に財閥の解散と同族持株の公開を決議し、東京建物では社長石毛竹次郎、取締役安田善五郎らが退任した
    • [41]1945年12月に制限会社、1946年8月に特別経理会社の指定を受け、在外資産損失1,739万4,010円を含む特別損失は1,515万7,879円と確定した
    • [43]1947年12月に東京・練馬区成増へ出張所を置き、連合軍家族住宅の維持管理工事を一手に引き受けて主力を集中し、終戦後の赤字経営から黒字へ転じた
    • [44]1949年上期は売買仲介部門の取引件数増加と建設請負業務の収益増により390万円の利益を挙げ、繰越損失を償却した
    • [45]1950年6月、戦時中に中断していた不動産担保貸付業務を再開した
    • [47]朝鮮動乱による資材高で資金繰りが逼迫したため、福岡ビルを富士銀行へ7,000万円で譲渡して資金に充当した
    • [48]ビル建設ブーム下で同業者との競争が激化し、建築技術の革新と機械化により大規模な建設企業が有利となって、中程度の企業は不利となった
    • [49]1956年9月、不動産業務に専念するため建設業務の全廃を決定した
    • [50]建設業務廃止に際し技術室を新設して必要最小限の技術者を残し、事務関係者の一部を他部門で受け入れ、それ以外はほとんど全部が大成建設株式会社へ移った

筆者考察

東京建物の最初の60年は、国内で稼いだ会社の歴史ではない。安田善次郎が1896年に掲げた創立目論見書は資本金100万円の使途まで定め、45万円を担保貸付へ、30万円を月賦建築へ割った。住宅資金を貸す会社として出発したはずが、1902年に天津の居留地46,000坪の払下げを受けてからは、建てて貸す会社へ変わっていく。1908年の時点で、建物の簿価は本店の9万円に対し天津は118万円に達した。国内で貸付が止まった不況の時期に、政府は外地の土地を安く払い下げた。安く手に入る土地のあるほうへ資本を振り向けた結果、収益の中心は日本橋の店先から天津の租界へ移っている。

資産の大半を外地に置いた会社は、敗戦の日にほとんど空になった。天津・漢口・青島の資産は接収され、京城は現地人の管理へ移り、内外地あわせて土地9万5千坪と建物約5万坪を失った。残ったのは引揚者と復員者という人手と、月賦建築で身につけた施工の経験である。東京建物が建設請負へ回ったのは新しい事業を選んだからではなく、それしか換金できる資源がなかったからにすぎない。連合軍家族住宅の維持管理工事が赤字を止め、1949年の形式減資で1,214万円まで落ちた資本金は1952年に1億円へ戻った。手持ちの資源で食いつなぎ、市場が戻ったところで不動産へ帰る。1956年の建設業務全廃は、その帰着点であった。

東京建物の資本金 1896年の設立から1952年まで(万円)

100 1896年 500 1907年 1,000 1920年 1,437.5 1937年 2,637.5 1944年 1,214.75 1949年 5,000 1950年 10,000 1952年
  • 単体。出所は東京建物『70年の歩み』(1968年)、会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)。1949年6月は再建整備計画にもとづく形式減資後の額。

出典・参考

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出典・参考
  • 東京建物 有価証券報告書【沿革】
  • 東京建物『70年の歩み』(東京建物株式会社, 1968年)
  • 会社銀行八十年史 第2篇 日本会社史(1955年)東京建物
  • 日本会社史総覧(東洋経済新報社, 1995年)東京建物

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