IHI:経営危機からの再建と播磨造船所の合併
1946年〜戦後立法の下での再建と、三工場の分割命令の撤回
石川島重工業は終戦直後の1945年9月、資本金4,800万円を増資して1億円とし、はやくも事業を再開した。当座はナベやカマの類、日用品や農機の製造で糊口をしのぎ、やがて石炭・肥料・海運への傾斜生産によって造船と機械の受注が戻り始めた。ところが政府は戦時補償を全額打ち切る方針を採り、これに先立つ1946年8月15日、影響を受ける会社を特別経理会社とする会社経理応急措置法を公布した。石川島重工業も同月の指定を受け、8月10日現在で資産と負債を新旧両勘定へ分離し、事業の継続に必要なものだけを新勘定へ編入している。手元に残った資産は8,089万9,412円10銭であった。1948年7月には企業再建整備法にもとづく整備計画の認可を申請し、資本金を2,960万円へ減資して、減少額7,040万円を特別損失の補填に充てた。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- [1]1945年9月 資本金4,800万円を増資して1億円とし事業を再開
- [3]1946年8月15日 会社経理応急措置法を公布し、戦時補償打切りの影響を受ける会社を特別経理会社に指定
- [4]1946年8月 特別経理会社に指定され、8月10日現在で資産と負債を新旧両勘定に分離
- [5]新勘定に編入して新発足した資産は8,089万9,412円10銭
- [6]1948年7月 企業再建整備計画認可申請書を提出し、資本金を2,960万円に減資、減少額7,040万円で特別損失を補填
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [2]終戦直後は日用品・農機の製造でしのぎ、石炭・肥料・海運の傾斜生産により造船・機械の受注が増え始めた
経済民主化政策の下で、石川島重工業は1946年12月に準制限会社、1948年2月に過度経済力集中会社の指名を受けた。同年6月には過度経済力集中排除法にもとづき、保有他社株式の処分と、第一・第二・第三工場の分割とを命じられ、一時は将来が危ぶまれた。石川島重工業は三工場の地理的・技術的・経済的な関係を説いて各工場の一本化を要請し、この方針は認められて同年11月に指定を解除された。首脳陣は1948年、公職追放令の影響で下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務という若い顔ぶれに替わっており、集中排除法下の対応と戦後の特別損失の補填はこの三人の下で進んだ。翌1949年2月には1億40万円の増資を決め、3月の払込完了とともに旧債務を弁済して新旧勘定を合併し、特別経理会社の指定を解かれた。財閥の資本を持たない会社にとって、三つの工場を一つの生産体としてつなぎ続けられるかどうかは、再建の可否そのものだったのだろう。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- [7]1946年12月 準制限会社に指定、1948年2月 過度経済力集中会社に指名
- [8]1948年6月 過度経済力集中排除法により保有他社株式の処分と第一・第二・第三工場の分割を命じられた
- [9]三工場の地理的・技術的・経済的関係を説いて一本化を要請し、1948年11月に指定を解除された
- [11]1949年2月 増資1億40万円を決議、3月払込完了で旧債務を弁済し新旧勘定を合併、特別経理会社の指定を解除
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [10]1948年 公職追放令の影響で下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務の首脳陣に交替、集中排除法下の工場分割指定と特別損失の補填に対応
1949年、石川島重工業は黒字に転じ、下期には3,000万円の利益を計上して資本金を1億3,000万円へ増資した。ところが1950年に受注した戦時標準船の改造工事、一重底を二重底へ造り替える工事で大赤字を出し、無配に転落する。大インフレーションの影響をまともに受けた結果であり、この年は倒産が続出して日本全国が不況にあえいだ年でもあった。造船部門の採算はもともと脆かった。1952年の業界観測は、船台を遊ばせる不利から赤字を承知で注文を争う各社の状態を伝え、石川島重工業についても『修繕、起重機、タービンであげた利益を造船部門で食われていた』と書いている。赤字は1億円を超え、経営は危機に瀕した。石川島重工業は役員人事の刷新によってこの危機を越えようとした。
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [12]1949年 黒字に転じ下期に3,000万円の利益を計上、資本金を1億3,000万円に増資
- [13]1950年受注の戦時標準船改造工事(一重底を二重底にする工事)で大赤字を出し無配に転落
- [14]大インフレの影響を受け、1950年は倒産が続出して全国が不況にあえいだ
- [15]1950年当時 石川島重工業は1億円以上の赤字を出し経営の危機に瀕していた
- [16]役員人事の刷新によって危機を乗り越えようとした
参考文献[1]-[16]
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- [1]1945年9月 資本金4,800万円を増資して1億円とし事業を再開
- [3]1946年8月15日 会社経理応急措置法を公布し、戦時補償打切りの影響を受ける会社を特別経理会社に指定
- [4]1946年8月 特別経理会社に指定され、8月10日現在で資産と負債を新旧両勘定に分離
- [5]新勘定に編入して新発足した資産は8,089万9,412円10銭
- [6]1948年7月 企業再建整備計画認可申請書を提出し、資本金を2,960万円に減資、減少額7,040万円で特別損失を補填
- [7]1946年12月 準制限会社に指定、1948年2月 過度経済力集中会社に指名
- [8]1948年6月 過度経済力集中排除法により保有他社株式の処分と第一・第二・第三工場の分割を命じられた
- [9]三工場の地理的・技術的・経済的関係を説いて一本化を要請し、1948年11月に指定を解除された
- [11]1949年2月 増資1億40万円を決議、3月払込完了で旧債務を弁済し新旧勘定を合併、特別経理会社の指定を解除
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [2]終戦直後は日用品・農機の製造でしのぎ、石炭・肥料・海運の傾斜生産により造船・機械の受注が増え始めた
- [10]1948年 公職追放令の影響で下島勝次社長・宮島利雄副社長・田口連三常務の首脳陣に交替、集中排除法下の工場分割指定と特別損失の補填に対応
- [12]1949年 黒字に転じ下期に3,000万円の利益を計上、資本金を1億3,000万円に増資
- [13]1950年受注の戦時標準船改造工事(一重底を二重底にする工事)で大赤字を出し無配に転落
- [14]大インフレの影響を受け、1950年は倒産が続出して全国が不況にあえいだ
- [15]1950年当時 石川島重工業は1億円以上の赤字を出し経営の危機に瀕していた
- [16]役員人事の刷新によって危機を乗り越えようとした
1950年〜土光敏夫の目標管理と、約80件の技術導入
1950年6月24日、土光敏夫氏が石川島重工業の社長に就任した。同氏は1936年に系列の石川島芝浦タービンへ移り、戦後はその社長として第一銀行と通商産業省を駆け回って資金と補助金を引き出し、親会社より早く立ち直らせていた技術者である。笠原逸二前社長が役員会へ乗り込んで話をつけ、有無を言わせず本社へ引き入れた。就任にあたって前役員は全員が辞表を出し、土光氏は田口連三・西崎鎮夫・志賀晃の三氏だけを残した。残る条件として決めたのは、代表権を社長だけが握り、ほかの役員は全員を平の取締役とすること、役員給与は部長職の上位五人の月給の平均値に据えること、そして役員の総数を減らすことである。経費の引き締めは、まず役員の報酬から始まった。社長就任の翌25日、朝鮮戦争が始まった。
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [17]1950年6月24日 土光敏夫が石川島重工業社長に就任
- [18]土光敏夫は石川島芝浦タービン社長として第一銀行からの融資と通商産業省の補助金を引き出し、同社を親会社の石川島重工業より早く立ち直らせた
- [19]石川島重工業の笠原逸二前社長が石川島芝浦タービンの役員会に出向いて話をつけ、土光敏夫を本社社長に据えた
- [20]社長就任時に前役員は全員辞表を提出、田口連三・西崎鎮夫・志賀晃の三名だけが残留
- [21]代表権は社長のみが握り他の役員は全員平取締役、役員給与は部長職上位五人の月給の平均値、役員総数も削減
- [22]土光敏夫の社長就任の翌日、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まった
土光敏夫氏が石川島重工業へ持ち込んだのは、受注量を見込みで語らせない仕組みであった。営業の組織は1949年11月の大改正で業務・第一営業・第二営業の三部に分かれ、生産機・起重機・電力機械と船舶・舶用機関をそれぞれ所管していた。土光氏は日本能率協会から技師を招いて中堅職員17人を加えた能率調査班を編成し、これが生産管理方式を軸とする改善案を出して、半年で数十回の会議を重ねる生産合理化委員会となった。組み立て方はこうである。当時約1兆円の国家予算から部門別の枠を割り出して鉄鋼と造船への配分を出し、そこへ過去五年間の自社の受注量が全体の何パーセントに当たるかを掛け、通常なら取れる受注量を算出して、目標額を上乗せしたうえで各部課へ、場合によっては個人へ割り当てた。直接指揮したのは常務の田口連三氏である。予算から逆算した枠は、景気の波と営業個人の力量とを切り離して受注を計る物差しであった。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- [23]1949年11月 事務関係組織の大改正で業務・第一営業・第二営業の三部を設け、第一営業部に生産機・起重機・電力機械、第二営業部に船舶・舶用機関を所管させた
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [24]日本能率協会の技師と中堅職員17人による能率調査班を編成、生産管理方式を中心とした改善案を出し生産合理化委員会の設置につながった。委員会は半年で数十回の会議を開いた
- [25]約1兆円の国家予算の部門別枠から鉄鋼・造船への配分を出し、過去五年間の自社受注量の比率を掛けて可能受注量を割り出し、目標額を上乗せして各部課・個人に割り当てた
- [26]目標管理方式を直接指揮したのは田口連三
石川島重工業は、戦後の技術格差を欧米からの導入で埋めた。1952年4月に米国フォスターウィラー社から陸舶用蒸気発生装置、同年7月に米国コーリング社からバッチャープラントやパワーショベルの技術を受け、コーリング社とは合弁で石川島コーリングを設立している。1956年6月には米国ゼネラル・エレクトリック社からJ47-GE-27航空機用エンジンの導入認可を得た。件数はこのころ約80件に達している。航空はいっそう回り道であった。終戦後しばらくは航空生産そのものが禁じられていたため、研究会グループを作り、ゼネラル・エレクトリック社からジェットエンジンを借り受けて分解と組み立て、運転を繰り返した。1952年に航空工業の許可制が再開されると、翌1953年、関係各社との共同出資で日本ジェットエンジン株式会社を設立し、純国産エンジンの開発に入る。同社はのちに解散し、技術と職員は石川島重工業が引き取った。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)「技術提携」
- [27]1952年4月2日 フォスターウィラー社から陸舶用蒸気発生装置、同年7月23日 コーリング社からバッチャープラント・コンクリートミキサー・パワーショベル等の技術を導入。1952年8月 コーリング社と共同出資で石川島コーリングを設立
- [28]1956年6月19日 インターナショナルジェネラルエレクトリック社からJ47-GE-27航空機用エンジンの技術導入を認可
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [29]このころの技術導入件数は約80件に達した
- [30]戦後しばらくは航空生産が禁じられたため研究会グループを作り、ゼネラル・エレクトリック社からジェットエンジンを借り受けて分析・分解組み立て・運転を行った
- [31]1952年 航空工業許可制が再開、1953年 関係社共同で日本ジェットエンジン株式会社を設立し純国産ジェットエンジンの開発に着手
- [32]日本ジェットエンジン株式会社はのちに解散し、技術と職員は石川島が引き取った
参考文献[17]-[32]
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [17]1950年6月24日 土光敏夫が石川島重工業社長に就任
- [18]土光敏夫は石川島芝浦タービン社長として第一銀行からの融資と通商産業省の補助金を引き出し、同社を親会社の石川島重工業より早く立ち直らせた
- [19]石川島重工業の笠原逸二前社長が石川島芝浦タービンの役員会に出向いて話をつけ、土光敏夫を本社社長に据えた
- [20]社長就任時に前役員は全員辞表を提出、田口連三・西崎鎮夫・志賀晃の三名だけが残留
- [21]代表権は社長のみが握り他の役員は全員平取締役、役員給与は部長職上位五人の月給の平均値、役員総数も削減
- [22]土光敏夫の社長就任の翌日、1950年6月25日に朝鮮戦争が始まった
- [24]日本能率協会の技師と中堅職員17人による能率調査班を編成、生産管理方式を中心とした改善案を出し生産合理化委員会の設置につながった。委員会は半年で数十回の会議を開いた
- [25]約1兆円の国家予算の部門別枠から鉄鋼・造船への配分を出し、過去五年間の自社受注量の比率を掛けて可能受注量を割り出し、目標額を上乗せして各部課・個人に割り当てた
- [26]目標管理方式を直接指揮したのは田口連三
- [29]このころの技術導入件数は約80件に達した
- [30]戦後しばらくは航空生産が禁じられたため研究会グループを作り、ゼネラル・エレクトリック社からジェットエンジンを借り受けて分析・分解組み立て・運転を行った
- [31]1952年 航空工業許可制が再開、1953年 関係社共同で日本ジェットエンジン株式会社を設立し純国産ジェットエンジンの開発に着手
- [32]日本ジェットエンジン株式会社はのちに解散し、技術と職員は石川島が引き取った
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- [23]1949年11月 事務関係組織の大改正で業務・第一営業・第二営業の三部を設け、第一営業部に生産機・起重機・電力機械、第二営業部に船舶・舶用機関を所管させた
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)「技術提携」
- [27]1952年4月2日 フォスターウィラー社から陸舶用蒸気発生装置、同年7月23日 コーリング社からバッチャープラント・コンクリートミキサー・パワーショベル等の技術を導入。1952年8月 コーリング社と共同出資で石川島コーリングを設立
- [28]1956年6月19日 インターナショナルジェネラルエレクトリック社からJ47-GE-27航空機用エンジンの技術導入を認可
1955年〜ブラジル進出と、造船能力を交換した播磨造船所との合併
1950年から翌年にかけてブラジルタンカー購入委員会が三隻のタンカーを発注し、1954年に納めた輸送船が運航中に岸壁へ接触してコンクリート壁のほうを破損させたことが、ブラジル海軍工廠からの提携の申し入れを呼んだ。1957年秋、ブラジル政府はリオデジャネイロ港内の埋立地40万平方メートルを提供すると伝え、入港税を財源に自国の船主と造船所へ低利融資する商船基金法を制定する。国内では政情の不安定を理由に無謀との声が多かったが、土光敏夫氏は責任は自分が負うとして押し切り、1958年1月に議定書へ調印した。現地で海員組合が外国資本による乗っ取りだとして上げた反対決議も、常務の下村礼輔氏らの説得で鎮まった。1959年1月、資本金17億6,000万クルゼイロの石川島ブラジル造船所が発足し、約3分の1をブラジル開発銀行とリオデジャネイロ港湾局が引き受け、日本からは技術者125人が送り込まれた。
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [33]1950〜1951年 ブラジルタンカー購入委員会が石川島に三隻のタンカーを発注。1954年納入の輸送船が運航中に岸壁へ接触し、コンクリート壁のみが破損したことをブラジル海軍が評価して提携を申し入れた
- [34]1957年秋 ブラジル政府が造船所建設用地としてリオデジャネイロ港内の埋立地40万平方メートルの提供を伝え、外国船の入港税を財源に自国の船主・造船所へ低利融資する商船基金法を制定
- [35]国内ではブラジル進出はリスクが大きすぎるとの反対が多かったが、土光敏夫が責任を負うとして押し切り、1958年1月8日にブラジル関係当局と議定書を調印
- [36]ブラジル海員組合が外国資本による乗っ取りを理由に全国大会で反対決議。常務の下村礼輔らが新聞社・工業連盟・商工会議所・船主協会などを回って説得し、1958年秋に鎮静化
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第5章「関係会社」
- [37]1959年1月 石川島ブラジル造船所を設立。資本金17億6,000万クルゼイロ、約3分の1をブラジル開発銀行とリオデジャネイロ港湾局が引受、日本から技術者125人を派遣
合併の理由は建造能力の差にあった。1960年当時、三菱造船は八万一千GT級、三菱日本重工業は五万GT級、日立造船・川崎重工業・播磨造船所は四万ないし四万五千GT級の船を建造できたのに対し、石川島重工業が造れる最大の船は二万二千GT級に限られていた。隅田川河口という立地では大型船台を築けず、用地を外へ求めるほかなかった。石川島重工業では陸上機械部門の売上高が総額の7割前後を占め、造船業界の不況下でも利益は上昇していた。一方の播磨造船所は造船比率が9割を超え、1958年以降の長期不況によって1958年から1960年の二年間に受注残高は3分の2、売上高は2分の1へ減り、陸上部門への進出を探っていた。石川島重工業がタービン機関を、播磨造船所がディーゼル機関を互いに供給し合う関係は以前からあった。土光敏夫氏はこの組み合わせを『つまり"陸"と"海"との結婚である』と呼んでいる。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第6章「株式会社播磨造船所との合併」
- [38]1960年当時の建造能力は三菱造船81,000GT級・三菱日本重工業50,000GT級・日立造船・川崎重工業・播磨造船所40,000〜45,000GT級に対し、石川島重工業は22,000GT級が上限
- [39]第二工場は立地条件から大型船台の築造に適さず、他に用地を求めざるをえなかった
- [40]陸上機械部門の売上高が売上総額の70%前後を占め、造船業界の不況下でも利益高は上昇
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [41]播磨造船所は造船比率90%以上。1958年以降の造船不況で1958年から1960年の2年間に受注残高は3分の2、売上高は2分の1に減少し、陸上部門への進出をはかっていた
- [42]石川島がタービン機関を、播磨造船所がディーゼル機関を互いに供給し合う友好関係が以前からあった
1960年7月1日、両社は合併趣意書と契約書を取り交わした。石川島重工業は資本金52億円・従業員約9,000名・年間生産能力約400億円、播磨造船所は資本金40億円・従業員約6,000名・年間生産能力約200億円である。石川島重工業が記名式普通株式4,800万株を発行し、播磨造船所の株式五株につき三株の割合で割り当てて、資本金は102億円となった。7月25日の臨時株主総会で承認を得て、同年12月1日、石川島播磨重工業が発足する。業界誌は、定評ある大型船建造工場を居ながらにして取得し、後顧の憂いを絶ったと評した。1963年には、出光興産の13万五千重量トン級タンカーを建造できるのは佐世保重工業と石川島播磨重工業だけという状態が生まれている。合併で交換されたのは工場でも株式でもなく、どの大きさの船まで受注できるかという上限であった。
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第6章「株式会社播磨造船所との合併」
- [43]1960年7月1日 石川島重工業と播磨造船所が合併趣意書および合併契約書を取り交わした
- [44]合併時の規模は石川島重工業が資本金52億円・従業員約9,000名・年間生産能力約400億円、播磨造船所が資本金40億円・従業員約6,000名・年間生産能力約200億円
- [45]記名式普通株式4,800万株(1株の額面50円)を発行し播磨造船所の普通株式5株につき3株を割当交付、合併により資本金は102億円となった
- [46]1960年7月25日 臨時株主総会で合併契約書を承認、同年12月1日 石川島播磨重工業株式会社として発足
- ダイヤモンド 1960年7月16日号
- [47]石川島は定評ある優秀・大型船建造工場を居ながらにして入手し、後顧の憂いを絶った
- 実業の世界 1963年2月1日号
- [48]出光興産の13万5,000重量トンのタンカーは現有設備では佐世保重工業と石川島播磨重工業でしか建造できず、受注に競争がなかった
参考文献[33]-[48]
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- [33]1950〜1951年 ブラジルタンカー購入委員会が石川島に三隻のタンカーを発注。1954年納入の輸送船が運航中に岸壁へ接触し、コンクリート壁のみが破損したことをブラジル海軍が評価して提携を申し入れた
- [34]1957年秋 ブラジル政府が造船所建設用地としてリオデジャネイロ港内の埋立地40万平方メートルの提供を伝え、外国船の入港税を財源に自国の船主・造船所へ低利融資する商船基金法を制定
- [35]国内ではブラジル進出はリスクが大きすぎるとの反対が多かったが、土光敏夫が責任を負うとして押し切り、1958年1月8日にブラジル関係当局と議定書を調印
- [36]ブラジル海員組合が外国資本による乗っ取りを理由に全国大会で反対決議。常務の下村礼輔らが新聞社・工業連盟・商工会議所・船主協会などを回って説得し、1958年秋に鎮静化
- [41]播磨造船所は造船比率90%以上。1958年以降の造船不況で1958年から1960年の2年間に受注残高は3分の2、売上高は2分の1に減少し、陸上部門への進出をはかっていた
- [42]石川島がタービン機関を、播磨造船所がディーゼル機関を互いに供給し合う友好関係が以前からあった
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第5章「関係会社」
- [37]1959年1月 石川島ブラジル造船所を設立。資本金17億6,000万クルゼイロ、約3分の1をブラジル開発銀行とリオデジャネイロ港湾局が引受、日本から技術者125人を派遣
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第6章「株式会社播磨造船所との合併」
- [38]1960年当時の建造能力は三菱造船81,000GT級・三菱日本重工業50,000GT級・日立造船・川崎重工業・播磨造船所40,000〜45,000GT級に対し、石川島重工業は22,000GT級が上限
- [39]第二工場は立地条件から大型船台の築造に適さず、他に用地を求めざるをえなかった
- [40]陸上機械部門の売上高が売上総額の70%前後を占め、造船業界の不況下でも利益高は上昇
- [43]1960年7月1日 石川島重工業と播磨造船所が合併趣意書および合併契約書を取り交わした
- [44]合併時の規模は石川島重工業が資本金52億円・従業員約9,000名・年間生産能力約400億円、播磨造船所が資本金40億円・従業員約6,000名・年間生産能力約200億円
- [45]記名式普通株式4,800万株(1株の額面50円)を発行し播磨造船所の普通株式5株につき3株を割当交付、合併により資本金は102億円となった
- [46]1960年7月25日 臨時株主総会で合併契約書を承認、同年12月1日 石川島播磨重工業株式会社として発足
- ダイヤモンド 1960年7月16日号
- [47]石川島は定評ある優秀・大型船建造工場を居ながらにして入手し、後顧の憂いを絶った
- 実業の世界 1963年2月1日号
- [48]出光興産の13万5,000重量トンのタンカーは現有設備では佐世保重工業と石川島播磨重工業でしか建造できず、受注に競争がなかった
筆者考察
1950年の石川島重工業を立て直したのは、朝鮮戦争の需要そのものではなく、需要の測り方を変えたことだった。社長に就任した土光敏夫は、代表権を自分一人に集め、役員を平の取締役に戻して、その報酬を部長の上位5人の平均に据えた。そのうえで能率調査班を組み、国家予算の部門別の枠から鉄鋼と造船への配分を割り出し、過去5年の自社の取り分を掛けて、取れるはずの受注量を先に数字にした。景気が来たときにどれだけ取れるかを、営業個人の勘に委ねない。目標管理と呼ばれたこの仕組みは、好況を偶然にしないための装置であった。
装置が回っても、船台の長さは変えられなかった。1960年の石川島重工業が造れる最大の船は22,000GT級で、三菱造船の81,000GT級には遠く、隅田川河口という立地では大型船台を築く余地もない。一方の播磨造船所は造船に9割を依存し、2年で売上高を半分に減らしていた。陸上機械が7割の会社と、造船が9割の会社。合併で入れ替わったのは資本金でも従業員の数でもなく、どの大きさの船まで受注できるかという上限である。1963年に13万5,000重量トン級のタンカーを引き受けられる造船所が国内に2社しかなかったことが、その交換の値打ちを示した。
- 単体。土光敏夫の社長就任は1950年6月。
- 出所は私の履歴書 経済人20(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」。
1946年〜1964年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 83 | n/a | 4 | 4.8% | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 103 | +24.1% | 4 | 4.0% | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 162 | +57.3% | 6 | 3.7% | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 231 | +42.6% | 14 | 6.1% | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 273 | +18.2% | 23 | 8.4% | ブラジル政府とリオ・デ・ジャネイロ市に石川島ブラジル造船所を設立(1959/01) |
| 1960年03月期 | 単体 | 311 | +13.9% | 28 | 9.0% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 437 | +40.5% | 32 | 7.3% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 570 | +30.4% | 36 | 6.3% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 743 | +30.4% | 41 | 5.5% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 905 | +21.8% | 39 | 4.3% | 重機械工場として横浜第二工場を新設(1964/02) |
出所:会社年鑑
出典・参考
7件
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第1章「戦後再建期の当社の経営」
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)「技術提携」
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第5章「関係会社」
- 『石川島重工業株式会社108年史』(石川島播磨重工業株式会社 編、1961年)第4編第6章「株式会社播磨造船所との合併」
- ダイヤモンド 1960年7月16日号
- 『私の履歴書 経済人20』(日本経済新聞社、1986年)「土光敏夫」
- 実業の世界 1963年2月1日号