日産自動車からの宇宙航空事業取得と航空・宇宙への転換

造船が細るなか、航空エンジンと宇宙を次の柱にどう据えたか

更新:

時期 2000年7月
意思決定者 伊藤源嗣 社長
論点 造船縮小下の事業構成の再設計
概要
1998年に航空分野への積極投資を決め、2000年7月に日産自動車から宇宙航空事業を譲り受けてアイ・エイチ・アイ・エアロスペースを設立した経営判断。造船が構造不況で細るなか、民間エンジン事業部長からの経歴を持つ伊藤源嗣社長が、航空エンジンと宇宙を次の柱に据えた。
背景
戦前のネ二〇に始まる航空技術と、1957年に再開したジェットエンジン、1989年のV2500国際共同開発が土台にあった。造船は1970年代以降の構造不況で縮小し、2000年3月期には多額の最終赤字も出て、造船に代わる収益の柱づくりが迫られていた。
内容
1998年に航空へ積極投資を決め、2000年にルノーの資本参入で日産が手放した宇宙航空事業を取得した。中島飛行機以来の固体ロケット技術と、GE・プラット&ホイットニーの民間エンジンの部品供給、防衛用エンジンを一つのグループに束ねた。
含意
航空・宇宙・防衛を柱とする現在の事業構成の制度的な出発点となった。のちに「消去法で残った」と評される航空エンジンへの集中には、V2500と日産事業の取得という能動的な布石があった。集中はやがて2024年の大幅赤字という代償も生む。
筆者の見解

「残った集中」の始まりにあった能動的な布石

のちにIHIの航空エンジン集中は、造船や非注力事業を切り離した末に「消去法で残った」構造としてしばしば語られる。ただ、その始まりをたどると、1998年の航空への積極投資と2000年の日産事業の取得という、明確に能動的な判断が置かれていた。造船が細っていく時期に、守る事業と伸ばす事業を仕分け、参入障壁の高い航空・宇宙へ資源と技術を寄せていった選択には、受け身というより、次の柱を自ら選び取ろうとする意思がうかがえる。

もっとも、柱を一つに寄せることは、その柱が揺れたときの傷を深くもする。民間エンジンと宇宙を厚くした事業構成は、2024年3月期に航空エンジン部品の問題で過去最大の赤字を招く伏線ともなった。次の柱を能動的に選び取った判断と、選び取った柱への依存が生むリスクとは、同じ一つの決断の表と裏にある。集中をどこまで意図してコントロールできるかという問いは、四半世紀を経たいまも同社に残されているとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ネ二〇からV2500へ続いた航空技術の蓄積

石川島の航空との関わりは、造船と同じくらい古い。1929年に航空機部門を立川飛行機として分離したのちも社内には技術が残り、戦時下の1945年には国産ジェットエンジン「ネ二〇」を手がけた。戦後は航空機の生産が禁じられて事業がいったん途切れたものの、1957年に東京・田無へ新工場を設けてジェットエンジンの製造を再開し、分離からおよそ三十年を経て航空エンジンへ本格的に回帰した。造船とならぶもう一つの技術の系譜が、細く長く受け継がれていた[1][2]

単独では持ちにくい民間ジェットエンジンには、国際共同開発で足がかりをつくった。1980年代、石川島播磨は英ロールス・ロイスや米プラット・アンド・ホイットニーらとつくる国際コンソーシアムIAEに加わり、中型機向けエンジンV2500の開発に参画した。当時この事業を率いた民間エンジン事業部長の伊藤源嗣氏は、1989年の誌上で、難航してきた同機がようやく「上昇気流に」乗り始めたと語っている。防衛用と部品供給に偏りがちだった航空事業に、自社の名を冠した民間エンジンという柱が加わろうとしていた[3]

造船の縮小と、次の柱の必要

一方で、祖業の造船は縮小の途上にあった。1970年代のオイルショックを境に世界のタンカー需要は構造的に細り、1979年と1987年の二度の人員削減を経てもなお、円高と韓国・中国勢の台頭が国際競争力を削いでいった。造船に代わる収益の柱をどこに求めるかが、経営の中心の問いになっていた。陸上機械への広がりに続いて、より参入障壁の高い航空・宇宙を厚くするという方向が、社内で重みを増していった[4][5]

造船の重さは、二度の人員削減を経ても消えなかった。1979年と1987年の合理化のあとも、大きな設備を抱える造船は市況の波をまともに受け続けた。陸上機械への広がりだけでこの波を吸収するには限りがあり、参入の壁が高く長く収益を生む分野が要る。造船が細るほど、航空・宇宙を厚くする必要は経営にとって差し迫ったものになっていった[6]

決断

航空への積極投資と、日産事業の取得

1998年11月、石川島播磨は航空分野への積極投資を決めた。造船で守りに回る一方、航空では攻めるという事業ごとの濃淡を、資源配分の形ではっきりと示す判断であった。翌年に民間エンジン事業部長からの経歴を持つ伊藤源嗣氏が経営の中枢に立つと、この方向はさらに明確になっていく。守るべき祖業と、伸ばすべき次の柱を仕分ける判断が、投資の配分に表れていた[7]

その最大の一手が、2000年7月の宇宙航空事業の取得であった。日産自動車がルノーの資本参入を受けて自動車以外の事業を整理するなか、石川島播磨はその宇宙航空事業を譲り受け、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースを設立した。この事業は中島飛行機に始まり、富士精密工業・プリンス自動車工業・日産へと受け継がれてきた固体ロケット技術を抱えており、日本の宇宙開発を支える基幹の技術が海外資本の傘下から国内の重工メーカーへ移った意味も大きかった[8][9]

結果

航空・宇宙・防衛という現在の骨格

この取得によって、石川島播磨は民間・防衛・宇宙にまたがる航空宇宙の陣容を一つに束ねた。民間ではGEやプラット・アンド・ホイットニーの国際プログラムに部品を供給し、防衛では戦闘機用エンジンを担い、宇宙では固体ロケットの技術を受け継いだ。のちにH-IIAの補助ロケットやイプシロンへとつながる宇宙の系譜も、この事業取得に始まる。2007年に商号をIHIへ改める頃には、航空・宇宙・防衛は造船に代わる中核の一つへと育っていた[10][11]

取得から四半世紀を経て、航空・宇宙・防衛はIHIの利益を支える柱へと育った。民間航空エンジンは旅客需要の回復とともに整備・修理の収益を伸ばし、防衛では日英伊が共同開発する次期戦闘機のエンジンを担うに至った。防衛費の増額を追い風に、IHIはこの分野を長期の成長ドライバーに位置づけている。造船に代わる柱を求めた2000年の判断は、長い時間をかけて事業の中心を組み替えた[12][13]

出典・参考
  • 株式会社IHI 有価証券報告書 第208期(2025年3月期)【沿革】
  • 株式会社IHI 有価証券報告書(連結)
  • 日経ビジネス 1989年12月18日号「伊藤源嗣氏 民間エンジン『V2500』ついに上昇気流に」
  • 株式会社IHIエアロスペース「会社概要・沿革」(https://www.ihi.co.jp/ia/company/outline/index.html)
  • 株式会社IHI 統合報告書2024(https://www.ihi.co.jp/ir/library/annual/pdf/2024/ch3-02.pdf)
  • Aviation Wire「IHI、次期戦闘機のエンジン参画 日英伊が共同開発」(https://www.aviationwire.jp/archives/266457)
  • 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社 編、1968年)「石川島播磨重工業(IHI)」の項