平野富二
経歴1872〜1892年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1872年主要役職の状況(推定含む目安)1892年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 平野活版製造所(のちの東京築地活版製造所) | 1872 | 設立 | ||
| 1873 | 設立 | ||||
| 石川島平野造船所(個人経営) | 1876 | 設立 | |||
| IHI(旧・有限責任石川島造船所) | 1889 | — | |||
| 1892 | 死去 |
社長就任までの出自
出自
1846年、長崎奉行所に代々仕えた地役人の矢次豊三郎氏の次男として長崎に生まれ、幼名を富次郎といった。12歳で長崎奉行所の御用所番となり、16歳で幕府の長崎製鉄所の機関手見習を命じられた。その後は幕府の汽船の機関手を経て軍艦回天の1等機関士となり、回天を降りたのを機に、祖先が大村藩にいたころの姓に改めて家を再興した。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
平野富二氏は幕府の長崎製鉄所で機関手見習から身を起こし、幕府の汽船の機関手として長崎・大阪・江戸の間を航行した。1869年には長崎の小菅造船所の所長として修船とドックの貸し出しを管理し、1年4カ月で得た純益1万8000円を基金に、立神浦での大型ドック開削を建議してその主任を務めた。1871年に製鉄所と両造船所が工部省へ移管されると、引き継ぎを終えて職を辞した。
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第3節 本邦民営洋式造船業の創始者平野富二
- [4]16才(文久元年)幕府の長崎製鉄所機関手見習。17才(文久2年3月)幕府のチャールス号・ビクトリヤ号両汽船の乗組機関手となり、20才まで両船の機関手として長崎・大阪・江戸間の航行に従事した
- [5]24才(明治2年3月)長崎小菅造船所の所長となり、修復船およびドック貸の業を管理し、1年4か月で純益金1万8000円を得た。これを基金として立神浦に一大ドックを開削する案を民部省に建議し、立神新ドック開削の主任となった。明治4年、製鉄所と小菅・立神両造船所は工部省へ移管と決定し、財産帳簿類を引き継いだ後に平野は辞職した
- [6]24才(明治2年3月)長崎小菅造船所の所長となり、修復船およびドック貸の業を管理し、1年4か月で純益金1万8000円を得た。これを基金として立神浦に一大ドックを開削する案を民部省に建議し、立神新ドック開削の主任となった。明治4年、製鉄所と小菅・立神両造船所は工部省へ移管と決定し、財産帳簿類を引き継いだ後に平野は辞職した
辞職の直後、師である本木昌造氏から行き詰まった活字製造の立て直しを頼まれ、造船に進む志を伝えたうえで引き受けた。士族授産の事業を一般への販売に切り替え、出退勤の規律、分業による責任の明確化、専任の検査担当の配置で品質を高めた。1872年7月、長崎の金融機関から借りた1,000円と鋳込機械3台を携えて従業員10人と上京し、神田佐久間町に活字販売店を開設した。1873年7月には築地に工場を移して平野活版製造所とし、1874年には所内に鉄工部を設けて印刷機の製造に参入した。
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第3節 本邦民営洋式造船業の創始者平野富二
- [7]明治4年7月初旬、本木昌造が官を辞した平野を訪れ活字事業の再建を依頼。平野は造船業に一生を捧げる決意を表明しつつ、後継者を養成したのち造船業をおこす所存を明らかにして引き受けた。士族授産事業を広く世間に販売する方針に改め、出勤・退出の時刻を厳格にし、分業を明確にして責任の所在を明らかにし、検査の主任者を置いて検査に専任させた
- [8]明治4年7月初旬、本木昌造が官を辞した平野を訪れ活字事業の再建を依頼。平野は造船業に一生を捧げる決意を表明しつつ、後継者を養成したのち造船業をおこす所存を明らかにして引き受けた。士族授産事業を広く世間に販売する方針に改め、出勤・退出の時刻を厳格にし、分業を明確にして責任の所在を明らかにし、検査の主任者を置いて検査に専任させた
- [9]明治5年(1872)7月従業員10人をつれて上京し、神田佐久間町に活字販売店を開業した。持参したのは字母・鋳型各1組、活字鋳込機械3台、現金1,000円のみで、1,000円は長崎の金融機関六海社から借りたものである
- [10]築地2丁目に土地を買い入れ、明治6年(1873)7月新築家屋を落成・移転し、平野活版製造所を創立した(のちの東京築地活版製造所)。明治7年(1874)活版製造所内に鉄工部を設け印刷機の製造を開始した
1876年6月、海軍省が石川島修船所を閉じる2カ月余り前に、平野富二氏は付属ドックの拝借願を東京府に出した。海軍省は9月に貸与を認め、試験期間の1年の使用料を年500円とし、設備投資の回収を理由に求めた7年間の期限も認めた。10月30日に約定書を交わして石川島平野造船所が発足し、11月3日に着工した外輪汽船の通運丸が1877年2月に完成した。通運丸は民間の造船所で建造された国内最初の汽船で、内国通運会社が購入し、東京と埼玉を結ぶ河川の旅客輸送に用いられた。
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第4節 石川島平野造船所の創立
- [11]海軍省は明治9年8月31日石川島修船所を閉鎖した。築地で活版製造業を経営していた平野富二は、同所の廃止される2か月余り前に海軍省付属石川島ドック拝借願を東京府に提出した(明治九年六月十四日付)
- [12]海軍省は9月19日石川島ドックおよび付属機械・地所の貸し渡しを許可した。拝借料は試験中の1か年間を年500円と決定。造船設備に多額の資本を要し2・3年では償却が困難であるとして平野が希望した7年の年限も、主船局は願出どおり許可した
- [13]明治9年10月30日海軍省主船局から石川島ドックを貸与されて石川島平野造船所は正式に発足した。11月3日第1番船である外車汽船通運丸の建造に着手し、翌10年2月4日完工。通運丸はわが国民間造船所で造られた最初の汽船で、内国通運会社が購入し、東京両国と武州妻沼の間の旅客運送に使用された
- [14]明治9年10月30日海軍省主船局から石川島ドックを貸与されて石川島平野造船所は正式に発足した。11月3日第1番船である外車汽船通運丸の建造に着手し、翌10年2月4日完工。通運丸はわが国民間造船所で造られた最初の汽船で、内国通運会社が購入し、東京両国と武州妻沼の間の旅客運送に使用された
1878年9月、平野富二氏は本木昌造氏の3年祭の席で活版製造所と造船所の資産をいったん本木家へ差し出し、協議の結果、造船所の資産約4万円が平野富二氏の所有と定まった。1879年12月には横浜製鉄所の借用が許され、横浜石川口製鉄所として船舶用機関の製造を担わせたのち、1883年に設備を石川島へ移した。1885年1月、民営造船所として初めて海軍省から砲艦の建造を命じられ、16万4500円で鉄製軍艦の鳥海を請け負った。
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第3節 本邦民営洋式造船業の創始者平野富二
- [15]明治11年(1878)9月、平野は本木の3年祭を営み、平野活版製造所と石川島平野造船所の資産がそれぞれ約10万円と4万円程度に達したことを報告し、両所を本木家に進上することを表明した。旧株主一同評議のうえ、造船所の資産4万円余を報酬として平野に、活版製造所の資産10万円を本木家その他出資者に与えることになった
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第5節 業況および記録的諸製品
- [16]明治12年7月横浜製鉄所の拝借願を提出し、12月中旬許可された。これを横浜石川口製鉄所と改称し石川島平野造船所の分工場とし、明治13年1月営業を開始し、船舶用機関および諸機械の製造を主とした。明治16年5月、横浜石川口製鉄所を石川島へ移築することとした
- [17]明治18年1月下旬海軍省から民営造船所にはじめて砲艦建造の命令が出された。海軍省は見積書の価額16万4500円で当所に建造を命じた。鳥海は鉄製の軍艦である
造船所は設備と輸入鋼材の調達に巨額の資金を要し、個人の資産で支えることは難しくなった。平野富二氏は1880年前後に第一国立銀行頭取の渋沢栄一氏へ融資を求め、1885年には渋沢栄一氏と鍋島・伊達の両家が計10万円を出資し、1886年には梅浦精一氏を加えた約20万円の匿名組合が組まれた。1889年1月、この組合の出資を核に資本金17万5000円の有限責任石川島造船所が発足し、平野富二氏の独力による12年間の経営は終わった。新会社は社長を置かず、業務の担任に委員3人を選ぶ委員制を採り、平野富二氏が常務委員、渋沢栄一氏と梅浦精一氏が委員に就任した。平野富二氏は常務委員のまま、1892年12月3日に47歳で死去した。
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第2編第1章第2節 有限責任石川島造船所の設立
- [18]造船業は多額の資金を諸設備に固定化し、鉄・鋼材を輸入に依存したため資金需要が大きく、個人資産で経営を維持することは不可能となった。平野は明治13・14年当時第一国立銀行頭取渋沢栄一に融資を依頼し、同銀行は約8,000円を融資した。明治18年、渋沢は鍋島家と伊達家に出資をうながし、出資額10万円(鍋島・伊達各3万円、渋沢4万円)。明治19年、渋沢の紹介で梅浦精一が加わり、平野自身の資金を加えて約20万円の出資金で匿名組合を組織した
- [19]造船業は多額の資金を諸設備に固定化し、鉄・鋼材を輸入に依存したため資金需要が大きく、個人資産で経営を維持することは不可能となった。平野は明治13・14年当時第一国立銀行頭取渋沢栄一に融資を依頼し、同銀行は約8,000円を融資した。明治18年、渋沢は鍋島家と伊達家に出資をうながし、出資額10万円(鍋島・伊達各3万円、渋沢4万円)。明治19年、渋沢の紹介で梅浦精一が加わり、平野自身の資金を加えて約20万円の出資金で匿名組合を組織した
- [20]匿名組合員の出資を中核にして明治21年末新会社を設立し、平野富二から物件および業務をすべて譲り受けた。明治22年1月会社を株式会社とし、社名を有限責任石川島造船所と改め業務を開始した。ここに12年間にわたる平野富二の独力による造船所経営は終わった。資本金17万5000円
- [21]明治22年1月業務担任のため委員制度をもうけ、30株以上の株主から委員3名を選び、うち1名を常務委員とした。会社創立当初は常務委員平野富二、委員渋沢栄一、同梅浦精一。職制は委員―所長―支配人
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第2編第1章第3節 株式会社東京石川島造船所へ発展
- [22]当社の創業者平野富二は株式会社組織へ改組後も常務委員の要職に推されたが、明治25年12月3日47才で死去した
参考文献3件
参考文献
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第3節 本邦民営洋式造船業の創始者平野富二
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第1編第2章第4節 石川島平野造船所の創立
- 石川島重工業株式会社108年史(石川島重工業, 1961)第2編第1章第2節 有限責任石川島造船所の設立
事実根拠:出所(IHI)