第2章 年〜年

カナデビア:日産・日立への経営権の移転と日立造船への改称

1914年〜大阪商船系の山岡順太郎氏による株式会社大阪鉄工所と、日米船鉄交換

因島の工場まで抱えた範多竜太郎氏の個人経営は、船の大型化に応じた拡張と資本の充実に対応できなくなっていた。範多商会が香港上海銀行への負債を抱える中、海運と造船の総合経営を構想した大阪商船株式会社が株式会社への改組を勧めた。1914年3月18日に株式会社大阪鉄工所が資本金600万円で発足し、大阪商船専務取締役の山岡順太郎氏が社長に就任した。範多竜太郎氏が8万株、大阪商船系が4万株を引き受け、新会社は旧鉄工所の資産と負債を500万円で譲り受けた。株式の過半はなお範多竜太郎氏が保有していたが、経営の主導権は資本を出した大阪商船へ移ったとみられる。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
    • [1]改正造船奨励法等で船舶の大型化が必至となり拡張整備と資本の充実が迫られ、範多個人の経営は限界であった
    • [2]海運・造船の総合経営を計画した大阪商船が株式会社化を勧め、範多商会は香港上海銀行への負債を抱えていた
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [3]大正3年3月株式会社に改組し資本金600万円で再発足、新社長は山岡順太郎
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社大阪鉄工所の設立」
    • [4]大阪商船系4万株・範多8万株を引き受け、範多所有の大阪鉄工所の資産・負債一切を500万円で買い取った

株式会社となった鉄工所は第1次世界大戦の船不足を受けて工場を広げ、年間建造能力を7万5,000トンまで高めた。桜島工場では船台3基を1万総トン級に改め、因島工場には3,000総トン級の船台3基を新設した。1916年から1919年までの新造船76隻のうち68隻は貨物船で、同じ型の船を続けて建造した。制約は鋼材で、英国は1916年4月に、米国は1917年8月に鋼材の輸出を止めた。鉄工所は日本汽船株式会社を通じて第1回船鉄交換に3隻を出し、1918年5月の第2回では4隻約4万2,000重量トンを契約した。大戦期の受注の伸びは、船と引き換えに鋼材を得る取引に支えられていたと考えられる。

  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [5]欧州大戦の好況に乗じ桜島・因島両工場を拡張し、年間建造能力7万5,000トンを有するに至った
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.工場施設の拡充」
    • [6]第1期拡張工事で桜島の造船台3基を1万総トン級に改造し、因島に3,000総トン級船台3基を新設
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.第1次世界大戦による繁忙」
    • [7]大正5年から8年までの新造船76隻中68隻が貨物船で、北京丸型イシャーウッド式船の同型連続建造が始まった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.日米船鉄交換史」
    • [8]英国は大正5年4月、米国は大正6年8月2日に鋼材輸出を禁止した
    • [9]第1回船鉄交換では日本汽船経由で当社建造の3隻約2万4,000重量トンを提供、第2回は大正7年5月15日に4隻約4万2,000重量トンを契約

1920年3月の恐慌で大戦後の景気が終わると、鉄工所の業績は悪化に転じた。国内の造船量は1925年に最盛期の10分の1以下まで縮小し、1922年の軍縮条約で艦艇の需要も減少した。好況期に1万7,000人を超えた職工は2年余りで約1万人減り、桜島工場は約4,000人、因島工場は約3,000人となった。新造船の不足は、修繕船と車両・鉄骨・水圧鉄管などの陸上工事で補った。1925年の収入は160万円と最高時の6分の1に落ち、社債の利息51万円が収入の3分の1近くを占めた。配当を続けながら借入に依存する経営は、いずれ株主から経営の刷新を迫られるものだったと推察される。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「7.経営陣の交代」
    • [10]大正9年下期以後は戦後の海運不況と経済恐慌から業績は一路下り坂となった
    • [12]好況期の約1万7,000人超の職工が2年余りで約1万人減り、桜島約4,000人・因島約3,000人となった
    • [14]大正14年の収入160万円・利益17万円で最高時の6分の1・35分の1、支払利息は51万円で収入の3分の1近く
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.海運・造船業界の衰微」
    • [11]大正9年3月15日に株式暴落、造船量は14年に最盛期の10分の1以下、11年2月ワシントン軍縮条約調印
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [13]大戦後の不況で新造船工事の不振を修繕船・陸上諸工事(車輌・鉄骨・鉄塔・水圧鉄管など)で補った
参考文献[1]-[14]
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
    • [1]改正造船奨励法等で船舶の大型化が必至となり拡張整備と資本の充実が迫られ、範多個人の経営は限界であった
    • [2]海運・造船の総合経営を計画した大阪商船が株式会社化を勧め、範多商会は香港上海銀行への負債を抱えていた
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [3]大正3年3月株式会社に改組し資本金600万円で再発足、新社長は山岡順太郎
    • [5]欧州大戦の好況に乗じ桜島・因島両工場を拡張し、年間建造能力7万5,000トンを有するに至った
    • [13]大戦後の不況で新造船工事の不振を修繕船・陸上諸工事(車輌・鉄骨・鉄塔・水圧鉄管など)で補った
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社大阪鉄工所の設立」
    • [4]大阪商船系4万株・範多8万株を引き受け、範多所有の大阪鉄工所の資産・負債一切を500万円で買い取った
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.工場施設の拡充」
    • [6]第1期拡張工事で桜島の造船台3基を1万総トン級に改造し、因島に3,000総トン級船台3基を新設
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.第1次世界大戦による繁忙」
    • [7]大正5年から8年までの新造船76隻中68隻が貨物船で、北京丸型イシャーウッド式船の同型連続建造が始まった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.日米船鉄交換史」
    • [8]英国は大正5年4月、米国は大正6年8月2日に鋼材輸出を禁止した
    • [9]第1回船鉄交換では日本汽船経由で当社建造の3隻約2万4,000重量トンを提供、第2回は大正7年5月15日に4隻約4万2,000重量トンを契約
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「7.経営陣の交代」
    • [10]大正9年下期以後は戦後の海運不況と経済恐慌から業績は一路下り坂となった
    • [12]好況期の約1万7,000人超の職工が2年余りで約1万人減り、桜島約4,000人・因島約3,000人となった
    • [14]大正14年の収入160万円・利益17万円で最高時の6分の1・35分の1、支払利息は51万円で収入の3分の1近く
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.海運・造船業界の衰微」
    • [11]大正9年3月15日に株式暴落、造船量は14年に最盛期の10分の1以下、11年2月ワシントン軍縮条約調印

1926年〜世界恐慌下の陸上機械への多角化と、鮎川義介氏の日本産業への合併

不振が続く中の1926年1月、大阪商船系の取締役が全員退き、久原系の津村秀松氏が会長に就任した。久原系の資本は資本金を1,200万円とした1916年の増資で大きく入っていた。その持ち株は1918年上期に総株式24万株の過半に達し、範多家の持ち株は同年末までに無くなった。津村秀松会長は冗員の整理と配当の停止を中心に据え、経営方針を根本から改めた。桜島工場を新造船と陸上工事に充て、ほかの4工場を修繕専門とする分業に組み替えた。1926年3月に職員140人と職工450人を整理し、翌年には整理損失166万5,000円を償却した。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「7.経営陣の交代」
    • [15]大正15年1月に大阪商船系取締役が全員退陣し、久原系の津村秀松(元久原商事常務)が取締役会長となった
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [16]大正5年に資本金を1,200万円に増額、この増資で久原系資本が大きく進出した
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営陣の交代」
    • [17]久原系の持株は大正7年上期に12万1,150株で総株式24万株の過半数となった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営方針の更新」
    • [18]津村会長は冗員淘汰による経費節減と株主配当の停止を骨子とする新経営方針を定めた
    • [19]桜島工場は新造船と橋梁・車両等陸上工事に主力、他の4工場は修繕専門工場として分業
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の改革」
    • [20]大正15年3月に職員140人・職工450人を整理、昭和2年上期に整理損失金166万5,000円を償却

1929年秋の世界恐慌で工事量が再び減少すると、鉄工所は新造船の設備を陸上工事に振り向け、修繕船を本位とする方針を掲げた。陸上工事の基盤は1927年4月の鉄道省指定工場で、橋輛課を設けて車両・橋梁・鉄塔・水圧鉄管を手がけていた。1930年から翌年にかけて職員106人と傭員137人を解職したが、1931年下期には損失を計上した。株主構成では、1928年に発足した日本産業株式会社の傘下に鉄工所が入っていた。1932年1月に津村秀松会長が退き、同年10月に原田六郎氏が社長に就任して、日本産業社長の鮎川義介氏が会長を務める体制となった。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日産系の経営へ」
    • [21]昭和4年秋の世界恐慌後、新造船施設を陸上関係工事に振り替え修繕船本位の経営新方針を打ち出した(5年5月職制改正)
    • [23]昭和5〜6年に職員106人・傭員137人を解職、6年下期に損失金を計上、7年1月津村会長退任
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.製品の多角化並びに技術力の向上」
    • [22]昭和2年4月鉄道省の指定工場となり、7月橋輛課を新設し車両・橋梁・鉄塔・水圧鉄管の工作を所掌
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [24]昭和3年日本産業株式会社が創立されるに及んで、その傘下に入った
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「歴代役員」
    • [25]津村秀松会長は昭和7年1月29日まで、原田六郎社長は昭和7年10月29日から、鮎川義介会長は昭和11年2月28日まで

1934年7月1日、株式会社大阪鉄工所は日本産業株式会社に合併されて解散した。社長の原田六郎氏は株主総会で、社債と借入金が資本金を上回る資本構成と、経営首脳の交代の続発を欠点に挙げた。合併に先立つ5月29日には、日本産業が全株を持つ株式会社日本産業大阪鉄工所が資本金1,200万円で設立されていた。新会社は旧会社の設備と事業を引き継ぎ、8月に社名を大阪鉄工所へ戻して会長には鮎川義介氏が就任した。日立造船は後に、この1934年5月29日を会社の設立日と定めた。過大な借入を抱えた会社を持株会社に合併し、新会社へ設備と事業だけを移す日本産業の手法が、鉄工所の財務を立て直したのだろう。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日本産業大阪鉄工所の発足と旧社名の踏襲」
    • [26]株式会社大阪鉄工所は昭和9年7月1日日本産業に合併され解散した
    • [27]原田社長は総会で、借金が資本金をはるかに超過する資本構成と経営首脳者更迭の続発を経営上の欠点とした
    • [28]昭和9年5月29日に日本産業が全株を所有する株式会社日本産業大阪鉄工所を資本金1,200万円で設立
    • [30]日立造船では昭和9年5月29日を会社設立日としている
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [29]昭和9年5月資本金1,200万円の日本産業大阪鉄工所として新発足、同年8月大阪鉄工所と改称、会長に鮎川義介
参考文献[15]-[30]
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「7.経営陣の交代」
    • [15]大正15年1月に大阪商船系取締役が全員退陣し、久原系の津村秀松(元久原商事常務)が取締役会長となった
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [16]大正5年に資本金を1,200万円に増額、この増資で久原系資本が大きく進出した
    • [24]昭和3年日本産業株式会社が創立されるに及んで、その傘下に入った
    • [29]昭和9年5月資本金1,200万円の日本産業大阪鉄工所として新発足、同年8月大阪鉄工所と改称、会長に鮎川義介
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営陣の交代」
    • [17]久原系の持株は大正7年上期に12万1,150株で総株式24万株の過半数となった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営方針の更新」
    • [18]津村会長は冗員淘汰による経費節減と株主配当の停止を骨子とする新経営方針を定めた
    • [19]桜島工場は新造船と橋梁・車両等陸上工事に主力、他の4工場は修繕専門工場として分業
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の改革」
    • [20]大正15年3月に職員140人・職工450人を整理、昭和2年上期に整理損失金166万5,000円を償却
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日産系の経営へ」
    • [21]昭和4年秋の世界恐慌後、新造船施設を陸上関係工事に振り替え修繕船本位の経営新方針を打ち出した(5年5月職制改正)
    • [23]昭和5〜6年に職員106人・傭員137人を解職、6年下期に損失金を計上、7年1月津村会長退任
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.製品の多角化並びに技術力の向上」
    • [22]昭和2年4月鉄道省の指定工場となり、7月橋輛課を新設し車両・橋梁・鉄塔・水圧鉄管の工作を所掌
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「歴代役員」
    • [25]津村秀松会長は昭和7年1月29日まで、原田六郎社長は昭和7年10月29日から、鮎川義介会長は昭和11年2月28日まで
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日本産業大阪鉄工所の発足と旧社名の踏襲」
    • [26]株式会社大阪鉄工所は昭和9年7月1日日本産業に合併され解散した
    • [27]原田社長は総会で、借金が資本金をはるかに超過する資本構成と経営首脳者更迭の続発を経営上の欠点とした
    • [28]昭和9年5月29日に日本産業が全株を所有する株式会社日本産業大阪鉄工所を資本金1,200万円で設立
    • [30]日立造船では昭和9年5月29日を会社設立日としている

1936年〜日立製作所の傘下で改めた日立造船の社名と、持株会社整理委員会への株式譲渡

日産系での再建は2年足らずで終わり、1936年3月23日に日本産業の持つ全株式が株式会社日立製作所へ1株60円で譲渡された。原田六郎社長の急逝に加え、株式ブームの退潮と臨時利得税の新設で、日本産業は手元資金を確保する必要に迫られていた。鉄工所と日立製作所の事業は関係が深く、日立の下に置くのが将来に適うとの結論になった。2月29日の臨時株主総会で、日立製作所社長の小平浪平氏が会長、同社常務取締役の六角三郎氏が社長に就任した。船舶改善助成施設と漁業の伸びで、1935年下期から受注の環境は一変した。1938年5月には資本金を3,000万円に増やし、3万トンの乾船渠や内燃機工場を設けた。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日立製作所による経営体制の確立」
    • [31]日本産業保有の当社株式は日立製作所へ1株60円ですべて肩代わりされ、昭和11年3月23日名義書換
    • [32]原田社長の急逝、昭和9年以降の株式ブーム低迷と10年の臨時利得税新設で日本産業は手許調整が必要だった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.海運・造船業界の好況化」
    • [33]大阪鉄工所と日立製作所の事業は密接な関係にあり、日立の下に置くのが将来のため適当との結論になった
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [34]昭和11年日立製作所に株式全部が肩代りされ、会長に小平浪平、社長に六角三郎が就任
    • [36]昭和13年5月資本金3,000万円に増資し、3万トン乾船渠の建設・内燃機工場の新設等を図った
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.業績の飛躍的向上」
    • [35]船舶助成施設・遠洋漁業の発展等で昭和10年下期から経営環境が一変し業績が回復上昇

1943年3月11日の臨時株主総会で、株式会社大阪鉄工所は社名を日立造船株式会社に改めた。改称を決めたのは、1936年2月から1947年3月まで社長を務めた六角三郎氏の代である。新しい社名は造船と日立製作所の傘下にあることを示し、旧名は大会社としての認知が薄く募集にも不便だった。資本金は神奈川造船所の建設に向けて1940年に6,000万円への倍増が決まっていた。改称後の11月には倍額増資を決め、資本金は1億2,180万円となった。商船の建造量は1943年に30隻6万総トン、1944年に30隻約10万総トンを数えた。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.増資並びに社名の改称」
    • [37]昭和18年3月11日の臨時株主総会で社名を日立造船株式会社と改称
    • [39]「日立造船」は造船と日立製作所の傘下を明示する名で、「大阪鉄工所」は大会社にふさわしくなく一般認識も不十分、従業員募集にも不便だった
    • [40]昭和15年9月10日の臨時株主総会で神奈川造船所建設のため資本金3,000万円を6,000万円に倍額増資を決議
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「歴代役員」
    • [38]六角三郎の社長在任は昭和11年2月29日から昭和22年3月31日まで
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [41]昭和18年3月日立造船に社名変更、同年11月1億2,180万円に増資
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.戦時中の工事」
    • [42]主な商船建造量は昭和18年30隻6万総トン、19年30隻約10万総トン

敗戦後の財閥解体で、日立製作所が一手に持っていた日立造船の全株式は持株会社整理委員会へ移り、1947年1月から同委員会が議決権を行使した。公職追放で1946年5月に小平浪平会長が退き、1947年4月1日に出田孝行氏が六角三郎氏に代わって社長に就任した。1948年2月には過度経済力集中排除法の指定で3社への分割案まで作られたが、同年11月に指定は解かれた。1948年12月には、同委員会の手にあった全株式が一般へ放出された。出田孝行社長のもとでは、後に社長となる松原與三松氏が専務取締役に就任した。大阪商船系から日立製作所系まで33年続いた資本の後ろ盾を離れ、日立造船は経営の責任を自ら負う立場となった。

  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.株式の公開と日立造船株式会社の新生」
    • [43]全株式を持つ日立製作所が昭和21年12月持株会社に指定され、全株式は持株委へ譲渡、22年1月から持株委が議決権を行使
    • [44]公職追放で昭和21年5月27日小平会長辞任、22年3月31日六角社長辞任、同年4月1日出田孝行が社長就任
    • [45]昭和23年2月8日集排法第1次指定で近畿造船・山陽造船・京浜ドックの3地区案を作成、同年11月19日指定解除
    • [48]大阪商船系・久原系・日産系・日立製作所系の資本系列下にあること33年、日立の傘下を離れ経営責任が自身に掛かってきた
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [46]日立製作所が特経会社に指定され、昭和23年に当社の全株式は公開された
  • 株式会社年鑑 1950年版「日立造船株式会社」
    • [47]役員欄に社長出田孝行、専務松原與三松
参考文献[31]-[48]
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日立製作所による経営体制の確立」
    • [31]日本産業保有の当社株式は日立製作所へ1株60円ですべて肩代わりされ、昭和11年3月23日名義書換
    • [32]原田社長の急逝、昭和9年以降の株式ブーム低迷と10年の臨時利得税新設で日本産業は手許調整が必要だった
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.海運・造船業界の好況化」
    • [33]大阪鉄工所と日立製作所の事業は密接な関係にあり、日立の下に置くのが将来のため適当との結論になった
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」
    • [34]昭和11年日立製作所に株式全部が肩代りされ、会長に小平浪平、社長に六角三郎が就任
    • [36]昭和13年5月資本金3,000万円に増資し、3万トン乾船渠の建設・内燃機工場の新設等を図った
    • [41]昭和18年3月日立造船に社名変更、同年11月1億2,180万円に増資
    • [46]日立製作所が特経会社に指定され、昭和23年に当社の全株式は公開された
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.業績の飛躍的向上」
    • [35]船舶助成施設・遠洋漁業の発展等で昭和10年下期から経営環境が一変し業績が回復上昇
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.増資並びに社名の改称」
    • [37]昭和18年3月11日の臨時株主総会で社名を日立造船株式会社と改称
    • [39]「日立造船」は造船と日立製作所の傘下を明示する名で、「大阪鉄工所」は大会社にふさわしくなく一般認識も不十分、従業員募集にも不便だった
    • [40]昭和15年9月10日の臨時株主総会で神奈川造船所建設のため資本金3,000万円を6,000万円に倍額増資を決議
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「歴代役員」
    • [38]六角三郎の社長在任は昭和11年2月29日から昭和22年3月31日まで
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.戦時中の工事」
    • [42]主な商船建造量は昭和18年30隻6万総トン、19年30隻約10万総トン
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.株式の公開と日立造船株式会社の新生」
    • [43]全株式を持つ日立製作所が昭和21年12月持株会社に指定され、全株式は持株委へ譲渡、22年1月から持株委が議決権を行使
    • [44]公職追放で昭和21年5月27日小平会長辞任、22年3月31日六角社長辞任、同年4月1日出田孝行が社長就任
    • [45]昭和23年2月8日集排法第1次指定で近畿造船・山陽造船・京浜ドックの3地区案を作成、同年11月19日指定解除
    • [48]大阪商船系・久原系・日産系・日立製作所系の資本系列下にあること33年、日立の傘下を離れ経営責任が自身に掛かってきた
  • 株式会社年鑑 1950年版「日立造船株式会社」
    • [47]役員欄に社長出田孝行、専務松原與三松

出典・参考

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出典・参考
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社大阪鉄工所の設立」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.工場施設の拡充」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.第1次世界大戦による繁忙」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.日米船鉄交換史」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「7.経営陣の交代」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.海運・造船業界の衰微」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営陣の交代」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.経営方針の更新」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の改革」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日産系の経営へ」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.製品の多角化並びに技術力の向上」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「歴代役員」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日本産業大阪鉄工所の発足と旧社名の踏襲」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.株式会社日立製作所による経営体制の確立」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.海運・造船業界の好況化」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.業績の飛躍的向上」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.増資並びに社名の改称」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.戦時中の工事」
  • 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.株式の公開と日立造船株式会社の新生」
  • 株式会社年鑑 1950年版「日立造船株式会社」
  • 東洋経済新報社『会社銀行八十年史』(1955年)「日立造船」

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