カナデビア:堺・有明の大型造船所建設と構造不況下の減量経営
1949年〜松原與三松氏の硝子張りの経営と、米キャラス社からのタンカー受注
1948年12月、日立製作所が持っていた日立造船の全株式が一般に売り出された。株主は一挙に1万数千人に増え、日立製作所との資本の関係はなくなった。株式は東京・大阪などの取引所に上場され、資金と信用を市場に求める立場に移った。1950年5月に社長となった松原與三松氏は、会社の実態を従業員に見せる「硝子張りの中の経営」を掲げた。あわせて打ち出した2大方針が、輸出に最重点を置くことと労使関係の確立であった。親会社も財閥系の固定客も持たない会社にとって、経営を公開することは株主と従業員をつなぎ留め、輸出に経営資源を集中する前提だったとみられる。
- 『株式会社年鑑』1950年版「日立造船」
- [1]1948年12月、1936年以来日立製作所が保有した全株式を一般に公開売出
- [3]上場市場は東京・大阪ほか福岡・新潟・広島
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「輸出365日(日立造船 松原與三松)」(1966年)
- [2]日立製作所が100%持っていた株式が放出され、1万数千人の株主が生まれ、資本関係が消えた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.硝子張りの中の経営,人間尊重の経営を進める」
- [4]1950年5月30日松原與三松が社長就任。会社の実態を従業員に知らせる「硝子張りの中の経営」を構想
- [5]松原社長の2大方針は①輸出に最重点②労使関係の確立
日立造船が成長を求めたのは、国内の計画造船ではなく自力で受注する輸出船であった。1947〜49年の計画造船では財閥系船主と結ぶ三菱重工が23隻を受注し、日立造船は6隻にとどまった。1950年に米キャラス社から1万9,000重量トンのタンカーの引き合いを受け、1951年2月に成約した。民間貿易が再開してから日本で最初の輸出船であった。契約船価では赤字が確実になったが、同型3隻を同じ船価で追加受注し、4隻一括の建造で黒字に変えた。1隻目の損失を量産効果で回収する判断が、北米・欧州の船主に日本の造船所を認知させる契機になったと推察される。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.輸出船の受注」
- [6]国内受注に苦闘し、自力で輸出に活路を開くほかないとの方針を立てた
- [8]1950年キャラス社から1万9,000重量トンタンカー1隻の引き合い、1951年2月成約
- [9]民間貿易再開後、日本最初の輸出船
- [10]契約船価で赤字確定、1951年10月に同船価で追加3隻受注、4隻一括建造で黒字工事
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「輸出365日(日立造船 松原與三松)」(1966年)
- [7]第1〜4次計画造船で三菱重工23隻6万4千総トン、日立造船は6隻2万トン余り。財閥系船会社とのつながりの薄さが輸出へ向かわせた
輸出船を受注し続けるうえで、日立造船は主機関の調達に課題を抱えていた。船体は日立造船、機関は日立製作所という分業で、必要な馬力の機関を必要な時に確保しにくかった。1950年、三井造船を通じてデンマークのB&W社と再実施権契約を結び、ディーゼル機関の製造に入った。1951年7月に第1番機の4,600馬力主機関を完成させ、1953年3月にはアルファ型機関の補足契約も結んだ。1955年末までの5年間で主機関30基・13万2,650馬力を造り、自社建造船の大型主機関をほぼ内製した。船体と機関を一つの造船所で揃えたことが、短い納期で輸出船を受注する能力を支えたと考えられる。
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「輸出365日(日立造船 松原與三松)」(1966年)
- [11]戦後、大型舶用ディーゼル・タービンの生産設備を持たず、機関は日立製作所に依頼していた
- [12]必要な時に必要な馬力の機関が入手できないと営業活動ができないと判断し、ディーゼルの自社生産を決めた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.日立B&Wディーゼル機関」
- [13]1950年、三井造船を通じB&W社と再実施権契約を結び生産開始
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日立B&Wディーゼル機関の製造開始」
- [14]1951年7月第1番機4,600馬力主機関完成、1953年3月アルファ型機関等の補足契約
- [15]1951年7月〜1955年末に主機関30基13万2,650馬力、自社建造船の大型主機関はほぼ自社製
参考文献[1]-[15]
- 『株式会社年鑑』1950年版「日立造船」
- [1]1948年12月、1936年以来日立製作所が保有した全株式を一般に公開売出
- [3]上場市場は東京・大阪ほか福岡・新潟・広島
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「輸出365日(日立造船 松原與三松)」(1966年)
- [2]日立製作所が100%持っていた株式が放出され、1万数千人の株主が生まれ、資本関係が消えた
- [7]第1〜4次計画造船で三菱重工23隻6万4千総トン、日立造船は6隻2万トン余り。財閥系船会社とのつながりの薄さが輸出へ向かわせた
- [11]戦後、大型舶用ディーゼル・タービンの生産設備を持たず、機関は日立製作所に依頼していた
- [12]必要な時に必要な馬力の機関が入手できないと営業活動ができないと判断し、ディーゼルの自社生産を決めた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.硝子張りの中の経営,人間尊重の経営を進める」
- [4]1950年5月30日松原與三松が社長就任。会社の実態を従業員に知らせる「硝子張りの中の経営」を構想
- [5]松原社長の2大方針は①輸出に最重点②労使関係の確立
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.輸出船の受注」
- [6]国内受注に苦闘し、自力で輸出に活路を開くほかないとの方針を立てた
- [8]1950年キャラス社から1万9,000重量トンタンカー1隻の引き合い、1951年2月成約
- [9]民間貿易再開後、日本最初の輸出船
- [10]契約船価で赤字確定、1951年10月に同船価で追加3隻受注、4隻一括建造で黒字工事
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.日立B&Wディーゼル機関」
- [13]1950年、三井造船を通じB&W社と再実施権契約を結び生産開始
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日立B&Wディーゼル機関の製造開始」
- [14]1951年7月第1番機4,600馬力主機関完成、1953年3月アルファ型機関等の補足契約
- [15]1951年7月〜1955年末に主機関30基13万2,650馬力、自社建造船の大型主機関はほぼ自社製
1962年〜永田敬生社長の百万人の経営と、総工費150億円の堺工場
輸出で規模を広げた会社は、1962年11月に松原與三松氏が会長に退き、副社長の永田敬生氏が社長を継いだ。就任時の永田敬生氏は51歳で、労務畑を歩み、関西財界で労務問題の第一人者であった。永田敬生氏は労働組合を経営の対等なパートナーとみなす「百万人の経営」を唱えた。堺工場の建設も、1962年7月から構想を組合に説明し、意見を聞きながら進めた。1968年には日立造船労働組合と労使協議制の協定を結び、経営審議会と労使協議会を設けた。この労使協調路線は、石油危機後の造船不況で人員の合理化が遅れる一因になったという。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.松原会長・永田社長体制」
- [16]1962年11月30日松原社長が会長、永田副社長が社長に就任
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [17]永田敬生は1962年に51歳で社長就任。労務畑を歩み関西財界で労務問題の第一人者とされる
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.「百万人の経営」を推進」
- [18]百万人の経営理念の骨子に「労働組合は経営のイコールパートナー」
- [20]1968年ロレと労使協議制の協定、経営審議会と労使協議会からなる
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.堺工場の建設と拡充」
- [19]1962年7月の中央生産会議で両組合に堺工場建設の構想を説明し、以後も逐次説明して意見を求めた
- 日本経済新聞 近畿B(2006年11月11日)
- [21]百万人の経営の労使協調路線が裏目に出て石油ショック後の人員合理化が遅れた
1964年3月、日立造船は大阪府堺市で総工費150億円の堺工場に着工した。船主から寄せられる引き合いでは10万重量トン超の船型が相次ぎ、20万重量トン台の到来が近いと予想されていた。手狭な既存工場では応じきれず、計画を改めて長さ400mの25万重量トン建造ドックを1基据えた。1隻半を同じドックで並行して造るセミタンデム方式で、少ない投資で大型船を連続して建造する狙いであった。完成後の生産高は既存5工場の合計に匹敵する見込みで、1工場に会社の将来を託す投資となった。大型タンカーの需要に能力を合わせたことで、造船への事業の偏りは深まったのだろう。
- 読売新聞(1966年4月12日)
- [22]堺工場は1964年3月、総工費150億円で着工
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.堺工場の建設と拡充」
- [23]引き合いに10万重量トン超の船型が続出し、20万重量トン台の時代が近いとみられた
- [24]当初計画を修正し25万重量トン建造ドック1基(長さ400m)の大型船専用工場に
- [25]セミタンデム方式で大型船を連続建造し、最少の設備投資で最大の効果を狙う
- [26]完成時の生産高は既存5工場の合計に匹敵する構想
1971年4月1日、日立造船は舞鶴重工業を合併し、7番目の工場とした。旧海軍工廠を前身とする飯野重工業を1963年に傘下に収め、足かけ10年の再建を経た合併であった。一方の堺工場は28万重量トン型が建造能力の限界で、30万重量トン超の需要に追いつかなかった。1970年1〜6月に引き合いのあった20万重量トン以上の42隻のうち、36隻を辞退していた。熊本県長洲町の有明工場は造船を先に建てる計画に改められ、1973年4月に操業を始めた。1972年3月期の造船依存度は69%で、三菱重工の32%を大きく上回っていた。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「第3節総合国際企業への道」
- [27]1971年4月1日、舞鶴重工業と対等合併し舞鶴工場とした
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.舞鶴重工業株式会社の再建と合併」
- [28]舞鶴海軍工廠前身の飯野重工業を1963年4月舞鶴重工業に改称し71%保有。再建・再再建に足かけ10年
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.超大型造船所の建設」
- [29]堺工場は28万重量トン型が建造能力の限界で30万重量トン以上の需要に追い付かない
- [30]1970年1〜6月の20万重量トン以上の引き合い42隻のうち36隻を辞退
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.地域社会・自然との調和」
- [31]1970年8月に船先行へ計画変更、1973年4月有明工場操業開始
- 週刊東洋経済 1972年10月7日号
- [32]1972年3月期の造船依存度69%、三菱重工32%
参考文献[16]-[32]
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.松原会長・永田社長体制」
- [16]1962年11月30日松原社長が会長、永田副社長が社長に就任
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [17]永田敬生は1962年に51歳で社長就任。労務畑を歩み関西財界で労務問題の第一人者とされる
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.「百万人の経営」を推進」
- [18]百万人の経営理念の骨子に「労働組合は経営のイコールパートナー」
- [20]1968年ロレと労使協議制の協定、経営審議会と労使協議会からなる
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.堺工場の建設と拡充」
- [19]1962年7月の中央生産会議で両組合に堺工場建設の構想を説明し、以後も逐次説明して意見を求めた
- [23]引き合いに10万重量トン超の船型が続出し、20万重量トン台の時代が近いとみられた
- [24]当初計画を修正し25万重量トン建造ドック1基(長さ400m)の大型船専用工場に
- [25]セミタンデム方式で大型船を連続建造し、最少の設備投資で最大の効果を狙う
- [26]完成時の生産高は既存5工場の合計に匹敵する構想
- 日本経済新聞 近畿B(2006年11月11日)
- [21]百万人の経営の労使協調路線が裏目に出て石油ショック後の人員合理化が遅れた
- 読売新聞(1966年4月12日)
- [22]堺工場は1964年3月、総工費150億円で着工
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「第3節総合国際企業への道」
- [27]1971年4月1日、舞鶴重工業と対等合併し舞鶴工場とした
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.舞鶴重工業株式会社の再建と合併」
- [28]舞鶴海軍工廠前身の飯野重工業を1963年4月舞鶴重工業に改称し71%保有。再建・再再建に足かけ10年
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.超大型造船所の建設」
- [29]堺工場は28万重量トン型が建造能力の限界で30万重量トン以上の需要に追い付かない
- [30]1970年1〜6月の20万重量トン以上の引き合い42隻のうち36隻を辞退
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.地域社会・自然との調和」
- [31]1970年8月に船先行へ計画変更、1973年4月有明工場操業開始
- 週刊東洋経済 1972年10月7日号
- [32]1972年3月期の造船依存度69%、三菱重工32%
1974年〜石油危機後の減量経営と、木下昌雄社長のカンパニープロジェクト
1973年の石油危機でタンカーの注文が途絶え、大型化に合わせて拡張した造船能力が過剰になった。1975年3月期の従業員は2万4,457人で、売上高の近い三井造船より約8,000人多かった。日立造船は1976〜79年度の4年間、大学から高校まで新規学卒の採用を止めた。1977年6月には労使が事業構造転換計画で合意し、陸機部門への配置替えや出向・転籍を進めた。1977年8月、有明工場で造った50万トン級タンカーの引き渡しで、大型タンカーの時代は終わりに向かった。1978年3月に始めた転職転進援助制度には1,902人が応じて会社を離れた。
- 読売新聞(1977年8月12日)
- [33]石油ショック後タンカー受注が激減、1977年3月末の輸出タンカー手持ち工事量はピークの1/18
- [37]1977年8月11日有明工場の50万トンタンカー引き渡し、残る同型1隻で大型タンカー建造の全盛時代が終わる
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [34]1975年3月期末従業員は日立2万4,457人、三井造船1万6,351人。売上高は1,641億円と1,459億円
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.減量経営の実施」
- [35]1976〜79年度の4年間、大学・高専・高校の新規採用を中止
- [36]1977年6月の中央経営審議会で事業構造転換計画に労使合意、陸機への人員重点配置・出向・転籍
- [38]1978年3月3日実施の雇用対策のうち転職転進援助制度に1,902人が応募し退職
1979年6月、永田敬生氏は会長に退き、副社長の木下昌雄氏が社長に昇格した。出田・松原・永田と事務系が3代続いたあとの技術系の社長であった。木下昌雄氏は1949年に技術研究所の設立に合わせて入社し、研究所長を務めた造船技術者であった。1979年8月、次の世代の事業の収益源を育てるカンパニープロジェクトとして10件の開発目標を決めた。低燃費船や超自動化船と並び、廃棄物の熱分解・灰溶融や石炭焚きボイラ、排煙脱硝が選ばれた。1980年度からの中期計画では、船舶と非船舶の構成比を改めて事業のバランスを整えることを掲げた。
- 政経人 1980年「関西経営者評伝(31) 日立造船社長 木下昌雄」
- [39]昨年(1979年)6月、永田社長が会長、木下昌雄副社長が社長に昇格
- [41]1949年技術研究所設立時に入社、1959年技術研究所長
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.カンパニープロジェクトの設定」
- [40]出田・松原・永田と事務系社長3代の後に技術系社長
- [42]1979年8月の経営会議で10件のターゲットを決め、次世代の事業の柱を育てるカンパニープロジェクトを設定
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.強靭な経営体質づくりを目指す-中期経営計画の策定」
- [43]10テーマに超自動化船・低燃費船・廃棄物熱分解灰溶融・石炭焚きボイラ・排煙脱硝など
- [44]1980年度中期計画の重点施策に船舶部門対非船舶部門の構成比率を改善し事業構造のバランスを確立
新たな収益源の候補のうち先に育っていたのは環境装置で、1973年にはごみ焼却施設だけで200億円超を受注した。1960年にスイスのデロール式焼却炉の合弁に加わり、1965年に大阪市西淀清掃工場の1号機を完成させた。石油危機後は廃熱による発電や塩化水素の除去など、省エネと公害規制の求めに技術で応えた。売上高に占める新造船の比率は、1975年3月期に64%を占めていた。1985年3月期には新造船が24%まで下がり、鉄構・環境装置は11%であった。環境装置が育ち始めた一方で船台とドックの余剰は抱えたままとなり、次の縮小の判断へ持ち越されたと推測される。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.環境装置」
- [45]1973年にごみ焼却施設で200億円超を受注し、昭和40年代にごみ焼却施設メーカーとして地位を築いた
- [46]1960年9月日本デロール設立に参加、1965年6月大阪市西淀清掃工場向け1号機完成
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.陸機部門」
- [47]石油危機後、廃熱利用・自家発電・塩化水素除去・灰のセメント固化などで対応
- 会社年鑑 1976年版「日立造船」
- [48]1975年3月期の売上構成比 新造船64%
- 会社年鑑 1986年版「日立造船」
- [49]1985年3月期の売上構成比 新造船24%、鉄構・環境装置11%
参考文献[33]-[49]
- 読売新聞(1977年8月12日)
- [33]石油ショック後タンカー受注が激減、1977年3月末の輸出タンカー手持ち工事量はピークの1/18
- [37]1977年8月11日有明工場の50万トンタンカー引き渡し、残る同型1隻で大型タンカー建造の全盛時代が終わる
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- [34]1975年3月期末従業員は日立2万4,457人、三井造船1万6,351人。売上高は1,641億円と1,459億円
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.減量経営の実施」
- [35]1976〜79年度の4年間、大学・高専・高校の新規採用を中止
- [36]1977年6月の中央経営審議会で事業構造転換計画に労使合意、陸機への人員重点配置・出向・転籍
- [38]1978年3月3日実施の雇用対策のうち転職転進援助制度に1,902人が応募し退職
- 政経人 1980年「関西経営者評伝(31) 日立造船社長 木下昌雄」
- [39]昨年(1979年)6月、永田社長が会長、木下昌雄副社長が社長に昇格
- [41]1949年技術研究所設立時に入社、1959年技術研究所長
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.カンパニープロジェクトの設定」
- [40]出田・松原・永田と事務系社長3代の後に技術系社長
- [42]1979年8月の経営会議で10件のターゲットを決め、次世代の事業の柱を育てるカンパニープロジェクトを設定
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.強靭な経営体質づくりを目指す-中期経営計画の策定」
- [43]10テーマに超自動化船・低燃費船・廃棄物熱分解灰溶融・石炭焚きボイラ・排煙脱硝など
- [44]1980年度中期計画の重点施策に船舶部門対非船舶部門の構成比率を改善し事業構造のバランスを確立
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.環境装置」
- [45]1973年にごみ焼却施設で200億円超を受注し、昭和40年代にごみ焼却施設メーカーとして地位を築いた
- [46]1960年9月日本デロール設立に参加、1965年6月大阪市西淀清掃工場向け1号機完成
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.陸機部門」
- [47]石油危機後、廃熱利用・自家発電・塩化水素除去・灰のセメント固化などで対応
- 会社年鑑 1976年版「日立造船」
- [48]1975年3月期の売上構成比 新造船64%
- 会社年鑑 1986年版「日立造船」
- [49]1985年3月期の売上構成比 新造船24%、鉄構・環境装置11%
1949年〜1985年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 技術研究所(大阪市此花区)を新設(1950/04) |
| 1952年03月期 | 単体 | 136 | n/a | 8 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1953年03月期 | 単体 | 153 | +12.5% | 12 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1954年03月期 | 単体 | 145 | ▲5.2% | 8 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1955年03月期 | 単体 | 127 | ▲12.4% | 5 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1956年03月期 | 単体 | 165 | +29.9% | 10 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 299 | +81.2% | 26 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 360 | +20.4% | 46 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 352 | ▲2.2% | 40 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 346 | ▲1.7% | 45 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 374 | +8.1% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 435 | +16.3% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 470 | +8.0% | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 471 | +0.2% | n/a | n/a | 19 | 4.0% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 730 | +55.0% | n/a | n/a | 22 | 3.0% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 748 | +2.5% | n/a | 40 | 21 | 2.8% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 938 | +25.4% | n/a | n/a | 19 | 2.0% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 1,141 | +21.6% | n/a | n/a | 19 | 1.7% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 1,360 | +19.2% | n/a | n/a | 23 | 1.7% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 1,395 | +2.6% | n/a | n/a | 25 | 1.8% | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 1,602 | +14.8% | n/a | 39 | 27 | 1.7% | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 2,078 | +29.7% | n/a | 79 | 34 | 1.6% | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,974 | ▲5.0% | n/a | 99 | 39 | 2.0% | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 2,346 | +18.8% | n/a | 141 | 49 | 2.1% | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 3,014 | +28.5% | n/a | 72 | 37 | 1.2% | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 3,292 | +9.2% | n/a | 45 | 38 | 1.2% | n/a |
| 1977年03月期 | 単体 | 3,324 | +1.0% | n/a | 83 | 52 | 1.6% | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 3,449 | +3.8% | n/a | 121 | 48 | 1.4% | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 2,577 | ▲25.3% | n/a | 73 | 37 | 1.4% | 有明陸機工場が操業開始(1979) |
| 1980年03月期 | 単体 | 2,496 | ▲3.1% | n/a | 6 | 10 | 0.4% | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 3,336 | +33.7% | n/a | 51 | 32 | 1.0% | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 4,840 | +45.1% | n/a | 132 | 76 | 1.6% | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 5,011 | +3.5% | n/a | 170 | 85 | 1.7% | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 4,033 | ▲19.5% | n/a | 120 | 70 | 1.7% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 4,203 | +4.2% | n/a | 78 | 60 | 1.4% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑
出典・参考
26件
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.硝子張りの中の経営,人間尊重の経営を進める」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.輸出船の受注」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.日立B&Wディーゼル機関」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日立B&Wディーゼル機関の製造開始」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.松原会長・永田社長体制」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.「百万人の経営」を推進」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.堺工場の建設と拡充」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「第3節総合国際企業への道」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.舞鶴重工業株式会社の再建と合併」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.超大型造船所の建設」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.地域社会・自然との調和」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.減量経営の実施」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.カンパニープロジェクトの設定」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.強靭な経営体質づくりを目指す-中期経営計画の策定」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.環境装置」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.陸機部門」
- 『株式会社年鑑』1950年版「日立造船」
- ダイヤモンド社『歴史をつくる人々』「輸出365日(日立造船 松原與三松)」(1966年)
- 会社年鑑 1976年版「日立造船」
- 会社年鑑 1986年版「日立造船」
- 週刊東洋経済 1972年10月7日号
- 日経ビジネス 1975年9月1日号
- 読売新聞(1966年4月12日)
- 読売新聞(1977年8月12日)
- 日本経済新聞 近畿B(2006年11月11日)
- 政経人 1980年「関西経営者評伝(31) 日立造船社長 木下昌雄」