タクマ の歴史

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創業 1938年
創業者 田熊常吉
創業地 兵庫県尼崎市
創業
1938年6月10日、田熊常吉氏が兵庫県尼崎市浜で田熊汽罐製造を設立した。田熊常吉氏は1912年に缶水を循環させるタクマ式汽罐を発明した人物だが、1920年8月に特許権と商標権の一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となっていた。自らの名を冠した商標を他社に預けたまま、1936年6月に神戸の自宅に田熊常吉研究所を開設し、新型を高級小型つねきちボイラと名付けて売り出す。受注が1936年の14缶から翌年88缶へ増えるなか、統制三法で増資が倍額までに制限されたため、軍需に不可欠なボイラを目的に掲げた別会社として設立したのが田熊汽罐製造である。1949年5月に大阪と東京の証券取引所へ上場し、1972年6月1日に商号をタクマへ変更した。
決断
燃やす相手を、石炭からごみへ、木くずへと替えてきた。1957年に階段式ストーカーの実験へ着手し、1961年6月に大阪市から1日150トンの焼却炉3基を受注して1963年1月に据え付けた。翌1962年7月には日本機工を技術者ごと引き受け、需要先の重なる水処理へも広げた。開発費は1966年9月期に未償却額5億円余を一括償却して2億6,689万円の赤字と無配を招いたが、環境衛生事業は1969年度に産業用ボイラと並び、1972年6月に商号をタクマへ改めた。2007年に初のDBO方式でごみ処理プラントを、2014年にFIT向けのバイオマス発電プラントを納めている。燃やす対象を替えたことが買い手を自治体から発電事業者へ広げ、建てて引き渡す商売に運転管理と売電の収入を足した。
現況
売上がピークへ戻るまでに22年かかった。2026年3月期の連結売上高は1,656億円、営業利益154億円、当期純利益137億円である。2002年3月期の1,709億円から2004年3月期の951億円へ2期で半減し、戻すのに22年を要した。間には2007年3月の課徴金47億200万円の納付命令と英国の廃棄物発電プラントの手直しが重なり、2007年3月期から3期続けて当期純損失を計上している。現在は環境・エネルギー(国内)事業が売上の76%にあたる1,266億円を占め、セグメント利益186億円のうち156億円もここから出る。2025年4月にIHI汎用ボイラを、2026年4月には運転管理会社のカンエイメンテナンスを取得し、建設ではなく保守の側で売上を積む買い方に変わった。
競合
参入の難しい市場に、同じ5社が長く並んでいた。1993年3月期は売上高の68.5%をごみ焼却プラントが占め、同年3月末の受注残でも72.3%に達している。この分野は三菱重工業日立造船川崎重工業NKKとタクマの5社で7割のシェアを握り、ほとんどの自治体が事実上の指名競争入札を採るため、施工実績のない新規参入は難しかった。閉じた市場は談合の摘発とともに崩れる。栗田工業は談合の摘発を受けて官公需の建設工事から全面撤退した。同じ入札に並んだ日立造船は欧州と豪州の同業を買い集め、社名までカナデビアへ替えた。タクマは国内に残り、運転管理を担うハイトラスト各社を納入先ごとに置いて、2004年の長泉から2025年9月の東金まで運営会社を増やしてきた。各社が国外や民需へ散るなか自治体の発注に残ったことが、建設の受注ではなく20年単位の運営契約を積む収益へタクマを移した。
長期業績の推移 1950〜2026年
タクマ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
2002年3月期2026年3月期

創業ストーリー 40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許 (1912年〜)

創業ストーリー(1)

高取山の松の根元で得た缶水循環という着想

田熊常吉氏は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で、父の田熊豊蔵氏と母の田熊ふゆ氏の末子に生まれた[1]。11歳で誠明小学校の初等第1級に編入したが、教課が易し過ぎるとして2学期で退学し、隣部落の庚斎塾で国学と陽明学の薫陶を受けた[2]。14歳の夏、京都で小学教員を務めていた兄の田熊萬蔵氏に伴われて郷里を出たものの、開業医宅の書生生活は性に合わず、2年目に神戸へ移って貿易画の図案意匠の賃仕事に就いた[3]。1896年には山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが、日ならずして失敗した[4]。公証役場の書記や材木商の勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河の近くに材木屋を開いた[5]。高知県の官業材払い下げで一もうけする目算は、日露戦争による木材の値下がりと同業とのもめごとで崩れ、廃業に追い込まれた[6]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った

1905年7月に朝鮮へ渡った田熊常吉氏が1カ月ぶりに帰神すると、妻の村上カメ氏は心労と流産で他界し、2人の娘も引き取られ、一家は離散していた[7]。播村くま氏と再婚したのは1907年5月である[8]。1909年10月、和歌山で牛に代わる動力の汽罐を考案していた岡本弥三郎氏に会い、製材機用の軽便な汽罐の製作を頼んだ[9]。翌1910年5月、自宅に三丸商会の看板を掲げ、技術は岡本弥三郎氏、資金と経営は田熊常吉氏が受け持ち岡本式汽罐を売り出し、製材所や紡績工場へ8台を据え付けた[10]。ところが据付先で故障が続出し、代金の回収どころか損害賠償の訴えも起こり、岡本弥三郎氏は和歌山へ帰ったまま戻らなかった[11]。播村家の財産を使い果たした田熊常吉氏は1911年5月5日、朝鮮へ渡る基隆丸の甲板で欄干に手をかけたが、月光に動きを止めた[12]。帰国後は仲介者を得て岡本式汽罐の権利を岡本弥三郎氏へ売り渡し、その代金で債権者の了解を取りつけた[13]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた

1912年6月、40歳の田熊常吉氏は汽罐の発明を自分の天職と定めた[14]。専門書を数冊買い求めても用語すら分からなかったが、東京帝国大学教授の内丸最一郎博士の著書『蒸汽罐』で原理をつかみ、各所の据付缶を見て歩いて技師や汽罐士に疑問点を尋ねた[15]。債権者が玄関に居座る自宅では考案が進まず、図面と鉛筆とコンパスを持って標高330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松『神撫の松』の根元で図面を書き改めた[16]。思索が行き詰まってまどろんだとき、缶水の循環こそ汽罐の生命であり、従来の汽罐には心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全だと直感した[17]。自宅では妻の播村くま氏を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶を炭火にかけて水と蒸気の動きを観察し、集水器と降水管の構想をまとめあげた[18]。1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に取り付けた模型をなべに入れ、不完全ながら缶水循環の有様をとらえた[19]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた
創業ストーリー(2)

高田商会との決別と汽車製造への特許譲渡

神戸の乾鉄工所へ発注した1号缶は1912年10月3日、汽罐士の滝口治郎作氏の手で点火し、火床を3分の2に縮めたところ蒸気と圧力が正常な状態で保たれた[20]。田熊常吉氏はこれをタクマ式汽罐として1912年10月6日、義理の娘である播村春江氏の名義で特許を出願し、債権者による差し押さえに備えた[21]。出願は1913年4月9日、特許第23759号として登録された[22]。明治末から昭和初期にかけて国内で使われたボイラはほとんどが輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式が多かった[23]。田熊常吉氏は評判の悪い関西を避け、郷里出身の西谷金蔵代議士と兄の田熊萬蔵氏の支援で東京に店を置いたが、見せる実物がなく商談は進まず、事務所は経費倒れで閉鎖に追い込まれた[24]。乾鉄工所が発明者に無断で1号缶を改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も残らなかった[25]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [20]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [21]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [22]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [23]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった

1914年、田熊常吉氏は三井物産神戸支店の河村与六機械係主任を訪ねて名義の借用を頼み込み、平尾鉄工所に汽罐の製作を引き受けさせた[26]。資金は三十八銀行支配人の藤田好三郎氏が承諾し、両者の支援を得た田熊常吉氏は1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を構えた[27]。同年秋には本郷弥生町に東京帝国大学教授の加茂正雄博士を訪ね、集水器と降水管の構造が非凡だとの評価を得た[28]。加茂正雄博士に意見を求めた機械商社の高田商会は、担当部長と技師を高砂へ派遣して伊藤製油所据付けの84馬力缶を調べたうえ、1914年11月21日、向こう2年間、販売高に応じて特許料を支払う契約を結んだ[29]。1915年1月には木村製薬所へ納めた110馬力の動力用汽罐が上々の成績で運転に入り、その前面に初めてタクマ式汽罐の銘を打った[30]。同年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会では実物大の汽罐を出品し、金牌を受けた[31]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた

発明以来の借金が3万円近くに積もり、娘名義の特許権も差し押さえられかねず、1915年7月、藤田好三郎氏、伊藤長蔵氏、田熊常吉氏の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償の1万円で負債を整理した[32]。第1次大戦の好況で満州や朝鮮からも注文が殺到したが、高田商会は集水器と降水管をブリキ製とし、町のブリキ屋につくらせた[33]。水あか掃除で壊れる苦情が相次ぎ、満州で粗悪汽罐の標本に擬せられた[34]。契約更改で田熊常吉氏は一時金と特許料の最低保証を求めたが高田商会が拒み、1918年6月に決別して汽罐の設計・製造を汽車製造へ移した[35]。1919年7月から44日間、京都帝国大学の浜部源次郎博士が山陽紡績でバブコック汽罐との比較試験を行い、タクマ式の熱効率の高さを確かめた[36]。戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産すると、田熊常吉氏は1920年8月5日、特許権と商標権など一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となった[37]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [20]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [21]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [22]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [23]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった
創業ストーリー(3)

1936年に興したつねきちボイラの研究所

汽車製造でのタクマ式汽罐の製作は、ある炭鉱向けが外国汽罐の設計を模倣するなど、田熊常吉氏の意図から外れていた[38]。汽罐部門の拡充を促すため、田熊常吉氏は鉄道省大竹発電所に据えた自信作の能力試験を企て、1922年の年賀状で伝熱面1平方フィート当たり9封度の蒸発量と汽罐本体82%の熱効率を予告した[39]。東京帝国大学は学術研究として試験を決め、工学部教授の竹村勘忍博士を試験委員長に、鉄道省と汽車製造からも技師を加えて1922年8月8日から28日まで伊豆で試験に当たった[40]。暴風雨で試験班が旅館に足止めされる中断をはさみながら、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は予告した数値を満たして世界記録を生んだ[41]。結果は同年10月に東京で開かれた機械学会創立25周年記念会で竹村勘忍博士らが発表した[42]。タクマ式汽罐は、大学以下各学校の教科書に掲げられた[43]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した

1924年春、汽車製造は南満州電気の新京発電所の汽罐増設を聞き社員を派遣したが、高田商会時代の粗製乱造でタクマ式の評判は満州でなお悪かった[44]。田熊常吉氏が現地で2基のうち1基の採用を頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長の助言もあってタクマ式1基が英国製と並んで据えられた[45]。1927年8月の旅順工科大学教授ら立会いの比較試験でタクマ式は熱効率87%を記録し、バブコックセクショナル式を圧倒した[46]。台湾では1926年に新高製糖彰化工場が1基を採用し、田熊常吉氏は台北市から屏東市まで製糖各社を訪ねた[47]。サトウキビの絞りかすのバガスをたく汽罐が予期以上の成績を上げ、1930年から1932年に台湾製糖明治製糖大日本製糖、塩水港製糖から数十基を受注した[48]。1928年11月10日、田熊常吉氏は殖産興業の功績で勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には日本10大発明家の一人として宮中で午餐を賜った[49]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った

汽車製造の年産額が1000万円に迫っても、同社は機関車・橋梁・鉄道用品の製造を本業とし、タクマ式は余裕がある範囲にとどめる方針を崩さなかった[50]。1935年春、台湾出張から帰宅した田熊常吉氏は急性盲腸炎で入院し、病床で自ら解決する決意を固めた[51]。1936年6月1日、田熊常吉氏は神戸の自宅に個人経営の田熊常吉研究所を創立し、木村製薬所据付けの汽罐をモデルに新型を設計した[52]。旧型にくらべ鋼材使用量はほぼ半分、燃料は30%以上の節約、起蒸時間は約3分の1で、タクマ式の商標権が汽車製造にあるため高級小型つねきちボイラと名付けた[53]。事業化では安宅商会に一手販売を委託して7万円を借り受け、1936年7月に同商会内で事業を始めた[54]。鋼材の入手難で自営工場が要り、1937年7月1日、資本金50万円で株式会社田熊研究所を創立し、田熊常吉氏と安宅商会が5,000株ずつを持って本社と工場を尼崎市浜字海地に置いた[55]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した
創業ストーリー(4)

東洋一を目指した播磨工場と艦本式22号缶

1937年9月に公布された統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)で会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた[56]。つねきち小型ボイラの受注は1936年の14缶から1937年に88缶へ激増しており、研究所の生産能力では到底さばけなかった[57]。そこで創業者の田熊常吉氏は、研究所を拡充する代わりに別会社を興す道を選んだ。軍需生産に欠かせないボイラを事業目的に掲げれば、資金も資材も最優先の甲種産業として優遇されると見込んだためである[58]。1938年2月20日には第1回設立発起人会を開き、資本金300万円を田熊常吉氏側と安宅商会側で折半し、第1回払い込みを4分の1の75万円と決めた[59]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [56]1937年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布で会社の設立・増資・合併が許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [57]つねきち小型ボイラの受注・製作数は1936年の14缶から1937年は88缶へ激増し、研究所の生産能力では対応しきれなかった
    • [58]田熊常吉は研究所とは別に田熊汽罐製造を創立することとした。軍需生産に欠かせないボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考えたため
    • [59]1938年2月20日に第1回設立発起人会を開き、資本金を田熊・安宅折半で300万円(1株50円、6万株)、第1回払い込みを4分の1の75万円とした

新会社には仁寿生命保険の下郷伝平社長が加わった[60]。貴族院議員も務めた下郷伝平社長の協力もあって、設立計画は申請から1カ月で認可された[61]。1938年6月10日、尼崎市浜の田熊研究所で創立総会を開き、代表取締役社長に田熊常吉氏を選んで田熊汽罐製造が発足した[62]。田熊常吉氏は『汽罐報国』の旗印を掲げ、田熊汽罐製造はこの日を会社の創立記念日と定めた[63]。同年12月31日付で資本金50万円の田熊研究所を吸収合併して資本金を350万円とし、ボイラの研究・製作・販売の業務すべてを継承した[64]。1939年2月には神戸市林田区の北村鋳工所を買収して神戸工場とし、ボイラ付属機器の鋳物類の製作を始めた[65]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [60]新会社設立には仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加した
    • [61]下郷伝平は貴族院議員も務めた江州の富豪で政財界に名を知られ、その協力もあって新会社設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [62]1938年6月10日、尼崎市浜字海地15・16番地の田熊研究所で創立総会を開き、代表取締役社長田熊常吉以下の役員を選任して田熊汽罐製造株式会社が発足した
    • [63]田熊常吉は「汽缶報国」の旗印を掲げ、以来この日を会社創立記念日としている
    • [64]1938年12月31日付で資本金50万円の田熊研究所を吸収合併して資本金350万円とし、研究所のボイラ研究・製作・販売の業務すべてを継承した
    • [65]1939年2月、神戸市林田区二番町の北村鋳工所を買収して神戸工場とし、ボイラ付属機器の鋳物類の製作を開始した

播磨工場の用地は、兵庫県加古郡荒井村で1939年4月までに9万2400平方メートルの買収手続きを終えた[66]。ところが建屋に使う鋼材について鉄鋼工作物建造許可を申請すると不許可となり、茶谷保三郎副社長らが陳情を重ねて1940年5月28日にようやく許可を得た[67]。工場は1942年12月5日に軍官民の関係者を招いて竣工式と始業式を挙げ、即日稼働に入った[68]。1942年7月に海軍艦政本部が国内ボイラメーカーへ命じた舶用缶の競争設計では田熊汽罐製造の設計が採られ、海軍省は1943年8月にこれを戦時標準船用舶用缶として正式に採用し、艦本式22号缶と命名した[69]。播磨工場は直ちに量産へ移り、1943年7月に海軍の管理工場へ指定されたのちは、徴用工と動員学徒を含む総勢1300人が二交代制で生産にあたった[70]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [66]兵庫県加古郡荒井村古浜の新工場敷地は1939年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [67]工場建屋の建設にあたり鉄鋼工作物建造許可を申請したところ不許可となり、茶谷保三郎副社長らの陳情を重ねた結果、1940年5月28日に建造許可が下りた
    • [68]1942年12月5日、播磨工場に軍官民の関係者多数を招いて竣工式を挙げ、始業式を行って同工場は即日稼働した
    • [69]1942年7月に艦政本部が国内ボイラメーカーに舶用缶の競争設計を命じ、田熊汽罐製造の設計が採用され、海軍省は1943年8月にこれを戦時標準船用舶用缶として正式採用し艦本式22号缶と命名した
    • [70]播磨工場は直ちに艦本式22号缶の量産に入り、1943年7月に海軍の管理工場に指定された。徴用工や動員学徒を加え総勢1300人の従業員が二交代制で生産に従事した
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [56]1937年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布で会社の設立・増資・合併が許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [57]つねきち小型ボイラの受注・製作数は1936年の14缶から1937年は88缶へ激増し、研究所の生産能力では対応しきれなかった
    • [58]田熊常吉は研究所とは別に田熊汽罐製造を創立することとした。軍需生産に欠かせないボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考えたため
    • [59]1938年2月20日に第1回設立発起人会を開き、資本金を田熊・安宅折半で300万円(1株50円、6万株)、第1回払い込みを4分の1の75万円とした
    • [60]新会社設立には仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加した
    • [61]下郷伝平は貴族院議員も務めた江州の富豪で政財界に名を知られ、その協力もあって新会社設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [62]1938年6月10日、尼崎市浜字海地15・16番地の田熊研究所で創立総会を開き、代表取締役社長田熊常吉以下の役員を選任して田熊汽罐製造株式会社が発足した
    • [63]田熊常吉は「汽缶報国」の旗印を掲げ、以来この日を会社創立記念日としている
    • [64]1938年12月31日付で資本金50万円の田熊研究所を吸収合併して資本金350万円とし、研究所のボイラ研究・製作・販売の業務すべてを継承した
    • [65]1939年2月、神戸市林田区二番町の北村鋳工所を買収して神戸工場とし、ボイラ付属機器の鋳物類の製作を開始した
    • [66]兵庫県加古郡荒井村古浜の新工場敷地は1939年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [67]工場建屋の建設にあたり鉄鋼工作物建造許可を申請したところ不許可となり、茶谷保三郎副社長らの陳情を重ねた結果、1940年5月28日に建造許可が下りた
    • [68]1942年12月5日、播磨工場に軍官民の関係者多数を招いて竣工式を挙げ、始業式を行って同工場は即日稼働した
    • [69]1942年7月に艦政本部が国内ボイラメーカーに舶用缶の競争設計を命じ、田熊汽罐製造の設計が採用され、海軍省は1943年8月にこれを戦時標準船用舶用缶として正式採用し艦本式22号缶と命名した
    • [70]播磨工場は直ちに艦本式22号缶の量産に入り、1943年7月に海軍の管理工場に指定された。徴用工や動員学徒を加え総勢1300人の従業員が二交代制で生産に従事した
創業ストーリー(5)

全従業員解雇からの再開と進駐軍向けの改造

1945年3月16日と17日の神戸大空襲で、神戸市葺合区にあった本社事務所と神戸工場は跡形もなく全焼した[71]。6月15日の阪神大空襲では尼崎工場も焼け、鉄骨と機械類を残して木造の建物を失った[72]。この空襲は日中で、退避の指示も適切だったため、約500人の従業員にけが人は出なかった[73]。田熊汽罐製造は無傷で残った播磨工場に生産を集め、1946年2月には本店も同地へ移した[74]。さらに1946年8月11日に政府が戦時補償の打切りを決めたため、軍へ納入したボイラの代金など約2,600万円が回収できなくなった[75]。この金額は当時の払込済資本金1,100万円の2倍を超えた[76]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [71]1945年3月16・17両日の神戸大空襲で、神戸市葺合区磯辺通の本社事務所と神戸工場が跡形もなく全焼した
    • [72]尼崎工場は1945年6月15日の阪神大空襲で被災し、鉄骨部と機械類を残して木造の建物が全焼した
    • [73]空襲が日中であり退避などの指示が適切であったため、約500人の従業員にけが人は出なかった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [74]事業のすべてを無傷で残った播磨工場に集約して戦後再建をはかることとし、1946年2月には本店も同地へ移した
    • [75]1946年8月11日に政府が戦時補償打切りの方針を決定し、軍へ納入したボイラ代金など約2,600万円が回収できなくなった
    • [76]約2,600万円は当時の払込済資本金1,100万円の2倍以上にあたった

1945年12月、播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成された[77]。インフレで従業員の生計費が急騰したためである[78]。日本毛織加古川工場のストライキの余波で組合幹部が改選されると、1946年3月20日には独身者に月500円、世帯主に900円を毎月支給せよとの要求が会社へ届いた[79]。会社は、9月末まで現状を維持するか、約3カ月分の給与を退職金として払って会社を閉鎖するかの二者択一を迫り、組合執行部は後者を選んだ[80]。田熊汽罐製造は全従業員に退職金を払って解雇し、3月31日付で播磨工場を閉じた[81]。閉鎖中、志を同じくする従業員のグループが早期再開を求める決議文を会社に示し、6月1日、工場71人・事務所41人の合計112人で同工場は再発足した[82]。役員も入れ替わり、7月10日に茶谷保三郎社長ら5名が退任して、黒田仙吉氏が第4代社長に就いた[83]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [77]1945年12月、播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成された
    • [78]荒れ狂うインフレで従業員の生計費が急騰の一途をたどり、組合は組合員の生活窮迫を理由に賃金改善を強く要求した
    • [79]日本毛織加古川工場のストライキの余波で組合幹部が改選され、1946年3月20日付の要求書で独身者500円・世帯主900円の毎月支給などを通告した
    • [80]会社は、9月末まで現状を維持するか、約3カ月分の給与を退職金として提供して会社を閉鎖するかの二者択一を組合に迫り、組合執行部は後者を選んだ
    • [81]会社は退職金を支払って全従業員を解雇し、1946年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [82]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の1946年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [83]1946年7月10日、代表取締役社長茶谷保三郎ら5名の役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した

ボイラの受注が途切れ、田熊汽罐製造は大型ふろがまやおがくずだきストーブをつくって操業をつないだ[84]。1946年秋、播磨工場に積み上がっていた艦本式22号缶の在庫を米進駐軍が求めているとの情報が入り、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけた[85]。第8軍は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備に充てるとして在庫の調査を求め、支払いは日本政府の終戦処理費で行うと伝えた[86]。田熊汽罐製造は戦時に量産して滞貨となっていた22号缶を陸用に改造し、飛行場や宿舎の暖房用として納入した[87]。据付工事は千歳・三沢・横田・立川・羽田・板付など全国のキャンプで行い、1951年1月に警察予備隊が発足した前後からは各地の予備隊基地でCD型ボイラの受注も増えた[88]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [84]頼みのボイラ受注は途切れたままで、営業用の大型ふろがまやおがくずだきストーブをつくって操業を維持した
    • [85]1946年秋、工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけた
    • [86]米軍当局は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要であるとしてボイラの現在庫調査を求め、支払いは日本政府の終戦処理費で行うとの意向を示した
    • [88]進駐軍キャンプの据付工事は千歳・三沢・横田・立川・羽田・板付など全国各地で行われ、1951年1月に警察予備隊が正式発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラ受注が増えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)3編 企業の歴史「田熊汽罐製造」
    • [87]戦時に大量生産した22号缶の滞貨が駐留米軍関係者に着目され、これを陸用に改造して飛行場や宿舎の暖房用として納入した
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [71]1945年3月16・17両日の神戸大空襲で、神戸市葺合区磯辺通の本社事務所と神戸工場が跡形もなく全焼した
    • [72]尼崎工場は1945年6月15日の阪神大空襲で被災し、鉄骨部と機械類を残して木造の建物が全焼した
    • [73]空襲が日中であり退避などの指示が適切であったため、約500人の従業員にけが人は出なかった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [74]事業のすべてを無傷で残った播磨工場に集約して戦後再建をはかることとし、1946年2月には本店も同地へ移した
    • [75]1946年8月11日に政府が戦時補償打切りの方針を決定し、軍へ納入したボイラ代金など約2,600万円が回収できなくなった
    • [76]約2,600万円は当時の払込済資本金1,100万円の2倍以上にあたった
    • [77]1945年12月、播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成された
    • [78]荒れ狂うインフレで従業員の生計費が急騰の一途をたどり、組合は組合員の生活窮迫を理由に賃金改善を強く要求した
    • [79]日本毛織加古川工場のストライキの余波で組合幹部が改選され、1946年3月20日付の要求書で独身者500円・世帯主900円の毎月支給などを通告した
    • [80]会社は、9月末まで現状を維持するか、約3カ月分の給与を退職金として提供して会社を閉鎖するかの二者択一を組合に迫り、組合執行部は後者を選んだ
    • [81]会社は退職金を支払って全従業員を解雇し、1946年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [82]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の1946年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [83]1946年7月10日、代表取締役社長茶谷保三郎ら5名の役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した
    • [84]頼みのボイラ受注は途切れたままで、営業用の大型ふろがまやおがくずだきストーブをつくって操業を維持した
    • [85]1946年秋、工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけた
    • [86]米軍当局は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要であるとしてボイラの現在庫調査を求め、支払いは日本政府の終戦処理費で行うとの意向を示した
    • [88]進駐軍キャンプの据付工事は千歳・三沢・横田・立川・羽田・板付など全国各地で行われ、1951年1月に警察予備隊が正式発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラ受注が増えた
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)3編 企業の歴史「田熊汽罐製造」
    • [87]戦時に大量生産した22号缶の滞貨が駐留米軍関係者に着目され、これを陸用に改造して飛行場や宿舎の暖房用として納入した
創業ストーリー(6)

1949年の株式上場と台湾へのバガスだきボイラ

戦時補償の打切りで生じた約2,600万円の特別損失は、旧勘定の積立金と利益金、仕掛り品の評価益で補てんでき、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを経ずに処理できた[89]。1948年9月30日に未払込株式400万円を徴収することで企業再建整備計画の認可を受け、同年11月15日に新旧勘定を合併して再建整備を終えた[90]。翌1949年5月、証券取引所が再開されると、田熊汽罐製造も株式を上場した[91]。資金調達に加え、『ボイラのタクマ』の企業イメージを高める狙いがあった[92]。5月14日に大阪証券取引所、16日に東京証券取引所、7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株を上場登録し、野村証券が主幹事を務めた[93]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [89]約2,600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを講じずに処理できた
    • [90]1948年9月30日に未払込株式400万円を徴収することで企業再建整備計画の認可を受け、同年11月15日に新旧勘定を合併して再建整備を完了した
    • [91]1949年5月、証券取引所が再開された機会に株式を上場した
    • [92]上場は資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるためであった
    • [93]1949年5月14日に大阪証券取引所、16日に東京証券取引所、7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来野村証券が主幹事証券会社を務めている

1949年7月、田熊汽罐製造は戦前からのバガス燃焼装置の実績を買われ、戦後はじめて台湾へバガスだきHN型ボイラを輸出した[94]。台湾糖業公司から受注したHN-600型は、田中益三常務が自ら奔走した商談によるもので、当時の田熊汽罐製造で最大級のボイラであった[95]。この輸出は戦後の機械輸出の先陣を切り、1955年時点で十数基を数えた[96]。国内では1950年6月に始まった朝鮮動乱の特需で受注が急増し、進駐軍関係の仕事で鋼材その他の生産資材を確保していた約500名の従業員が増産にあたった[97]。1951年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益は1089万円と倍増し、配当は年10%から特別配当を含む20%へ引き上げた[98]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [94]戦前からのバガスだき実績が評価され、1949年7月、業界にさきがけて戦後はじめて台湾へバガスだきHN型ボイラを輸出した
    • [95]この商談では田中益三常務が自ら奔走し、台湾糖業公司から当時の同社最大級のボイラであるHN-600型を受注した
    • [97]1950年6月の朝鮮動乱による特需で受注が増え、進駐軍関係の仕事で鋼材その他の生産資材を十分確保していた約500名の従業員が増産に取り組んだ
    • [98]1951年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増し、配当は年10%から15%へ増やしたうえ特別配当5%を加えて20%とした
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [96]1949年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、1955年時点で十数基を数えている

本店は1950年11月30日に播磨工場から大阪市北区曽根崎の桜橋ビルへ移り、1953年4月20日には大阪市北区堂島中に新築した本社ビルへ移転した[99]。1953年8月14日、高齢と病気を理由に田熊常吉会長が退き、黒田仙吉社長が会長へ、田中益三氏が第5代社長へそれぞれ就いた[100]。田中益三社長は大阪高等工業学校機械科を出て汽車製造に入り、1937年に田熊研究所へ移ってタクマ式の設計を担ってきた技術者である[101]。田熊常吉氏は同年12月22日、芦屋市呉川町の自宅で81歳の生涯を閉じ、ボイラ事業を通じた功績により従五位勲四等瑞宝章が追贈された[102]。1959年2月には米国クレイトン社とスチーム・ゼネレータについて技術契約を結んだ[103]

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [99]1950年11月30日に本店を播磨工場から大阪市北区曽根崎の桜橋ビルへ移し、1953年4月20日に大阪市北区堂島中1丁目16へ新築した本社ビルへ移転した
    • [100]1953年8月14日、健康を害し高齢であった田熊常吉が取締役会長を退き、黒田仙吉社長が会長に、田中益三が第5代社長に就任した
    • [101]田中益三は1919年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、1937年に田熊研究所へ転じ、タクマ式の設計を担当した
    • [102]田熊常吉は1953年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81歳。ボイラ事業を通じ産業の発展に寄与した功績により従五位勲四等瑞宝章が追贈された
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「田熊汽罐製造」
    • [103]1959年2月、米国クレイトン社とスチーム・ゼネレータについて技術契約を締結した
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [89]約2,600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを講じずに処理できた
    • [90]1948年9月30日に未払込株式400万円を徴収することで企業再建整備計画の認可を受け、同年11月15日に新旧勘定を合併して再建整備を完了した
    • [91]1949年5月、証券取引所が再開された機会に株式を上場した
    • [92]上場は資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるためであった
    • [93]1949年5月14日に大阪証券取引所、16日に東京証券取引所、7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来野村証券が主幹事証券会社を務めている
    • [94]戦前からのバガスだき実績が評価され、1949年7月、業界にさきがけて戦後はじめて台湾へバガスだきHN型ボイラを輸出した
    • [95]この商談では田中益三常務が自ら奔走し、台湾糖業公司から当時の同社最大級のボイラであるHN-600型を受注した
    • [97]1950年6月の朝鮮動乱による特需で受注が増え、進駐軍関係の仕事で鋼材その他の生産資材を十分確保していた約500名の従業員が増産に取り組んだ
    • [98]1951年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増し、配当は年10%から15%へ増やしたうえ特別配当5%を加えて20%とした
    • [99]1950年11月30日に本店を播磨工場から大阪市北区曽根崎の桜橋ビルへ移し、1953年4月20日に大阪市北区堂島中1丁目16へ新築した本社ビルへ移転した
    • [100]1953年8月14日、健康を害し高齢であった田熊常吉が取締役会長を退き、黒田仙吉社長が会長に、田中益三が第5代社長に就任した
    • [101]田中益三は1919年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、1937年に田熊研究所へ転じ、タクマ式の設計を担当した
    • [102]田熊常吉は1953年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81歳。ボイラ事業を通じ産業の発展に寄与した功績により従五位勲四等瑞宝章が追贈された
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [96]1949年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、1955年時点で十数基を数えている
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「田熊汽罐製造」
    • [103]1959年2月、米国クレイトン社とスチーム・ゼネレータについて技術契約を締結した

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沿革年表 1912〜2025年

タクマの沿革1912〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1912〜1937年40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許創業者の田熊常吉氏によるタクマ式汽罐の発明★★
つねきちボイラの設計・製作開始
1938〜1960年汽罐報国を掲げた尼崎の新会社と、播磨工場の閉鎖兵庫県尼崎市に田熊汽罐製造を設立★★★
田熊研究所の吸収合併と尼崎工場の操業開始
播磨工場の操業開始
東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場
クレイトン蒸汽発生機の国産第1号罐の完成
1961〜1988年大阪市住吉工場から始まったごみ焼却プラント京都工場の操業開始
環境衛生設備の製造・設計・施工を事業目的に追加★★
日本機工の業務継承による水処理分野への参入★★
日本初の全連続機械式ごみ焼却プラントの納入★★
タクマに商号変更★★
国内初の熱回収ボイラ付き下水汚泥焼却炉の納入★★★
初の粗大ごみ破砕選別プラントの納入★★
世界初の真空式温水発生機バコティンヒーターの開発★★
初の海外向けごみ焼却プラントの納入★★★
台湾台北市に子会社の台湾田熊を設立
1989〜2025年売上高1,709億円のごみ処理官需から運営受託へ兵庫県尼崎市への本社機能の集約
荏原ボイラの株式取得★★
手島肇初のDBO方式によるごみ処理プラントの納入★★★
手島肇株式交換による日本サーモエナーなど3社の完全子会社化★★
加藤隆昭初のFIT制度向けバイオマス発電プラントの納入★★★
南條博昭東京証券取引所プライム市場に移行
南條博昭播磨新工場の稼働開始★★
濵田州朗IHI汎用ボイラの株式取得★★
出典・参考 8件
出典・参考
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)3編 企業の歴史「田熊汽罐製造」
  • ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「田熊汽罐製造」

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