田熊常吉氏は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で、父の田熊豊蔵氏と母の田熊ふゆ氏の末子に生まれた。隣部落の庚斎塾で国学と陽明学の教えを受けたのは、11歳で初等第1級に編入した誠明小学校を、授業が易し過ぎるとして2学期で辞めたあとである。14歳の夏には、京都で小学教員をしていた兄の田熊萬蔵氏に連れられて故郷を離れた。開業医の家での書生暮らしは肌に合わず、2年目には神戸に移り、貿易画の図案意匠を請け負う賃仕事を始めた。1896年に設立した山陰物産では、衰えつつあった木綿に替わる商品として麦稈真田の輸出入を手がけたが、ほどなく行き詰まった。公証役場の書記、材木商の店員と職を移り、1903年6月、31歳のときに兵庫運河のそばで材木屋を構えた。高知県が払い下げる官業材で一もうけするはずの見込みは、日露戦争で木材相場が下がったことと同業者との揉め事で外れ、店をたたむことになった。
1905年7月に朝鮮へ渡った田熊常吉氏が1カ月ぶりに帰神すると、妻の村上カメ氏は心労と流産で他界し、2人の娘も引き取られ、一家は離散していた。播村くま氏と再婚したのは1907年5月である。1909年10月、和歌山で牛に代わる動力の汽罐を考案していた岡本弥三郎氏に会い、製材機用の軽便な汽罐の製作を頼んだ。翌1910年5月、自宅に三丸商会の看板を掲げ、技術は岡本弥三郎氏、資金と経営は田熊常吉氏が受け持ち岡本式汽罐を売り出し、製材所や紡績工場へ8台を据え付けた。ところが据付先で故障が続出し、代金の回収どころか損害賠償の訴えも起こり、岡本弥三郎氏は和歌山へ帰ったまま戻らなかった。播村家の財産を使い果たした田熊常吉氏は1911年5月5日、朝鮮へ渡る基隆丸の甲板で欄干に手をかけたが、月光に動きを止めた。帰国後は仲介者を得て岡本式汽罐の権利を岡本弥三郎氏へ売り渡し、その代金で債権者の了解を取りつけた。
東京帝国大学教授の内丸最一郎博士が著した"蒸汽罐"は、田熊常吉氏に汽罐の原理を理解させた本だった。1912年6月、40歳で汽罐の発明を天職と決めた彼は、専門書を数冊求めても用語さえわからず、この本を足がかりに各地の据付缶を見学し、技師や汽罐士に疑問をぶつけた。債権者が玄関から動かない家では考えがまとまらず、図面と鉛筆、コンパスを携えて標高330メートルの高取山に登った。頂上の高取神社の裏に立つ"神撫の松"という老松の下で、図面を描き直した。考えに詰まってうとうとした折、彼はひらめいた。汽罐の命は缶水の循環にあり、これまでの汽罐は心臓にあたる器官を欠き、動脈にあたる部分も十分でない、と。家では妻の播村くま氏が手伝い、台所の鍋とガラスの燗瓶を炭火で熱して水と蒸気の動きを見届けるうちに、集水器と降水管という仕組みの着想が固まった。1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に模型を付けて鍋に沈めると、完全ではないものの缶水が循環する様子を捉えることができた。
明治末から昭和初期まで、国内で動いていたボイラの大半は輸入品で、それも効率に劣る煙管式が多かった。神戸の乾鉄工所に発注した1号缶は、1912年10月3日に汽罐士の滝口治郎作氏が火を入れ、火床を3分の2まで縮めると、蒸気も圧力も正常に保たれた。田熊常吉氏はこれをタクマ式汽罐として1912年10月6日に特許を出願し、債権者に押さえられないよう、名義は義理の娘の播村春江氏とした。登録は1913年4月9日、特許第23759号である。東京に店を出したのは評判の悪い関西を避けたためで、郷里出身の西谷金蔵代議士と兄の田熊萬蔵氏が後押しした。だが見せられる実物がないため商談はまとまらず、事務所は経費がかさんで閉じるほかなかった。乾鉄工所が発明者に断りなく1号缶に手を加えたので、真のタクマ式汽罐は1台も残らなかった。
1914年、田熊常吉氏は三井物産神戸支店の河村与六機械係主任を訪ねて名義の借用を頼み込み、平尾鉄工所に汽罐の製作を引き受けさせた。資金は三十八銀行支配人の藤田好三郎氏が承諾し、両者の支援を得た田熊常吉氏は1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を構えた。同年秋には本郷弥生町に東京帝国大学教授の加茂正雄博士を訪ね、集水器と降水管の構造が非凡だとの評価を得た。加茂正雄博士に意見を求めた機械商社の高田商会は、担当部長と技師を高砂へ派遣して伊藤製油所据付けの84馬力缶を調べたうえ、1914年11月21日、向こう2年間、販売高に応じて特許料を支払う契約を締結した。1915年1月には木村製薬所へ納めた110馬力の動力用汽罐が上々の成績で運転に入り、その前面に初めてタクマ式汽罐の銘を打った。同年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会では実物大の汽罐を出品し、金牌を受けた。
1915年7月に藤田好三郎氏、伊藤長蔵氏、田熊常吉氏が出資してタクマ式汽罐合資会社が設けられた背景には、発明以来3万円近くまで膨らんだ借金があり、娘名義の特許権も差し押さえを免れそうになかった。特許権を新会社へ移して受け取った1万円で、負債は片づけられた。第1次大戦の好景気で満州や朝鮮からも注文が押し寄せた一方、高田商会は集水器と降水管の材料にブリキを使い、製作を街のブリキ職人に任せた。水あかを掃除すると壊れるという苦情が続き、満州では粗悪な汽罐の見本扱いまで受けた。1918年6月、契約の更改で一時金と特許料の最低保証を求めた田熊常吉氏の要求を高田商会がはねつけたことで両者は決別し、汽罐の設計・製造は汽車製造へ移った。1919年7月から44日間、京都帝国大学の浜部源次郎博士が山陽紡績でバブコック汽罐との比較試験を行い、タクマ式の熱効率の高さを確かめた。戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産すると、田熊常吉氏は1920年8月5日、特許権と商標権など一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となった。
汽車製造でのタクマ式汽罐の製作は、ある炭鉱向けが外国汽罐の設計を模倣するなど、田熊常吉氏の意図から外れていた。1922年の年賀状で、田熊常吉氏は伝熱面1平方フィート当たり9封度の蒸発量と、汽罐本体で82%の熱効率を出すと予告した。狙いは汽罐部門の拡充を促すことにあり、そのために鉄道省大竹発電所に据えた自信作で能力試験を行うと企てた。東京帝国大学はこれを学術研究として扱うと決め、工学部教授の竹村勘忍博士が試験委員長を務め、鉄道省と汽車製造の技師も加わって、1922年8月8日から28日まで伊豆で試験を行った。途中、暴風雨で試験班が宿に閉じ込められて中断した。それでも8月25日以降28日までに燃焼率は着実に上がり、予告の数値を達成して世界記録となった。成果は同年10月、東京での機械学会創立25周年記念会において竹村勘忍博士らが報告した。大学をはじめ各学校の教科書にも、タクマ式汽罐が載るようになった。
1924年春、汽車製造は南満州電気の新京発電所の汽罐増設を聞き社員を派遣したが、高田商会時代の粗製乱造でタクマ式の評判は満州でなお悪かった。田熊常吉氏が現地で2基のうち1基の採用を頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長の助言もあってタクマ式1基が英国製と並んで据えられた。1927年8月の旅順工科大学教授ら立会いの比較試験でタクマ式は熱効率87%を記録し、バブコックセクショナル式を圧倒した。台湾では1926年に新高製糖彰化工場が1基を採用し、田熊常吉氏は台北市から屏東市まで製糖各社を訪ねた。サトウキビの絞りかすのバガスをたく汽罐が予期以上の成績を上げ、1930年から1932年に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖から数十基を受注した。1928年11月10日、田熊常吉氏は殖産興業の功績で勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には日本10大発明家の一人として宮中で午餐を賜った。
汽車製造の年産額が1000万円に迫っても、同社は機関車・橋梁・鉄道用品の製造を本業とし、タクマ式は余裕がある範囲にとどめる方針を崩さなかった。1935年春、台湾出張から帰宅した田熊常吉氏は急性盲腸炎で入院し、病床で自ら解決する決意を固めた。1936年6月1日、田熊常吉氏は神戸の自宅に個人経営の田熊常吉研究所を創立し、木村製薬所据付けの汽罐をモデルに新型を設計した。旧型にくらべ鋼材使用量はほぼ半分、燃料は30%以上の節約、起蒸時間は約3分の1で、タクマ式の商標権が汽車製造にあるため高級小型つねきちボイラと名付けた。事業化では安宅商会に一手販売を委託して7万円を借り受け、1936年7月に同商会内で事業を始めた。鋼材の入手難で自営工場が要り、1937年7月1日、資本金50万円で株式会社田熊研究所を創立し、田熊常吉氏と安宅商会が5,000株ずつを持って本社と工場を尼崎市浜字海地に置いた。
田熊汽罐製造という会社の形は、経営者が選んだというより、外から押し込まれて決まった部分が大きい。研究所のままでは資本の増加が倍額までしか認められないから別会社を興し、軍需に直結する事業目的を掲げれば資材も資金も優先されるから、そこへ賭けた。工場敷地が細長いのは陸軍が水辺の幅を制限したためであり、建屋の鋼材使用が一度は拒まれたのも、舶用高圧缶をつくらせたい商工省の意図と申請書の中身がずれていたからだった。会社が自分で決められたのは、与えられた枠のどこへ設備を置くかだけである。そして尼崎と神戸を焼かれたとき、たまたま残ったその一点が、戦後の出発点になった。
戦後の伸びを支えたのも、自社の発明ではなかった。在庫の艦本式22号缶は進駐軍基地の暖房へ振り替えられ、朝鮮動乱と警察予備隊が受注を運んできた。創業者の死から5年ののち、会社はスイスと米国から技術を買っている。大型では発電プラント全体の保証を求められて入れず、小型では完全自動の蒸気発生機が求められていて、どちらも水管缶の延長では届かない領域だった。買った技術を播磨工場で国産化するという手順を踏んだ時点で、発明者の名を冠した会社は、発明に依存しない会社へ変わっていた。
1937年7月の日中戦争の急拡大で生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤であるボイラの需要がにわかに増大した。つねきち小型ボイラの受注・製作数は1936年の14缶から1937年は88缶へ激増し、1938年はさらに倍増した。田熊常吉氏は1936年に研究所を設立したときから新鋭設備を備えた大規模工場の建設を考えていたが、研究所の生産能力では需要に到底応じきれなかった。ところが1937年9月に公布された統制三法によって会社の設立・増資・合併は許可制となり、研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた。そこで田熊常吉氏は、軍需生産に欠かせぬボイラの生産を事業目的に掲げた別会社であれば臨時資金調整法の甲種産業として資金も資材も優先されると読み、茶谷保三郎氏、藤田好三郎氏と諮って新会社の設立へ踏み切った。資本金は300万円と定めた。
新会社の資金と販路は、商社が引き受けた。田熊常吉研究所は設立まもない1936年7月以降、安宅商会から資金援助を受けてボイラの一手販売契約を結んでいたが、1938年6月10日の創立にあたり同商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的な支援を引き受け、その見返りに製品と据付け工事の一手販売権を握った。生保界の名門である仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力したこともあり、設立申請はわずか1カ月で認可された。同年12月には従来ボイラの製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併して資本金を350万円とし、あわせて東京出張所を開設した。1939年3月31日には据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事を資本金18万円で設立し、研究・製作・据付けを別会社に分ける三位一体の体制を敷いた。つねきちボイラの受注は1938年160缶、1939年241缶へ伸びた。
用地の買収は1939年4月に9万2400平方メートルで手続きが済んだが、陸軍当局は水際に沿って100メートルを超える幅の敷地を持つことを許さず、工場の敷地は細く長い形になるほかなかった。設立と同時に工事の始まった播磨工場は、こうして軍や官庁の事情に形を左右された。次の壁は建屋の鉄鋼工作物築造許可で、申請は認められなかった。原因を探ったのは茶谷保三郎副社長らの陳情と加茂正雄博士の働きかけである。わかったのは書類の食い違いだった。国内に製作例のない舶用高圧缶の製造を田熊汽罐製造に任せる狙いから、商工省は工場設置願を即座に認可していたのに、鉄鋼使用願の中身はつねきちA型の説明で埋まっていた。説明を重ねた末、1940年5月28日に鋼材600トンでの建造が許され、1942年12月5日に完成した播磨工場はその日から動き出した。設備をどこに置くかを決めたのは需要ではなく統制だった。
創立から保管してきた重要文書の大半は、書庫とともに焼失した。1945年6月の空襲で、尼崎と神戸の両工場と本社事務所が次々に失われ、被害を受けずに済んだのは主力の播磨工場だけだった。田熊汽罐製造は事業を丸ごと播磨工場に集め、そこから戦後の立て直しを図ると決め、1946年2月には本店もそちらへ移した。ただ、鉱工業生産は戦前の2割程度にとどまり、鉄鋼や石炭といった基礎産業がひどく落ち込んでいたため、ボイラの需要が戻る見込みはなかった。終戦直後に得た受注は、鉄道省機械課に頼み込んで1946年2月に取ったたて型缶4缶ほどにすぎない。徴用工と動員学徒が解散した後も900人近い従業員を抱え、依頼があれば手持ちの材料でフライパン、クワ、粉ひき機をつくって糊口をしのいだ。1945年12月に播磨工場で結成された労働組合は、荒れ狂うインフレを背景に賃金改善を強く求めるようになった。
1946年3月に労働組合が突きつけた要求に対し、会社は9月末までの現状維持か、3カ月分の給与を退職金として支払ったうえでの閉鎖かという二者択一を迫った。組合執行部は後者を選び、3月31日付で全従業員を解雇して播磨工場は閉鎖された。閉鎖中、茶谷保三郎社長ら役員と幹部は再開の方途を練り、担い手は技能と経験を持つ集団でなくてはならないと痛感していた。同じ志を持つ従業員グループが決議文を掲げて早期再開を訴え、工場は2カ月後の1946年6月1日、工場71人・事務所41人の計112人という規模で再発足した。同年7月10日には黒田仙吉氏が第4代社長に就いた。再開直後の1946年8月期の売上高は210万円、当期は29万円の損失であった。
動き出した工場を救ったのは在庫であった。1946年秋、戦時に大量生産して播磨工場に滞留していた艦本式22号缶を米進駐軍が求めているとの情報が入り、三菱商事横浜支店の働きかけで米第8軍司令部との話がまとまった。司令部の意向は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備であり、代金は日本政府の終戦処理費から支払われた。石炭手だきの舶用缶は陸用のストーカだきへ改造され、1947年から図面作成と製作が並行して進んだ。一方、1946年8月の戦時補償打切りで軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは払込済資本金1100万円の2倍を超える痛手であった。旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんして資本金の切捨てを避け、1948年11月15日に新旧勘定を併合した。軍需で積み上げた仕掛りが、そのまま占領期の需要へ横滑りした。
ボイラのタクマという企業イメージを引き上げることは、資金の調達と並ぶ上場の狙いであり、この規模の会社としては異例の選択だった。田熊汽罐製造は、証券取引所が再開された1949年5月にこの機会をとらえて株式を上場した。登録は5月14日に大阪、16日に東京、少し遅れて7月4日に神戸で行い、株数は合計30万株、主幹事は野村証券が務めた。1950年6月の朝鮮動乱に次いで、翌1951年1月に警察予備隊が発足した。北海道をはじめ各地の基地向けにCD型ボイラの注文が伸び、1951年3月期の売上高は前期のおよそ10倍の1億7807万円に跳ね上がった。それでも運転資金は銀行借入れに頼り、1951年9月末の借入金は1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた。増資を重ね、資本金は4年半で8倍強の2億6000万円となった。
1953年8月14日、田熊常吉氏は取締役会長を退き、黒田仙吉氏が会長に、田中益三氏が第5代社長に就いた。田中益三氏は1919年に大阪高等工業学校機械科を卒えて汽車製造に入り、1937年に田熊研究所へ転じ、田熊汽罐製造の創立時から研究部を担当した技術者である。同じ年の12月22日午前2時5分、田熊常吉氏は芦屋市呉川町の自宅で81歳の生涯を閉じた。1955年3月期の売上高は5億7600万円、生産高は年産300缶を超え、据え付けた総数は2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達していた。製品は大型・中型の陸上ボイラのほかダウサム、スメルター、廃熱、ソーダ回収炉などの特殊缶と舶用缶に広がり、1949年には戦後の機械輸出の先頭を切って台湾へ自家発電用ボイラを輸出していた。
発電用の大型ボイラには、自社技術だけでは入れなかった。1950年代の欧米では蒸気圧力250キログラム毎平方センチ、温度600度を超える発電用ボイラが実用に運転されていたのに対し、自家発電用ボイラの客先は蒸気タービンや発電機を含む発電プラント全体の保証を要求するため、国内に納入実績のない田熊汽罐製造の参入は甚だ困難であった。強制貫流ボイラは大型ドラムを使わない方式で、これなら工場を広げずとも大型・高温・高圧の分野に踏み込めた。まず蒸発量毎時100トン程度の産業用まで事業を伸ばすと決め、スイスのスルザー・ブラザーズ社に技術提携を打診した。相手は事業用火力発電への参入を主な狙いとしていたため、最初は気乗りしなかった。それでも交渉の結果、1958年6月の調印で、蒸発量毎時150トンまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権を得た。技術援助契約を結んだのは1959年6月である。
米国クレイトン社が1931年に考案した蒸気発生機は、1954年ごろから日本にも輸入されるようになった。名古屋国立病院での運転ぶりが好評だという知らせを本社に届けたのは名古屋出張所である。小型ボイラでは完全自動化をめぐって競争が進んでいた。強制貫流ボイラの研究をすでに手がけていた田熊汽罐製造は、特別研究班を組み、宮城酪農に入ったW-100型で性能を試して機能を確認した。1957年5月には研究所と技術課の責任者がカリフォルニア州エルモンテに送られ、米国内の販売・サービスの仕組みまで調べた。クレイトン社にとっても、日本は輸入の管理が厳しく部品の補充に手間取る市場で、技術協力の相手を探していた。交渉がまとまり製造・販売権を得たのは1959年2月である。この間の1957年10月には台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラの技術輸出援助契約を結び、1960年3月期には売上高11億2579万円、従業員681人の規模となった。発明で立った会社は、買った技術を播磨工場で国産化する会社へ移っていた。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1937年40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許 | 創業者の田熊常吉氏によるタクマ式汽罐の発明 | ★★ | ||
| つねきちボイラの設計・製作開始 | ★ | |||
| 1938〜1961年尼崎での田熊汽罐製造の設立と播磨工場、戦後の上場とクレイトン蒸汽発生機 | 兵庫県尼崎市に田熊汽罐製造を設立 | ★★★ | ||
| 田熊研究所の吸収合併と尼崎工場の操業開始 | ★ | |||
| 播磨工場の操業開始 | ★ | |||
| 東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| クレイトン蒸汽発生機の国産第1号罐の完成 | ★ | |||
| 京都工場の操業開始 | ★ | |||
| 1962〜1994年水処理参入と日本初の全連続ごみ焼却プラント、タクマへの改称と海外初受注 | 環境衛生設備の製造・設計・施工を事業目的に追加 | ★★ | ||
| 日本機工の業務継承による水処理分野への参入 | ★★ | |||
| 日本初の全連続機械式ごみ焼却プラントの納入 | ★★ | |||
| タクマに商号変更 | ★★ | |||
| 国内初の熱回収ボイラ付き下水汚泥焼却炉の納入 | ★★★ | |||
| 初の粗大ごみ破砕選別プラントの納入 | ★★ | |||
| 世界初の真空式温水発生機バコティンヒーターの開発 | ★★ | |||
| 初の海外向けごみ焼却プラントの納入 | ★★★ | |||
| 台湾台北市に子会社の台湾田熊を設立 | ★ | |||
| 1995〜2026年本社の尼崎集約と荏原ボイラ取得、DBO方式とバイオマス発電プラント | 兵庫県尼崎市への本社機能の集約 | ★ | ||
| 荏原ボイラの株式取得 | ★★ | |||
| 手島肇 | 初のDBO方式によるごみ処理プラントの納入 | ★★★ | ||
| 手島肇 | 株式交換による日本サーモエナーなど3社の完全子会社化 | ★★ | ||
| 加藤隆昭 | 初のFIT制度向けバイオマス発電プラントの納入 | ★★★ | ||
| 南條博昭 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 南條博昭 | 播磨新工場の稼働開始 | ★★ | ||
| 濵田州朗 | IHI汎用ボイラの株式取得 | ★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(タクマ)