タクマ の歴史

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創業 1938年
創業者 田熊常吉
創業地 兵庫県尼崎市
創業 1938年6月10日、田熊常吉氏が兵庫県尼崎市浜で田熊汽罐製造を設立した。田熊常
1938年6月10日、田熊常吉氏が兵庫県尼崎市浜で田熊汽罐製造を設立した。田熊常吉氏は1912年に缶水を循環させるタクマ式汽罐を発明した人物だが、1920年8月に特許権と商標権の一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となっていた。自らの名を冠した商標を他社に預けたまま、1936年6月に神戸の自宅に田熊常吉研究所を開設し、新型を高級小型つねきちボイラと名付けて売り出す。受注が1936年の14缶から翌年88缶へ増えるなか、統制三法で増資が倍額までに制限されたため、軍需に不可欠なボイラを目的に掲げた別会社として設立したのが田熊汽罐製造である。1949年5月に大阪と東京の証券取引所へ上場し、1972年6月1日に商号をタクマへ変更した。
決断 燃やす相手を、石炭からごみへ、木くずへと替えてきた。1957年に階段式ストーカー
燃やす相手を、石炭からごみへ、木くずへと替えてきた。1957年に階段式ストーカーの実験へ着手し、1961年6月に大阪市から1日150トンの焼却炉3基を受注して1963年1月に据え付けた。翌1962年7月には日本機工を技術者ごと引き受け、需要先の重なる水処理へも広げた。開発費は1966年9月期に未償却額5億円余を一括償却して2億6,689万円の赤字と無配を招いたが、環境衛生事業は1969年度に産業用ボイラと並び、1972年6月に商号をタクマへ改めた。2007年に初のDBO方式でごみ処理プラントを、2014年にFIT向けのバイオマス発電プラントを納めている。燃やす対象を替えたことが買い手を自治体から発電事業者へ広げ、建てて引き渡す商売に運転管理と売電の収入を足した。
現況 売上がピークへ戻るまでに22年かかった。2026年3月期の連結売上高は1,656
売上がピークへ戻るまでに22年かかった。2026年3月期の連結売上高は1,656億円、営業利益154億円、当期純利益137億円である。2002年3月期の1,709億円から2004年3月期の951億円へ2期で半減し、戻すのに22年を要した。間には2007年3月の課徴金47億200万円の納付命令と英国の廃棄物発電プラントの手直しが重なり、2007年3月期から3期続けて当期純損失を計上している。現在は環境・エネルギー(国内)事業が売上の76%にあたる1,266億円を占め、セグメント利益186億円のうち156億円もここから出る。2025年4月にIHI汎用ボイラを、2026年4月には運転管理会社のカンエイメンテナンスを取得し、建設ではなく保守の側で売上を積む買い方に変わった。
競合 参入の難しい市場に、同じ5社が長く並んでいた。1993年3月期は売上高の68.5
参入の難しい市場に、同じ5社が長く並んでいた。1993年3月期は売上高の68.5%をごみ焼却プラントが占め、同年3月末の受注残でも72.3%に達している。この分野は三菱重工業・日立造船・川崎重工業・NKKとタクマの5社で7割のシェアを占め、ほとんどの自治体が事実上の指名競争入札を採るため、施工実績のない新規参入は難しかった。閉じた市場は談合の摘発とともに崩れる。栗田工業は談合の摘発を受けて官公需の建設工事から全面撤退した。同じ入札に並んだ日立造船は欧州と豪州の同業を買い集め、社名までカナデビアへ替えた。タクマは国内に残り、運転管理を担うハイトラスト各社を納入先ごとに置いて、2004年の長泉から2025年9月の東金まで運営会社を増やしてきた。各社が国外や民需へ散るなか自治体の発注に残ったことが、建設の受注ではなく20年単位の運営契約を積む収益へタクマを移した。
長期業績の推移 1950〜2026年
タクマ:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円)純利益率(%)
2002年3月期〜2026年3月期

第1章 1912年〜 40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許

1912年〜高取山の松の根元で得た缶水循環という着想

田熊常吉氏は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で、父の田熊豊蔵氏と母の田熊ふゆ氏の末子に生まれた。隣部落の庚斎塾で国学と陽明学の教えを受けたのは、11歳で初等第1級に編入した誠明小学校を、授業が易し過ぎるとして2学期で辞めたあとである。14歳の夏には、京都で小学教員をしていた兄の田熊萬蔵氏に連れられて故郷を離れた。開業医の家での書生暮らしは肌に合わず、2年目には神戸に移り、貿易画の図案意匠を請け負う賃仕事を始めた。1896年に設立した山陰物産では、衰えつつあった木綿に替わる商品として麦稈真田の輸出入を手がけたが、ほどなく行き詰まった。公証役場の書記、材木商の店員と職を移り、1903年6月、31歳のときに兵庫運河のそばで材木屋を構えた。高知県が払い下げる官業材で一もうけするはずの見込みは、日露戦争で木材相場が下がったことと同業者との揉め事で外れ、店をたたむことになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った

1905年7月に朝鮮へ渡った田熊常吉氏が1カ月ぶりに帰神すると、妻の村上カメ氏は心労と流産で他界し、2人の娘も引き取られ、一家は離散していた。播村くま氏と再婚したのは1907年5月である。1909年10月、和歌山で牛に代わる動力の汽罐を考案していた岡本弥三郎氏に会い、製材機用の軽便な汽罐の製作を頼んだ。翌1910年5月、自宅に三丸商会の看板を掲げ、技術は岡本弥三郎氏、資金と経営は田熊常吉氏が受け持ち岡本式汽罐を売り出し、製材所や紡績工場へ8台を据え付けた。ところが据付先で故障が続出し、代金の回収どころか損害賠償の訴えも起こり、岡本弥三郎氏は和歌山へ帰ったまま戻らなかった。播村家の財産を使い果たした田熊常吉氏は1911年5月5日、朝鮮へ渡る基隆丸の甲板で欄干に手をかけたが、月光に動きを止めた。帰国後は仲介者を得て岡本式汽罐の権利を岡本弥三郎氏へ売り渡し、その代金で債権者の了解を取りつけた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた

東京帝国大学教授の内丸最一郎博士が著した"蒸汽罐"は、田熊常吉氏に汽罐の原理を理解させた本だった。1912年6月、40歳で汽罐の発明を天職と決めた彼は、専門書を数冊求めても用語さえわからず、この本を足がかりに各地の据付缶を見学し、技師や汽罐士に疑問をぶつけた。債権者が玄関から動かない家では考えがまとまらず、図面と鉛筆、コンパスを携えて標高330メートルの高取山に登った。頂上の高取神社の裏に立つ"神撫の松"という老松の下で、図面を描き直した。考えに詰まってうとうとした折、彼はひらめいた。汽罐の命は缶水の循環にあり、これまでの汽罐は心臓にあたる器官を欠き、動脈にあたる部分も十分でない、と。家では妻の播村くま氏が手伝い、台所の鍋とガラスの燗瓶を炭火で熱して水と蒸気の動きを見届けるうちに、集水器と降水管という仕組みの着想が固まった。1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に模型を付けて鍋に沈めると、完全ではないものの缶水が循環する様子を捉えることができた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた
参考文献[1]-[19]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた

1913年〜高田商会との決別と汽車製造への特許譲渡

明治末から昭和初期まで、国内で動いていたボイラの大半は輸入品で、それも効率に劣る煙管式が多かった。神戸の乾鉄工所に発注した1号缶は、1912年10月3日に汽罐士の滝口治郎作氏が火を入れ、火床を3分の2まで縮めると、蒸気も圧力も正常に保たれた。田熊常吉氏はこれをタクマ式汽罐として1912年10月6日に特許を出願し、債権者に押さえられないよう、名義は義理の娘の播村春江氏とした。登録は1913年4月9日、特許第23759号である。東京に店を出したのは評判の悪い関西を避けたためで、郷里出身の西谷金蔵代議士と兄の田熊萬蔵氏が後押しした。だが見せられる実物がないため商談はまとまらず、事務所は経費がかさんで閉じるほかなかった。乾鉄工所が発明者に断りなく1号缶に手を加えたので、真のタクマ式汽罐は1台も残らなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [21]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [22]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [23]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった

1914年、田熊常吉氏は三井物産神戸支店の河村与六機械係主任を訪ねて名義の借用を頼み込み、平尾鉄工所に汽罐の製作を引き受けさせた。資金は三十八銀行支配人の藤田好三郎氏が承諾し、両者の支援を得た田熊常吉氏は1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を構えた。同年秋には本郷弥生町に東京帝国大学教授の加茂正雄博士を訪ね、集水器と降水管の構造が非凡だとの評価を得た。加茂正雄博士に意見を求めた機械商社の高田商会は、担当部長と技師を高砂へ派遣して伊藤製油所据付けの84馬力缶を調べたうえ、1914年11月21日、向こう2年間、販売高に応じて特許料を支払う契約を締結した。1915年1月には木村製薬所へ納めた110馬力の動力用汽罐が上々の成績で運転に入り、その前面に初めてタクマ式汽罐の銘を打った。同年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会では実物大の汽罐を出品し、金牌を受けた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた

1915年7月に藤田好三郎氏、伊藤長蔵氏、田熊常吉氏が出資してタクマ式汽罐合資会社が設けられた背景には、発明以来3万円近くまで膨らんだ借金があり、娘名義の特許権も差し押さえを免れそうになかった。特許権を新会社へ移して受け取った1万円で、負債は片づけられた。第1次大戦の好景気で満州や朝鮮からも注文が押し寄せた一方、高田商会は集水器と降水管の材料にブリキを使い、製作を街のブリキ職人に任せた。水あかを掃除すると壊れるという苦情が続き、満州では粗悪な汽罐の見本扱いまで受けた。1918年6月、契約の更改で一時金と特許料の最低保証を求めた田熊常吉氏の要求を高田商会がはねつけたことで両者は決別し、汽罐の設計・製造は汽車製造へ移った。1919年7月から44日間、京都帝国大学の浜部源次郎博士が山陽紡績でバブコック汽罐との比較試験を行い、タクマ式の熱効率の高さを確かめた。戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産すると、田熊常吉氏は1920年8月5日、特許権と商標権など一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった
参考文献[20]-[37]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [21]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [22]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [23]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった

1936年〜つねきちボイラ研究所の創業

汽車製造でのタクマ式汽罐の製作は、ある炭鉱向けが外国汽罐の設計を模倣するなど、田熊常吉氏の意図から外れていた。1922年の年賀状で、田熊常吉氏は伝熱面1平方フィート当たり9封度の蒸発量と、汽罐本体で82%の熱効率を出すと予告した。狙いは汽罐部門の拡充を促すことにあり、そのために鉄道省大竹発電所に据えた自信作で能力試験を行うと企てた。東京帝国大学はこれを学術研究として扱うと決め、工学部教授の竹村勘忍博士が試験委員長を務め、鉄道省と汽車製造の技師も加わって、1922年8月8日から28日まで伊豆で試験を行った。途中、暴風雨で試験班が宿に閉じ込められて中断した。それでも8月25日以降28日までに燃焼率は着実に上がり、予告の数値を達成して世界記録となった。成果は同年10月、東京での機械学会創立25周年記念会において竹村勘忍博士らが報告した。大学をはじめ各学校の教科書にも、タクマ式汽罐が載るようになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した

1924年春、汽車製造は南満州電気の新京発電所の汽罐増設を聞き社員を派遣したが、高田商会時代の粗製乱造でタクマ式の評判は満州でなお悪かった。田熊常吉氏が現地で2基のうち1基の採用を頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長の助言もあってタクマ式1基が英国製と並んで据えられた。1927年8月の旅順工科大学教授ら立会いの比較試験でタクマ式は熱効率87%を記録し、バブコックセクショナル式を圧倒した。台湾では1926年に新高製糖彰化工場が1基を採用し、田熊常吉氏は台北市から屏東市まで製糖各社を訪ねた。サトウキビの絞りかすのバガスをたく汽罐が予期以上の成績を上げ、1930年から1932年に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖から数十基を受注した。1928年11月10日、田熊常吉氏は殖産興業の功績で勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には日本10大発明家の一人として宮中で午餐を賜った。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った

汽車製造の年産額が1000万円に迫っても、同社は機関車・橋梁・鉄道用品の製造を本業とし、タクマ式は余裕がある範囲にとどめる方針を崩さなかった。1935年春、台湾出張から帰宅した田熊常吉氏は急性盲腸炎で入院し、病床で自ら解決する決意を固めた。1936年6月1日、田熊常吉氏は神戸の自宅に個人経営の田熊常吉研究所を創立し、木村製薬所据付けの汽罐をモデルに新型を設計した。旧型にくらべ鋼材使用量はほぼ半分、燃料は30%以上の節約、起蒸時間は約3分の1で、タクマ式の商標権が汽車製造にあるため高級小型つねきちボイラと名付けた。事業化では安宅商会に一手販売を委託して7万円を借り受け、1936年7月に同商会内で事業を始めた。鋼材の入手難で自営工場が要り、1937年7月1日、資本金50万円で株式会社田熊研究所を創立し、田熊常吉氏と安宅商会が5,000株ずつを持って本社と工場を尼崎市浜字海地に置いた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
参考文献[38]-[55]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した

第2章 1938年〜 尼崎での田熊汽罐製造の設立と播磨工場、戦後の上場とクレイトン蒸汽発生機

筆者考察y.sugiura, author

田熊汽罐製造という会社の形は、経営者が選んだというより、外から押し込まれて決まった部分が大きい。研究所のままでは資本の増加が倍額までしか認められないから別会社を興し、軍需に直結する事業目的を掲げれば資材も資金も優先されるから、そこへ賭けた。工場敷地が細長いのは陸軍が水辺の幅を制限したためであり、建屋の鋼材使用が一度は拒まれたのも、舶用高圧缶をつくらせたい商工省の意図と申請書の中身がずれていたからだった。会社が自分で決められたのは、与えられた枠のどこへ設備を置くかだけである。そして尼崎と神戸を焼かれたとき、たまたま残ったその一点が、戦後の出発点になった。

戦後の伸びを支えたのも、自社の発明ではなかった。在庫の艦本式22号缶は進駐軍基地の暖房へ振り替えられ、朝鮮動乱と警察予備隊が受注を運んできた。創業者の死から5年ののち、会社はスイスと米国から技術を買っている。大型では発電プラント全体の保証を求められて入れず、小型では完全自動の蒸気発生機が求められていて、どちらも水管缶の延長では届かない領域だった。買った技術を播磨工場で国産化するという手順を踏んだ時点で、発明者の名を冠した会社は、発明に依存しない会社へ変わっていた。

1938年〜統制三法が通した別会社の設立と東洋一の工場構想

1937年7月の日中戦争の急拡大で生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤であるボイラの需要がにわかに増大した。つねきち小型ボイラの受注・製作数は1936年の14缶から1937年は88缶へ激増し、1938年はさらに倍増した。田熊常吉氏は1936年に研究所を設立したときから新鋭設備を備えた大規模工場の建設を考えていたが、研究所の生産能力では需要に到底応じきれなかった。ところが1937年9月に公布された統制三法によって会社の設立・増資・合併は許可制となり、研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた。そこで田熊常吉氏は、軍需生産に欠かせぬボイラの生産を事業目的に掲げた別会社であれば臨時資金調整法の甲種産業として資金も資材も優先されると読み、茶谷保三郎氏、藤田好三郎氏と諮って新会社の設立へ踏み切った。資本金は300万円と定めた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [56]昭和12年7月に突発した日中戦争の急拡大にともない生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤・原動力であるボイラの増設が欠かせないことからボイラ需要がにわかに増大した
    • [57]つねきち小型ボイラの受注・製作数は昭和11年の14缶から12年は88缶と激増し、13年はさらに倍増した
    • [58]常吉は昭和11年に田熊常吉研究所を設立したときから新鋭設備の整った大規模工場の建設を考えていたが、ボイラ需要の急増に研究所の生産能力は到底対応しきれなかった
    • [59]昭和12年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布により会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [60]軍需生産に欠かせぬボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考え、常吉は茶谷保三郎・藤田好三郎と相談のうえ研究所とは別に田熊汽罐製造株式会社を創立することとした
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
    • [61]昭和13年、資本金300万円をもって設立

新会社の資金と販路は、商社が引き受けた。田熊常吉研究所は設立まもない1936年7月以降、安宅商会から資金援助を受けてボイラの一手販売契約を結んでいたが、1938年6月10日の創立にあたり同商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的な支援を引き受け、その見返りに製品と据付け工事の一手販売権を握った。生保界の名門である仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力したこともあり、設立申請はわずか1カ月で認可された。同年12月には従来ボイラの製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併して資本金を350万円とし、あわせて東京出張所を開設した。1939年3月31日には据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事を資本金18万円で設立し、研究・製作・据付けを別会社に分ける三位一体の体制を敷いた。つねきちボイラの受注は1938年160缶、1939年241缶へ伸びた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [62]田熊常吉研究所は設立後間もない昭和11年7月以降、安宅商会から資金援助を受け、ボイラの一手販売契約を結んでいた
    • [63]昭和13年6月の田熊汽罐製造の設立にあたり、安宅商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的支援を引き受け、その見返りに同社製ボイラとその据付け工事の一手販売権を握った
    • [64]新会社設立には生保界の名門仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加することになり、有力な協力者を得たこともあって設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [66]昭和14年3月31日、ボイラの据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事株式会社(資本金18万円)を設立し、研究・製作・据付けをそれぞれ別会社の形態で専門化する三位一体の事業体制をとることとした
    • [67]つねきちボイラA型シリーズの受注量は昭和12年の88缶から13年160缶、14年は241缶と大幅に増えつづけた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [65]昭和13年12月、従来から田熊を社長として汽罐の製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併し、資本金は350万円となり、同時に東京出張所を開設した

用地の買収は1939年4月に9万2400平方メートルで手続きが済んだが、陸軍当局は水際に沿って100メートルを超える幅の敷地を持つことを許さず、工場の敷地は細く長い形になるほかなかった。設立と同時に工事の始まった播磨工場は、こうして軍や官庁の事情に形を左右された。次の壁は建屋の鉄鋼工作物築造許可で、申請は認められなかった。原因を探ったのは茶谷保三郎副社長らの陳情と加茂正雄博士の働きかけである。わかったのは書類の食い違いだった。国内に製作例のない舶用高圧缶の製造を田熊汽罐製造に任せる狙いから、商工省は工場設置願を即座に認可していたのに、鉄鋼使用願の中身はつねきちA型の説明で埋まっていた。説明を重ねた末、1940年5月28日に鋼材600トンでの建造が許され、1942年12月5日に完成した播磨工場はその日から動き出した。設備をどこに置くかを決めたのは需要ではなく統制だった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [68]用地買収の過程で陸軍当局が「水面に沿って幅100メートル以上の敷地取得は認めない」との意向を固持したため工場敷地は細長い地形にならざるを得ず、昭和14年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [70]工場建屋の建設にとりかかるため鉄鋼工作物建造許可を申請したところ、この申請が不許可となった
    • [71]茶谷副社長らの陳情と加茂博士の働きかけで、商工省が軍部の意向も酌み当時わが国で製作されていなかった舶用高圧缶をつくらせる意図から工場設置願を即決処理なみに認可したが、鉄鋼使用願にはそのことが記載されず「つねきちA型」の説明ばかりが述べられていたため「当初の方針と全く異なり、建設に及ばず」と決裁されたことが判明した
    • [72]繰り返し説明した結果、昭和15年5月28日に鋼材600トンを使用する建造許可が下り、17年12月5日に竣工式と始業式を行って播磨工場は即日稼働した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [69]設立と同時に現在の高砂市に播磨工場の建設に着手し、昭和17年12月にこれが操業を開始した
参考文献[56]-[72]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [56]昭和12年7月に突発した日中戦争の急拡大にともない生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤・原動力であるボイラの増設が欠かせないことからボイラ需要がにわかに増大した
    • [57]つねきち小型ボイラの受注・製作数は昭和11年の14缶から12年は88缶と激増し、13年はさらに倍増した
    • [58]常吉は昭和11年に田熊常吉研究所を設立したときから新鋭設備の整った大規模工場の建設を考えていたが、ボイラ需要の急増に研究所の生産能力は到底対応しきれなかった
    • [59]昭和12年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布により会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [60]軍需生産に欠かせぬボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考え、常吉は茶谷保三郎・藤田好三郎と相談のうえ研究所とは別に田熊汽罐製造株式会社を創立することとした
    • [62]田熊常吉研究所は設立後間もない昭和11年7月以降、安宅商会から資金援助を受け、ボイラの一手販売契約を結んでいた
    • [63]昭和13年6月の田熊汽罐製造の設立にあたり、安宅商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的支援を引き受け、その見返りに同社製ボイラとその据付け工事の一手販売権を握った
    • [64]新会社設立には生保界の名門仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加することになり、有力な協力者を得たこともあって設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [66]昭和14年3月31日、ボイラの据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事株式会社(資本金18万円)を設立し、研究・製作・据付けをそれぞれ別会社の形態で専門化する三位一体の事業体制をとることとした
    • [67]つねきちボイラA型シリーズの受注量は昭和12年の88缶から13年160缶、14年は241缶と大幅に増えつづけた
    • [68]用地買収の過程で陸軍当局が「水面に沿って幅100メートル以上の敷地取得は認めない」との意向を固持したため工場敷地は細長い地形にならざるを得ず、昭和14年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [70]工場建屋の建設にとりかかるため鉄鋼工作物建造許可を申請したところ、この申請が不許可となった
    • [71]茶谷副社長らの陳情と加茂博士の働きかけで、商工省が軍部の意向も酌み当時わが国で製作されていなかった舶用高圧缶をつくらせる意図から工場設置願を即決処理なみに認可したが、鉄鋼使用願にはそのことが記載されず「つねきちA型」の説明ばかりが述べられていたため「当初の方針と全く異なり、建設に及ばず」と決裁されたことが判明した
    • [72]繰り返し説明した結果、昭和15年5月28日に鋼材600トンを使用する建造許可が下り、17年12月5日に竣工式と始業式を行って播磨工場は即日稼働した
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
    • [61]昭和13年、資本金300万円をもって設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [65]昭和13年12月、従来から田熊を社長として汽罐の製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併し、資本金は350万円となり、同時に東京出張所を開設した
    • [69]設立と同時に現在の高砂市に播磨工場の建設に着手し、昭和17年12月にこれが操業を開始した

1945年〜焼け残った一点への集約と、閉鎖から再開までの二カ月

創立から保管してきた重要文書の大半は、書庫とともに焼失した。1945年6月の空襲で、尼崎と神戸の両工場と本社事務所が次々に失われ、被害を受けずに済んだのは主力の播磨工場だけだった。田熊汽罐製造は事業を丸ごと播磨工場に集め、そこから戦後の立て直しを図ると決め、1946年2月には本店もそちらへ移した。ただ、鉱工業生産は戦前の2割程度にとどまり、鉄鋼や石炭といった基礎産業がひどく落ち込んでいたため、ボイラの需要が戻る見込みはなかった。終戦直後に得た受注は、鉄道省機械課に頼み込んで1946年2月に取ったたて型缶4缶ほどにすぎない。徴用工と動員学徒が解散した後も900人近い従業員を抱え、依頼があれば手持ちの材料でフライパン、クワ、粉ひき機をつくって糊口をしのいだ。1945年12月に播磨工場で結成された労働組合は、荒れ狂うインフレを背景に賃金改善を強く求めるようになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [73]2階建ての書庫も昭和20年6月に被災し、会社創立以来の重要文書類のほとんどが灰となった
    • [74]戦災で尼崎・神戸両工場と本社事務所を相次いで失ったが、主力の播磨工場だけは無傷で残った
    • [76]終戦後しばらくは鉱工業生産が戦前水準の2割そこそこで低迷し、鉄鋼・石炭など基礎産業も極度の不振でボイラ需要の回復は期待できず、終戦直後の受注は鉄道省機械課に懇請して昭和21年2月に受注したたて型缶4缶ぐらいであった
    • [77]多数の徴用工や動員学徒は解散し正規従業員にも退職者が続出したが、なお900人近い従業員を抱えており、依頼さえあれば手持ちの材料でフライパン、スキ、クワ、粉ひき機など一般生活用品を播磨工場でつくって糊口をしのいだ
    • [78]昭和20年12月に播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成され、荒れ狂うインフレで生計費が急騰するなか、組合員の生活窮迫を理由に賃金改善などを強く要求するようになった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [75]本社および焼残り設備を播磨工場に移設して生産力を集中し、昭和21年2月には本店も同地へ移した

1946年3月に労働組合が突きつけた要求に対し、会社は9月末までの現状維持か、3カ月分の給与を退職金として支払ったうえでの閉鎖かという二者択一を迫った。組合執行部は後者を選び、3月31日付で全従業員を解雇して播磨工場は閉鎖された。閉鎖中、茶谷保三郎社長ら役員と幹部は再開の方途を練り、担い手は技能と経験を持つ集団でなくてはならないと痛感していた。同じ志を持つ従業員グループが決議文を掲げて早期再開を訴え、工場は2カ月後の1946年6月1日、工場71人・事務所41人の計112人という規模で再発足した。同年7月10日には黒田仙吉氏が第4代社長に就いた。再開直後の1946年8月期の売上高は210万円、当期は29万円の損失であった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [79]昭和21年3月の組合の要求に対し、会社は「9月末までは現状を維持するしかない」「さもなければ約3カ月分の給与を退職金として提供し会社を閉鎖するほかはない」との方針を固め、組合に二者択一を迫った
    • [80]組合執行部は大会にはかった結果として閉鎖を選ぶと通告し、会社は退職金を支払って全従業員を解雇、昭和21年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [81]播磨工場の閉鎖中、茶谷社長をはじめ役員と多くの幹部は再開への方途を練り、再開の担い手は技能・経験を持った愛社心のある集団でなくてはならぬことを痛感した
    • [82]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を強く訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の昭和21年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [83]播磨工場の再開を機に昭和21年7月10日、茶谷保三郎社長ら役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した
    • [84]昭和21年8月期(第17期)の売上高は2,101千円、当期は295千円の損失であった

動き出した工場を救ったのは在庫であった。1946年秋、戦時に大量生産して播磨工場に滞留していた艦本式22号缶を米進駐軍が求めているとの情報が入り、三菱商事横浜支店の働きかけで米第8軍司令部との話がまとまった。司令部の意向は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備であり、代金は日本政府の終戦処理費から支払われた。石炭手だきの舶用缶は陸用のストーカだきへ改造され、1947年から図面作成と製作が並行して進んだ。一方、1946年8月の戦時補償打切りで軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは払込済資本金1100万円の2倍を超える痛手であった。旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんして資本金の切捨てを避け、1948年11月15日に新旧勘定を併合した。軍需で積み上げた仕掛りが、そのまま占領期の需要へ横滑りした。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [85]昭和21年秋、戦時に大量生産して工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけて話合いは急速に進んだ
    • [86]米軍当局は「進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要である。ボイラの現在庫を調査し折り返し知らせて欲しい。支払いは日本政府の終戦処理費で行う」との意向であり、会社は大量の注文を受けることができた
    • [87]昭和22年、石炭手だきの舶用缶である艦本式22号缶を進駐軍キャンプのボイラ設備とするための図面作成が第8軍司令部のL-4セクションで始まり、播磨工場では陸用(ストーカだき)に改造するための設計・製作が並行して進められた
    • [88]昭和21年8月11日の戦時補償打切りにより、戦時中に軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは当時の払込済資本金1100万円の2倍以上にあたった
    • [89]2600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを行わずに処理して、昭和23年11月15日に新旧勘定を合併し再建整備を完了した
参考文献[73]-[89]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [73]2階建ての書庫も昭和20年6月に被災し、会社創立以来の重要文書類のほとんどが灰となった
    • [74]戦災で尼崎・神戸両工場と本社事務所を相次いで失ったが、主力の播磨工場だけは無傷で残った
    • [76]終戦後しばらくは鉱工業生産が戦前水準の2割そこそこで低迷し、鉄鋼・石炭など基礎産業も極度の不振でボイラ需要の回復は期待できず、終戦直後の受注は鉄道省機械課に懇請して昭和21年2月に受注したたて型缶4缶ぐらいであった
    • [77]多数の徴用工や動員学徒は解散し正規従業員にも退職者が続出したが、なお900人近い従業員を抱えており、依頼さえあれば手持ちの材料でフライパン、スキ、クワ、粉ひき機など一般生活用品を播磨工場でつくって糊口をしのいだ
    • [78]昭和20年12月に播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成され、荒れ狂うインフレで生計費が急騰するなか、組合員の生活窮迫を理由に賃金改善などを強く要求するようになった
    • [79]昭和21年3月の組合の要求に対し、会社は「9月末までは現状を維持するしかない」「さもなければ約3カ月分の給与を退職金として提供し会社を閉鎖するほかはない」との方針を固め、組合に二者択一を迫った
    • [80]組合執行部は大会にはかった結果として閉鎖を選ぶと通告し、会社は退職金を支払って全従業員を解雇、昭和21年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [81]播磨工場の閉鎖中、茶谷社長をはじめ役員と多くの幹部は再開への方途を練り、再開の担い手は技能・経験を持った愛社心のある集団でなくてはならぬことを痛感した
    • [82]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を強く訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の昭和21年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [83]播磨工場の再開を機に昭和21年7月10日、茶谷保三郎社長ら役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した
    • [84]昭和21年8月期(第17期)の売上高は2,101千円、当期は295千円の損失であった
    • [85]昭和21年秋、戦時に大量生産して工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけて話合いは急速に進んだ
    • [86]米軍当局は「進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要である。ボイラの現在庫を調査し折り返し知らせて欲しい。支払いは日本政府の終戦処理費で行う」との意向であり、会社は大量の注文を受けることができた
    • [87]昭和22年、石炭手だきの舶用缶である艦本式22号缶を進駐軍キャンプのボイラ設備とするための図面作成が第8軍司令部のL-4セクションで始まり、播磨工場では陸用(ストーカだき)に改造するための設計・製作が並行して進められた
    • [88]昭和21年8月11日の戦時補償打切りにより、戦時中に軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは当時の払込済資本金1100万円の2倍以上にあたった
    • [89]2600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを行わずに処理して、昭和23年11月15日に新旧勘定を合併し再建整備を完了した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [75]本社および焼残り設備を播磨工場に移設して生産力を集中し、昭和21年2月には本店も同地へ移した

1949年〜株式上場と資本の充実、創業者の死後に買った両端の技術

ボイラのタクマという企業イメージを引き上げることは、資金の調達と並ぶ上場の狙いであり、この規模の会社としては異例の選択だった。田熊汽罐製造は、証券取引所が再開された1949年5月にこの機会をとらえて株式を上場した。登録は5月14日に大阪、16日に東京、少し遅れて7月4日に神戸で行い、株数は合計30万株、主幹事は野村証券が務めた。1950年6月の朝鮮動乱に次いで、翌1951年1月に警察予備隊が発足した。北海道をはじめ各地の基地向けにCD型ボイラの注文が伸び、1951年3月期の売上高は前期のおよそ10倍の1億7807万円に跳ね上がった。それでも運転資金は銀行借入れに頼り、1951年9月末の借入金は1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた。増資を重ね、資本金は4年半で8倍強の2億6000万円となった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [90]当社程度の経営規模の会社の上場は珍しかったが、資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるため、あえて上場へ踏みきった
    • [91]昭和24年5月、証券取引所が再開された機会に当社も株式を上場した
    • [92]昭和24年5月14日に大阪証券取引所、同16日に東京証券取引所、やや遅れて7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来、野村証券が主幹事証券会社となった
    • [93]昭和26年1月に警察予備隊が正式に発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラの受注が増え、26年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増した
    • [94]株式を上場したものの事業資金の調達は銀行借入れに頼らざるを得ず、昭和26年9月末には借入金が1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
    • [95]昭和24年5月に資本金3200万円、26年12月に6400万円、27年10月に1億2800万円、28年12月に2億6000万円へ増資した

1953年8月14日、田熊常吉氏は取締役会長を退き、黒田仙吉氏が会長に、田中益三氏が第5代社長に就いた。田中益三氏は1919年に大阪高等工業学校機械科を卒えて汽車製造に入り、1937年に田熊研究所へ転じ、田熊汽罐製造の創立時から研究部を担当した技術者である。同じ年の12月22日午前2時5分、田熊常吉氏は芦屋市呉川町の自宅で81歳の生涯を閉じた。1955年3月期の売上高は5億7600万円、生産高は年産300缶を超え、据え付けた総数は2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達していた。製品は大型・中型の陸上ボイラのほかダウサム、スメルター、廃熱、ソーダ回収炉などの特殊缶と舶用缶に広がり、1949年には戦後の機械輸出の先頭を切って台湾へ自家発電用ボイラを輸出していた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [96]昭和28年8月14日、田熊常吉は取締役会長を退き、黒田社長が会長に、田中益三が第5代社長にそれぞれ就任した
    • [97]田中益三は明治29年生まれ、大正8年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、昭和12年に田熊研究所へ転じ、13年6月の田熊汽罐製造創立にあたり研究部担当の取締役に就任した
    • [98]田熊常吉は昭和28年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [99]生産高は年産300缶を越え総数2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達し、昭和30年3月期の売上高は5億7600万円を示した
    • [100]製品は大型・中型の一般陸上ボイラのほか、ダウサムボイラ、スメルターボイラ、廃熱ボイラ、ソーダ回収炉ボイラ等の特殊汽缶および舶用ボイラ等各種にわたった
    • [101]昭和24年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、以来十数基を数えている

発電用の大型ボイラには、自社技術だけでは入れなかった。1950年代の欧米では蒸気圧力250キログラム毎平方センチ、温度600度を超える発電用ボイラが実用に運転されていたのに対し、自家発電用ボイラの客先は蒸気タービンや発電機を含む発電プラント全体の保証を要求するため、国内に納入実績のない田熊汽罐製造の参入は甚だ困難であった。強制貫流ボイラは大型ドラムを使わない方式で、これなら工場を広げずとも大型・高温・高圧の分野に踏み込めた。まず蒸発量毎時100トン程度の産業用まで事業を伸ばすと決め、スイスのスルザー・ブラザーズ社に技術提携を打診した。相手は事業用火力発電への参入を主な狙いとしていたため、最初は気乗りしなかった。それでも交渉の結果、1958年6月の調印で、蒸発量毎時150トンまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権を得た。技術援助契約を結んだのは1959年6月である。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [102]昭和20年代の初め、欧米先進国では発電用ボイラのつくりだす蒸気の圧力は250kg/cm2、温度は600度を超え、1缶あたりの蒸発量が500t/h以上のものが実用に運転されていた
    • [103]自家発電ボイラの領域では客先から蒸気タービン・発電機などを含めた発電プラント全体の保証を要求され、国内に納入実績がない当社の参入は甚だ困難であった
    • [104]この強制貫流ボイラは大型ドラムを必要としないため、当社は工場設備を拡張することなく大型・高温・高圧ボイラ分野への展開が可能となった
    • [105]超大型ボイラ分野への進出には工場規模の大拡張が必要なため、当社はまず蒸発量100t/h・蒸気圧力100kg/cm2程度の産業用ボイラの分野まで事業を拡大する方針で臨み、スイスのスルザー・ブラザーズ社との技術提携を希望した
    • [106]スルザー社は日本の事業用火力発電用ボイラへの参入を主目的としていたため当初は提携に気乗り薄であったが、交渉の結果、昭和33年6月に技術提携の調印がなされ、蒸発量150t/hまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権が供与された
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [107]昭和34年6月、スイス・スルザー社とスルザー・モノチューブ蒸気発生装置及び附属装置の技術援助契約を締結

米国クレイトン社が1931年に考案した蒸気発生機は、1954年ごろから日本にも輸入されるようになった。名古屋国立病院での運転ぶりが好評だという知らせを本社に届けたのは名古屋出張所である。小型ボイラでは完全自動化をめぐって競争が進んでいた。強制貫流ボイラの研究をすでに手がけていた田熊汽罐製造は、特別研究班を組み、宮城酪農に入ったW-100型で性能を試して機能を確認した。1957年5月には研究所と技術課の責任者がカリフォルニア州エルモンテに送られ、米国内の販売・サービスの仕組みまで調べた。クレイトン社にとっても、日本は輸入の管理が厳しく部品の補充に手間取る市場で、技術協力の相手を探していた。交渉がまとまり製造・販売権を得たのは1959年2月である。この間の1957年10月には台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラの技術輸出援助契約を結び、1960年3月期には売上高11億2579万円、従業員681人の規模となった。発明で立った会社は、買った技術を播磨工場で国産化する会社へ移っていた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [108]米国クレイトン社は1931年に独特の構想で蒸気発生機を考案し、わが国でも昭和29年ごろから輸入されるようになり、その一つが名古屋国立病院で運転され好評であるとの情報が当社名古屋出張所から本社へもたらされた
    • [109]すでに強制貫流ボイラの研究開発を進めていた当社は直ちに特別研究班を編成し、宮城酪農に輸入されたW-100型を詳細に調査して性能テストを実施し、小型産業用ボイラとして市場に適応しうる可能性が大きいとの判断を得た
    • [110]昭和32年5月、当社は研究所および技術課の責任者をカリフォルニア州エルモンテのクレイトン社へ派遣し、詳細な技術内容と米国内での同機の販売・サービス機構を調査させた
    • [111]当時の日本政府の輸入管理は非常に厳しく輸入許可を受けるのがむずかしいうえ部品の補充にもかなりの時間がかかり、納入後のアフターサービスが不可欠であることから、クレイトン社は日本での技術協力会社を求めていた
    • [112]昭和34年2月、日本政府の認可を得てクレイトン蒸気発生機の製造・販売権を正式に取得した
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [113]昭和32年10月、台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラー並びに附属装置の技術輸出援助契約を締結
    • [114]昭和35年3月期の売上高は1,125,798千円、従業員は681人であった
参考文献[90]-[114]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [90]当社程度の経営規模の会社の上場は珍しかったが、資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるため、あえて上場へ踏みきった
    • [91]昭和24年5月、証券取引所が再開された機会に当社も株式を上場した
    • [92]昭和24年5月14日に大阪証券取引所、同16日に東京証券取引所、やや遅れて7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来、野村証券が主幹事証券会社となった
    • [93]昭和26年1月に警察予備隊が正式に発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラの受注が増え、26年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増した
    • [94]株式を上場したものの事業資金の調達は銀行借入れに頼らざるを得ず、昭和26年9月末には借入金が1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた
    • [96]昭和28年8月14日、田熊常吉は取締役会長を退き、黒田社長が会長に、田中益三が第5代社長にそれぞれ就任した
    • [97]田中益三は明治29年生まれ、大正8年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、昭和12年に田熊研究所へ転じ、13年6月の田熊汽罐製造創立にあたり研究部担当の取締役に就任した
    • [98]田熊常吉は昭和28年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
    • [95]昭和24年5月に資本金3200万円、26年12月に6400万円、27年10月に1億2800万円、28年12月に2億6000万円へ増資した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [99]生産高は年産300缶を越え総数2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達し、昭和30年3月期の売上高は5億7600万円を示した
    • [100]製品は大型・中型の一般陸上ボイラのほか、ダウサムボイラ、スメルターボイラ、廃熱ボイラ、ソーダ回収炉ボイラ等の特殊汽缶および舶用ボイラ等各種にわたった
    • [101]昭和24年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、以来十数基を数えている
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [102]昭和20年代の初め、欧米先進国では発電用ボイラのつくりだす蒸気の圧力は250kg/cm2、温度は600度を超え、1缶あたりの蒸発量が500t/h以上のものが実用に運転されていた
    • [103]自家発電ボイラの領域では客先から蒸気タービン・発電機などを含めた発電プラント全体の保証を要求され、国内に納入実績がない当社の参入は甚だ困難であった
    • [104]この強制貫流ボイラは大型ドラムを必要としないため、当社は工場設備を拡張することなく大型・高温・高圧ボイラ分野への展開が可能となった
    • [105]超大型ボイラ分野への進出には工場規模の大拡張が必要なため、当社はまず蒸発量100t/h・蒸気圧力100kg/cm2程度の産業用ボイラの分野まで事業を拡大する方針で臨み、スイスのスルザー・ブラザーズ社との技術提携を希望した
    • [106]スルザー社は日本の事業用火力発電用ボイラへの参入を主目的としていたため当初は提携に気乗り薄であったが、交渉の結果、昭和33年6月に技術提携の調印がなされ、蒸発量150t/hまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権が供与された
    • [108]米国クレイトン社は1931年に独特の構想で蒸気発生機を考案し、わが国でも昭和29年ごろから輸入されるようになり、その一つが名古屋国立病院で運転され好評であるとの情報が当社名古屋出張所から本社へもたらされた
    • [109]すでに強制貫流ボイラの研究開発を進めていた当社は直ちに特別研究班を編成し、宮城酪農に輸入されたW-100型を詳細に調査して性能テストを実施し、小型産業用ボイラとして市場に適応しうる可能性が大きいとの判断を得た
    • [110]昭和32年5月、当社は研究所および技術課の責任者をカリフォルニア州エルモンテのクレイトン社へ派遣し、詳細な技術内容と米国内での同機の販売・サービス機構を調査させた
    • [111]当時の日本政府の輸入管理は非常に厳しく輸入許可を受けるのがむずかしいうえ部品の補充にもかなりの時間がかかり、納入後のアフターサービスが不可欠であることから、クレイトン社は日本での技術協力会社を求めていた
    • [112]昭和34年2月、日本政府の認可を得てクレイトン蒸気発生機の製造・販売権を正式に取得した
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [107]昭和34年6月、スイス・スルザー社とスルザー・モノチューブ蒸気発生装置及び附属装置の技術援助契約を締結
    • [113]昭和32年10月、台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラー並びに附属装置の技術輸出援助契約を締結
    • [114]昭和35年3月期の売上高は1,125,798千円、従業員は681人であった

第3章 1962-1994 (気が向いたら執筆します!) 水処理参入と日本初の全連続ごみ焼却プラント、タクマへの改称と海外初受注

第4章 1995-2026 (気が向いたら執筆します!) 本社の尼崎集約と荏原ボイラ取得、DBO方式とバイオマス発電プラント

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歴史年表 1912〜2025年

タクマの沿革1912〜2025年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1912〜1937年40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許創業者の田熊常吉氏によるタクマ式汽罐の発明★★
つねきちボイラの設計・製作開始★
1938〜1961年尼崎での田熊汽罐製造の設立と播磨工場、戦後の上場とクレイトン蒸汽発生機兵庫県尼崎市に田熊汽罐製造を設立★★★
田熊研究所の吸収合併と尼崎工場の操業開始★
播磨工場の操業開始★
東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場★
クレイトン蒸汽発生機の国産第1号罐の完成★
京都工場の操業開始★
1962〜1994年水処理参入と日本初の全連続ごみ焼却プラント、タクマへの改称と海外初受注環境衛生設備の製造・設計・施工を事業目的に追加★★
日本機工の業務継承による水処理分野への参入★★
日本初の全連続機械式ごみ焼却プラントの納入★★
タクマに商号変更★★
国内初の熱回収ボイラ付き下水汚泥焼却炉の納入★★★
初の粗大ごみ破砕選別プラントの納入★★
世界初の真空式温水発生機バコティンヒーターの開発★★
初の海外向けごみ焼却プラントの納入★★★
台湾台北市に子会社の台湾田熊を設立★
1995〜2026年本社の尼崎集約と荏原ボイラ取得、DBO方式とバイオマス発電プラント兵庫県尼崎市への本社機能の集約★
荏原ボイラの株式取得★★
手島肇初のDBO方式によるごみ処理プラントの納入★★★
手島肇株式交換による日本サーモエナーなど3社の完全子会社化★★
加藤隆昭初のFIT制度向けバイオマス発電プラントの納入★★★
南條博昭東京証券取引所プライム市場に移行★
南條博昭播磨新工場の稼働開始★★
濵田州朗IHI汎用ボイラの株式取得★★
出典・参考 10件
出典・参考
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」

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