田熊常吉氏は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で、父の田熊豊蔵氏と母の田熊ふゆ氏の末子に生まれた[1]。11歳で誠明小学校の初等第1級に編入したが、教課が易し過ぎるとして2学期で退学し、隣部落の庚斎塾で国学と陽明学の薫陶を受けた[2]。14歳の夏、京都で小学教員を務めていた兄の田熊萬蔵氏に伴われて郷里を出たものの、開業医宅の書生生活は性に合わず、2年目に神戸へ移って貿易画の図案意匠の賃仕事に就いた[3]。1896年には山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが、日ならずして失敗した[4]。公証役場の書記や材木商の勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河の近くに材木屋を開いた[5]。高知県の官業材払い下げで一もうけする目算は、日露戦争による木材の値下がりと同業とのもめごとで崩れ、廃業に追い込まれた[6]。
1905年7月に朝鮮へ渡った田熊常吉氏が1カ月ぶりに帰神すると、妻の村上カメ氏は心労と流産で他界し、2人の娘も引き取られ、一家は離散していた[7]。播村くま氏と再婚したのは1907年5月である[8]。1909年10月、和歌山で牛に代わる動力の汽罐を考案していた岡本弥三郎氏に会い、製材機用の軽便な汽罐の製作を頼んだ[9]。翌1910年5月、自宅に三丸商会の看板を掲げ、技術は岡本弥三郎氏、資金と経営は田熊常吉氏が受け持ち岡本式汽罐を売り出し、製材所や紡績工場へ8台を据え付けた[10]。ところが据付先で故障が続出し、代金の回収どころか損害賠償の訴えも起こり、岡本弥三郎氏は和歌山へ帰ったまま戻らなかった[11]。播村家の財産を使い果たした田熊常吉氏は1911年5月5日、朝鮮へ渡る基隆丸の甲板で欄干に手をかけたが、月光に動きを止めた[12]。帰国後は仲介者を得て岡本式汽罐の権利を岡本弥三郎氏へ売り渡し、その代金で債権者の了解を取りつけた[13]。
1912年6月、40歳の田熊常吉氏は汽罐の発明を自分の天職と定めた[14]。専門書を数冊買い求めても用語すら分からなかったが、東京帝国大学教授の内丸最一郎博士の著書『蒸汽罐』で原理をつかみ、各所の据付缶を見て歩いて技師や汽罐士に疑問点を尋ねた[15]。債権者が玄関に居座る自宅では考案が進まず、図面と鉛筆とコンパスを持って標高330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松『神撫の松』の根元で図面を書き改めた[16]。思索が行き詰まってまどろんだとき、缶水の循環こそ汽罐の生命であり、従来の汽罐には心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全だと直感した[17]。自宅では妻の播村くま氏を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶を炭火にかけて水と蒸気の動きを観察し、集水器と降水管の構想をまとめあげた[18]。1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に取り付けた模型をなべに入れ、不完全ながら缶水循環の有様をとらえた[19]。
神戸の乾鉄工所へ発注した1号缶は1912年10月3日、汽罐士の滝口治郎作氏の手で点火し、火床を3分の2に縮めたところ蒸気と圧力が正常な状態で保たれた[20]。田熊常吉氏はこれをタクマ式汽罐として1912年10月6日、義理の娘である播村春江氏の名義で特許を出願し、債権者による差し押さえに備えた[21]。出願は1913年4月9日、特許第23759号として登録された[22]。明治末から昭和初期にかけて国内で使われたボイラはほとんどが輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式が多かった[23]。田熊常吉氏は評判の悪い関西を避け、郷里出身の西谷金蔵代議士と兄の田熊萬蔵氏の支援で東京に店を置いたが、見せる実物がなく商談は進まず、事務所は経費倒れで閉鎖に追い込まれた[24]。乾鉄工所が発明者に無断で1号缶を改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も残らなかった[25]。
1914年、田熊常吉氏は三井物産神戸支店の河村与六機械係主任を訪ねて名義の借用を頼み込み、平尾鉄工所に汽罐の製作を引き受けさせた[26]。資金は三十八銀行支配人の藤田好三郎氏が承諾し、両者の支援を得た田熊常吉氏は1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を構えた[27]。同年秋には本郷弥生町に東京帝国大学教授の加茂正雄博士を訪ね、集水器と降水管の構造が非凡だとの評価を得た[28]。加茂正雄博士に意見を求めた機械商社の高田商会は、担当部長と技師を高砂へ派遣して伊藤製油所据付けの84馬力缶を調べたうえ、1914年11月21日、向こう2年間、販売高に応じて特許料を支払う契約を結んだ[29]。1915年1月には木村製薬所へ納めた110馬力の動力用汽罐が上々の成績で運転に入り、その前面に初めてタクマ式汽罐の銘を打った[30]。同年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会では実物大の汽罐を出品し、金牌を受けた[31]。
発明以来の借金が3万円近くに積もり、娘名義の特許権も差し押さえられかねず、1915年7月、藤田好三郎氏、伊藤長蔵氏、田熊常吉氏の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償の1万円で負債を整理した[32]。第1次大戦の好況で満州や朝鮮からも注文が殺到したが、高田商会は集水器と降水管をブリキ製とし、町のブリキ屋につくらせた[33]。水あか掃除で壊れる苦情が相次ぎ、満州で粗悪汽罐の標本に擬せられた[34]。契約更改で田熊常吉氏は一時金と特許料の最低保証を求めたが高田商会が拒み、1918年6月に決別して汽罐の設計・製造を汽車製造へ移した[35]。1919年7月から44日間、京都帝国大学の浜部源次郎博士が山陽紡績でバブコック汽罐との比較試験を行い、タクマ式の熱効率の高さを確かめた[36]。戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産すると、田熊常吉氏は1920年8月5日、特許権と商標権など一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となった[37]。
汽車製造でのタクマ式汽罐の製作は、ある炭鉱向けが外国汽罐の設計を模倣するなど、田熊常吉氏の意図から外れていた[38]。汽罐部門の拡充を促すため、田熊常吉氏は鉄道省大竹発電所に据えた自信作の能力試験を企て、1922年の年賀状で伝熱面1平方フィート当たり9封度の蒸発量と汽罐本体82%の熱効率を予告した[39]。東京帝国大学は学術研究として試験を決め、工学部教授の竹村勘忍博士を試験委員長に、鉄道省と汽車製造からも技師を加えて1922年8月8日から28日まで伊豆で試験に当たった[40]。暴風雨で試験班が旅館に足止めされる中断をはさみながら、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は予告した数値を満たして世界記録を生んだ[41]。結果は同年10月に東京で開かれた機械学会創立25周年記念会で竹村勘忍博士らが発表した[42]。タクマ式汽罐は、大学以下各学校の教科書に掲げられた[43]。
1924年春、汽車製造は南満州電気の新京発電所の汽罐増設を聞き社員を派遣したが、高田商会時代の粗製乱造でタクマ式の評判は満州でなお悪かった[44]。田熊常吉氏が現地で2基のうち1基の採用を頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長の助言もあってタクマ式1基が英国製と並んで据えられた[45]。1927年8月の旅順工科大学教授ら立会いの比較試験でタクマ式は熱効率87%を記録し、バブコックセクショナル式を圧倒した[46]。台湾では1926年に新高製糖彰化工場が1基を採用し、田熊常吉氏は台北市から屏東市まで製糖各社を訪ねた[47]。サトウキビの絞りかすのバガスをたく汽罐が予期以上の成績を上げ、1930年から1932年に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖から数十基を受注した[48]。1928年11月10日、田熊常吉氏は殖産興業の功績で勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には日本10大発明家の一人として宮中で午餐を賜った[49]。
汽車製造の年産額が1000万円に迫っても、同社は機関車・橋梁・鉄道用品の製造を本業とし、タクマ式は余裕がある範囲にとどめる方針を崩さなかった[50]。1935年春、台湾出張から帰宅した田熊常吉氏は急性盲腸炎で入院し、病床で自ら解決する決意を固めた[51]。1936年6月1日、田熊常吉氏は神戸の自宅に個人経営の田熊常吉研究所を創立し、木村製薬所据付けの汽罐をモデルに新型を設計した[52]。旧型にくらべ鋼材使用量はほぼ半分、燃料は30%以上の節約、起蒸時間は約3分の1で、タクマ式の商標権が汽車製造にあるため高級小型つねきちボイラと名付けた[53]。事業化では安宅商会に一手販売を委託して7万円を借り受け、1936年7月に同商会内で事業を始めた[54]。鋼材の入手難で自営工場が要り、1937年7月1日、資本金50万円で株式会社田熊研究所を創立し、田熊常吉氏と安宅商会が5,000株ずつを持って本社と工場を尼崎市浜字海地に置いた[55]。
1937年9月に公布された統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)で会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた[56]。つねきち小型ボイラの受注は1936年の14缶から1937年に88缶へ激増しており、研究所の生産能力では到底さばけなかった[57]。そこで創業者の田熊常吉氏は、研究所を拡充する代わりに別会社を興す道を選んだ。軍需生産に欠かせないボイラを事業目的に掲げれば、資金も資材も最優先の甲種産業として優遇されると見込んだためである[58]。1938年2月20日には第1回設立発起人会を開き、資本金300万円を田熊常吉氏側と安宅商会側で折半し、第1回払い込みを4分の1の75万円と決めた[59]。
新会社には仁寿生命保険の下郷伝平社長が加わった[60]。貴族院議員も務めた下郷伝平社長の協力もあって、設立計画は申請から1カ月で認可された[61]。1938年6月10日、尼崎市浜の田熊研究所で創立総会を開き、代表取締役社長に田熊常吉氏を選んで田熊汽罐製造が発足した[62]。田熊常吉氏は『汽罐報国』の旗印を掲げ、田熊汽罐製造はこの日を会社の創立記念日と定めた[63]。同年12月31日付で資本金50万円の田熊研究所を吸収合併して資本金を350万円とし、ボイラの研究・製作・販売の業務すべてを継承した[64]。1939年2月には神戸市林田区の北村鋳工所を買収して神戸工場とし、ボイラ付属機器の鋳物類の製作を始めた[65]。
播磨工場の用地は、兵庫県加古郡荒井村で1939年4月までに9万2400平方メートルの買収手続きを終えた[66]。ところが建屋に使う鋼材について鉄鋼工作物建造許可を申請すると不許可となり、茶谷保三郎副社長らが陳情を重ねて1940年5月28日にようやく許可を得た[67]。工場は1942年12月5日に軍官民の関係者を招いて竣工式と始業式を挙げ、即日稼働に入った[68]。1942年7月に海軍艦政本部が国内ボイラメーカーへ命じた舶用缶の競争設計では田熊汽罐製造の設計が採られ、海軍省は1943年8月にこれを戦時標準船用舶用缶として正式に採用し、艦本式22号缶と命名した[69]。播磨工場は直ちに量産へ移り、1943年7月に海軍の管理工場へ指定されたのちは、徴用工と動員学徒を含む総勢1300人が二交代制で生産にあたった[70]。
1945年3月16日と17日の神戸大空襲で、神戸市葺合区にあった本社事務所と神戸工場は跡形もなく全焼した[71]。6月15日の阪神大空襲では尼崎工場も焼け、鉄骨と機械類を残して木造の建物を失った[72]。この空襲は日中で、退避の指示も適切だったため、約500人の従業員にけが人は出なかった[73]。田熊汽罐製造は無傷で残った播磨工場に生産を集め、1946年2月には本店も同地へ移した[74]。さらに1946年8月11日に政府が戦時補償の打切りを決めたため、軍へ納入したボイラの代金など約2,600万円が回収できなくなった[75]。この金額は当時の払込済資本金1,100万円の2倍を超えた[76]。
1945年12月、播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成された[77]。インフレで従業員の生計費が急騰したためである[78]。日本毛織加古川工場のストライキの余波で組合幹部が改選されると、1946年3月20日には独身者に月500円、世帯主に900円を毎月支給せよとの要求が会社へ届いた[79]。会社は、9月末まで現状を維持するか、約3カ月分の給与を退職金として払って会社を閉鎖するかの二者択一を迫り、組合執行部は後者を選んだ[80]。田熊汽罐製造は全従業員に退職金を払って解雇し、3月31日付で播磨工場を閉じた[81]。閉鎖中、志を同じくする従業員のグループが早期再開を求める決議文を会社に示し、6月1日、工場71人・事務所41人の合計112人で同工場は再発足した[82]。役員も入れ替わり、7月10日に茶谷保三郎社長ら5名が退任して、黒田仙吉氏が第4代社長に就いた[83]。
ボイラの受注が途切れ、田熊汽罐製造は大型ふろがまやおがくずだきストーブをつくって操業をつないだ[84]。1946年秋、播磨工場に積み上がっていた艦本式22号缶の在庫を米進駐軍が求めているとの情報が入り、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけた[85]。第8軍は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備に充てるとして在庫の調査を求め、支払いは日本政府の終戦処理費で行うと伝えた[86]。田熊汽罐製造は戦時に量産して滞貨となっていた22号缶を陸用に改造し、飛行場や宿舎の暖房用として納入した[87]。据付工事は千歳・三沢・横田・立川・羽田・板付など全国のキャンプで行い、1951年1月に警察予備隊が発足した前後からは各地の予備隊基地でCD型ボイラの受注も増えた[88]。
戦時補償の打切りで生じた約2,600万円の特別損失は、旧勘定の積立金と利益金、仕掛り品の評価益で補てんでき、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを経ずに処理できた[89]。1948年9月30日に未払込株式400万円を徴収することで企業再建整備計画の認可を受け、同年11月15日に新旧勘定を合併して再建整備を終えた[90]。翌1949年5月、証券取引所が再開されると、田熊汽罐製造も株式を上場した[91]。資金調達に加え、『ボイラのタクマ』の企業イメージを高める狙いがあった[92]。5月14日に大阪証券取引所、16日に東京証券取引所、7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株を上場登録し、野村証券が主幹事を務めた[93]。
1949年7月、田熊汽罐製造は戦前からのバガス燃焼装置の実績を買われ、戦後はじめて台湾へバガスだきHN型ボイラを輸出した[94]。台湾糖業公司から受注したHN-600型は、田中益三常務が自ら奔走した商談によるもので、当時の田熊汽罐製造で最大級のボイラであった[95]。この輸出は戦後の機械輸出の先陣を切り、1955年時点で十数基を数えた[96]。国内では1950年6月に始まった朝鮮動乱の特需で受注が急増し、進駐軍関係の仕事で鋼材その他の生産資材を確保していた約500名の従業員が増産にあたった[97]。1951年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益は1089万円と倍増し、配当は年10%から特別配当を含む20%へ引き上げた[98]。
本店は1950年11月30日に播磨工場から大阪市北区曽根崎の桜橋ビルへ移り、1953年4月20日には大阪市北区堂島中に新築した本社ビルへ移転した[99]。1953年8月14日、高齢と病気を理由に田熊常吉会長が退き、黒田仙吉社長が会長へ、田中益三氏が第5代社長へそれぞれ就いた[100]。田中益三社長は大阪高等工業学校機械科を出て汽車製造に入り、1937年に田熊研究所へ移ってタクマ式の設計を担ってきた技術者である[101]。田熊常吉氏は同年12月22日、芦屋市呉川町の自宅で81歳の生涯を閉じ、ボイラ事業を通じた功績により従五位勲四等瑞宝章が追贈された[102]。1959年2月には米国クレイトン社とスチーム・ゼネレータについて技術契約を結んだ[103]。
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|---|---|---|---|---|
| 1912〜1937年40歳の材木屋が発明したタクマ式汽罐と、手放した特許 | 創業者の田熊常吉氏によるタクマ式汽罐の発明 | ★★ | ||
| つねきちボイラの設計・製作開始 | ★ | |||
| 1938〜1960年汽罐報国を掲げた尼崎の新会社と、播磨工場の閉鎖 | 兵庫県尼崎市に田熊汽罐製造を設立 | ★★★ | ||
| 田熊研究所の吸収合併と尼崎工場の操業開始 | ★ | |||
| 播磨工場の操業開始 | ★ | |||
| 東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場 | ★ | |||
| クレイトン蒸汽発生機の国産第1号罐の完成 | ★ | |||
| 1961〜1988年大阪市住吉工場から始まったごみ焼却プラント | 京都工場の操業開始 | ★ | ||
| 環境衛生設備の製造・設計・施工を事業目的に追加 | ★★ | |||
| 日本機工の業務継承による水処理分野への参入 | ★★ | |||
| 日本初の全連続機械式ごみ焼却プラントの納入 | ★★ | |||
| タクマに商号変更 | ★★ | |||
| 国内初の熱回収ボイラ付き下水汚泥焼却炉の納入 | ★★★ | |||
| 初の粗大ごみ破砕選別プラントの納入 | ★★ | |||
| 世界初の真空式温水発生機バコティンヒーターの開発 | ★★ | |||
| 初の海外向けごみ焼却プラントの納入 | ★★★ | |||
| 台湾台北市に子会社の台湾田熊を設立 | ★ | |||
| 1989〜2025年売上高1,709億円のごみ処理官需から運営受託へ | 兵庫県尼崎市への本社機能の集約 | ★ | ||
| 荏原ボイラの株式取得 | ★★ | |||
| 手島肇 | 初のDBO方式によるごみ処理プラントの納入 | ★★★ | ||
| 手島肇 | 株式交換による日本サーモエナーなど3社の完全子会社化 | ★★ | ||
| 加藤隆昭 | 初のFIT制度向けバイオマス発電プラントの納入 | ★★★ | ||
| 南條博昭 | 東京証券取引所プライム市場に移行 | ★ | ||
| 南條博昭 | 播磨新工場の稼働開始 | ★★ | ||
| 濵田州朗 | IHI汎用ボイラの株式取得 | ★★ |
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事実根拠:出所(タクマ)