第1章 年〜年

タクマ:田熊常吉のタクマ式汽罐の発明と手放した特許

1912年〜高取山の松の根元で得た缶水循環という着想

田熊常吉氏は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で、父の田熊豊蔵氏と母の田熊ふゆ氏の末子に生まれた。隣部落の庚斎塾で国学と陽明学の教えを受けたのは、11歳で初等第1級に編入した誠明小学校を、授業が易し過ぎるとして2学期で辞めたあとである。14歳の夏には、京都で小学教員をしていた兄の田熊萬蔵氏に連れられて故郷を離れた。開業医の家での書生暮らしは肌に合わず、2年目には神戸に移り、貿易画の図案意匠を請け負う賃仕事を始めた。1896年に設立した山陰物産では、衰えつつあった木綿に替わる商品として麦稈真田の輸出入を手がけたが、ほどなく行き詰まった。公証役場の書記、材木商の店員と職を移り、1903年6月、31歳のときに兵庫運河のそばで材木屋を構えた。高知県が払い下げる官業材で一もうけするはずの見込みは、日露戦争で木材相場が下がったことと同業者との揉め事で外れ、店をたたむことになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った

1905年7月に朝鮮へ渡った田熊常吉氏が1カ月ぶりに帰神すると、妻の村上カメ氏は心労と流産で他界し、2人の娘も引き取られ、一家は離散していた。播村くま氏と再婚したのは1907年5月である。1909年10月、和歌山で牛に代わる動力の汽罐を考案していた岡本弥三郎氏に会い、製材機用の軽便な汽罐の製作を頼んだ。翌1910年5月、自宅に三丸商会の看板を掲げ、技術は岡本弥三郎氏、資金と経営は田熊常吉氏が受け持ち岡本式汽罐を売り出し、製材所や紡績工場へ8台を据え付けた。ところが据付先で故障が続出し、代金の回収どころか損害賠償の訴えも起こり、岡本弥三郎氏は和歌山へ帰ったまま戻らなかった。播村家の財産を使い果たした田熊常吉氏は1911年5月5日、朝鮮へ渡る基隆丸の甲板で欄干に手をかけたが、月光に動きを止めた。帰国後は仲介者を得て岡本式汽罐の権利を岡本弥三郎氏へ売り渡し、その代金で債権者の了解を取りつけた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた

東京帝国大学教授の内丸最一郎博士が著した"蒸汽罐"は、田熊常吉氏に汽罐の原理を理解させた本だった。1912年6月、40歳で汽罐の発明を天職と決めた彼は、専門書を数冊求めても用語さえわからず、この本を足がかりに各地の据付缶を見学し、技師や汽罐士に疑問をぶつけた。債権者が玄関から動かない家では考えがまとまらず、図面と鉛筆、コンパスを携えて標高330メートルの高取山に登った。頂上の高取神社の裏に立つ"神撫の松"という老松の下で、図面を描き直した。考えに詰まってうとうとした折、彼はひらめいた。汽罐の命は缶水の循環にあり、これまでの汽罐は心臓にあたる器官を欠き、動脈にあたる部分も十分でない、と。家では妻の播村くま氏が手伝い、台所の鍋とガラスの燗瓶を炭火で熱して水と蒸気の動きを見届けるうちに、集水器と降水管という仕組みの着想が固まった。1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に模型を付けて鍋に沈めると、完全ではないものの缶水が循環する様子を捉えることができた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた
参考文献[1]-[19]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [1]田熊常吉は1872年2月8日、鳥取県八橋郡瑞穂村東園で父田熊豊蔵・母ふゆの末子に生まれた
    • [2]1883年8月、11歳で誠明小学校初等第1級に編入したが教課が易し過ぎたことから2学期だけで退学し、隣部落西園の庚斎塾へ入門して国学と陽明学の薫陶を受けた
    • [3]14歳の夏に兄萬蔵に伴われ京都へ出て並河医師宅の書生となったが性に合わず、2年目に神戸へ移り貿易画の図案意匠の賃仕事を手がけた
    • [4]1896年に山陰物産を設立し、衰運の木綿産業に代わる麦稈真田の貿易に乗り出したが日ならずして失敗した
    • [5]山本公証役場の書記や材木商の神戸商品会社勤めを経て、1903年6月、31歳で兵庫運河近くに材木屋を開業した
    • [6]高知県の官業材の払い下げを受けようとしたが日露戦争で木材が値下がりし、同業とのもめごともあって廃業に至った
    • [7]1905年7月に朝鮮へ渡り1カ月ぶりに帰神すると、妻は心労と流産で他界し、娘キクヱは増田常蔵に、たつゑは井上千代造に引き取られ一家は離散していた
    • [8]1907年5月、神戸元町の播村くまと再婚した
    • [9]1909年10月、セメント樽の材料買い付けで和歌山へ出かけ、牛に代わる動力として汽罐を考案中の岡本弥三郎に会い、製材機の動力源となる軽便な汽罐の製作を頼み込んだ
    • [10]1910年5月、神戸元町の自宅に三丸商会の看板を掲げて岡本式汽罐の販売を開始し、技術は岡本、資金と経営は常吉が分担して製材所や紡績工場などへ汽罐計8台を据え付けた
    • [11]据え付けた岡本式汽罐に故障が続出し、代金回収どころか損害賠償の訴えも起こったが、特許権者の岡本は和歌山へ逃げ帰り神戸へ戻らなかった
    • [12]1911年5月5日、下関出港の基隆丸で朝鮮へ渡る途中、玄海灘の甲板で欄干に手をかけたが、波にきらめく月光に動きを止めた
    • [13]仲介者が現れ、岡本式汽罐のすべての権利を岡本へ売り渡し、その代金で債権者を訪ね歩いて紛争の解決に努めた
    • [14]1912年6月、40歳にして常吉は貧乏のどん底にありながら汽罐の研究に没頭することとし、汽罐の発明が自分の天職であると信じ始めていた
    • [15]汽罐の専門書を2〜3冊買い求めても皆目理解できなかったが、東京帝国大学教授内丸最一郎博士の『蒸汽罐』で原理を理解し、各所に据え付けられた汽罐を見て歩いて技師・汽罐士に疑問点を尋ね手帳に書きとどめた
    • [16]借金の催促に悩まされる自宅を離れ、図面と鉛筆、コンパスを持って高さ330メートルの高取山へ登り、山頂の高取神社の裏手にそびえる老松「神撫の松」の根元で十数日にわたり図面を書き改めた
    • [17]まどろみの中で、缶水の循環が汽罐の生命であり、これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく動脈に当たる部分も不完全であると直感した
    • [18]妻を助手に、台所のなべとガラス製の燗瓶に水を入れコンロに炭火をたいて水と蒸気の循環を観察し、蒸気発生の状態、缶水循環が起こる原因、その流れ具合を知って集水器と降水管の構想をまとめた
    • [19]1912年8月8日、素焼のホウロクの柄に穴を開けて集水器・降水管の模型を取りつけ、コンロにかけたなべの中に入れて缶水循環の有様をとらえた

1913年〜高田商会との決別と汽車製造への特許譲渡

明治末から昭和初期まで、国内で動いていたボイラの大半は輸入品で、それも効率に劣る煙管式が多かった。神戸の乾鉄工所に発注した1号缶は、1912年10月3日に汽罐士の滝口治郎作氏が火を入れ、火床を3分の2まで縮めると、蒸気も圧力も正常に保たれた。田熊常吉氏はこれをタクマ式汽罐として1912年10月6日に特許を出願し、債権者に押さえられないよう、名義は義理の娘の播村春江氏とした。登録は1913年4月9日、特許第23759号である。東京に店を出したのは評判の悪い関西を避けたためで、郷里出身の西谷金蔵代議士と兄の田熊萬蔵氏が後押しした。だが見せられる実物がないため商談はまとまらず、事務所は経費がかさんで閉じるほかなかった。乾鉄工所が発明者に断りなく1号缶に手を加えたので、真のタクマ式汽罐は1台も残らなかった。

  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [21]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [22]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [23]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった

1914年、田熊常吉氏は三井物産神戸支店の河村与六機械係主任を訪ねて名義の借用を頼み込み、平尾鉄工所に汽罐の製作を引き受けさせた。資金は三十八銀行支配人の藤田好三郎氏が承諾し、両者の支援を得た田熊常吉氏は1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を構えた。同年秋には本郷弥生町に東京帝国大学教授の加茂正雄博士を訪ね、集水器と降水管の構造が非凡だとの評価を得た。加茂正雄博士に意見を求めた機械商社の高田商会は、担当部長と技師を高砂へ派遣して伊藤製油所据付けの84馬力缶を調べたうえ、1914年11月21日、向こう2年間、販売高に応じて特許料を支払う契約を締結した。1915年1月には木村製薬所へ納めた110馬力の動力用汽罐が上々の成績で運転に入り、その前面に初めてタクマ式汽罐の銘を打った。同年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会では実物大の汽罐を出品し、金牌を受けた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた

1915年7月に藤田好三郎氏、伊藤長蔵氏、田熊常吉氏が出資してタクマ式汽罐合資会社が設けられた背景には、発明以来3万円近くまで膨らんだ借金があり、娘名義の特許権も差し押さえを免れそうになかった。特許権を新会社へ移して受け取った1万円で、負債は片づけられた。第1次大戦の好景気で満州や朝鮮からも注文が押し寄せた一方、高田商会は集水器と降水管の材料にブリキを使い、製作を街のブリキ職人に任せた。水あかを掃除すると壊れるという苦情が続き、満州では粗悪な汽罐の見本扱いまで受けた。1918年6月、契約の更改で一時金と特許料の最低保証を求めた田熊常吉氏の要求を高田商会がはねつけたことで両者は決別し、汽罐の設計・製造は汽車製造へ移った。1919年7月から44日間、京都帝国大学の浜部源次郎博士が山陽紡績でバブコック汽罐との比較試験を行い、タクマ式の熱効率の高さを確かめた。戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産すると、田熊常吉氏は1920年8月5日、特許権と商標権など一切を汽車製造へ譲り、月額500円の嘱託となった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった
参考文献[20]-[37]
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]明治末期より大正、昭和にかけ、わが国ではボイラはほとんど輸入品であり、しかも効率の悪い煙管式のものが多かった
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
    • [21]神戸の乾鉄工所に発注した汽罐を1912年10月3日に汽罐士滝口治郎作が点火し、火床を3分の2に縮小したところ蒸気と圧力は正常な状態で稼働した
    • [22]1号缶を「タクマ式汽罐」として1912年10月6日、義理の娘播村春江の名義で特許を出願した。名義は妻くまへの報恩と債権者による差し押さえに備えたものだった
    • [23]1913年4月9日、特許第23759号(第5類)として登録された
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [24]信用もなく評判が悪い関西より東京がよいと考え、郷里出身の西谷代議士や兄萬蔵の支援を得て東京に店を置いたが、見学してもらう実物がなく責任者の萬蔵も素人で商談は進まず、経費がかさんで閉鎖のやむなきに至った
    • [25]乾鉄工所に据え付けてあった1号缶も同鉄工所が発明者の常吉に無断で改修したため、真のタクマ式汽罐は1台も存在しなくなった
    • [26]三井物産神戸支店の河村与六機械係主任に会って三井の名義借用を頼み込み、人を介して平尾鉄工所に汽罐の製作を依頼、平尾が引き受けた
    • [27]資金は三十八銀行の支配人藤田好三郎に懇願して承諾を得、三井物産と三十八銀行の支援により1914年2月10日、神戸の旧居留地38番館に本拠を置いた
    • [28]1914年の秋、本郷弥生町の自宅に加茂正雄博士を訪ね、博士は集水器・降水管の構造の非凡さを見抜いて意見を述べた
    • [29]高田商会は加茂博士にタクマ式の意見を求めたうえ担当部長や技師を高砂へ派遣し、伊藤製油所据付けのタクマ式汽罐(動力用84馬力)を調べた結果、1914年11月21日、向こう2年間、販売高により特許料を支払う契約を常吉と結んだ
    • [30]1915年1月、木村製薬所へ納めた動力用汽罐(110馬力)の点火・運転の結果は上々の成績で、このボイラの前面にはじめて「タクマ式汽罐」の銘を打った
    • [31]1915年4月に大阪で開かれた第2回発明品博覧会に実物大のタクマ式汽罐を出品し、金牌を受けた
    • [32]発明研究当初からの借金が3万円近くにのぼり娘名義の特許権も差し押さえられそうな形勢だったため、1915年7月、藤田好三郎・伊藤長蔵・田熊常吉の3人の出資でタクマ式汽罐合資会社を設立し、特許権を移した代償に得た1万円近い金で応急の負債を整理した
    • [33]第1次世界大戦の戦争景気で国内はもとより満州・朝鮮方面からも汽罐の注文が殺到したが、タクマ式汽罐は肝心の集水器・降水管をブリキ製とし町のブリキ屋につくらせていた
    • [34]素材がブリキのため水あか掃除で壊れやすく苦情が相次ぎ、満州あたりでは粗悪汽罐の標本にまで擬せられた
    • [35]高田商会との2年間の契約期限が過ぎ、常吉は一時金と特許料の最低保証額を契約更改の条件としたが高田商会が拒否して物別れとなり、決別に踏み切って1918年6月、汽罐の設計・製造を汽車製造株式会社へ委託した
    • [36]京都帝国大学工学部教授浜部源次郎博士が1919年7月16日から8月28日まで44日間、山陽紡績据付けのタクマ式汽罐とバブコックセクショナル式の比較試験を実施し、タクマ式が熱効率で著しく上回った
    • [37]戦後恐慌で伊藤長蔵商店が破産して大竹発電所向け汽罐4基分の製作費14万円を汽車製造へ支払えなくなり、1920年8月5日、常吉の持つ特許権・商標権をはじめ事業一切を汽車製造へ譲渡し、常吉は月額500円の報酬で同社の嘱託となった

1936年〜つねきちボイラ研究所の創業

汽車製造でのタクマ式汽罐の製作は、ある炭鉱向けが外国汽罐の設計を模倣するなど、田熊常吉氏の意図から外れていた。1922年の年賀状で、田熊常吉氏は伝熱面1平方フィート当たり9封度の蒸発量と、汽罐本体で82%の熱効率を出すと予告した。狙いは汽罐部門の拡充を促すことにあり、そのために鉄道省大竹発電所に据えた自信作で能力試験を行うと企てた。東京帝国大学はこれを学術研究として扱うと決め、工学部教授の竹村勘忍博士が試験委員長を務め、鉄道省と汽車製造の技師も加わって、1922年8月8日から28日まで伊豆で試験を行った。途中、暴風雨で試験班が宿に閉じ込められて中断した。それでも8月25日以降28日までに燃焼率は着実に上がり、予告の数値を達成して世界記録となった。成果は同年10月、東京での機械学会創立25周年記念会において竹村勘忍博士らが報告した。大学をはじめ各学校の教科書にも、タクマ式汽罐が載るようになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した

1924年春、汽車製造は南満州電気の新京発電所の汽罐増設を聞き社員を派遣したが、高田商会時代の粗製乱造でタクマ式の評判は満州でなお悪かった。田熊常吉氏が現地で2基のうち1基の採用を頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長の助言もあってタクマ式1基が英国製と並んで据えられた。1927年8月の旅順工科大学教授ら立会いの比較試験でタクマ式は熱効率87%を記録し、バブコックセクショナル式を圧倒した。台湾では1926年に新高製糖彰化工場が1基を採用し、田熊常吉氏は台北市から屏東市まで製糖各社を訪ねた。サトウキビの絞りかすのバガスをたく汽罐が予期以上の成績を上げ、1930年から1932年に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖から数十基を受注した。1928年11月10日、田熊常吉氏は殖産興業の功績で勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には日本10大発明家の一人として宮中で午餐を賜った。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った

汽車製造の年産額が1000万円に迫っても、同社は機関車・橋梁・鉄道用品の製造を本業とし、タクマ式は余裕がある範囲にとどめる方針を崩さなかった。1935年春、台湾出張から帰宅した田熊常吉氏は急性盲腸炎で入院し、病床で自ら解決する決意を固めた。1936年6月1日、田熊常吉氏は神戸の自宅に個人経営の田熊常吉研究所を創立し、木村製薬所据付けの汽罐をモデルに新型を設計した。旧型にくらべ鋼材使用量はほぼ半分、燃料は30%以上の節約、起蒸時間は約3分の1で、タクマ式の商標権が汽車製造にあるため高級小型つねきちボイラと名付けた。事業化では安宅商会に一手販売を委託して7万円を借り受け、1936年7月に同商会内で事業を始めた。鋼材の入手難で自営工場が要り、1937年7月1日、資本金50万円で株式会社田熊研究所を創立し、田熊常吉氏と安宅商会が5,000株ずつを持って本社と工場を尼崎市浜字海地に置いた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
参考文献[38]-[55]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
    • [38]汽車製造の本業は機関車の製造でタクマ式汽罐にはとかく冷淡であり、ある炭鉱へ据え付けたタクマ式汽罐は常吉の意図に反して外国汽罐の設計を模倣していた
    • [39]汽車製造が汽罐部門を拡充するよう、伊豆の大竹発電所据え付けのタクマ式汽罐の能力試験を企て、1922年新春の年賀状で「伝熱面に於ける蒸発量 1平方呎当り9封度」「汽罐の熱効率82%(汽罐本体のみに於て)」を予告した
    • [40]東京帝国大学は学術研究のため1922年8月に試験を実施することを決め、工学部教授竹村勘忍博士を試験委員長とし、鉄道省や汽車製造からも技師が多数参加した
    • [41]伊豆半島一帯の暴風雨で試験班は旅館に缶詰めとなったが、8月25日から28日にかけて燃焼率は順調に高まり、成績は年頭に予告した数値を満たして世界記録を生んだ
    • [42]試験結果は1922年10月に東京で開催された機械学会創立25周年記念会で竹村博士らによって発表された
    • [44]1924年の春、汽車製造は南満州電気の新京発電所に汽罐増設の計画があると聞いて社員を急派したが、高田商会時代の粗製乱造という前例からタクマ式汽罐の評判はなお悪かった
    • [45]常吉は増設2基のうち1基でもタクマ式をと頼み込み、南満州鉄道の武村清技術審査委員長が満電の今井栄量技師長へ助言した結果、タクマ式1基が採用され、英国製バブコックセクショナル式と並置された
    • [46]1927年8月、旅順工科大学の教授ら専門学者の立会いのもと満鉄・満電両社共催で比較試験が行われ、タクマ式は熱効率87%という記録でバブコックセクショナル式を圧倒した
    • [47]1926年、台湾の新高製糖彰化工場にタクマ式1基が採用され、常吉は自ら現地へ赴き、北は台北市から南は屏東市まで全島の製糖各社を訪ねた
    • [48]台湾へ進出したタクマ式のバガスだき汽罐は予期以上の好成績を上げ、1930年から1932年の間に台湾製糖、明治製糖、大日本製糖、塩水港製糖の各社から中型汽罐を相次いで受注し、その缶数は数十基にのぼった
    • [49]1928年11月10日、天皇即位の御大典に際し殖産興業に尽くした功績により勲五等瑞宝章を授かり、1930年12月11日には明治・大正年間の日本10大発明家の一人として宮中千種ノ間で午餐を賜った
    • [50]タクマ式の声価は大いに上がり汽車製造の年産額も1000万円に迫っていたが、満州事変以来の軍需景気で車両関係が社業の中核となり、同社は「機関車・橋梁・鉄道用品の製造が本業であり、タクマ式はこの本業に余裕がある範囲にとどめる」との経営方針を崩さなかった
    • [51]1935年春、台湾出張から帰宅した途端に急性盲腸炎で入院し、病床で「発明を生かすには発明をもってせよ」との啓示を得て、自分自身で解決せよと命ぜられたものと解し「よし、自分でやろう」と決意した
    • [52]1936年6月1日、63歳の常吉は神戸の自宅を事務所に個人経営の「田熊常吉研究所」を創立し、タクマ式の母型である木村製薬所据え付けの汽罐をモデルに新しい汽罐の発明に取り組んだ
    • [53]新しい汽罐は同じ蒸発量の旧型にくらべ鋼材使用量がほぼ半分、燃料を30%以上節約でき、起蒸時間は約3分の1に短縮できた。「タクマ式」の商標は汽車製造に権利があったため「つねきち」を商標とし「高級小型つねきちボイラ」と命名した
    • [54]つねきちボイラの一手販売を安宅商会へ委託し、安宅から7万円を借り受け、1936年7月、大阪市東区今橋5丁目の同商会内に事務所を設けて事業を開始した
    • [55]軍備増強で鋼材の入手が年々むずかしくなり自営工場を持つ必要に迫られたため、1937年7月1日に資本金50万円で「株式会社田熊研究所」を創立し、田熊常吉と安宅商会が5,000株ずつ所有、本社および工場を尼崎市浜字海地15・16番地に置いた
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」
    • [43]タクマ式は大学以下各学校の教科書にかかげられ、蒸気工学の発展に不朽の功績を残した

出典・参考

4件
出典・参考
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第1章「田熊常吉とボイラ(明治期)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第2章「企業化への道のり(大正初期〜昭和12年)」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
  • 産業フロンティア物語 ボイラ(ダイヤモンド社、1968年)「二 汽罐王・田熊常吉物語」

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