第2章 年〜年

タクマ:田熊汽罐製造の設立とクレイトン蒸汽発生機の国産化

1938年〜統制三法が通した別会社の設立と東洋一の工場構想

1937年7月の日中戦争の急拡大で生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤であるボイラの需要がにわかに増大した。つねきち小型ボイラの受注・製作数は1936年の14缶から1937年は88缶へ激増し、1938年はさらに倍増した。田熊常吉氏は1936年に研究所を設立したときから新鋭設備を備えた大規模工場の建設を考えていたが、研究所の生産能力では需要に到底応じきれなかった。ところが1937年9月に公布された統制三法によって会社の設立・増資・合併は許可制となり、研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた。そこで田熊常吉氏は、軍需生産に欠かせぬボイラの生産を事業目的に掲げた別会社であれば臨時資金調整法の甲種産業として資金も資材も優先されると読み、茶谷保三郎氏、藤田好三郎氏と諮って新会社の設立へ踏み切った。資本金は300万円と定めた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [1]昭和12年7月に突発した日中戦争の急拡大にともない生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤・原動力であるボイラの増設が欠かせないことからボイラ需要がにわかに増大した
    • [2]つねきち小型ボイラの受注・製作数は昭和11年の14缶から12年は88缶と激増し、13年はさらに倍増した
    • [3]常吉は昭和11年に田熊常吉研究所を設立したときから新鋭設備の整った大規模工場の建設を考えていたが、ボイラ需要の急増に研究所の生産能力は到底対応しきれなかった
    • [4]昭和12年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布により会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [5]軍需生産に欠かせぬボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考え、常吉は茶谷保三郎・藤田好三郎と相談のうえ研究所とは別に田熊汽罐製造株式会社を創立することとした
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
    • [6]昭和13年、資本金300万円をもって設立

新会社の資金と販路は、商社が引き受けた。田熊常吉研究所は設立まもない1936年7月以降、安宅商会から資金援助を受けてボイラの一手販売契約を結んでいたが、1938年6月10日の創立にあたり同商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的な支援を引き受け、その見返りに製品と据付け工事の一手販売権を握った。生保界の名門である仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力したこともあり、設立申請はわずか1カ月で認可された。同年12月には従来ボイラの製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併して資本金を350万円とし、あわせて東京出張所を開設した。1939年3月31日には据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事を資本金18万円で設立し、研究・製作・据付けを別会社に分ける三位一体の体制を敷いた。つねきちボイラの受注は1938年160缶、1939年241缶へ伸びた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [7]田熊常吉研究所は設立後間もない昭和11年7月以降、安宅商会から資金援助を受け、ボイラの一手販売契約を結んでいた
    • [8]昭和13年6月の田熊汽罐製造の設立にあたり、安宅商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的支援を引き受け、その見返りに同社製ボイラとその据付け工事の一手販売権を握った
    • [9]新会社設立には生保界の名門仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加することになり、有力な協力者を得たこともあって設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [11]昭和14年3月31日、ボイラの据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事株式会社(資本金18万円)を設立し、研究・製作・据付けをそれぞれ別会社の形態で専門化する三位一体の事業体制をとることとした
    • [12]つねきちボイラA型シリーズの受注量は昭和12年の88缶から13年160缶、14年は241缶と大幅に増えつづけた
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [10]昭和13年12月、従来から田熊を社長として汽罐の製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併し、資本金は350万円となり、同時に東京出張所を開設した

用地の買収は1939年4月に9万2400平方メートルで手続きが済んだが、陸軍当局は水際に沿って100メートルを超える幅の敷地を持つことを許さず、工場の敷地は細く長い形になるほかなかった。設立と同時に工事の始まった播磨工場は、こうして軍や官庁の事情に形を左右された。次の壁は建屋の鉄鋼工作物築造許可で、申請は認められなかった。原因を探ったのは茶谷保三郎副社長らの陳情と加茂正雄博士の働きかけである。わかったのは書類の食い違いだった。国内に製作例のない舶用高圧缶の製造を田熊汽罐製造に任せる狙いから、商工省は工場設置願を即座に認可していたのに、鉄鋼使用願の中身はつねきちA型の説明で埋まっていた。説明を重ねた末、1940年5月28日に鋼材600トンでの建造が許され、1942年12月5日に完成した播磨工場はその日から動き出した。設備をどこに置くかを決めたのは需要ではなく統制だった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [13]用地買収の過程で陸軍当局が「水面に沿って幅100メートル以上の敷地取得は認めない」との意向を固持したため工場敷地は細長い地形にならざるを得ず、昭和14年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [15]工場建屋の建設にとりかかるため鉄鋼工作物建造許可を申請したところ、この申請が不許可となった
    • [16]茶谷副社長らの陳情と加茂博士の働きかけで、商工省が軍部の意向も酌み当時わが国で製作されていなかった舶用高圧缶をつくらせる意図から工場設置願を即決処理なみに認可したが、鉄鋼使用願にはそのことが記載されず「つねきちA型」の説明ばかりが述べられていたため「当初の方針と全く異なり、建設に及ばず」と決裁されたことが判明した
    • [17]繰り返し説明した結果、昭和15年5月28日に鋼材600トンを使用する建造許可が下り、17年12月5日に竣工式と始業式を行って播磨工場は即日稼働した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [14]設立と同時に現在の高砂市に播磨工場の建設に着手し、昭和17年12月にこれが操業を開始した
参考文献[1]-[17]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
    • [1]昭和12年7月に突発した日中戦争の急拡大にともない生産力の拡充が国防上の急務となり、その基盤・原動力であるボイラの増設が欠かせないことからボイラ需要がにわかに増大した
    • [2]つねきち小型ボイラの受注・製作数は昭和11年の14缶から12年は88缶と激増し、13年はさらに倍増した
    • [3]常吉は昭和11年に田熊常吉研究所を設立したときから新鋭設備の整った大規模工場の建設を考えていたが、ボイラ需要の急増に研究所の生産能力は到底対応しきれなかった
    • [4]昭和12年9月の統制三法(軍需工業動員法適用法・輸出入品等臨時措置法・臨時資金調整法)公布により会社の設立・増資・合併は許可制となり、田熊研究所の資本増加は倍額増資が限度とされた
    • [5]軍需生産に欠かせぬボイラの生産が事業目的である以上、臨時資金調整法などで資金・資材とも最優先の甲種産業として優遇されると考え、常吉は茶谷保三郎・藤田好三郎と相談のうえ研究所とは別に田熊汽罐製造株式会社を創立することとした
    • [7]田熊常吉研究所は設立後間もない昭和11年7月以降、安宅商会から資金援助を受け、ボイラの一手販売契約を結んでいた
    • [8]昭和13年6月の田熊汽罐製造の設立にあたり、安宅商会は資本金の半額出資と運転資金の全面的支援を引き受け、その見返りに同社製ボイラとその据付け工事の一手販売権を握った
    • [9]新会社設立には生保界の名門仁寿生命保険の下郷伝平社長が協力・参加することになり、有力な協力者を得たこともあって設立計画は申請後わずか1カ月で認可された
    • [11]昭和14年3月31日、ボイラの据付け・運転とボイラマンの指導を事業目的とする田熊汽力工事株式会社(資本金18万円)を設立し、研究・製作・据付けをそれぞれ別会社の形態で専門化する三位一体の事業体制をとることとした
    • [12]つねきちボイラA型シリーズの受注量は昭和12年の88缶から13年160缶、14年は241缶と大幅に増えつづけた
    • [13]用地買収の過程で陸軍当局が「水面に沿って幅100メートル以上の敷地取得は認めない」との意向を固持したため工場敷地は細長い地形にならざるを得ず、昭和14年4月に9万2400平方メートルの買収手続きをすべて終えた
    • [15]工場建屋の建設にとりかかるため鉄鋼工作物建造許可を申請したところ、この申請が不許可となった
    • [16]茶谷副社長らの陳情と加茂博士の働きかけで、商工省が軍部の意向も酌み当時わが国で製作されていなかった舶用高圧缶をつくらせる意図から工場設置願を即決処理なみに認可したが、鉄鋼使用願にはそのことが記載されず「つねきちA型」の説明ばかりが述べられていたため「当初の方針と全く異なり、建設に及ばず」と決裁されたことが判明した
    • [17]繰り返し説明した結果、昭和15年5月28日に鋼材600トンを使用する建造許可が下り、17年12月5日に竣工式と始業式を行って播磨工場は即日稼働した
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
    • [6]昭和13年、資本金300万円をもって設立
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [10]昭和13年12月、従来から田熊を社長として汽罐の製作販売を行っていた田熊研究所を吸収合併し、資本金は350万円となり、同時に東京出張所を開設した
    • [14]設立と同時に現在の高砂市に播磨工場の建設に着手し、昭和17年12月にこれが操業を開始した

1945年〜焼け残った一点への集約と、閉鎖から再開までの二カ月

創立から保管してきた重要文書の大半は、書庫とともに焼失した。1945年6月の空襲で、尼崎と神戸の両工場と本社事務所が次々に失われ、被害を受けずに済んだのは主力の播磨工場だけだった。田熊汽罐製造は事業を丸ごと播磨工場に集め、そこから戦後の立て直しを図ると決め、1946年2月には本店もそちらへ移した。ただ、鉱工業生産は戦前の2割程度にとどまり、鉄鋼や石炭といった基礎産業がひどく落ち込んでいたため、ボイラの需要が戻る見込みはなかった。終戦直後に得た受注は、鉄道省機械課に頼み込んで1946年2月に取ったたて型缶4缶ほどにすぎない。徴用工と動員学徒が解散した後も900人近い従業員を抱え、依頼があれば手持ちの材料でフライパン、クワ、粉ひき機をつくって糊口をしのいだ。1945年12月に播磨工場で結成された労働組合は、荒れ狂うインフレを背景に賃金改善を強く求めるようになった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [18]2階建ての書庫も昭和20年6月に被災し、会社創立以来の重要文書類のほとんどが灰となった
    • [19]戦災で尼崎・神戸両工場と本社事務所を相次いで失ったが、主力の播磨工場だけは無傷で残った
    • [21]終戦後しばらくは鉱工業生産が戦前水準の2割そこそこで低迷し、鉄鋼・石炭など基礎産業も極度の不振でボイラ需要の回復は期待できず、終戦直後の受注は鉄道省機械課に懇請して昭和21年2月に受注したたて型缶4缶ぐらいであった
    • [22]多数の徴用工や動員学徒は解散し正規従業員にも退職者が続出したが、なお900人近い従業員を抱えており、依頼さえあれば手持ちの材料でフライパン、スキ、クワ、粉ひき機など一般生活用品を播磨工場でつくって糊口をしのいだ
    • [23]昭和20年12月に播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成され、荒れ狂うインフレで生計費が急騰するなか、組合員の生活窮迫を理由に賃金改善などを強く要求するようになった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]本社および焼残り設備を播磨工場に移設して生産力を集中し、昭和21年2月には本店も同地へ移した

1946年3月に労働組合が突きつけた要求に対し、会社は9月末までの現状維持か、3カ月分の給与を退職金として支払ったうえでの閉鎖かという二者択一を迫った。組合執行部は後者を選び、3月31日付で全従業員を解雇して播磨工場は閉鎖された。閉鎖中、茶谷保三郎社長ら役員と幹部は再開の方途を練り、担い手は技能と経験を持つ集団でなくてはならないと痛感していた。同じ志を持つ従業員グループが決議文を掲げて早期再開を訴え、工場は2カ月後の1946年6月1日、工場71人・事務所41人の計112人という規模で再発足した。同年7月10日には黒田仙吉氏が第4代社長に就いた。再開直後の1946年8月期の売上高は210万円、当期は29万円の損失であった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [24]昭和21年3月の組合の要求に対し、会社は「9月末までは現状を維持するしかない」「さもなければ約3カ月分の給与を退職金として提供し会社を閉鎖するほかはない」との方針を固め、組合に二者択一を迫った
    • [25]組合執行部は大会にはかった結果として閉鎖を選ぶと通告し、会社は退職金を支払って全従業員を解雇、昭和21年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [26]播磨工場の閉鎖中、茶谷社長をはじめ役員と多くの幹部は再開への方途を練り、再開の担い手は技能・経験を持った愛社心のある集団でなくてはならぬことを痛感した
    • [27]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を強く訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の昭和21年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [28]播磨工場の再開を機に昭和21年7月10日、茶谷保三郎社長ら役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した
    • [29]昭和21年8月期(第17期)の売上高は2,101千円、当期は295千円の損失であった

動き出した工場を救ったのは在庫であった。1946年秋、戦時に大量生産して播磨工場に滞留していた艦本式22号缶を米進駐軍が求めているとの情報が入り、三菱商事横浜支店の働きかけで米第8軍司令部との話がまとまった。司令部の意向は進駐軍基地と家族住宅の暖房設備であり、代金は日本政府の終戦処理費から支払われた。石炭手だきの舶用缶は陸用のストーカだきへ改造され、1947年から図面作成と製作が並行して進んだ。一方、1946年8月の戦時補償打切りで軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは払込済資本金1100万円の2倍を超える痛手であった。旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんして資本金の切捨てを避け、1948年11月15日に新旧勘定を併合した。軍需で積み上げた仕掛りが、そのまま占領期の需要へ横滑りした。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [30]昭和21年秋、戦時に大量生産して工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけて話合いは急速に進んだ
    • [31]米軍当局は「進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要である。ボイラの現在庫を調査し折り返し知らせて欲しい。支払いは日本政府の終戦処理費で行う」との意向であり、会社は大量の注文を受けることができた
    • [32]昭和22年、石炭手だきの舶用缶である艦本式22号缶を進駐軍キャンプのボイラ設備とするための図面作成が第8軍司令部のL-4セクションで始まり、播磨工場では陸用(ストーカだき)に改造するための設計・製作が並行して進められた
    • [33]昭和21年8月11日の戦時補償打切りにより、戦時中に軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは当時の払込済資本金1100万円の2倍以上にあたった
    • [34]2600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを行わずに処理して、昭和23年11月15日に新旧勘定を合併し再建整備を完了した
参考文献[18]-[34]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [18]2階建ての書庫も昭和20年6月に被災し、会社創立以来の重要文書類のほとんどが灰となった
    • [19]戦災で尼崎・神戸両工場と本社事務所を相次いで失ったが、主力の播磨工場だけは無傷で残った
    • [21]終戦後しばらくは鉱工業生産が戦前水準の2割そこそこで低迷し、鉄鋼・石炭など基礎産業も極度の不振でボイラ需要の回復は期待できず、終戦直後の受注は鉄道省機械課に懇請して昭和21年2月に受注したたて型缶4缶ぐらいであった
    • [22]多数の徴用工や動員学徒は解散し正規従業員にも退職者が続出したが、なお900人近い従業員を抱えており、依頼さえあれば手持ちの材料でフライパン、スキ、クワ、粉ひき機など一般生活用品を播磨工場でつくって糊口をしのいだ
    • [23]昭和20年12月に播磨工場で田熊汽罐製造労働組合が結成され、荒れ狂うインフレで生計費が急騰するなか、組合員の生活窮迫を理由に賃金改善などを強く要求するようになった
    • [24]昭和21年3月の組合の要求に対し、会社は「9月末までは現状を維持するしかない」「さもなければ約3カ月分の給与を退職金として提供し会社を閉鎖するほかはない」との方針を固め、組合に二者択一を迫った
    • [25]組合執行部は大会にはかった結果として閉鎖を選ぶと通告し、会社は退職金を支払って全従業員を解雇、昭和21年3月31日付で播磨工場を閉鎖した
    • [26]播磨工場の閉鎖中、茶谷社長をはじめ役員と多くの幹部は再開への方途を練り、再開の担い手は技能・経験を持った愛社心のある集団でなくてはならぬことを痛感した
    • [27]同じ志を持つ従業員グループが決議文を会社に提示して早期再開を強く訴え、播磨工場は閉鎖から2カ月後の昭和21年6月1日、従業員112人(工場71人・事務所41人)の規模で再発足した
    • [28]播磨工場の再開を機に昭和21年7月10日、茶谷保三郎社長ら役員が退任し、新しく黒田仙吉が第4代社長に就任した
    • [29]昭和21年8月期(第17期)の売上高は2,101千円、当期は295千円の損失であった
    • [30]昭和21年秋、戦時に大量生産して工場にストックしていた艦本式22号缶を米進駐軍が欲しがっているとの情報に接し、三菱商事横浜支店が米第8軍司令部へ働きかけて話合いは急速に進んだ
    • [31]米軍当局は「進駐軍基地と家族住宅の暖房設備が必要である。ボイラの現在庫を調査し折り返し知らせて欲しい。支払いは日本政府の終戦処理費で行う」との意向であり、会社は大量の注文を受けることができた
    • [32]昭和22年、石炭手だきの舶用缶である艦本式22号缶を進駐軍キャンプのボイラ設備とするための図面作成が第8軍司令部のL-4セクションで始まり、播磨工場では陸用(ストーカだき)に改造するための設計・製作が並行して進められた
    • [33]昭和21年8月11日の戦時補償打切りにより、戦時中に軍へ納入したボイラ代金など約2600万円が回収不能となり、これは当時の払込済資本金1100万円の2倍以上にあたった
    • [34]2600万円の特別損失は旧勘定の積立金・利益金と仕掛り品の評価益で補てんし、資本金の切捨てや所有資材の評価替えを行わずに処理して、昭和23年11月15日に新旧勘定を合併し再建整備を完了した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [20]本社および焼残り設備を播磨工場に移設して生産力を集中し、昭和21年2月には本店も同地へ移した

1949年〜株式上場と資本の充実、創業者の死後に導入した両端の技術

ボイラのタクマという企業イメージを引き上げることは、資金の調達と並ぶ上場の狙いであり、この規模の会社としては異例の選択だった。田熊汽罐製造は、証券取引所が再開された1949年5月にこの機会をとらえて株式を上場した。登録は5月14日に大阪、16日に東京、少し遅れて7月4日に神戸で行い、株数は合計30万株、主幹事は野村証券が務めた。1950年6月の朝鮮動乱に次いで、翌1951年1月に警察予備隊が発足した。北海道をはじめ各地の基地向けにCD型ボイラの注文が伸び、1951年3月期の売上高は前期のおよそ10倍の1億7807万円に跳ね上がった。それでも運転資金は銀行借入れに頼り、1951年9月末の借入金は1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた。増資を重ね、資本金は4年半で8倍強の2億6000万円となった。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [35]当社程度の経営規模の会社の上場は珍しかったが、資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるため、あえて上場へ踏みきった
    • [36]昭和24年5月、証券取引所が再開された機会に当社も株式を上場した
    • [37]昭和24年5月14日に大阪証券取引所、同16日に東京証券取引所、やや遅れて7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来、野村証券が主幹事証券会社となった
    • [38]昭和26年1月に警察予備隊が正式に発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラの受注が増え、26年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増した
    • [39]株式を上場したものの事業資金の調達は銀行借入れに頼らざるを得ず、昭和26年9月末には借入金が1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
    • [40]昭和24年5月に資本金3200万円、26年12月に6400万円、27年10月に1億2800万円、28年12月に2億6000万円へ増資した

1953年8月14日、田熊常吉氏は取締役会長を退き、黒田仙吉氏が会長に、田中益三氏が第5代社長に就いた。田中益三氏は1919年に大阪高等工業学校機械科を卒えて汽車製造に入り、1937年に田熊研究所へ転じ、田熊汽罐製造の創立時から研究部を担当した技術者である。同じ年の12月22日午前2時5分、田熊常吉氏は芦屋市呉川町の自宅で81歳の生涯を閉じた。1955年3月期の売上高は5億7600万円、生産高は年産300缶を超え、据え付けた総数は2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達していた。製品は大型・中型の陸上ボイラのほかダウサム、スメルター、廃熱、ソーダ回収炉などの特殊缶と舶用缶に広がり、1949年には戦後の機械輸出の先頭を切って台湾へ自家発電用ボイラを輸出していた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [41]昭和28年8月14日、田熊常吉は取締役会長を退き、黒田社長が会長に、田中益三が第5代社長にそれぞれ就任した
    • [42]田中益三は明治29年生まれ、大正8年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、昭和12年に田熊研究所へ転じ、13年6月の田熊汽罐製造創立にあたり研究部担当の取締役に就任した
    • [43]田熊常吉は昭和28年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [44]生産高は年産300缶を越え総数2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達し、昭和30年3月期の売上高は5億7600万円を示した
    • [45]製品は大型・中型の一般陸上ボイラのほか、ダウサムボイラ、スメルターボイラ、廃熱ボイラ、ソーダ回収炉ボイラ等の特殊汽缶および舶用ボイラ等各種にわたった
    • [46]昭和24年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、以来十数基を数えている

発電用の大型ボイラには、自社技術だけでは入れなかった。1950年代の欧米では蒸気圧力250キログラム毎平方センチ、温度600度を超える発電用ボイラが実用に運転されていたのに対し、自家発電用ボイラの客先は蒸気タービンや発電機を含む発電プラント全体の保証を要求するため、国内に納入実績のない田熊汽罐製造の参入は甚だ困難であった。強制貫流ボイラは大型ドラムを使わない方式で、これなら工場を広げずとも大型・高温・高圧の分野に踏み込めた。まず蒸発量毎時100トン程度の産業用まで事業を伸ばすと決め、スイスのスルザー・ブラザーズ社に技術提携を打診した。相手は事業用火力発電への参入を主な狙いとしていたため、最初は気乗りしなかった。それでも交渉の結果、1958年6月の調印で、蒸発量毎時150トンまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権を得た。技術援助契約を結んだのは1959年6月である。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [47]昭和20年代の初め、欧米先進国では発電用ボイラのつくりだす蒸気の圧力は250kg/cm2、温度は600度を超え、1缶あたりの蒸発量が500t/h以上のものが実用に運転されていた
    • [48]自家発電ボイラの領域では客先から蒸気タービン・発電機などを含めた発電プラント全体の保証を要求され、国内に納入実績がない当社の参入は甚だ困難であった
    • [49]この強制貫流ボイラは大型ドラムを必要としないため、当社は工場設備を拡張することなく大型・高温・高圧ボイラ分野への展開が可能となった
    • [50]超大型ボイラ分野への進出には工場規模の大拡張が必要なため、当社はまず蒸発量100t/h・蒸気圧力100kg/cm2程度の産業用ボイラの分野まで事業を拡大する方針で臨み、スイスのスルザー・ブラザーズ社との技術提携を希望した
    • [51]スルザー社は日本の事業用火力発電用ボイラへの参入を主目的としていたため当初は提携に気乗り薄であったが、交渉の結果、昭和33年6月に技術提携の調印がなされ、蒸発量150t/hまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権が供与された
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [52]昭和34年6月、スイス・スルザー社とスルザー・モノチューブ蒸気発生装置及び附属装置の技術援助契約を締結

米国クレイトン社が1931年に考案した蒸気発生機は、1954年ごろから日本にも輸入されるようになった。名古屋国立病院での運転ぶりが好評だという知らせを本社に届けたのは名古屋出張所である。小型ボイラでは完全自動化をめぐって競争が進んでいた。強制貫流ボイラの研究をすでに手がけていた田熊汽罐製造は、特別研究班を組み、宮城酪農に入ったW-100型で性能を試して機能を確認した。1957年5月には研究所と技術課の責任者がカリフォルニア州エルモンテに送られ、米国内の販売・サービスの仕組みまで調べた。クレイトン社にとっても、日本は輸入の管理が厳しく部品の補充に手間取る市場で、技術協力の相手を探していた。交渉がまとまり製造・販売権を得たのは1959年2月である。この間の1957年10月には台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラの技術輸出援助契約を結び、1960年3月期には売上高11億2579万円、従業員681人の規模となった。発明で立った会社は、買った技術を播磨工場で国産化する会社へ移っていた。

  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [53]米国クレイトン社は1931年に独特の構想で蒸気発生機を考案し、わが国でも昭和29年ごろから輸入されるようになり、その一つが名古屋国立病院で運転され好評であるとの情報が当社名古屋出張所から本社へもたらされた
    • [54]すでに強制貫流ボイラの研究開発を進めていた当社は直ちに特別研究班を編成し、宮城酪農に輸入されたW-100型を詳細に調査して性能テストを実施し、小型産業用ボイラとして市場に適応しうる可能性が大きいとの判断を得た
    • [55]昭和32年5月、当社は研究所および技術課の責任者をカリフォルニア州エルモンテのクレイトン社へ派遣し、詳細な技術内容と米国内での同機の販売・サービス機構を調査させた
    • [56]当時の日本政府の輸入管理は非常に厳しく輸入許可を受けるのがむずかしいうえ部品の補充にもかなりの時間がかかり、納入後のアフターサービスが不可欠であることから、クレイトン社は日本での技術協力会社を求めていた
    • [57]昭和34年2月、日本政府の認可を得てクレイトン蒸気発生機の製造・販売権を正式に取得した
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [58]昭和32年10月、台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラー並びに附属装置の技術輸出援助契約を締結
    • [59]昭和35年3月期の売上高は1,125,798千円、従業員は681人であった
参考文献[35]-[59]
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
    • [35]当社程度の経営規模の会社の上場は珍しかったが、資金調達目的のほか「ボイラのタクマ」の企業イメージを高めるため、あえて上場へ踏みきった
    • [36]昭和24年5月、証券取引所が再開された機会に当社も株式を上場した
    • [37]昭和24年5月14日に大阪証券取引所、同16日に東京証券取引所、やや遅れて7月4日に神戸証券取引所へ合計30万株の上場を登録し、以来、野村証券が主幹事証券会社となった
    • [38]昭和26年1月に警察予備隊が正式に発足した前後から北海道を中心に全国各地の予備隊基地へのCD型ボイラの受注が増え、26年3月期の売上高は前期の約10倍の1億7807万円、当期利益も1089万円と倍増した
    • [39]株式を上場したものの事業資金の調達は銀行借入れに頼らざるを得ず、昭和26年9月末には借入金が1億2440万円と資本金3200万円の4倍に近づいた
    • [41]昭和28年8月14日、田熊常吉は取締役会長を退き、黒田社長が会長に、田中益三が第5代社長にそれぞれ就任した
    • [42]田中益三は明治29年生まれ、大正8年に大阪高等工業学校機械科を卒業して汽車製造に入社、昭和12年に田熊研究所へ転じ、13年6月の田熊汽罐製造創立にあたり研究部担当の取締役に就任した
    • [43]田熊常吉は昭和28年12月22日午前2時5分、芦屋市呉川町の自宅で死去した。享年81
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
    • [40]昭和24年5月に資本金3200万円、26年12月に6400万円、27年10月に1億2800万円、28年12月に2億6000万円へ増資した
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
    • [44]生産高は年産300缶を越え総数2350余缶・伝熱面積23万平方メートル以上に達し、昭和30年3月期の売上高は5億7600万円を示した
    • [45]製品は大型・中型の一般陸上ボイラのほか、ダウサムボイラ、スメルターボイラ、廃熱ボイラ、ソーダ回収炉ボイラ等の特殊汽缶および舶用ボイラ等各種にわたった
    • [46]昭和24年には戦後機械輸出のトップをきって台湾に自家発電用ボイラを輸出し、以来十数基を数えている
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
    • [47]昭和20年代の初め、欧米先進国では発電用ボイラのつくりだす蒸気の圧力は250kg/cm2、温度は600度を超え、1缶あたりの蒸発量が500t/h以上のものが実用に運転されていた
    • [48]自家発電ボイラの領域では客先から蒸気タービン・発電機などを含めた発電プラント全体の保証を要求され、国内に納入実績がない当社の参入は甚だ困難であった
    • [49]この強制貫流ボイラは大型ドラムを必要としないため、当社は工場設備を拡張することなく大型・高温・高圧ボイラ分野への展開が可能となった
    • [50]超大型ボイラ分野への進出には工場規模の大拡張が必要なため、当社はまず蒸発量100t/h・蒸気圧力100kg/cm2程度の産業用ボイラの分野まで事業を拡大する方針で臨み、スイスのスルザー・ブラザーズ社との技術提携を希望した
    • [51]スルザー社は日本の事業用火力発電用ボイラへの参入を主目的としていたため当初は提携に気乗り薄であったが、交渉の結果、昭和33年6月に技術提携の調印がなされ、蒸発量150t/hまでの強制貫流ボイラの技術と製造販売権が供与された
    • [53]米国クレイトン社は1931年に独特の構想で蒸気発生機を考案し、わが国でも昭和29年ごろから輸入されるようになり、その一つが名古屋国立病院で運転され好評であるとの情報が当社名古屋出張所から本社へもたらされた
    • [54]すでに強制貫流ボイラの研究開発を進めていた当社は直ちに特別研究班を編成し、宮城酪農に輸入されたW-100型を詳細に調査して性能テストを実施し、小型産業用ボイラとして市場に適応しうる可能性が大きいとの判断を得た
    • [55]昭和32年5月、当社は研究所および技術課の責任者をカリフォルニア州エルモンテのクレイトン社へ派遣し、詳細な技術内容と米国内での同機の販売・サービス機構を調査させた
    • [56]当時の日本政府の輸入管理は非常に厳しく輸入許可を受けるのがむずかしいうえ部品の補充にもかなりの時間がかかり、納入後のアフターサービスが不可欠であることから、クレイトン社は日本での技術協力会社を求めていた
    • [57]昭和34年2月、日本政府の認可を得てクレイトン蒸気発生機の製造・販売権を正式に取得した
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」
    • [52]昭和34年6月、スイス・スルザー社とスルザー・モノチューブ蒸気発生装置及び附属装置の技術援助契約を締結
    • [58]昭和32年10月、台湾機械股分有限公司とつねきち型ボイラー並びに附属装置の技術輸出援助契約を締結
    • [59]昭和35年3月期の売上高は1,125,798千円、従業員は681人であった

筆者考察

田熊汽罐製造という会社の形は、経営者が選んだというより、外から押し込まれて決まった部分が大きい。研究所のままでは資本の増加が倍額までしか認められないから別会社を興し、軍需に直結する事業目的を掲げれば資材も資金も優先されるから、そこへ賭けた。工場敷地が細長いのは陸軍が水辺の幅を制限したためであり、建屋の鋼材使用が一度は拒まれたのも、舶用高圧缶をつくらせたい商工省の意図と申請書の中身がずれていたからだった。会社が自分で決められたのは、与えられた枠のどこへ設備を置くかだけである。そして尼崎と神戸を焼かれたとき、たまたま残ったその一点が、戦後の出発点になった。

戦後の伸びを支えたのも、自社の発明ではなかった。在庫の艦本式22号缶は進駐軍基地の暖房へ振り替えられ、朝鮮動乱と警察予備隊が受注を運んできた。創業者の死から5年ののち、会社はスイスと米国から技術を買っている。大型では発電プラント全体の保証を求められて入れず、小型では完全自動の蒸気発生機が求められていて、どちらも水管缶の延長では届かない領域だった。買った技術を播磨工場で国産化するという手順を踏んだ時点で、発明者の名を冠した会社は、発明に依存しない会社へ変わっていた。

1938年〜1961年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 8 n/a 1 1 12.5% n/a
1954年03月期 単体 13 +54.5% 1 1 9.6% n/a
1955年03月期 単体 12 ▲8.8% 1 0 7.1% n/a
1956年03月期 単体 11 ▲5.6% 0 n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 18 +53.8% n/a 0 4.4% n/a
1958年03月期 単体 20 +11.7% n/a 1 6.5% n/a
1959年03月期 単体 17 ▲10.9% n/a 1 8.4% n/a
1960年03月期 単体 21 +20.1% n/a 1 6.5% n/a
1961年03月期 単体 31 +45.1% n/a 2 6.7% n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版)、(1959年版)半期合算、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版 半期合算

出典・参考

7件
出典・参考
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第3章「戦時の創業(昭和13〜20年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第4章「戦後の復興(昭和20〜31年)」
  • タクマ50年史(タクマ、1989年)第5章「高度成長と多角経営(昭和31〜41年)」
  • 株式会社年鑑 1950年版「田熊汽罐製造」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 43_その他機械「田熊汽罐製造」
  • 株式会社年鑑 1955年版「田熊汽罐製造」
  • 株式会社年鑑 1960年版「田熊汽罐製造」

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