カナデビア:E.H.ハンターの大阪鉄工所創立と因島船渠の買収
1881年〜英国人E.H.ハンター氏が安治川岸に開いた大阪鉄工所と、西南戦争後の不況
1881年4月1日、英国人貿易商のE.H.ハンター氏は大阪・安治川の川岸で大阪鉄工所を開業した。E.H.ハンター氏は神戸の居留地で商会を営み、1877年の西南戦争で軍需物資を扱って資金を蓄えていた。戦争を境に大阪発の汽船航路が増え、E.H.ハンター氏は帆船が汽船に置き換わる日が近いとみた。民間の造船所は官営工場の払い下げを受けた三社が主で、政府と関係のない外国人の創業は例外だった。用地は材木問屋の門田三郎兵衛氏が出し、1879年2月にE.H.ハンター氏ら3人が1万円ずつ投じて建設に入った。工作機械を外国製で揃え、開業の年の暮れまでに蒸気船33隻を修繕した。官の後ろ盾を持たないE.H.ハンター氏は、汽船の修繕という既存の需要から参入したとみられる。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.創業当時の業容」
- [1]1881年4月1日に開業式を挙げ、商号を大阪鉄工所とした(名義人は嫡子の平野竜太郎)
- [6]工場設備はすべて外国製。英国領事報告によれば1881年末までに蒸気船33隻を修繕した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.創業まで」
- [2]1874年10月に神戸居留地でE.H.ハンター氏商会を開き、1877年の西南戦争で軍需物資を扱って利益を上げ商会の基礎を固めた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.創業」
- [3]西南戦争を機に大阪中心の汽船運航が伸び、ハンターは帆走船の汽船化が遠くないと確信して鉄工造船所を計画した
- [5]門田三郎兵衛が春日出の所有地を提供し、1879年2月にハンター・秋月清十郎・佐畑信之が各1万円を出して建設に着手した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [4]三菱・川崎・石川島が官の保護を受けたのに対し、大阪鉄工所は政府と無関係に外国人ハンターが創立した
開業から間もなく、西南戦争の好況が去って大阪鉄工所の受注は減少した。安治川を通る蒸気船は月に数隻で、大阪で蒸気動力を使う工場も8か所にとどまった。出資を約した人々は出資を見送り、兵庫造船局の佐畑信之氏も官の立場から関与を打ち切って、資金が不足した。E.H.ハンター氏と総理の秋月清十郎氏は本業の外で資金を得ようと、1882年に芦屋でアンチモニーの精錬所を設立した。1884年には兵庫に精米所を建てて米の輸出を狙ったが、精錬は量が出ず精米所も火災で焼けた。E.H.ハンター氏は1884年3月、鉄工所の設備と事業を門田三郎兵衛氏に洋銀8万7,000ドルの分割払いで譲渡した。造船に通じない門田三郎兵衛氏は代金を払えず、同年末には休業寸前に陥った。副業の収益で本業の赤字を埋める施策は、需要そのものの不足には効かなかったのだろう。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.事業のつまずき」
- [7]西南戦争後の好況はつかの間に去り、財界は不況に陥った
- [8]安治川を航行する蒸気船は月わずか数隻、大阪で蒸気力を使う工場は8か所で機械の需要も限られた
- [10]佐畑は工部省との関係で事業に関われず、出資予定者も躊躇した。ハンターと秋月は1882年に芦屋に日本初のアンチモニー精錬所を設けた
- [11]1884年に兵庫出在家町に精米所を建てたが、精錬は量的成果が上がらず、精米所は間もなく火災で全焼した
- [12]1884年3月末、設備と事業一切を門田三郎兵衛に洋銀8万7,000ドル・10回分割払いで譲渡する契約を結んだ
- [13]造船に素人の門田は分割払いもできず、1884年末に休業寸前となり、経営はハンターに戻った
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [9]大阪鉄工所は一時資金難に苦しんだ
参考文献[1]-[13]
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.創業当時の業容」
- [1]1881年4月1日に開業式を挙げ、商号を大阪鉄工所とした(名義人は嫡子の平野竜太郎)
- [6]工場設備はすべて外国製。英国領事報告によれば1881年末までに蒸気船33隻を修繕した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.創業まで」
- [2]1874年10月に神戸居留地でE.H.ハンター氏商会を開き、1877年の西南戦争で軍需物資を扱って利益を上げ商会の基礎を固めた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.創業」
- [3]西南戦争を機に大阪中心の汽船運航が伸び、ハンターは帆走船の汽船化が遠くないと確信して鉄工造船所を計画した
- [5]門田三郎兵衛が春日出の所有地を提供し、1879年2月にハンター・秋月清十郎・佐畑信之が各1万円を出して建設に着手した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [4]三菱・川崎・石川島が官の保護を受けたのに対し、大阪鉄工所は政府と無関係に外国人ハンターが創立した
- [9]大阪鉄工所は一時資金難に苦しんだ
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.事業のつまずき」
- [7]西南戦争後の好況はつかの間に去り、財界は不況に陥った
- [8]安治川を航行する蒸気船は月わずか数隻、大阪で蒸気力を使う工場は8か所で機械の需要も限られた
- [10]佐畑は工部省との関係で事業に関われず、出資予定者も躊躇した。ハンターと秋月は1882年に芦屋に日本初のアンチモニー精錬所を設けた
- [11]1884年に兵庫出在家町に精米所を建てたが、精錬は量的成果が上がらず、精米所は間もなく火災で全焼した
- [12]1884年3月末、設備と事業一切を門田三郎兵衛に洋銀8万7,000ドル・10回分割払いで譲渡する契約を結んだ
- [13]造船に素人の門田は分割払いもできず、1884年末に休業寸前となり、経営はハンターに戻った
1885年〜日本人技術者佐山芳太郎氏の招へいと、日清戦争の繁忙
門田三郎兵衛氏の経営が行き詰まった後、E.H.ハンター氏は1885年初めに大阪鉄工所を取り戻して再建に入った。1884年12月に西洋型船舶検査規則が定められ、多くの汽船が大修繕を迫られた。同じ年の5月には船主55人が船を持ち寄り、有限責任大阪商船会社が発足していた。E.H.ハンター氏は大阪商船の木造汽船淀川丸を受注し、1886年1月に引き渡した。以後は大阪商船から修繕と新造を次々に受け、業績を回復させた。1888年には腐った木造ドックを人造石で改築し、1,500総トンの船を入れられるようにした。規則が生んだ修繕需要と、地元の船会社という安定した得意先が重なって再建が進んだと推察される。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.事業のつまずき」
- [14]大阪鉄工所は再びハンターの経営に戻り、1885年初頭から再建に踏み出した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.事業の再建と施設の拡充」
- [15]1884年12月に西洋型船舶検査規則が制定され、ほとんどの船舶が大修繕を要することになった
- [19]1883年築造の木造乾ドックを人造石で改築拡張し、入渠能力1,500総トンとして1888年に完成した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.明治初期の海運業界」
- [16]有限責任大阪商船会社は1884年5月1日、資本金120万円・参加船主55名で発足した
- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「年表」
- [17]1886年1月、淀川丸が大阪鐵工所で完工した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [18]1885年以後、大阪商船から修繕船工事や新造船を次々に受注し、それを足場に業績が向上した
創業時から技術を指導した英国人技師のJ.F.カルダー氏は1884年12月に去り、G.M.エラートン氏も翌年に辞めた。E.H.ハンター氏は工部省兵庫造船局から佐山芳太郎氏を3年間借り受け、1885年9月に造船主任に据えた。同年12月には兵庫造船局の機械設計主任だった家入安氏も入所し、機関主任に就いた。以後の再建は外国人を雇わず、日本人技術者だけで進めた。1888年には国産の浚渫機が引き取りを拒まれ、佐山芳太郎氏と家入安氏が責任を負って退いた。それでも1890年3月、大阪商船の球磨川丸を国内初の鋼船として完成させた。大阪商船は政府の助成金でこうした鋼船を大阪鉄工所などに発注し、国内造船所の技術を押し上げた。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.新技術に挑む」
- [20]J.F.カルダーは1884年12月に辞職して三菱長崎造船所へ、G.M.エラートンも1885年に辞した
- [21]工部省兵庫造船局の造船科主任佐山芳太郎氏を、1885年9月付の3年間貸渡の辞令で迎え造船主任とした
- [22]1885年12月、兵庫造船局の機械設計主任家入安が入所し機関主任となった
- [23]同業他社が外国人技術者を雇う中、再建は日本人だけの手で取り組んだ
- [24]1888年1月完工の浚渫機は故障で引き取りを拒まれ、造船・造機主任の佐山と家入が責任を負って退いた
- [25]1890年3月完工の大阪商船球磨川丸(558総トン)は当所初の鋼製汽船で、国内初の鋼船であった
- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「第1章 創業期(明治17年~26年)」
- [26]大阪商船は政府助成金で球磨川丸など鋼船を川崎・大阪鐵工所・三菱長崎で建造し、国内造船所の技術向上に寄与した
1894年に日清戦争が始まると、社船は徴用され、係留中の古船まで軍用に回された。その修繕が大阪鉄工所に集まり、舶用機関と陸上機械の受注も増加した。1895年3月には呉鎮守府から戦地用の汽艇8隻を50日で造るよう命じられ、期日の2日前に納めた。戦後は新造は木船だけに縮小したが、企業の設立ブームで陸上用の汽機・汽缶や鉱山機械の注文が続いた。職工は1890年の380人から1894年に500人を超え、製品の生産高は1893年の21万円から1895年に34万円へ増えた。ただ日本の造船業は、技術も設備もなお先進国に及ばなかった。船の修繕に陸上機械を重ねた構成が、新造船の受注が減少した時期の収益源になったと考えられる。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日清戦争による繁忙」
- [27]1894年、社船はすべて徴用され、国内係留の古船・老朽船まで軍用に供された
- [28]それらの修繕で繁忙を極め、舶用機関・陸上諸機械の製作も活況となった
- [29]1895年3月、呉鎮守府から50日で戦地用汽艇8隻の建造命令を受け、期日2日前に完工した
- [30]1895・96年の新造船は木造船だけだったが、企業ブームで陸上用汽機・汽缶、鉱山用機械などの需要が相次いだ
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.事業の基礎固まる」
- [31]職工は1890年380人、1894年500人超。主要製品の生産高は1893年21万円、1894年32万円、1895年34万円
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [32]民間造船業は整備されてきたが、造船業全体では技術・設備とも先進国に比べ劣っていた
参考文献[14]-[32]
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.事業のつまずき」
- [14]大阪鉄工所は再びハンターの経営に戻り、1885年初頭から再建に踏み出した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.事業の再建と施設の拡充」
- [15]1884年12月に西洋型船舶検査規則が制定され、ほとんどの船舶が大修繕を要することになった
- [19]1883年築造の木造乾ドックを人造石で改築拡張し、入渠能力1,500総トンとして1888年に完成した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.明治初期の海運業界」
- [16]有限責任大阪商船会社は1884年5月1日、資本金120万円・参加船主55名で発足した
- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「年表」
- [17]1886年1月、淀川丸が大阪鐵工所で完工した
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- [18]1885年以後、大阪商船から修繕船工事や新造船を次々に受注し、それを足場に業績が向上した
- [32]民間造船業は整備されてきたが、造船業全体では技術・設備とも先進国に比べ劣っていた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.新技術に挑む」
- [20]J.F.カルダーは1884年12月に辞職して三菱長崎造船所へ、G.M.エラートンも1885年に辞した
- [21]工部省兵庫造船局の造船科主任佐山芳太郎氏を、1885年9月付の3年間貸渡の辞令で迎え造船主任とした
- [22]1885年12月、兵庫造船局の機械設計主任家入安が入所し機関主任となった
- [23]同業他社が外国人技術者を雇う中、再建は日本人だけの手で取り組んだ
- [24]1888年1月完工の浚渫機は故障で引き取りを拒まれ、造船・造機主任の佐山と家入が責任を負って退いた
- [25]1890年3月完工の大阪商船球磨川丸(558総トン)は当所初の鋼製汽船で、国内初の鋼船であった
- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「第1章 創業期(明治17年~26年)」
- [26]大阪商船は政府助成金で球磨川丸など鋼船を川崎・大阪鐵工所・三菱長崎で建造し、国内造船所の技術向上に寄与した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日清戦争による繁忙」
- [27]1894年、社船はすべて徴用され、国内係留の古船・老朽船まで軍用に供された
- [28]それらの修繕で繁忙を極め、舶用機関・陸上諸機械の製作も活況となった
- [29]1895年3月、呉鎮守府から50日で戦地用汽艇8隻の建造命令を受け、期日2日前に完工した
- [30]1895・96年の新造船は木造船だけだったが、企業ブームで陸上用汽機・汽缶、鉱山用機械などの需要が相次いだ
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.事業の基礎固まる」
- [31]職工は1890年380人、1894年500人超。主要製品の生産高は1893年21万円、1894年32万円、1895年34万円
1895年〜範多竜太郎氏が継いだ所主の座と、因島船渠の買収
1895年6月、E.H.ハンター氏は第一線を退き、嫡子の範多竜太郎氏が大阪鉄工所の所主を継いだ。範多竜太郎氏は英国グラスゴー大学で土木・機械・造船を学び、1893年に学位を得て帰国していた。E.H.ハンター氏も退いた後なお出所し、決裁に加わった。範多竜太郎氏は職制を事務と技術に分け、技術には造船と造機の部長を置いた。造船奨励法に備えて東京帝国大学出の造船技術者を招き、大型船への体制も整えた。前年の1894年10月には、大阪府の注文で邦人設計のバケット式浚渫船、第二大浚丸を完成させていた。続いて大阪市の築港工事で、輸入浚渫船の組み立てと船体建造を一手に担った。他社が敬遠した浚渫船を先に手がけたことが、範多竜太郎氏の代の得意分野になったと推定される。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日立造船」の項
- [33]1895年にハンターが隠退し、嫡子範多竜太郎が所主となった
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の継承」
- [34]平野竜太郎は1889年にグラスゴー大学に入学し土木・機械・造船学を受講、1893年に土木工学の学位を得て帰国、範多家を創設した
- [35]ハンターは引退後も常に出所し、老主として決裁権を持って業務に携わった
- [36]総理・支配人制を総支配人・支配人制に改め、業務を事務と技術に分け、技術に造船・造機両部長を置いた
- [37]1895年に造船奨励法の実施に備え東京帝国大学出身の学士1名を、1898年に新卒工学士2名を入所させた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.浚渫船工事の開始」
- [38]1893年末に大阪府から委託を受け、1894年10月に邦人設計のバケット式浚渫船第二大浚丸を完工した
- [39]大阪市築港工事で輸入浚渫船の組み立て・船体建造・浚渫装置の組み立てを担当した
1896年、政府は造船奨励法を公布し、700総トン以上の鉄船・鋼船の国内建造に補助金を出した。安治川の工場は川幅と水深の制約から700総トン以上を造れず、範多竜太郎氏は1900年4月に桜島造船場を開設した。桜島の第1船、大阪商船の大義丸は1901年5月に竣工し、奨励法の適格船となった。1904年に日露戦争が始まると、海軍の指定工場として駆逐艦朝露と疾風を建造した。貨客船も1904・05年に4隻ずつ造り、8隻のうち6隻が奨励法の適格船だった。当時の国内の鋼船建造は年平均2万総トンほどで、大阪で目立つ造船所は大阪鉄工所と木津川筋の4社に限られた。範多竜太郎氏は技術者を海外へ送り出し、桜島を大型船の建造拠点に育てた。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.海運・造船保護政策の確立」
- [40]1896年3月に造船奨励法を公布し、700総トン以上の鉄船・鋼船の建造に補助金を交付した
- [41]安治川本工場は川幅・水深の関係で700総トン以上の建造が至難で、桜島に造船場を設け1900年4月に操業を始めた
- [42]大阪商船の大義丸(1,568総トン)は当所初の1,000総トン以上船で奨励法適格第1船、1901年5月竣工
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.日露戦争による繁忙」
- [43]1904年の日露戦争で指定工場となり、駆逐艦朝露(1906年完工)・疾風(1907年完工)を建造した
- [44]戦時貨客船を1904・05年に4隻ずつ建造し、8隻中6隻が奨励法適格船だった
- 名村造船所『造船55年』(1967年)「第1章 名村源之助の大阪鉄工所時代」
- [45]明治30年代の国内鋼船建造は年平均約2万総トン。大阪のまともな造船所は大阪鉄工所と木津川筋の藤永田など4造船所のみ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日立造船」の項
- [46]範多竜太郎は技術者を海外に派遣するなど積極的経営を行い、1900年に桜島工場を建設して大型船舶を建造した
日露戦争後の不況で、大阪鉄工所の奨励法適格船は1909・10年度に1隻ずつまで減った。範多竜太郎氏はトロール漁船や捕鯨船、橋梁や鋳鉄管に事業を広げて受注の減少を補った。他方で1910年からの改正造船奨励法と遠洋航路補助法により、日本の船は急速に大型化した。範多竜太郎氏は1909年に桜島の6,000総トンドックを仕上げ、1911年9月には閉鎖中の因島船渠を9万7,000円で取得した。因島分工場は1912年3月に最初の入渠船を迎え、修繕を主に営んだ。ただ大型化に見合う拡張と資本は、範多竜太郎氏個人の経営で担える規模を超えていた。範多商会は香港上海銀行への負債も抱えていた。範多竜太郎氏は大阪商船の監査役を務め、大阪鉄工所は大阪商船の国内新造船82隻のうち35隻を請け負っていた。最大の得意先との結び付きが、個人経営を株式会社へ改組する際の出資者になったと思われる。
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日露戦争後の不況対策」
- [47]造船奨励法適格船は1904・05年度各3隻、1906年度6隻から、1909・10年度には各1隻に減った
- [48]捕鯨船・トロール漁船など特殊船と、橋梁・鋳鉄管・鉄骨・車両など陸上工事の拡大で戦後不況をしのいだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日立造船」の項
- [49]1910年から実施の第二次造船奨励法と遠洋航海補助法により日本の船舶は急激に大型化した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.造船・航海両奨励法の改廃と当所の対策」
- [50]桜島の6,000総トンドックは1909年12月に一応完成。1911年9月、閉鎖中の因島船渠を9万7,000円で買収し因島分工場とした
- [51]1911年11月に因島分工場を開設し、1912年3月26日に第1船を入渠させ、修繕を主に運営した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
- [52]時代の流れが飛躍的な拡張整備と資本の充実を迫り、範多個人の経営としてはもはや限界であった
- [53]範多商会の香港上海銀行に対する負債が相当な重荷になっていた
- [54]範多は大阪商船の監査役。1885年の淀川丸から1913年までに大阪商船の国内新造船82隻中35隻を当所が受注した
参考文献[33]-[54]
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日立造船」の項
- [33]1895年にハンターが隠退し、嫡子範多竜太郎が所主となった
- [46]範多竜太郎は技術者を海外に派遣するなど積極的経営を行い、1900年に桜島工場を建設して大型船舶を建造した
- [49]1910年から実施の第二次造船奨励法と遠洋航海補助法により日本の船舶は急激に大型化した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の継承」
- [34]平野竜太郎は1889年にグラスゴー大学に入学し土木・機械・造船学を受講、1893年に土木工学の学位を得て帰国、範多家を創設した
- [35]ハンターは引退後も常に出所し、老主として決裁権を持って業務に携わった
- [36]総理・支配人制を総支配人・支配人制に改め、業務を事務と技術に分け、技術に造船・造機両部長を置いた
- [37]1895年に造船奨励法の実施に備え東京帝国大学出身の学士1名を、1898年に新卒工学士2名を入所させた
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.浚渫船工事の開始」
- [38]1893年末に大阪府から委託を受け、1894年10月に邦人設計のバケット式浚渫船第二大浚丸を完工した
- [39]大阪市築港工事で輸入浚渫船の組み立て・船体建造・浚渫装置の組み立てを担当した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.海運・造船保護政策の確立」
- [40]1896年3月に造船奨励法を公布し、700総トン以上の鉄船・鋼船の建造に補助金を交付した
- [41]安治川本工場は川幅・水深の関係で700総トン以上の建造が至難で、桜島に造船場を設け1900年4月に操業を始めた
- [42]大阪商船の大義丸(1,568総トン)は当所初の1,000総トン以上船で奨励法適格第1船、1901年5月竣工
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.日露戦争による繁忙」
- [43]1904年の日露戦争で指定工場となり、駆逐艦朝露(1906年完工)・疾風(1907年完工)を建造した
- [44]戦時貨客船を1904・05年に4隻ずつ建造し、8隻中6隻が奨励法適格船だった
- 名村造船所『造船55年』(1967年)「第1章 名村源之助の大阪鉄工所時代」
- [45]明治30年代の国内鋼船建造は年平均約2万総トン。大阪のまともな造船所は大阪鉄工所と木津川筋の藤永田など4造船所のみ
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日露戦争後の不況対策」
- [47]造船奨励法適格船は1904・05年度各3隻、1906年度6隻から、1909・10年度には各1隻に減った
- [48]捕鯨船・トロール漁船など特殊船と、橋梁・鋳鉄管・鉄骨・車両など陸上工事の拡大で戦後不況をしのいだ
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.造船・航海両奨励法の改廃と当所の対策」
- [50]桜島の6,000総トンドックは1909年12月に一応完成。1911年9月、閉鎖中の因島船渠を9万7,000円で買収し因島分工場とした
- [51]1911年11月に因島分工場を開設し、1912年3月26日に第1船を入渠させ、修繕を主に運営した
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
- [52]時代の流れが飛躍的な拡張整備と資本の充実を迫り、範多個人の経営としてはもはや限界であった
- [53]範多商会の香港上海銀行に対する負債が相当な重荷になっていた
- [54]範多は大阪商船の監査役。1885年の淀川丸から1913年までに大阪商船の国内新造船82隻中35隻を当所が受注した
出典・参考
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- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「年表」
- 大阪商船株式会社『大阪商船株式会社八十年史』(1966年)「第1章 創業期(明治17年~26年)」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.創業当時の業容」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.創業まで」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.創業」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.事業のつまずき」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.事業の再建と施設の拡充」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.明治初期の海運業界」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.新技術に挑む」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.日清戦争による繁忙」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.事業の基礎固まる」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.経営の継承」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.浚渫船工事の開始」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「3.海運・造船保護政策の確立」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「1.日露戦争による繁忙」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「2.日露戦争後の不況対策」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「4.造船・航海両奨励法の改廃と当所の対策」
- 日立造船株式会社『日立造船百年史』(1985年)「5.個人経営時代の終結」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「日立造船」の項
- 日本産業史 第1巻 機械・輸送機(日本経済新聞社、1994年)「機械-腕とカンにたよる」
- 名村造船所『造船55年』(1967年)「第1章 名村源之助の大阪鉄工所時代」