第2章 年〜年

クボタ:久保田鉄工所の設立と耕うん機による農機参入

1930年〜鋳物と機械を分離した2社設立から合併へ

1930年12月22日、久保田は2つの株式会社を同時に設立した。一方は水道瓦斯鋳鉄管と各種鋳物を主とする資本金450万円の久保田鉄工所である。もう一方は内燃機、陸舶用機械、製鉄製鋼用機械、制水弁、衡機、工作機械を作る資本金250万円の久保田鉄工所機械部だった。40年続いた個人経営は、鋳物と機械という2つの法人に分かれた。創業者の久保田権四郎は、この2社の初代社長に就いている。両社が合併して1つに戻るのは1937年3月である。設立から30年余を経た1953年の時点でも、本社は船出町に置かれていた。分けて7年、合わせて1つという運びは、機械部門が単独で立つ規模に育つまでの猶予だった。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月22日に株式会社久保田鉄工所及び株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [5]1937年3月に株式会社久保田鉄工所機械部を株式会社久保田鉄工所に合併した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [2]昭和5年12月に水道瓦斯鋳鉄管及び各種鋳物製造を主とする資本金450万円の株式会社久保田鉄工所を設立した
    • [3]昭和5年12月に内燃機・陸舶用機械・製鉄製鋼用機械・制水弁・衡機・工作機械等を製造する資本金250万円の株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [4]久保田権四郎は久保田鉄工所の創立者であり初代社長だった
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [6]1953年時点の本社は大阪市浪速区船出町2の22である

合併の年、久保田は設備をまとめて買い足した。1937年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、10月には欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けている。同年11月、その堺工場で農工用発動機の大量生産に着手した。翌1938年8月には隅田川精鉄所を合併し、隅田川工場とした。1931年1月には特許アークロ式ディーゼル機関の製造を始めていた。1939年9月には特殊衡機と輸送機が品目に加わる。資本金は設立時の450万円から、1938年8月の隅田川精鉄所の合併時に1,200万円となった。1945年7月までには3回の増資を経て6,030万円に達している。この堺工場での発動機の量産が、戦後に農機へ向かう久保田の基盤になった。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [7]昭和12年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、翌10月に欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けた
    • [9]昭和13年8月に株式会社隅田川精鉄所を合併して隅田川工場とした
    • [10]昭和6年1月に特許アークロ式ディーゼル機関の製造を開始した
    • [11]昭和14年9月に特殊衡機・輸送機の製造を開始した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1937年11月に堺工場を新設し、農工用発動機の大量生産に着手した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [12]昭和13年8月に隅田川精鉄所を合併し、資本金は1,200万円となった
    • [13]昭和20年7月までに3回の増資を経て資本金6,030万円となった

1940年10月、武庫川工場を新設して産業機械事業を広げ、翌1941年10月には遠心力鋳鉄管の鋳造を始めた。1943年3月には特殊鋳鋼品と高硅素鋳鉄鋳物の鋳造に入り、同じ月に神崎工場、1945年7月には布施工場を設けている。その一方で、農用発動機は農機具統制会社による生産統制の下に置かれ、極度の制限を受けた。堺工場は1943年以降ほとんど発動機の生産を止めたまま終戦を迎えた。戦時に設けたこれらの工場は戦後も残った。1958年10月の時点で堺工場には1,018人、武庫川鉄管工場には503人が働いている。工場と品目は戦時のあいだ増え続けたが、軍需から遠い農村向けの製品はその間ほぼ止まっていた。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [14]1940年10月に武庫川工場を新設して産業機械事業を拡張し、翌1941年10月に遠心力鋳鉄管の鋳造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [15]昭和18年3月に特殊鋳鋼品及び高硅素鋳鉄鋳物の鋳造を開始し、同年3月に神崎工場、昭和20年7月に布施工場を新設した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [16]農用発動機は戦時中、農機具統制会社による生産統制下に置かれ、極度の制限を受けた
    • [17]堺工場では昭和18年以降ほとんど農用発動機の生産を中止して終戦を迎えた
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [18]1958年10月時点の事業所には堺工場、武庫川鉄管工場、隅田川工場、神崎工場が含まれる
    • [19]1958年10月時点の従業員数は堺工場1,018人、武庫川鉄管工場503人である
参考文献[1]-[19]
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1930年12月22日に株式会社久保田鉄工所及び株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [5]1937年3月に株式会社久保田鉄工所機械部を株式会社久保田鉄工所に合併した
    • [8]1937年11月に堺工場を新設し、農工用発動機の大量生産に着手した
    • [14]1940年10月に武庫川工場を新設して産業機械事業を拡張し、翌1941年10月に遠心力鋳鉄管の鋳造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [2]昭和5年12月に水道瓦斯鋳鉄管及び各種鋳物製造を主とする資本金450万円の株式会社久保田鉄工所を設立した
    • [3]昭和5年12月に内燃機・陸舶用機械・製鉄製鋼用機械・制水弁・衡機・工作機械等を製造する資本金250万円の株式会社久保田鉄工所機械部を設立した
    • [4]久保田権四郎は久保田鉄工所の創立者であり初代社長だった
    • [7]昭和12年9月に大同鉄工所を買収して鋳鋼工場とし、翌10月に欧米各国の新型機械を輸入して堺工場を設けた
    • [9]昭和13年8月に株式会社隅田川精鉄所を合併して隅田川工場とした
    • [10]昭和6年1月に特許アークロ式ディーゼル機関の製造を開始した
    • [11]昭和14年9月に特殊衡機・輸送機の製造を開始した
    • [15]昭和18年3月に特殊鋳鋼品及び高硅素鋳鉄鋳物の鋳造を開始し、同年3月に神崎工場、昭和20年7月に布施工場を新設した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [6]1953年時点の本社は大阪市浪速区船出町2の22である
    • [12]昭和13年8月に隅田川精鉄所を合併し、資本金は1,200万円となった
    • [13]昭和20年7月までに3回の増資を経て資本金6,030万円となった
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [16]農用発動機は戦時中、農機具統制会社による生産統制下に置かれ、極度の制限を受けた
    • [17]堺工場では昭和18年以降ほとんど農用発動機の生産を中止して終戦を迎えた
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [18]1958年10月時点の事業所には堺工場、武庫川鉄管工場、隅田川工場、神崎工場が含まれる
    • [19]1958年10月時点の従業員数は堺工場1,018人、武庫川鉄管工場503人である

1946年〜農用発動機の民需転換と企業再建整備

戦後の食糧難と住宅難で都市の人口が農村へ流れ込み、食糧を自ら作れる農村の側が景気のよさを享受するという逆転が起きて、農家の購買力は急に高まった。農地改革による自作農創設で土地所有権が細分化され、これも農村景気を押し上げた。当時の食糧増産政策の下で農用発動機の需要が爆発的に膨らみ、発動機部門の民需転換が円滑に軌道へ乗る理由の一つとなった。久保田の戦後の生産復興は、この発動機と鋳鉄管の2部門が原動力となって進んだ。1946年3月には、製材機と鉱山用の諸機械の製造にも着手している。統制で戦時に止まっていた製品が、統制の解けた市場でいち早く売れる側に回ったのである。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [20]戦後の食糧難と住宅難によって農村は都市の人口を吸収した
    • [21]経済事情が逆転し、食糧を自作する農村が好景気を謳歌する時代となって農村の購買力がにわかに向上した
    • [22]戦後の農地改革による自作農創設は土地所有権の細分化を促し、農村景気に拍車をかけた
    • [23]発動機部門の民需転換が円滑に軌道に乗った原因の一つは、当時の食糧増産政策からして農用発動機の需要が爆発的だったことである
    • [24]戦後の生産復興の原動力となったのは発動機と鋳鉄管の両部門だった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [25]昭和21年3月に製材機・鉱山用諸機械の製造を開始した

堺工場が中心機種に据えたのは戦前から実績のある小型石油発動機で、統制で止まっていた生産をこれで立て直した。久保田の発動機は1923年のA型に始まり、改良を重ねて1928年からはF型になっていた。灌漑や脱穀、籾摺りなど定置作業に使う据え置き型の農用発動機は、従来は地主が持ち主となって小作人に貸し出すのが普通だったが、それが自作農自らの所有物となって需要が急増した。買い手の側が、そもそも入れ替わっていたのである。1947年5月には耕うん機の製造に入り、農機へ参入している。歩行しながら土を起こす耕うん機は、据え置きで使ってきた発動機を車体の上へ載せ替えた製品だった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [26]堺工場では戦前から実績を持つ小型石油発動機を中心機種として生産体制を整備した
    • [27]大正12年のA型に始まったクボタ発動機は昭和3年からF型に変わっていた
    • [28]農用発動機は従来は灌漑・脱穀・籾摺りなどの定置作業に使用され、主として地主が所有し小作人に貸して使わせるのが一般だった
    • [29]戦後の経済事情の変革によって発動機の需要は急激に増加した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1947年5月に耕うん機の製造を開始し、農機に参入した

生産が戻る一方で、資本の側は戦後の制度に合わせた組み直しを迫られた。戦時中に6,030万円だった資本金は、1948年10月に1億3,300万円へ増えていた。1949年3月に企業再建整備計画の認可を受け、同年5月には資本金を2億8,000万円へ増やして新旧勘定を併合した。同じ1949年5月、久保田鉄工所の株式は東京証券取引所と大阪証券取引所に上場した。翌1950年8月には、製品ごとに損益を持つ製品別事業部制を採り入れている。1952年4月には資本金を5億6,000万円へ倍増した。鋳物・鉄管・発動機という性格の違う事業を、製品ごとの採算で見る枠組みがここで入った。

  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [31]昭和23年10月に資本金1億3,300万円に増資した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [32]昭和24年3月に再建整備計画の認可を受け、同年5月に同計画に基づき資本金2億8千万円に増資して新旧勘定を併合した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1949年5月に東京証券取引所、大阪証券取引所に上場した
    • [34]1950年8月に製品別事業部制を採用した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [35]1952年4月16日に1対1の有償増資を実施し、資本金は5億6,000万円となった
参考文献[20]-[35]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [20]戦後の食糧難と住宅難によって農村は都市の人口を吸収した
    • [21]経済事情が逆転し、食糧を自作する農村が好景気を謳歌する時代となって農村の購買力がにわかに向上した
    • [22]戦後の農地改革による自作農創設は土地所有権の細分化を促し、農村景気に拍車をかけた
    • [23]発動機部門の民需転換が円滑に軌道に乗った原因の一つは、当時の食糧増産政策からして農用発動機の需要が爆発的だったことである
    • [24]戦後の生産復興の原動力となったのは発動機と鋳鉄管の両部門だった
    • [26]堺工場では戦前から実績を持つ小型石油発動機を中心機種として生産体制を整備した
    • [27]大正12年のA型に始まったクボタ発動機は昭和3年からF型に変わっていた
    • [28]農用発動機は従来は灌漑・脱穀・籾摺りなどの定置作業に使用され、主として地主が所有し小作人に貸して使わせるのが一般だった
    • [29]戦後の経済事情の変革によって発動機の需要は急激に増加した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [25]昭和21年3月に製材機・鉱山用諸機械の製造を開始した
    • [32]昭和24年3月に再建整備計画の認可を受け、同年5月に同計画に基づき資本金2億8千万円に増資して新旧勘定を併合した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [30]1947年5月に耕うん機の製造を開始し、農機に参入した
    • [33]1949年5月に東京証券取引所、大阪証券取引所に上場した
    • [34]1950年8月に製品別事業部制を採用した
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
    • [31]昭和23年10月に資本金1億3,300万円に増資した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [35]1952年4月16日に1対1の有償増資を実施し、資本金は5億6,000万円となった

1950年〜合成管と住宅建材へ拡大した久保田鉄工への改称

鉄管の造り方と品種は、戦後の10年でもう一度入れ替わった。1950年7月に金型遠心力鋳鉄管の製造を始め、1951年にはクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設の各種プラントが加わった。1952年には鋳鋼管とポンプの製造に入り、同年12月には武庫川機械工場でポンプを作り始めた。1954年には石綿パイプとビニルパイプの製造が始まる。1956年4月にはモビルクレーンと運搬用諸機械、1959年12月にはスパイラル鋼管が品目に加わった。工場も増え、1953年3月に鶴町工場、1959年12月に大浜工場を設けている。鋳鉄という素材に縛られていた配管の品揃えが、素材の側から広がった。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [36]昭和25年7月に金型遠心力鋳鉄管、昭和26年にクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設各種プラントの製造をそれぞれ開始した
    • [37]昭和27年に鋳鋼管、ポンプの製造を開始した
    • [39]昭和29年に石綿パイプ、ビニルパイプの製造を開始した
    • [40]昭和31年4月にモビルクレーン・運搬用諸機械、昭和34年12月にスパイラル鋼管の製造をそれぞれ開始した
    • [41]昭和28年3月に鶴町工場、昭和34年12月に大浜工場を新設した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1952年12月に武庫川機械工場でポンプの製造を開始した

1953年6月、社名を久保田鉄工株式会社に改めた。翌翌1954年4月にはビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的な製造に着手した。1957年11月には久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業へ進んでいる。設備と品目の拡張を支えたのは度重なる増資だった。資本金は1952年4月の5億6,000万円から、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円へ増えた。1957年10月には56億7,000万円に達している。1953年7月の増資は1株につき1株、1955年5月と1957年10月はいずれも1株につき0.5株の割当だった。5年で10倍という増資の速さが、この時期の設備投資の規模を示している。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [42]1953年6月に社名を久保田鉄工株式会社に変更した
    • [43]1954年4月にビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的製造に着手した
    • [44]1957年11月に久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業に進出した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [45]資本金は1952年4月に5億6,000万円、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円となった
    • [46]1957年10月16日の有償増資により資本金は56億7,000万円となった
    • [47]割当比率は1953年7月が1.0、1955年5月と1957年10月がいずれも0.5である

設備と増資の拡張に、業績のほうもよく追いついた。1953年4月期に81億6,500万円だった年間の売上高は、1958年4月期には267億3,100万円へ伸びている。営業利益も同じ期間に、9億400万円から43億7,100万円へ増えている。もっとも、売上の主力のほうはまだ鋳鉄管と内燃機から動いていない。1955年10月期の売上構成は鋳鉄管が36.0%、内燃機が21.0%を占め、耕うん機は6.4%にすぎなかった。1955年10月期には一般鋳物が8.8%、合成部門が6.8%を占めた。1955年当時に40億円へ届かなかった農機の年間出荷高が100億円を超えるのは、1959年度である。

  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
    • [48]売上高は1953年4月期81.65億円、1958年4月期267.31億円だった(単体・半期合算)
    • [49]営業利益は1953年4月期9.04億円、1958年4月期43.71億円だった(単体・半期合算)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [50]1955年10月期の売上構成は鋳鉄管21億8,720万円(36.0%)、内燃機12億7,473万円(21.0%)、耕耘機3億9,157万円(6.4%)である
    • [51]1955年10月期の売上構成比は一般鋳物8.8%、合成部門6.8%である
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [52]農機事業の年間出荷高は昭和30年当時は40億円に満たず、昭和34年度に初めて100億円を突破した
参考文献[36]-[52]
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [36]昭和25年7月に金型遠心力鋳鉄管、昭和26年にクローム鋳鉄管、セメントライニング管、土木建設各種プラントの製造をそれぞれ開始した
    • [37]昭和27年に鋳鋼管、ポンプの製造を開始した
    • [39]昭和29年に石綿パイプ、ビニルパイプの製造を開始した
    • [40]昭和31年4月にモビルクレーン・運搬用諸機械、昭和34年12月にスパイラル鋼管の製造をそれぞれ開始した
    • [41]昭和28年3月に鶴町工場、昭和34年12月に大浜工場を新設した
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1952年12月に武庫川機械工場でポンプの製造を開始した
    • [42]1953年6月に社名を久保田鉄工株式会社に変更した
    • [43]1954年4月にビニルパイプ工場を新設し、合成樹脂管の本格的製造に着手した
    • [44]1957年11月に久保田建材工業株式会社を設立し、住宅建材事業に進出した
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)
    • [45]資本金は1952年4月に5億6,000万円、1953年7月に11億2,000万円、1955年5月に25億2,000万円となった
    • [46]1957年10月16日の有償増資により資本金は56億7,000万円となった
    • [47]割当比率は1953年7月が1.0、1955年5月と1957年10月がいずれも0.5である
  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
    • [48]売上高は1953年4月期81.65億円、1958年4月期267.31億円だった(単体・半期合算)
    • [49]営業利益は1953年4月期9.04億円、1958年4月期43.71億円だった(単体・半期合算)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
    • [50]1955年10月期の売上構成は鋳鉄管21億8,720万円(36.0%)、内燃機12億7,473万円(21.0%)、耕耘機3億9,157万円(6.4%)である
    • [51]1955年10月期の売上構成比は一般鋳物8.8%、合成部門6.8%である
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [52]農機事業の年間出荷高は昭和30年当時は40億円に満たず、昭和34年度に初めて100億円を突破した

1930年〜1959年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年04月期 単体 81 n/a 9 n/a n/a n/a
1954年04月期 単体 114 +40.5% 14 n/a n/a n/a
1955年04月期 単体 113 ▲0.9% 16 n/a n/a n/a
1956年04月期 単体 138 +21.7% 15 n/a n/a n/a
1957年04月期 単体 218 +58.1% 29 n/a n/a n/a
1958年04月期 単体 267 +22.3% 43 n/a n/a n/a
1959年04月期 単体 236 ▲11.7% n/a n/a n/a n/a

出所:上場会社総覧(1956年版)半期合算、上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算

出典・参考

8件
出典・参考
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
  • 株式会社年鑑 1953年版「久保田鉄工所」
  • 上場会社総覧(1956年版・1959年版)
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
  • 上場会社総覧 昭和31年版
  • 資本異動総覧 1983年版(東洋経済新報社, 1982年11月)

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