第1章 年〜年

クボタ:久保田権四郎の創業と水道用鋳鉄管・発動機の製造

1890年〜長屋の鋳物屋から水道用鋳鉄管へ

1890年2月、久保田権四郎は大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造と販売を始めた。選んだ土地は大阪の鋳物工業の発祥地で、1883年に市内へ9つあった鋳物工場のうち6つが南区に集まっていた。権四郎が借りたのは間口2間・奥行4間の長屋である。床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るこしき炉を据え、弟子を兼ねる小僧を雇い入れた。向かいには7馬力の蒸気力を使い15人の職工を抱える大谷数太郎の工場があり、権四郎の長屋はその裏手に並んでいた。始めた仕事は、奉公で身につけた看貫鋳物だった。秤の分銅や台は、当時の零細な鋳物業者にひとつのブームを呼んだ仕事である。資本も設備も持たない出発で、元手は奉公先で覚えた鋳造の腕しかなかった。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1890年2月に創業者久保田権四郎が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造・販売を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [2]1883年の大阪市内の鋳物工場は9工場で、そのうち6工場が南区にあった
    • [3]権四郎は御蔵跡町で間口二間・奥行四間の長屋を借りて鋳物屋を始めた
    • [4]権四郎は借家の床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るたたら吹きのこしき炉を据え、弟子を兼ねる手伝いの小僧を雇い入れた
    • [5]御蔵跡町の大谷数太郎の鋳物工場は7馬力の蒸気力を使用し15人の職工を抱えており、権四郎が借りた長屋はその工場の裏側に立ち並ぶ棟割長屋だった
    • [6]権四郎は奉公で身につけた看貫鋳物を吹いて仕事を始めた
    • [7]看貫は当時の零細な鋳物業者にとってひとつのブームを呼んだ仕事だった

鋳物屋のままで終わらなかったのは、権四郎が水道用鋳鉄管という官需を早くに狙ったからである。1893年7月、久保田は水道用鋳鉄管の製造を始めた。その頃の久保田は西関谷町で綿繰機械や旋盤、問屋仕事の鋳物を造っていた。大阪砲兵工廠が鉄管の鋳造に着手した1893年頃から、権四郎は将来の膨大な鉄管需要を見越して試作と研究に入っていた。設備は貧弱なままだったが、権四郎は研究を止めなかった。やがて久保田は、水道用に加えて瓦斯用の鋳鉄管も主体の製品に据える。どちらも地中に埋める配管で、買い手は市の水道部と瓦斯会社に限られ、注文は民間の景気ではなく都市の拡張と予算に従った。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [8]1893年7月に水道用鋳鉄管の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [9]西関谷町の久保田では綿繰機械や軸刻機、旋盤、問屋仕事などの鋳物を造っていた
    • [10]権四郎は砲兵工廠が鉄管の鋳造を始めた明治26年頃から、将来の膨大な鉄管需要を見越して鉄管の試作と研究を始めていた
    • [11]権四郎は貧弱な設備にもめげず鉄管の試作と研究を続けた
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [12]久保田鉄工所は水道用及び瓦斯用鋳鉄管を主体とする各種鋳物の製造販売を行った

日本では鋳鉄管を造れない、というのが当時の通り相場だった。当時の技法だった合わせ型横込法では、単純な円筒形の鉄管でさえ偏肉や錆巣を避けられなかった。日本鋳鉄合資会社は、技術の最高権威者や陸海軍工廠の鋳造経験者、大財閥までを擁して東京で発足したものの、すぐに行き詰まった。これを見て国産鉄管は外国品に及ばないと受け止められ、計画や研究を進めていた者も手を引いていった。権四郎はこの失敗をかえって勇猛心を奮い起こす材料とし、その信念は「外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない」『外国人に出来ることが、日本人に出来ぬ筈はない。』という言葉として社史に伝わる。寝食を忘れて試作を繰り返した末、1900年に丸吹堅込法を発明し、同年中に実施へ移した。外国製に頼ってきた水道管を自前の型で量産する道が、ここで開いた。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [13]当時の技法である合わせ型横込法では、単純な円筒形で加工度も低い鉄管でも偏肉や錆巣が生じた
    • [14]東京でわが国技術の最高権威者や陸海軍工廠での鋳造経験者、大財閥も関係して発足した日本鋳鉄合資会社は、スタートでもろくも破綻した
    • [15]鋳鉄管製造は日本では不可能と考えられ、その製品も外国品と肩を並べられないものとされて、計画や研究を続けていた人たちも断念・中止するようになった
    • [16]日本鋳鉄合資会社の破綻は権四郎に研究を断念させるどころか、勇猛心を奮い立たせるのに役立った
    • [17]明治33年に鋳鉄管製造にとって画期的な丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [18]明治33年に丸吹立込鋳造法を考案して実施した
参考文献[1]-[18]
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [1]1890年2月に創業者久保田権四郎が大阪市南区御蔵跡町に久保田鉄工所を興し、各種鋳物の製造・販売を開始した
    • [8]1893年7月に水道用鋳鉄管の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [2]1883年の大阪市内の鋳物工場は9工場で、そのうち6工場が南区にあった
    • [3]権四郎は御蔵跡町で間口二間・奥行四間の長屋を借りて鋳物屋を始めた
    • [4]権四郎は借家の床を落として仕事場をつくり、足踏みのふいごで風を送るたたら吹きのこしき炉を据え、弟子を兼ねる手伝いの小僧を雇い入れた
    • [5]御蔵跡町の大谷数太郎の鋳物工場は7馬力の蒸気力を使用し15人の職工を抱えており、権四郎が借りた長屋はその工場の裏側に立ち並ぶ棟割長屋だった
    • [6]権四郎は奉公で身につけた看貫鋳物を吹いて仕事を始めた
    • [7]看貫は当時の零細な鋳物業者にとってひとつのブームを呼んだ仕事だった
    • [9]西関谷町の久保田では綿繰機械や軸刻機、旋盤、問屋仕事などの鋳物を造っていた
    • [10]権四郎は砲兵工廠が鉄管の鋳造を始めた明治26年頃から、将来の膨大な鉄管需要を見越して鉄管の試作と研究を始めていた
    • [11]権四郎は貧弱な設備にもめげず鉄管の試作と研究を続けた
    • [13]当時の技法である合わせ型横込法では、単純な円筒形で加工度も低い鉄管でも偏肉や錆巣が生じた
    • [14]東京でわが国技術の最高権威者や陸海軍工廠での鋳造経験者、大財閥も関係して発足した日本鋳鉄合資会社は、スタートでもろくも破綻した
    • [15]鋳鉄管製造は日本では不可能と考えられ、その製品も外国品と肩を並べられないものとされて、計画や研究を続けていた人たちも断念・中止するようになった
    • [16]日本鋳鉄合資会社の破綻は権四郎に研究を断念させるどころか、勇猛心を奮い立たせるのに役立った
    • [17]明治33年に鋳鉄管製造にとって画期的な丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [12]久保田鉄工所は水道用及び瓦斯用鋳鉄管を主体とする各種鋳物の製造販売を行った
    • [18]明治33年に丸吹立込鋳造法を考案して実施した

1900年〜丸吹堅込法と自社工場が支えた鋳鉄管の量産

初めての自社工場は、借家を借りるのでも古い工場を買い取るのでもなく、鋳鉄管製造を新たに構想して建てられた。久保田は1901年に船出町で工場を建てて鋳鉄管と諸機械の製造販売を始めており、1907年に同じ町で着工したのがその工場である。敷地はもと製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、資材と製品の運搬には高津入堀川を通う船を使った。広さは3,800余坪あったが、うち2,200坪は地主の都合で即座には買い取れず、借地とするほかなかった。創業から17年を経て、権四郎は借りた長屋から自前の敷地へ移っている。鋳造法を手にした鋳物屋が次に要したのは、型と炉を並べる床面積と、原料を運び込む水路だった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [19]船出町工場は借家でも古い工場の買収でもなく、鋳鉄管製造の新しい構想の下に新しく造られる久保田鉄工初めての工場だった
    • [21]船出町工場は明治40年から建設を始めた
    • [22]船出町工場の敷地は元は製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、工場の資材や製品を運搬する船が高津入堀川を通った
    • [23]船出町工場の敷地は3,800余坪で、うち2,200坪は地主の都合ですぐには買収できず借地とした
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [20]明治34年に船出町工場を建設し、鋳鉄管・諸機械の製造販売を開始した

1900年の丸吹堅込法は、鋳造法の改良の終点ではなかった。1908年、久保田は鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し、特許を獲得した。1923年には自動製芯機、翌1924年には自動成型機について、それぞれ発明特許を取得している。中子を作る工程と造型の工程を機械へ置き換えたことで、鋳鉄管事業は一段階を画した。設備の拡充も同じ時期に進み、1917年には異形管を造る恩加島工場を新設し、市岡工場では排水管、異形管、一般鋳物の製造を始めた。工場を増やした背景には、鋳鉄管と鋳物の需要増大があった。創業期の鋳造が職人の手と勘に委ねられていたのに対し、機械は同じ型を同じ寸法で繰り返す。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [24]明治33年に丸吹堅込法を発明した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [25]明治41年に鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し特許を獲得した
    • [26]大正12年に自動製芯機、大正13年に自動成型機の発明特許をそれぞれ獲得した
    • [27]自動製芯機・自動成型機の特許取得によって同社事業の大宗である鋳鉄管事業の発展に一段階を画した
    • [28]大正6年に異形管工場として恩加島工場を新設し、さらに市岡工場を新設して排水管、異形管、一般鋳物の製造を開始した
    • [29]大正6年の工場新設は鋳鉄管及び鋳物の需要増大に伴うものだった

1917年、久保田は関西鉄工の工場を買収し、尼崎工場として発足させた。この工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が、1912年7月に鋳鉄管工場として開いたものだった。大阪鉄工所は造船の本業が繁忙になったため工場を子会社の関西鉄工へ譲渡し、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めていた。買収に動いた久保田の側には、新たに鉄管工場を設ける計画があった。船出町工場の鉄管鋳造設備と人員は、そのまま尼崎へ移された。この工場は1958年10月の時点でも、530人が働く鉄管の拠点として残っている。新設ではなく買収を選んだのは、鉄管の需要が増えるなかで立ち上げの時間を買うためだった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [30]尼崎工場は大正6年に関西鉄工の工場を買収して発足した
    • [31]尼崎の工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が明治45年7月に鋳鉄管工場として開設したものである
    • [32]大阪鉄工所は造船の本業が繁忙となり工場を子会社の関西鉄工株式会社へ譲渡し、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めた
    • [33]久保田は新規に鉄管工場の新設を計画しており、その理由から関西鉄工の工場を買収した
    • [34]買収にあたり船出町工場の鉄管鋳造設備と人員を移して尼崎工場とした
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [35]1958年10月時点の尼崎工場(尼崎市西向島町64)の従業員は530人だった
参考文献[19]-[35]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [19]船出町工場は借家でも古い工場の買収でもなく、鋳鉄管製造の新しい構想の下に新しく造られる久保田鉄工初めての工場だった
    • [21]船出町工場は明治40年から建設を始めた
    • [22]船出町工場の敷地は元は製材会社が吉野杉の材木を積んでいた置場で、工場の資材や製品を運搬する船が高津入堀川を通った
    • [23]船出町工場の敷地は3,800余坪で、うち2,200坪は地主の都合ですぐには買収できず借地とした
    • [24]明治33年に丸吹堅込法を発明した
    • [30]尼崎工場は大正6年に関西鉄工の工場を買収して発足した
    • [31]尼崎の工場は日立造船の前身である大阪鉄工所が明治45年7月に鋳鉄管工場として開設したものである
    • [32]大阪鉄工所は造船の本業が繁忙となり工場を子会社の関西鉄工株式会社へ譲渡し、関西鉄工は鉄管製造の不振から身売り話を始めた
    • [33]久保田は新規に鉄管工場の新設を計画しており、その理由から関西鉄工の工場を買収した
    • [34]買収にあたり船出町工場の鉄管鋳造設備と人員を移して尼崎工場とした
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [20]明治34年に船出町工場を建設し、鋳鉄管・諸機械の製造販売を開始した
    • [25]明治41年に鋳鉄管の廻転式鋳造法を考案し特許を獲得した
    • [26]大正12年に自動製芯機、大正13年に自動成型機の発明特許をそれぞれ獲得した
    • [27]自動製芯機・自動成型機の特許取得によって同社事業の大宗である鋳鉄管事業の発展に一段階を画した
    • [28]大正6年に異形管工場として恩加島工場を新設し、さらに市岡工場を新設して排水管、異形管、一般鋳物の製造を開始した
    • [29]大正6年の工場新設は鋳鉄管及び鋳物の需要増大に伴うものだった
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
    • [35]1958年10月時点の尼崎工場(尼崎市西向島町64)の従業員は530人だった

1914年〜鉄管の不振を埋めた機械製造業への進出

後年、当時の幹部だった須山三は「鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ」『鉄管はこれ以上どうすることも出来ない。伸びるのは機械工場だ。』と振り返っている。大正初期の不況に欧州大戦による鉄の暴騰が重なって鉄管事業は不振と不如意に苦しみ、久保田は鉄管の立て直しではなく機械製造業への進出を選んだ。1914年には、鋳物事業の発展で機械加工が要ることに着目して船出町工場に機械工場を設け、スチームエンジンなど舶用機械を作り始めた。旋盤を選んだのは、大量に良いものを安く造れば売れる製品を持つという狙いによる。かつて鋳物屋を開いたばかりの頃、水道鉄管の将来を見込んで鋳造の研究に打ち込んだのと、機械への進出は同じ構えから出たものだった。

  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [36]大正初期の経済不況と欧州大戦による鉄の暴騰によって鉄管は不振・不如意を招来した
    • [37]久保田は鉄管の不振を受けて逸早く機械製造業への進出を目論んだ
    • [39]大量に、良いものを、廉く造れば売れるものを求めたいという方針で旋盤を選んだ
    • [40]機械製造業への進出は、鋳物屋開業の当初から水道鉄管の将来に狙いをつけて鋳造研究に専念した時と同じ姿勢だった
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [38]大正3年に鋳物事業の発展に伴う機械加工に着目し、船出町工場に機械工場を新設してスチームエンジンなど舶用機械の製造を開始した

機械の品目は数年で広がり、1916年には工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械の製造を始め、1918年には鋳型が加わった。1922年には耐熱・耐酸・耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金といった各種鋳物へも手を伸ばした。1924年の度量衡法の改正に合わせては、船出町工場で衡機の製造に入った。衡機は秤であり、創業時に権四郎が仕事の口としていた看貫鋳物と同じく、物の重さを量る器具に当たる。1955年の主なる事業内容にも、鋳鉄管や内燃機関、各種機械と並んで衡器が挙がっている。鋳物の受注に頼ってきた会社は、機械工場の新設から10年ほどで、機械を自ら設計して売る側へ回った。

  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [41]大正5年に工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械、大正7年に鋳型の製造をそれぞれ開始した
    • [42]大正11年に耐熱、耐酸、耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金等の各種鋳物の製造を開始した
    • [43]大正13年に度量衡法の改正と共に船出町工場で衡機の製造を開始した
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [44]権四郎が創業時に手がけた看貫鋳物は秤に用いる鋳物である
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
    • [45]1955年時点の主なる事業内容は鋳鉄管、石綿セメント管、塩化ビニール管、鋳型、各種機械鋳物、内燃機関、耕耘機、衡器、一般機械などである

1922年2月、久保田は農工用の小型エンジンである発動機の製造を始めた。1927年には自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機の製造に入り、同年2月には隅田川精鉄所を買収して鋳鉄管事業を広げた。この農工用発動機は1937年11月に新設した堺工場で大量生産へ移り、1947年5月に始まる耕うん機の製造へ続いた。1925年に制定した社章は、円の中に鋳鉄管を組み合わせ、中央へ創業者の姓から取った久の字を配したものだった。その円が歯車に変わり、鋳物と機械の久保田を表徴するようになるのは1930年である。創業から40年を経て、久保田は自らの表看板から鋳物一色を降ろした。

  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1922年2月に発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始した
    • [48]1927年2月に株式会社隅田川精鉄所を買収し、鋳鉄管事業を拡張した
    • [49]1937年11月に堺工場を新設して農工用発動機の大量生産に着手し、1947年5月に耕うん機の製造を開始した
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [47]昭和2年に自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機等の製造をそれぞれ開始した
    • [50]大正14年に制定した社章は円の中に鋳鉄管を組み合わせ、創立者久保田権四郎の「久」を配して鋳物の久保田を象徴していた
    • [51]昭和5年の産業機械部門への進出を機に、社章の円を歯車に変えて鋳物と機械の久保田を表徴した
参考文献[36]-[51]
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
    • [36]大正初期の経済不況と欧州大戦による鉄の暴騰によって鉄管は不振・不如意を招来した
    • [37]久保田は鉄管の不振を受けて逸早く機械製造業への進出を目論んだ
    • [39]大量に、良いものを、廉く造れば売れるものを求めたいという方針で旋盤を選んだ
    • [40]機械製造業への進出は、鋳物屋開業の当初から水道鉄管の将来に狙いをつけて鋳造研究に専念した時と同じ姿勢だった
    • [44]権四郎が創業時に手がけた看貫鋳物は秤に用いる鋳物である
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)
    • [38]大正3年に鋳物事業の発展に伴う機械加工に着目し、船出町工場に機械工場を新設してスチームエンジンなど舶用機械の製造を開始した
    • [41]大正5年に工作機械、節炭機、給炭機、制水弁、一般機械、大正7年に鋳型の製造をそれぞれ開始した
    • [42]大正11年に耐熱、耐酸、耐アルカリの鋳物、砲金、軽合金等の各種鋳物の製造を開始した
    • [43]大正13年に度量衡法の改正と共に船出町工場で衡機の製造を開始した
    • [47]昭和2年に自動給炭機、ディーゼルエンジン、小形舶用発動機等の製造をそれぞれ開始した
    • [50]大正14年に制定した社章は円の中に鋳鉄管を組み合わせ、創立者久保田権四郎の「久」を配して鋳物の久保田を象徴していた
    • [51]昭和5年の産業機械部門への進出を機に、社章の円を歯車に変えて鋳物と機械の久保田を表徴した
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
    • [45]1955年時点の主なる事業内容は鋳鉄管、石綿セメント管、塩化ビニール管、鋳型、各種機械鋳物、内燃機関、耕耘機、衡器、一般機械などである
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
    • [46]1922年2月に発動機(農工用小型エンジン)の製造を開始した
    • [48]1927年2月に株式会社隅田川精鉄所を買収し、鋳鉄管事業を拡張した
    • [49]1937年11月に堺工場を新設して農工用発動機の大量生産に着手し、1947年5月に耕うん機の製造を開始した

出典・参考

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出典・参考
  • クボタ 有価証券報告書【沿革】
  • 『久保田鉄工八十年の歩み』(久保田鉄工, 1970年)
  • 株式会社年鑑 1955年版「久保田鉄工」
  • 株式会社年鑑 1959年版「久保田鉄工」
  • 経済春秋社『企業の歴史:明治百年』「クボタ」(経済春秋社, 1968年)

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