第1章 年〜年

東レ:東洋レーヨンの設立とデュポンとのナイロン業務提携

1926年〜資本金1000万円で人絹の国産に出た三井物産と、石山工場の初紡糸

三井物産は第一次世界大戦の利益の使い道として、人絹の製造を国内で起こす案を固めた。1919年から英国コートールズ社のビスコース糸を日本で一手に販売しており、常務取締役の安川雄之助氏はその好業績に目を留めた。1923年には国産の人絹糸78万ポンドに対して輸入が100万ポンドに達し、翌年には関税引き上げの運動も起きた。1925年8月に三井合名会社が独立経営での設立を認め、理事長の團琢磨氏の慎重論を受けて工場の規模を日産3トンに抑えた。社名は労働問題などが起きても三井の名に累が及ばないよう「東洋レーヨン」とした。1926年1月、三井物産にとって初の製造事業として資本金1000万円、会長に安川雄之助氏を置いての発足。貿易の利益を製造へ移しつつ、失敗の損失は三井本体から切り離す設計だったと読める。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 序章 創業前史
    • [1]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [2]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [3]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [4]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [5]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [6]1926年1月、三井物産初の製造事業として資本金1000万円・会長安川雄之助で発足

東洋レーヨンは自前の技術を持たず、当初は外国の人絹会社との提携を探った。英国コートールズ社との交渉は1923年から進まず、米デュポン社は資本金の4割にあたる前払金400万円を求めたので断念した。代わりにドイツのオスカー・コーホン社から紡糸機36台を購入し、同社がコートールズ社から引き抜いた技術者20余名を受け入れた。技師長にはイタリアのビスコース会社からアントニオ・ミネリー氏を招き、良質の軟水が得られる滋賀県石山に工場を建てた。1927年8月15日深夜に最初の糸が出て、製品が三井物産を代理店として市場に出たのは同年11月である。1928年1月には全紡糸機を据え終え、第一工場は日産5.4トンで全面運転に入った。技術を機械会社経由で人ごと入れる方式に替えたことで、高額な前払いを避けたのだろう。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第I章 創業期
    • [7]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [8]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [9]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [10]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [12]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [11]1927年4月に日産3トン設備完成、同年8月初紡糸、11月から三井物産を代理店に市販

1929〜1930年の不況下の生産制限でも、東洋レーヨンは回復に備えて設備を増やした。1932年までに紡糸設備は3,360錘から14,432錘となり、大半に自社設計の国産機械を充てた。同年8月、常務取締役の辛島浅彦氏の直属に臨時建設部を置き、滋賀工場の第二工場の建設に入り、完成は1933年9月。資金は創業以来の利益を社内に留めて賄い、初配当は1932年上期の年6分と低く抑えた。1933年7月には資本金を1000万円から3000万円に増やし、それまで株式の大半を持っていた三井物産の持ち分の一部を公開した。新株は即日売り切れ、同年11月には東京株式取引所の実物取引銘柄となった。内部留保で拡張を先行させ、需要を確かめてから外部資金を入れる順序だったと考えられる。

  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [13]1929〜30年不況の生産制限下でも設備を拡張、1931年に日産19.6トン、1933年9月第二工場完成
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第II章 成長期
    • [14]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [15]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [16]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [17]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [18]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
参考文献[1]-[18]
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 序章 創業前史
    • [1]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [2]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [3]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [4]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
    • [5]三井物産は大戦利益の活用策として人絹工業を発意、1919年にコートールズ糸の一手販売、1923年に国産78万ポンド・輸入100万ポンド、1925年8月に三井合名が独立経営を裁断、團琢磨の慎重論で日産3トン、社名に三井を冠さず「東洋レーヨン」
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [6]1926年1月、三井物産初の製造事業として資本金1000万円・会長安川雄之助で発足
    • [11]1927年4月に日産3トン設備完成、同年8月初紡糸、11月から三井物産を代理店に市販
    • [13]1929〜30年不況の生産制限下でも設備を拡張、1931年に日産19.6トン、1933年9月第二工場完成
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第I章 創業期
    • [7]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [8]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [9]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [10]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
    • [12]コートールズとの提携交渉が不調、デュポンは前金400万円(資本金の40%)を要求して断念、オスカー・コーホン社の紡糸機36台とコートールズ出身の技術者20余名、技師長ミネリー、1928年1月に日産5.4トンで全運転
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第II章 成長期
    • [14]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [15]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [16]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [17]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄
    • [18]1932年に14,432錘・国産機械、1932年8月に辛島常務直属の臨時建設部で第二工場着手、初配当は1932年上期年6分、1933年7月に資本金3000万円へ増資し三井物産保有株の一部を公開、新株42円50銭で即日完売、同年11月東京株式取引所の実物銘柄

1934年〜スフへ拡大して瀬田に建てた紡織工場と、東洋絹織・庄内川レーヨンの吸収

東洋レーヨンは創業から人絹糸だけを造ってきたが、スフを紡績用の短繊維として独特の風合いを持ち、安価な実用繊維としても将来があると判断した。1934年7月頃、第二工場の人絹紡糸機を用いて1デニール前後で強度の高いスフの試験紡糸を始めた。操業短縮で止めていた第一工場の人絹紡糸機もスフ用に改造し、紡糸と精練の工程を連続式に改めた。1935年初めにはドイツからブラシュケ紡糸機1台を購入し、改良を重ねて同年7月下旬に初紡糸を得た。1937年4月に大型のスフ専用紡糸機を第二工場へ据えて製造が軌道に入り、同年の設備は人絹日産81.9トン、スフ日産18.9トンとなった。休ませていた人絹の設備をスフへ振り向けたことで、人絹の市況が冷えた局面でも工場の稼働を保てたと推察される。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III章 開花期
    • [19]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [20]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [21]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [22]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [23]1935年からスフ生産、1937年に人絹日産81.9トン・スフ日産18.9トンの設備

1935年3月、東洋レーヨンは滋賀工場の研究部に小工場を置き、撚糸・織布・染色とスフの綿紡式紡績を試した。この試験で一貫生産に自信を得たので、1937年2月に紡織部門の新設を決め、琵琶湖対岸の瀬田の用地を充てた。用地は1935年に取得した約104千坪で、関係会社の東洋絹織が工場を計画したものの、水産組合の廃水反対で1936年に断念した土地である。紡織だけの工場なら廃水の争いは起きず、滋賀工場のスフを瀬田川の対岸で糸と布に仕上げられた。1937年1月に三井物産から取締役として移った田代茂樹氏が同年4月に建設を主管し、工場は1938年2月11日に完成した。原料では輸入品に依存してきたパルプを確保するため、1938年6月に国策パルプ工業の設立に加わった。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III章 開花期
    • [24]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [25]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [26]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [27]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [28]田代茂樹は1937年1月に東洋レーヨン取締役として着任、4月に瀬田のレーヨン・ステープル紡織工場の建設を主管、1938年2月11日完成
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [29]原料自給のため1934年11月レーヨン曹達設立、1938年6月国策パルプ工業の設立に参加、1938年2月瀬田工場建設

1940年末の人絹・スフの統合要綱は、専業で日産50トン、兼業で70トンを最小単位とし、未満の会社を合同させる内容である。東洋レーヨンの滋賀工場は人絹日産75.8トン、スフ日産47.0トンと、いずれも基準を上回る水準にある。一方、60%を出資する東洋絹織の愛媛工場はスフ日産42.2トン、豊田系の庄内川レーヨンは合計日産45.9トンで、基準に届かなかった。会長の辛島浅彦氏は1941年1月に両社と庄内川染工所との合併契約を結び、7月1日の合併で愛媛工場と愛知工場を得た。戦時の製品は強力人絹と高重合スフに移り、工場は陸軍被服廠の指定を受け、呉工廠の指導で電気魚雷も組み立てた。1943年9月には瀬田工場を三井精機工業へ売却し、1945年の生産は人絹糸100万ポンド、スフ400万ポンドまで減った。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第IV章 受難期
    • [30]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [31]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [32]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [33]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [34]強力人絹と高重合スフに切り替え陸軍被服廠の指定工場、呉工廠の指導で電気魚雷を組み立て
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [35]1943年9月瀬田工場を三井精機工業に売却、1945年は人絹糸100万ポンド・スフ400万ポンド
参考文献[19]-[35]
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III章 開花期
    • [19]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [20]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [21]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [22]スフを紡績用短繊維・安価な実用繊維として将来性ありと着眼、1934年下期に研究着手し7月頃から試験紡糸、操短で停止中の人絹機を改造、1935年初めにブラシュケ機を購入し7月下旬初紡糸、1937年4月に専用機を設置
    • [24]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [25]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [26]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
    • [27]1935年3月研究部に紡織試験の小工場、一貫作業の自信を得て1937年2月に瀬田用地へ紡織専門工場を決定、用地104千坪、東洋絹織の計画は水産組合の反対で1936年11月に放棄、紡織専門のため廃水紛争なし、人絹パルプは外国品に依存
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [23]1935年からスフ生産、1937年に人絹日産81.9トン・スフ日産18.9トンの設備
    • [29]原料自給のため1934年11月レーヨン曹達設立、1938年6月国策パルプ工業の設立に参加、1938年2月瀬田工場建設
    • [35]1943年9月瀬田工場を三井精機工業に売却、1945年は人絹糸100万ポンド・スフ400万ポンド
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [28]田代茂樹は1937年1月に東洋レーヨン取締役として着任、4月に瀬田のレーヨン・ステープル紡織工場の建設を主管、1938年2月11日完成
    • [34]強力人絹と高重合スフに切り替え陸軍被服廠の指定工場、呉工廠の指導で電気魚雷を組み立て
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第IV章 受難期
    • [30]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [31]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [32]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円
    • [33]1940年末の統合要綱で専業日産50トン・兼業70トンが最小単位、滋賀工場は人絹75.8トン・スフ47.0トン、東洋絹織(60%出資)42.2トンと庄内川レーヨン45.9トンは基準未満、1941年1月に辛島会長が合併契約、7月1日合併で愛媛・愛知工場、資本金35,375千円

1945年〜戦後に復元したレーヨン工場と、デュポンから得たナイロンの特許

終戦時、東洋レーヨンの可動能力は人絹糸日産3.4トン、スフ日産45.4トンにとどまる。余剰の設備と人員を生かすため、1945年11月に車両修理、1947年3月にペニシリンの培養を始めた。1945年11月24日に社長となった田代茂樹氏は、翌年2月の米国繊維調査団に日本側代表として臨み、レーヨン設備を残す報告を得た。人絹糸設備は1947年6月に復元へ着手し、1950年3月には目標の日産33.4トンまで回復。田代茂樹氏自身は三井系子会社の常務取締役だった経歴から1947年6月に追放された。1948年2月の集中排除法の指定は1949年1月に解け、資本金を1949年に7億5千万円とし、東京・大阪・名古屋などに上場した。本業外の仕事で雇用をつなぎ、人絹設備は国の復元計画に乗せて戻す二段構えだったのだろう。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第V章 復興期
    • [36]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
    • [37]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
    • [39]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [38]田代茂樹は1945年11月24日社長、1946年2月繊維調査団の日本側代表、1947年6月追放
    • [40]田代茂樹は1945年11月24日社長、1946年2月繊維調査団の日本側代表、1947年6月追放
  • 株式会社年鑑 1950年版 東洋レーヨン
    • [41]1948年2月集中排除法の指定・1949年1月21日解除、1948年10月資本金2億円、1949年5月7億5千万円、上場市場は東京・大阪・名古屋・神戸・広島

東洋レーヨンは1938年10月のデュポン社のナイロン発表を機に研究を始め、1939年2月に星野孝平氏らが試料を分解して原料の組成を突き止めた。その後の成果が、デュポン社の特許に触れない独自の製法によるナイロン6(アミラン)である。1946年、デュポン社は特許侵害の疑いを総司令部へ申し立てたが、田代茂樹氏と星野孝平氏の説明で侵害なしと認められた。それでも本格生産にはフィラメント糸の工程などでデュポン社の技術が有利と判断し、1948年中頃から導入を打診した。1950年3月に会長へ復帰した田代茂樹氏に対し、デュポン社はノウハウを出さず特許を譲る条件で前払金300万ドルを求めた。円換算で10億8千万円と資本金を上回ったため、田代茂樹氏は分割払いを示し、1951年6月11日に米ウィルミントンで調印した。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III篇 第II章 当社のナイロン研究と工業化
    • [42]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
    • [43]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
    • [45]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [44]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案
    • [46]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案
    • [47]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案

東洋レーヨンは1950年7月、名古屋・愛知両工場でナイロン日産5トン設備の建設に着手した。着工とほぼ同時に朝鮮戦争が起こり、資材難で工事は遅れたものの、好況で資金の調達は比較的容易だった。好況で得た収益の充当先は、ナイロン工場の建設とレーヨン設備の増設・近代化である。両工場は1951年4月20日に開場式を行い、同年末に日本初となる日産5トンのナイロン設備を完成させた。デュポン社との契約でナイロン66も造れるようになったが、原料から重合までの工程で有利なナイロン6を続け、提携技術は製造工程の改善に取り入れた。1952年4月から日産8トンへの増設に入り、1955年3月にはナイロンの設備は日産18トンに達した。独力で建てた工場に後から提携技術を載せた順序が、早い安定につながったと思われる。

  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第VI章 当社現況
    • [48]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [49]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [50]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [51]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [52]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [53]ナイロンは1951年4月日産5トン設備完成、1955年3月日産18トン
参考文献[36]-[53]
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第V章 復興期
    • [36]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
    • [37]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
    • [39]終戦時の可動能力は人絹3.4トン・スフ45.4トン、1945年11月車輛部発足、1947年3月ペニシリン試験培養、人絹糸設備の第一次復元1947年6月着手・1948年12月日産26.5トン、1950年3月日産33.4トンで完了
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)
    • [38]田代茂樹は1945年11月24日社長、1946年2月繊維調査団の日本側代表、1947年6月追放
    • [40]田代茂樹は1945年11月24日社長、1946年2月繊維調査団の日本側代表、1947年6月追放
    • [44]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案
    • [46]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案
    • [47]アミランの見本をめぐりデュポンが特許侵害を申し立て、田代茂樹と星野孝平がGHQで説明し非侵害、1950年3月に会長復帰、前払い300万ドル(10億8千万円)の提示に分割払いを提案
  • 株式会社年鑑 1950年版 東洋レーヨン
    • [41]1948年2月集中排除法の指定・1949年1月21日解除、1948年10月資本金2億円、1949年5月7億5千万円、上場市場は東京・大阪・名古屋・神戸・広島
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III篇 第II章 当社のナイロン研究と工業化
    • [42]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
    • [43]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
    • [45]1938年10月のデュポンのナイロン発表を受け研究、1939年2月星野孝平らがナイロン66を分解・合成、ナイロン6は独自製法で特許に非抵触、本格生産のためデュポン技術を有利とみて1948年中頃から照会、1951年6月11日ウィルミントンで調印
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第VI章 当社現況
    • [48]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [49]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [50]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [51]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
    • [52]1950年7月上旬名古屋・愛知両工場の日産5トン設備に着手、朝鮮動乱で資材難も資金は好況で恵まれる、好況収益をナイロン工場とレーヨン設備に充当、1951年4月20日開場式・年末完成、ナイロン6を継続しデュポン技術を工程に導入、1952年4月から日産8トンへ増設
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
    • [53]ナイロンは1951年4月日産5トン設備完成、1955年3月日産18トン

1926年〜1956年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 161 n/a n/a 32 19.9% ナイロン工業化のため名古屋工場を建設(1951/04)
1953年03月期 単体 149 ▲7.5% n/a 11 7.4% n/a
1954年03月期 単体 240 +61.1% 46 29 12.1% n/a
1955年03月期 単体 297 +23.8% 44 26 8.9% n/a
1956年03月期 単体 410 +38.0% 59 36 8.8% 香港にTrilon社(現 東麗(香港)社)を設立(1955/07)

出所:会社年鑑、会社年鑑/株式会社年鑑1954年版、会社年鑑/株式会社年鑑1955年版、会社年鑑/株式会社年鑑1956年版、会社年鑑/株式会社年鑑1957年版

出典・参考

11件
出典・参考
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 序章 創業前史
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第I章 創業期
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第II章 成長期
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III章 開花期
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第IV章 受難期
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第V章 復興期
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第III篇 第II章 当社のナイロン研究と工業化
  • 東洋レーヨン社史 1926-53(1954) 第VI章 当社現況
  • 株式会社年鑑 1950年版 東洋レーヨン
  • 会社銀行八十年史(1955)東洋レーヨン
  • 私の履歴書「田代茂樹」(1980)

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