大和ハウス工業:「ミゼットハウス」の発売と流通店舗事業への参入
1955年〜木が足りないなら鉄を使う ── 鋼管構造という創業の決断
1955年4月、石橋信夫氏は18人の仲間と大和ハウス工業を創業した。石橋氏は敗戦後にシベリアへ送られ、3年間の抑留生活のなかで、太陽の見えない大森林の伐採作業に隊員が次々と倒れる現場を見た。戦時中の乱伐で木材が足りなくなっていた一方で、復員兵や引き揚げ者の多くは手軽に建つ住まいを求めていた。創業商品"パイプハウス"は、骨組みを木材でなく鋼管で組む建築で、石橋氏はその着想の出どころを『丸太は空洞ではない。それならパイプだ、鉄パイプで家を造ったらいいと閃いた』と振り返っている。1957年4月、我が国初の鋼管構造建築として構造認定書が下り、工法に公の裏づけが付いた。『負ければ守るべき人を守れない』『負けぬため全力を尽くして生きる』(日経ビジネス 1986/4/14)という覚悟は、先に見た体験に根ざすものだった。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1955年4月 大和ハウス工業株式会社を創業
- [6]1955年4月 創業商品「パイプハウス」を発売、鋼管(パイプ)構造による建築
- [8]1957年4月 我が国初の鋼管構造建築として日本軽量鉄骨建築協会より構造認定書を取得
- 日経ビジネス 1986年4月14日号
- [2]設立時のメンバーは石橋信夫氏を含め18人、俗に「大和ハウス18人衆」
- [3]石橋信夫氏 敗戦後にシベリアへ送られ3年間の抑留生活
- [4]シベリア抑留中 昼も太陽が見えない大森林の伐採作業で寒さと空腹により隊員が次々と倒れた
- [9]石橋信夫氏の信念「負けてはいけない」「負ければ守るべき人を守れない」「負けぬため全力を尽くして生きる」
- 日経ビジネス 1984年3月5日号
- [5]戦争中の乱伐による木材不足と、大量の復員兵・引き揚げ者による簡易住宅の需要
- 不撓不屈の日々 1992
- [7]石橋信夫氏 丸太が空洞でないことから鉄パイプで家を造る着想を得た
1959年10月に発売した"ミゼットハウス"は、第1次ベビーブームによる住宅不足の解消をねらった。子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点である。価格は約11万円、3時間で建つ家という手軽さが評判を呼んだ。滋賀県栗東では、1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅が並び、工場で造った住宅を運んで据える速さに近隣の農家が驚いた。1962年4月には量産型プレハブ"ダイワハウスA型"を発売し、1965年3月には初のプレハブ住宅専門工場となる奈良工場を開設した。1968年に考案した住宅設計の半自動化システムは、コンピューターに入力したデザインを6年間変えなかったために売れ行きを落とした。この失敗を受けて石橋氏は『新商品は2年たったら墓場へ送る』(日経ビジネス 1984/3/5)を社内のルールに定めた。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [10]1959年10月 「ミゼットハウス」を発売
- [11]ミゼットハウスの開発目的 第1次ベビーブームによる住宅不足の解消
- [12]ミゼットハウス 子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点
- [13]ミゼットハウス 3時間で建つ家として開発
- [16]1962年4月 プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売
- [17]1965年3月 奈良工場(初のプレハブ住宅専門工場)を開設
- 読売新聞 1961年2月1日
- [14]滋賀県栗東 1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅
- [15]住宅をそっくり工場でつくって現地へ運ぶ建築の速さに近隣の農家が驚いた
- 日経ビジネス 1984年3月5日号
- [18]1968年(昭和43年) 住宅設計をコンピューターで半自動化するシステムを考案、一軒20分で設計完了
- [19]顧客の好みの変化を無視しコンピューターのデザインを6年間据え置いたため売れ行きが落ちた
- [20]石橋信夫氏 住宅設計の失敗後に「新商品は2年たったら墓場へ送る」を社内ルールとして定着
工業化住宅が価格で通ったのは、建材ではなく人件費の差による。大工の1日あたりの賃金は、東京オリンピック前の約1,800円が開催後に2,800円へ上がった。1968年2月には3,500円となり、万国博を控えて6,000〜7,000円という声も出ていた。20〜30坪の小住宅を在来工法で建てれば4〜6カ月を要し、大工の延べ人数は180人に達した。プレハブなら工期20日、延べ60人で仕上がる。1967年度のプレハブ化率は4.8%で、フランスの33%に遠く及ばない。石橋氏は『われわれには、顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできない。レディーメードでしかできないのである』とし、注文生産を捨てて規格の量産へ経営資源を集中した。売上高は1963年3月期の107億9,200万円から、1968年3月期には143億円へ伸びる見通しとなった。
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [21]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
- [22]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
- [23]20〜30坪の小住宅 従来の建築方法では工期4〜6カ月・大工の延人数180人
- [24]同じ小住宅 プレハブでは工期20日間・延人数60人で完成
- [25]日本のプレハブ化率 1967年度4.8%、フランス33%、先進10カ国で最低のイタリアでも10%
- [26]石橋信夫氏 顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできずレディーメードでしかできないと述べた
- [28]1968年3月期 売上高143億円・利益8億5,000万円の見通し
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [27]1963年3月期 売上高107.92億円(単体)
参考文献[1]-[28]
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [1]1955年4月 大和ハウス工業株式会社を創業
- [6]1955年4月 創業商品「パイプハウス」を発売、鋼管(パイプ)構造による建築
- [8]1957年4月 我が国初の鋼管構造建築として日本軽量鉄骨建築協会より構造認定書を取得
- [10]1959年10月 「ミゼットハウス」を発売
- [11]ミゼットハウスの開発目的 第1次ベビーブームによる住宅不足の解消
- [12]ミゼットハウス 子どもたちの声をヒントに開発したプレハブ住宅の原点
- [13]ミゼットハウス 3時間で建つ家として開発
- [16]1962年4月 プレハブ住宅「ダイワハウスA型」を発売
- [17]1965年3月 奈良工場(初のプレハブ住宅専門工場)を開設
- 日経ビジネス 1986年4月14日号
- [2]設立時のメンバーは石橋信夫氏を含め18人、俗に「大和ハウス18人衆」
- [3]石橋信夫氏 敗戦後にシベリアへ送られ3年間の抑留生活
- [4]シベリア抑留中 昼も太陽が見えない大森林の伐採作業で寒さと空腹により隊員が次々と倒れた
- [9]石橋信夫氏の信念「負けてはいけない」「負ければ守るべき人を守れない」「負けぬため全力を尽くして生きる」
- 日経ビジネス 1984年3月5日号
- [5]戦争中の乱伐による木材不足と、大量の復員兵・引き揚げ者による簡易住宅の需要
- [18]1968年(昭和43年) 住宅設計をコンピューターで半自動化するシステムを考案、一軒20分で設計完了
- [19]顧客の好みの変化を無視しコンピューターのデザインを6年間据え置いたため売れ行きが落ちた
- [20]石橋信夫氏 住宅設計の失敗後に「新商品は2年たったら墓場へ送る」を社内ルールとして定着
- 不撓不屈の日々 1992
- [7]石橋信夫氏 丸太が空洞でないことから鉄パイプで家を造る着想を得た
- 読売新聞 1961年2月1日
- [14]滋賀県栗東 1週間前まで野原だった土地に13戸の文化住宅
- [15]住宅をそっくり工場でつくって現地へ運ぶ建築の速さに近隣の農家が驚いた
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [21]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
- [22]大工の1日当り賃金 東京オリンピック開催前約1,800円、開催後2,800円、1968年2月時点3,500円、万国博を控え6,000〜7,000円の声
- [23]20〜30坪の小住宅 従来の建築方法では工期4〜6カ月・大工の延人数180人
- [24]同じ小住宅 プレハブでは工期20日間・延人数60人で完成
- [25]日本のプレハブ化率 1967年度4.8%、フランス33%、先進10カ国で最低のイタリアでも10%
- [26]石橋信夫氏 顧客の好みによるオーダーメードの住宅はできずレディーメードでしかできないと述べた
- [28]1968年3月期 売上高143億円・利益8億5,000万円の見通し
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- [27]1963年3月期 売上高107.92億円(単体)
1964年〜上場6年で得た資金力をしのぐ、資金停止が残した借金嫌い
1959年10月に東京・大阪の店頭承認銘柄として株式を公開し、1961年9月に大阪証券取引所、翌10月に東京証券取引所へ上場した。創業から6年での上場で得た資金は、1965年の奈良工場や1973年11月の奈良中央試験所といった生産・研究設備へ向かった。1961年6月、富士製鉄・野村証券・小野田セメント・大和ハウス工業の4社が資本金1億円を共同出資した。宅地造成と分譲を担う大和団地の設立である。大和団地は羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発し、1975年時点の総開発面積は840万平方メートルに達した。工業化住宅を量産する本体と土地を仕込む別法人を並走させる体制は、2001年4月の合併まで40年続いた。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [29]1959年10月 東京・大阪市場の店頭承認銘柄として株式公開
- [30]1961年9月 大阪証券取引所市場に株式上場、1961年10月 東京証券取引所市場に株式上場
- [31]1955年4月の創業から1961年9月の上場まで6年
- [32]1973年11月 奈良中央試験所を開設
- [33]1961年6月 大和団地株式会社を設立
- [34]1961年6月 大和団地株式会社を設立
- [37]1961年6月の大和団地設立から2001年4月の合併まで約40年
- 日本企業要覧 1975年版
- [35]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
- [36]大和団地 1975年時点の総開発面積840万平方メートル
企業の倒産が続き、山一証券が初めて経営危機に陥った1964年は、大和ハウスにとって創業10年目にあたる。この深刻な不況下の株式市場では、実態とはかけ離れたものながら、同社の経営が危ないという噂が流れた。都市銀行の多くが資金を止め、融資をつないだのは南都銀行や常陽銀行など一部の地方銀行だけだったという経験から、石橋信夫氏は以後、借り入れに頼らずに会社を回すことを旨とした。有利子負債が最も膨らんだ1994年3月期ですら、そのうち借入金は1割未満で、残りを社債と転換社債が埋めていた。創業者の"借金はあかん"(日経ビジネス 2002/8/5)という言葉は、代々の社長に手を加えられないまま受け継がれた。
- 日経ビジネス 2002年8月5日号
- [38]1964年 企業の経営破綻が相次ぎ山一証券が最初の経営危機に見舞われた
- [39]創業10年目の1964年 深刻な不況下で株式市場に大和ハウスの経営不安がささやかれた
- [41]南都銀行・常陽銀行など一部の地方銀行を除き多くの都市銀行が資金供給を停止
- [42]1964年の資金調達難を境に石橋信夫氏は借入金に依存しない経営を心がけた
- [43]有利子負債ピークの1994年3月期でも借入金の比率は1割未満で残りは社債・転換社債
- [44]石橋信夫氏の信念「借金はあかん」を歴代の社長が継承
- 読売新聞 1964年12月1日
- [40]1964年12月時点 大和ハウスの資金計画は苦しく、プレハブ建築のトップメーカーが足踏みしていると伝えられた
資金の裏づけを外に求めない方針は、配当政策にも表れた。1950年代には資本調達の必要から2割配当を堅持していた。1960年代の前半は内部留保へ充当する方針に改め、1968年3月期の配当は1割2分に据え置いた。1967年9月期末の内部留保の累積額は17億円で、当期にさらに5〜6億円を積み増す計画だった。資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資と増配を考える含みである。積んだ資金が向かったのは生産の能力である。当時の月産能力は500棟、建設中の竜ケ崎工場が完成すれば1,000棟となり、長期には月産4,000棟を目標に置いた。1971年3月期の売上高は966億円、経常利益は128億円に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [45]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
- [46]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
- [47]1968年3月期の配当 1割2分を継続
- [48]1967年9月期末の内部留保の累積額 17億円
- [49]1968年3月期に内部留保を5〜6億円積み増す計画
- [50]資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資・増配を検討する含み
- [51]1968年2月時点の月産能力500棟、建設中の竜ケ崎工場の完成で月産1,000棟
- [52]長期目標 竜ケ崎工場2,500棟・奈良工場1,500棟の月産4,000棟
- 会社年鑑 1976年版
- [53]1971年3月期 売上高966億円・経常利益128億円(単体)
参考文献[29]-[53]
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [29]1959年10月 東京・大阪市場の店頭承認銘柄として株式公開
- [30]1961年9月 大阪証券取引所市場に株式上場、1961年10月 東京証券取引所市場に株式上場
- [31]1955年4月の創業から1961年9月の上場まで6年
- [32]1973年11月 奈良中央試験所を開設
- [33]1961年6月 大和団地株式会社を設立
- [34]1961年6月 大和団地株式会社を設立
- [37]1961年6月の大和団地設立から2001年4月の合併まで約40年
- 日本企業要覧 1975年版
- [35]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
- [36]大和団地 1975年時点の総開発面積840万平方メートル
- 日経ビジネス 2002年8月5日号
- [38]1964年 企業の経営破綻が相次ぎ山一証券が最初の経営危機に見舞われた
- [39]創業10年目の1964年 深刻な不況下で株式市場に大和ハウスの経営不安がささやかれた
- [41]南都銀行・常陽銀行など一部の地方銀行を除き多くの都市銀行が資金供給を停止
- [42]1964年の資金調達難を境に石橋信夫氏は借入金に依存しない経営を心がけた
- [43]有利子負債ピークの1994年3月期でも借入金の比率は1割未満で残りは社債・転換社債
- [44]石橋信夫氏の信念「借金はあかん」を歴代の社長が継承
- 読売新聞 1964年12月1日
- [40]1964年12月時点 大和ハウスの資金計画は苦しく、プレハブ建築のトップメーカーが足踏みしていると伝えられた
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [45]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
- [46]石橋信夫氏 昭和30年代は資本調達の必要から2割配当を堅持、昭和40年代前半は内部留保に努める方針
- [47]1968年3月期の配当 1割2分を継続
- [48]1967年9月期末の内部留保の累積額 17億円
- [49]1968年3月期に内部留保を5〜6億円積み増す計画
- [50]資本金28億円を倍額増資できる水準に達した時点で増資・増配を検討する含み
- [51]1968年2月時点の月産能力500棟、建設中の竜ケ崎工場の完成で月産1,000棟
- [52]長期目標 竜ケ崎工場2,500棟・奈良工場1,500棟の月産4,000棟
- 会社年鑑 1976年版
- [53]1971年3月期 売上高966億円・経常利益128億円(単体)
1976年〜遊休地という社会資源を企業価値に変えるマッチング事業
土地を仲立ちする発想は、土地を数えることから出ている。1976年8月の時点で、国土3,724万ヘクタールのうち法人の所有はわずか4%だった。資本金1億円以上の企業が持つ土地は72万ヘクタールにとどまる。そのうち事業に使われている土地が88%を占め、棚卸資産として抱える土地は9万ヘクタールにすぎない。未利用地は57%あるが、1区画70〜80坪の宅地に割っても150万戸分にしかならない。石橋氏はこの数字を『今後の当社の経営を考える上で重要なデータ』と位置づけた。企業が土地を買い占めても宅地の供給には足りず、動かすべきは他人の遊休地である。1968年の時点でも石橋氏は、遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす手を説いていた。
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- [54]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
- [55]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
- [56]大企業所有地のうち事業用資産土地63万ヘクタール(88%)、棚卸資産として所有する土地9万ヘクタール(12%)
- [57]棚卸資産土地9万ヘクタールの未利用地は57%、1区画70〜80坪の宅地にしても150万戸分
- [58]石橋信夫氏 この土地のデータを今後の経営を考える上で重要と位置づけた
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [59]石橋信夫氏 1968年2月 遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす方法を提起
1976年、大和ハウスは住宅事業で蓄えた土地情報と施工力を流通店舗事業へ振り向けた。ロードサイドの遊休地を持つ地主と出店を望むテナント企業を引き合わせ、店舗の設計から施工までを一貫して請け負う仕組みである。下地には土地を第一に据える創業者の商法があった。家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割にすぎず、プレハブ販売には土地開発が伴った『家を買いたいといっている人で土地をもっておられるのは約1割、他の9割は土地がないのですから、プレハブの販売にはやはり土地開発が伴わなければダメだ』(週刊東洋経済 1970/4/11)。工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、自らは生産の管理に回る商社的な運営も、この時期には定着していた。1977年に流通店舗事業部を設置し、プレハブでも窓を大きく取れる独自工法を開発したため、ほかのプレハブ大手と競合の少ない領域を確保した。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [60]1976年 流通店舗事業の開始
- [61]流通店舗事業 ロードサイドの遊休土地オーナーと出店希望のテナント企業をマッチング
- 日経ビジネス 1991年9月30日号
- [62]成約すればテナントの店舗を詳細設計から建設・施工まで一貫受注
- [66]1977年 流通店舗事業部を設置
- [67]プレハブでも窓を大きく取れる独自工法によりほかのプレハブ大手との競合がほとんど無かった
- 週刊東洋経済 1972年2月19日号
- [63]石橋商法の本質は第一に土地が基本にあり、第二に商社的経営法にある
- [65]大和ハウスの生産方式 工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、同社は生産の管理のみを担う
- 週刊東洋経済 1970年4月11日号
- [64]石橋信夫氏 家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割、プレハブ販売には土地開発が伴う必要
受注を効率よく集める仕掛けが、1990年6月に始めた"コンベンション"である。地主を集めた会場では、初日を相続税や土地税制の講演に充て、翌日に出店希望のテナントを引き合わせた。全国のオーナー会員は約2,500人、登録した土地情報は1万件を上回り、テナント会に加わる企業は120社に及んだ。靴・玩具販売のチョダは975店のうち約7割を大和ハウスが手がけ、日本トイザラスには50店舗分の土地を紹介して工事を請け負った。流通店舗事業部の売上高は1990年3月期の725億円から1991年3月期に1,300億円へ倍増した。全社に占める事業部の比率も1985年度の9%から1990年度の16%へ上がり、非住宅部門は全体のほぼ半分に達した。当時副社長の石橋伸康氏は『この成長に最も寄与したのはコンベンション。10年後には現在の3倍、3,700億円を達成する』と述べた。
- 日経ビジネス 1991年9月30日号
- [68]1990年6月 第1回オーナーズコンベンションを開催、以後は年に2〜3回開催
- [69]コンベンションは2日間の日程で1日目を土地・税制の講演会に充てた
- [70]オーナー会 会員数は全国で約2,500人、登録土地情報は1万件超
- [71]テナント会 会員企業120社
- [72]チョダ 975店のうち約7割を大和ハウスが施工
- [73]日本トイザラス 50店舗分の土地を紹介し工事の受注が決定
- [74]流通店舗事業部の売上高 1990年3月期725億円→1991年3月期1,300億円
- [75]流通店舗事業部の売上比率 1985年度9%→1990年度16%
- [76]非住宅部門の比率が全社のほぼ半分へ上昇
- [77]石橋伸康副社長 コンベンションが成長に最も寄与、10年後に現在の3倍の3,700億円を目標
参考文献[54]-[77]
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- [54]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
- [55]国土3,724万ヘクタールの所有形態 個人71%・国有公有25%・法人4%、資本金1億円以上の大企業の所有地は72万ヘクタール
- [56]大企業所有地のうち事業用資産土地63万ヘクタール(88%)、棚卸資産として所有する土地9万ヘクタール(12%)
- [57]棚卸資産土地9万ヘクタールの未利用地は57%、1区画70〜80坪の宅地にしても150万戸分
- [58]石橋信夫氏 この土地のデータを今後の経営を考える上で重要と位置づけた
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- [59]石橋信夫氏 1968年2月 遊休地の固定資産税に累進税率を適用して宅地の供給量を増やす方法を提起
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [60]1976年 流通店舗事業の開始
- [61]流通店舗事業 ロードサイドの遊休土地オーナーと出店希望のテナント企業をマッチング
- 日経ビジネス 1991年9月30日号
- [62]成約すればテナントの店舗を詳細設計から建設・施工まで一貫受注
- [66]1977年 流通店舗事業部を設置
- [67]プレハブでも窓を大きく取れる独自工法によりほかのプレハブ大手との競合がほとんど無かった
- [68]1990年6月 第1回オーナーズコンベンションを開催、以後は年に2〜3回開催
- [69]コンベンションは2日間の日程で1日目を土地・税制の講演会に充てた
- [70]オーナー会 会員数は全国で約2,500人、登録土地情報は1万件超
- [71]テナント会 会員企業120社
- [72]チョダ 975店のうち約7割を大和ハウスが施工
- [73]日本トイザラス 50店舗分の土地を紹介し工事の受注が決定
- [74]流通店舗事業部の売上高 1990年3月期725億円→1991年3月期1,300億円
- [75]流通店舗事業部の売上比率 1985年度9%→1990年度16%
- [76]非住宅部門の比率が全社のほぼ半分へ上昇
- [77]石橋伸康副社長 コンベンションが成長に最も寄与、10年後に現在の3倍の3,700億円を目標
- 週刊東洋経済 1972年2月19日号
- [63]石橋商法の本質は第一に土地が基本にあり、第二に商社的経営法にある
- [65]大和ハウスの生産方式 工場で建物と機械を下請け業者に貸し付け、同社は生産の管理のみを担う
- 週刊東洋経済 1970年4月11日号
- [64]石橋信夫氏 家を買いたい人のうち土地を持つのは約1割、プレハブ販売には土地開発が伴う必要
1955年〜1976年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1955年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 大阪市港区に大阪工場(築港工場)を開設(1955) |
| 1956年03月期 | 単体 | 0 | n/a | n/a | 0 | 0.0% | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 1 | +518.5% | n/a | 0 | 4.2% | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 4 | +140.1% | n/a | 0 | 3.5% | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 9 | +142.1% | n/a | 0 | 5.7% | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 21 | +124.6% | n/a | 1 | 4.6% | n/a | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 52 | +138.7% | n/a | 2 | 5.7% | n/a | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 100 | +92.5% | 6 | 5 | 5.7% | 3 | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 107 | +7.7% | 9 | 8 | 7.7% | 4 | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | タイに合弁会社「大和ハウス秦国両合公司」を設立(1964) |
| 1965年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1971年03月期 | 単体 | 966 | n/a | n/a | 128 | 13.3% | 74 | n/a |
| 1972年03月期 | 単体 | 837 | ▲13.4% | n/a | 82 | 9.8% | 50 | n/a |
| 1973年03月期 | 単体 | 1,141 | +36.3% | n/a | 100 | 8.8% | 61 | n/a |
| 1974年03月期 | 単体 | 1,584 | +38.8% | n/a | 148 | 9.3% | 82 | n/a |
| 1975年03月期 | 単体 | 1,501 | ▲5.2% | n/a | 96 | 6.4% | 45 | n/a |
| 1976年03月期 | 単体 | 1,505 | +0.3% | n/a | 80 | 5.3% | 40 | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑
出典・参考
15件
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑 1976年版
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版
- 証券アナリストジャーナル 1968年3月号
- 週刊東洋経済 1970年4月11日号
- 週刊東洋経済 1972年2月19日号
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- 日経ビジネス 1984年3月5日号
- 日経ビジネス 1986年4月14日号
- 日経ビジネス 1991年9月30日号
- 日経ビジネス 2002年8月5日号
- 読売新聞 1961年2月1日
- 読売新聞 1964年12月1日
- 日本企業要覧 1975年版
- 不撓不屈の日々 1992