上場企業の経営論点

生産拠点の再編

戦後の日本企業は、需要の伸びに合わせて工場を建て増してきた。工場は地域の雇用と下請の仕事を抱えており、閉鎖すれば従業員の行き先と取引先の受注が同時に失われる。そのため生産を減らすときも拠点は閉じず、設備を転用して別の製品で工場を存続させるのが通例だった。1970年、日本セメントは大型工場へ生産を集約する一方、セメント生産を外した小規模工場を関連製品で自立させている。

この前提が崩れたのは、需要の伸びが止まってからである。石油危機後の1975年、ユニチカは名古屋・犬山・桐生の3工場を一度に閉鎖し、希望退職と一時帰休に踏み切った。1985年には三井石油化学工業が産構法の過剰設備処理でエチレン生産を浮島へ集約した。プラザ合意後の円高の下では、トミー工業が国内2工場を閉鎖して製造部門を分社し、カナデビアは築港工場と堺工場を閉鎖して100社近い新会社へ人員を移した。

1990年代に入ると、閉鎖の対象は主力の拠点に及んだ。日産自動車は1993年に座間工場の車両生産を中止し、国内の年産能力を270万台から230万台へ削減した。1999年の日産リバイバルプランでは、国内5工場の閉鎖と2万1000人の削減を系列の解体と組み合わせた。その後も住友金属工業が和歌山製鉄所で熱間圧延ラインを休止し、山水電気は福島工場を閉鎖して生産から撤退した。

2000年代以降の閉鎖は、赤字の処理に限られない。JTは増益期の2003年に国内たばこ工場の追加廃止と約4,000人の希望退職を打ち出し、マールボロの契約終了に備えた。ホンダは電動化に備えて狭山工場の生産を寄居工場へ集約し、神戸製鋼所は加古川製鉄所に655億円を投じて神戸製鉄所の上工程を休止した。国外の拠点も対象となり、ホンダは英スウィンドン工場を、三菱自動車は米イリノイ工場を閉鎖している。

2025年、日産自動車はRe:Nissanで車両工場を17から10へ統合する計画を公表した。かつて工場の閉鎖は、需要の減少が確定した後に決める撤退の手続きだった。現在は移管先の工場への投資と一体で計画され、需要が減る前に決める生産体制の選択になっている。

財務諸表のどこを見るか

生産拠点の再編は、損益計算書の特別損失に、減損損失・事業構造改善費用・固定資産除却損として現れる。閉鎖予定の設備は【減損損失】の注記で、場所・用途・金額を確かめる。人員の削減は【従業員の状況】の人数と、希望退職に伴う特別退職金の計上で追う。【設備の状況】の主要な設備の一覧から、拠点の増減が分かる。

生産拠点の再編の事例

2025年グンゼアパレル事業の構造改革主力事業の再構築と、機能ソリューション・メディカルへの中核の移行2025年日産自動車Re:Nissanで7工場統廃合2万人規模の人員削減と生産体制の縮小に踏み切った経営再建計画2021年ホンダスウィンドン工場の閉鎖英国欧州完成車生産からの全面撤退2021年ヤマハ発動機浜北工場の閉鎖創業地・国内二輪生産の本社工場への集約2017年神戸製鋼所神戸製鉄所の上工程休止加古川製鉄所への一貫工程の集約2017年ホンダ狭山工場の寄居工場への集約最初の四輪工場の閉鎖と、電動化に備えた新工場への国内生産の一本化2016年旭化成水島エチレンセンターの1基化自社のエチレン設備の停止と、三菱化学との運営会社からの原料購入2015年三菱自動車イリノイ工場の閉鎖現地生産の看板を下ろし、米国での自社生産から全面撤退2013年パナソニックプラズマテレビから撤退尼崎の専用パネル工場を止め、内製で画質を競う路線から撤退した判断2012年SUMCO太陽電池用ウェーハ撤退事業再生計画に基づく尼崎・生野工場の閉鎖と生産能力の圧縮2004年GSユアサ日本電池・ユアサ統合株式移転による経営統合と、高槻事業所の閉鎖・希望退職を伴う減産2004年三菱自動車ダイムラー撤退後の自主再建三菱グループ各社の支援を軸とした自主再建体制への移行2003年JTJT PLAN-Vの工場閉鎖と希望退職マールボロの契約終了を前にした、増益期の製造拠点と人員の削減2001年山水電気福島工場閉鎖し生産撤退自社で生産する体制を廃止し、生産機能を持たない事業構造への転換1999年住友金属工業和歌山製鉄所を再建熱間圧延ラインの休止を含む、主力製鉄所の身の丈に合わせた立て直し1999年日産自動車日産リバイバルプランの断行国内5工場の閉鎖と系列の解体による1兆円のコスト削減と、3つの必達目標の公約1998年ヤマハ発動機マリン事業の構造改革拡大しすぎた事業の整理と、船外機を軸とした資源の集中1994年コロワイド鎌倉キッチン配送センターの新設逗子工場の閉鎖と、製造と配送を担うセントラルキッチンへの移行1993年日産自動車座間工場の生産中止主力拠点の車両生産打ち切りと、規模の拡大を追わない事業構造への転換1989年タカラトミー流山工場の閉鎖と分社化円高危機を受けた生産拠点の整理と、つくる機能を切り離す経営再編1988年片倉工業熊谷工場休止で蚕糸撤退蚕糸事業を1製糸工場・1蚕種製造所へ集約し、製造業務から完全に撤退1986年カナデビア築港工場・堺工場の閉鎖100社近い新会社への人員の移籍と、本体従業員の約8割削減1985年三井化学浮島集約と超石化転換エチレン生産の一極化と、汎用品からの脱却を掲げたビジョンの提示1980年明治製菓薬品部門への経営資源集中不採算な菓子工場の閉鎖による食品事業の構造改善と主力の入れ替え1978年東京製鐵江戸川工場閉鎖と電炉化岡山工場の平炉停止とあわせて進めた電炉一貫体制への移行1976年ユニオンツール新潟県長岡に拠点集約本社工場の機能を新設工場へ全面移転する生産体制の一本化1975年ユニチカ名古屋・犬山・桐生工場閉鎖一度に3拠点を整理する国内生産体制の縮小と減量経営への転換1974年日立建機土浦一貫生産への集約製販統合による新生日立建機の発足と、足立工場の閉鎖1970年日本セメント大型工場へ生産集約小規模工場を関連製品で自立させる第1次体質強化策の実行1968年ヤクルト本社プラスチック容器への転換瓶の廃止と全国の原液工場の統合による、本社集権体制への移行