豊田通商:トヨタ金融の発足と商事部門を継ぐ日新通商の設立
1936年〜日本初の月賦販売会社トヨタ金融と、金融事業整備令で月賦金融を閉じた豐田産業
1936年10月31日、豊田自動織機製作所は自動車の月賦販売を目的とする国内初の会社として、トヨタ金融を名古屋で創立した。資本金100万円のうち94万5,000円を豊田自動織機製作所が出資し、社長は豊田利三郎氏が務めた。設立を説いたのは、1935年10月に日本GMから移った販売責任者の神谷正太郎氏である。当時は日本フォードと日本GMがそれぞれ金融子会社を持ち、国内の自動車販売は8割近くを月賦が占めていた。神谷正太郎氏は消費者金融の乏しい国では自ら金融会社を設けるべきだと豊田喜一郎氏に進言し、トヨタ金融はトヨタ自動車工業より先に発足した。工場の量産に先立って買い手の資金を整えた順序が、のちに商社となる会社の出自を形づくったとみられる。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その1)」
- [1]トヨタ金融は1936年10月31日創立、資本金100万円(豊田自動織機94万5,000円出資)、社長豊田利三郎、本社は名古屋市中区
- [2]トヨタ金融は1936年10月31日創立、資本金100万円(豊田自動織機94万5,000円出資)、社長豊田利三郎、本社は名古屋市中区
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「国産車販売と月賦金融」
- [3]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- [4]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- [5]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [6]トヨタ金融は1936年10月に資本金100万円で、トヨタ自動車工業の自動車販売に対する金融を目的に創立された
日中戦争が始まると臨時資金調整法や銀行等資金運用令で金融統制が強まり、月賦金融にも規制が及んだ。1942年2月に豊田紡織が同業4社と合併し中央紡績が生まれる際、トヨタ金融は豊田紡織の持株16万811株を666万2,105円で取得した。取得資金は株式を担保とした三井銀行名古屋支店の融資500万円で賄い、トヨタ金融はグループの持株会社に転じた。同年4月には社名を豐田産業に改め、月賦金融の業務も引き継いだ。ところが1942年5月16日公布の金融事業整備令により、月賦金融は姿を消した。7月には日本自動車配給が一手買取機関として設けられ、自動車の販売そのものが配給制へ移行。1943年には保有株の総額が1,300万円余に達し、豐田産業は配当と利子の収入で経営を賄った。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その1)」
- [7]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- [8]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- [9]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- [10]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [12]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [13]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [14]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [11]1942年4月にトヨタ金融から豊田産業へ改称した
参考文献[1]-[14]
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その1)」
- [1]トヨタ金融は1936年10月31日創立、資本金100万円(豊田自動織機94万5,000円出資)、社長豊田利三郎、本社は名古屋市中区
- [2]トヨタ金融は1936年10月31日創立、資本金100万円(豊田自動織機94万5,000円出資)、社長豊田利三郎、本社は名古屋市中区
- [7]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- [8]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- [9]日中戦争後の金融統制で月賦金融が規制対象となり、1942年2月の豊田紡織の中央紡績への合併に際し株式16万811株を666万2,105円で取得(三井銀行名古屋支店から500万円借入)、持株会社の性格を得た
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「国産車販売と月賦金融」
- [3]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- [4]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- [5]神谷正太郎は1935年10月に日本GMから豊田自動織機に入社し販売責任者となり、フォード・GMの金融子会社と月賦販売比率約80%を踏まえ自前の金融会社設立を豊田喜一郎に進言、トヨタ自工設立(1937年)に先立ちトヨタ金融が創立された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [6]トヨタ金融は1936年10月に資本金100万円で、トヨタ自動車工業の自動車販売に対する金融を目的に創立された
- [11]1942年4月にトヨタ金融から豊田産業へ改称した
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- [10]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [12]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [13]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
- [14]1942年4月25日に豐田産業へ改称し月賦金融を引き継いだが、同年5月16日の金融事業整備令で月賦金融は消滅、同年7月に日本自動車配給設立で自動車は配給制、1943年の持株総額は1,300万円余で配当・利子収入により経営を賄った
1944年〜資本金1,000万円への増資で濃くなった持株会社の色と、豊田利三郎氏が進めた豐田産業の商社への転身
1944年8月、豐田産業は資本金を従来の100万円から10倍の1,000万円とする増資を決議した。発端は、東洋紡績が保有するトヨタ自動車工業株14万株の売却意向。トヨタグループは戦前、豊田佐吉氏の方針を継ぎ、関係者以外による株式の保有を原則として認めていなかった。当時のトヨタ自動車工業はすでに軍需会社に指定され、軍用自動車や航空機を生産していた。トヨタの首脳は緊急会議で豐田産業による取得を決め、資本金が1,000万円となるのは1945年2月である。増資の後はトヨタ自動車工業・豊田利三郎氏・豊田喜一郎氏が大株主に並び、持株会社の性格がいっそう濃くなった。株の外部流出を防ぐための増資が、戦後に持株会社と見なされる根拠を自ら厚くしたと推察される。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- [15]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [16]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [17]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [18]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [19]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [21]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [20]豊田産業は1945年2月に資本金1,000万円に増資し証券保有の業務も兼ねた
1945年10月、豐田産業は機構を改めて貿易商社へ転換した。最大の収入源だった中国の紡績設備はほぼ接収され、国内でもトヨタ自動車工業が生産を打ち切ったため、配当収入はほぼ途絶えた。社長の豊田利三郎氏は、各社を生産に専念させ、輸出を含む販売と輸入を豐田産業が統括する方針を示した。組織は総務・経理・営業・外国の4部とし、常務の岡本藤次郎氏が営業部を受け持った。当座は手元資金70〜80万円と払い下げの中古トラックで各地の生活物資を仕入れ、転売で経費を賄った。1946年5月には岡本藤次郎氏が副社長に昇格して経営の実務を担い、三井物産出身の小林虎之助氏ら実務家が取締役に加わった。1946年11月には名古屋駅前の所有地に木造の本社を新築し、商社の拠点を移した。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [22]豊田産業は1945年10月に機構改革と業務整備を図り貿易商社に転換した
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「商社への転身」
- [23]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [24]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [25]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [26]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [27]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「光明を見出す」
- [28]本社が占領軍に接収され1945年10月末に仮移転し、名古屋駅前の所有地に木造本社を建て1946年11月に完成・移転した
1947年9月26日、豐田産業は地方財閥を対象とする第5次指定により持株会社の指定を受けた。豊田家は財閥家族と見なされなかったものの、グループ各社の株を保有していた事実から豐田産業は持株会社と断定された。1944年の増資で軍需会社のトヨタ自動車工業の大株主となっていたことも、指定の原因の一つである。清算会社に移った豐田産業は、他社の証券や出資金、商品、土地のすべてを持株会社整理委員会へ譲渡することになった。処分の対象は豊田自動織機の株20万800株やトヨタ自動車工業の株22万3,369株に及び、清算は1951年6月20日まで続いた。商社として動き出した直後の指定は、商事部門の存続そのものを危うくしたと思われる。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「日新通商株式会社の設立」
- [29]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [31]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [33]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [34]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [30]1947年9月に持株会社整理委員会から持株会社に指定され解散することになった
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- [32]1944年の増資でトヨタ系の持株会社となり、軍需会社トヨタ自工の株を持つことが1947年9月26日の解散命令の原因となった
参考文献[15]-[34]
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- [15]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [16]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [17]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [18]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [19]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [21]1944年、東洋紡績のトヨタ自工株14万株売却意向を受けトヨタ自工は軍需会社指定済み、首脳の緊急会議で豐田産業による取得を決め、同年8月に資本金を100万円から1,000万円に増資決議、トヨタ自工・豊田利三郎・豊田喜一郎らが大株主となり持株会社の性格が濃くなった
- [32]1944年の増資でトヨタ系の持株会社となり、軍需会社トヨタ自工の株を持つことが1947年9月26日の解散命令の原因となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [20]豊田産業は1945年2月に資本金1,000万円に増資し証券保有の業務も兼ねた
- [22]豊田産業は1945年10月に機構改革と業務整備を図り貿易商社に転換した
- [30]1947年9月に持株会社整理委員会から持株会社に指定され解散することになった
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「商社への転身」
- [23]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [24]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [25]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [26]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- [27]終戦後、中国の紡績設備接収とトヨタ自工の生産打ち切りで配当収入が途絶え、豊田利三郎が商事部門整備と各社販売(輸出含む)・輸入の統括を指示、4部制で岡本藤次郎常務が営業部担当、手元資金70〜80万円と中古トラックで生活物資を転売して経営をつないだ、1946年5月岡本が副社長となり実質的経営責任、三井物産出身の小林虎之助らが取締役
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「光明を見出す」
- [28]本社が占領軍に接収され1945年10月末に仮移転し、名古屋駅前の所有地に木造本社を建て1946年11月に完成・移転した
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「日新通商株式会社の設立」
- [29]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [31]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [33]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
- [34]1947年9月26日の第5次指定で豊田産業は持株会社に指定され、保有財産を持株会社整理委員会に譲渡して清算(豊田自動織機20万800株・トヨタ自工22万3,369株など)、清算完了は1951年6月20日
1948年〜GHQとの交渉で切り出した商事部門と、資本金900万円で発足した日新通商
1948年7月1日、豐田産業の商事部門を継ぐ第二会社として、日新通商が資本金900万円で発足した。社長の豊田利三郎氏と副社長の岡本藤次郎氏は整理委員会とGHQに事情を説き、稼働中の商事部門を切り離して独立させる承認を得ていた。新会社は企業再建整備法に基づいて新勘定を切り離して設立され、同日に豐田産業は解散した。日新通商の社名は、日々新たにという決意を込めた豊田利三郎氏の命名。だが豊田利三郎氏は公職追放の経済界への広がりに対処して辞任し、8月20日に岡本藤次郎氏が社長に就任した。本社は名古屋市中村区に置き、豐田産業の大阪支店と東京出張所を引き継いだ。発足の翌月に制限付きの民間貿易で手続きが簡素になると、日新通商はインドへ自動織機を輸出した。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「日新通商株式会社の設立」
- [35]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [37]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [38]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [39]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [40]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [41]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [42]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [36]日新通商は1948年7月に豊田産業の商事部門を継承し資本金900万円で設立された
日新通商は海外からの引揚者も受け入れ、1948年の発足時に従業員205人を抱えていた。第2期(1948年10月〜1949年3月)は、売上高4億2,300万円、純利益80万円で着地した。この期は政府の金融引き締めで国内の取引が滞り、代わって自動車用品・ミシン・陶磁器の輸出が伸びた。国内では繊維製品の生産が活気づいて紡織機が売れ、埼玉県の藤井繊維へ織機20台を納めたのを手始めに、岐阜市の紡績各社とも取引を結んだ。1950年には愛知製鋼の指定問屋に加わって鉄鋼の取引を始め、同年8月に資本金を3,000万円へ増資した。グループ企業の債務を保証し、増資の新株を引き受ける金融業務も担い、その取扱いが減るのは1952年以降である。同じ1952年ごろには朝鮮特需の終息で綿糸の市況が暴落し、繊維部は縮小を迫られた。
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「活発だった金融業務」
- [43]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [44]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [45]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [46]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [47]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [49]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [50]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [48]日新通商は1950年8月に資本金を3,000万円に増資した
日新通商は1950年8月に3,000万円、1951年10月に5,000万円、1953年6月に2億円と、資本金を3度増やした。株式の半数近くを持つのはトヨタ自動車工業と豊田自動織機の2社である。取扱品目は紡織機から一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花に及び、取扱高は1955年3月期に45億8,000万円となった。貿易の相手は台湾からパキスタン、北米、欧州まで広がり、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・米国ダラスに駐在員と技術者を置いた。トヨタ自動車工業と豊田自動織機の協力で東和不動産を設け、1955年には名古屋駅前に豊田ビルを完成させた。トヨタ系2社の出資と米国ダラスの駐在拠点が、次の改称と上場、米国での販売拠点の設置を支える土台になったのだろう。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [51]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [52]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [53]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [54]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「新たなる出発」
- [55]1948〜1955年は商事会社への模索期で、トヨタ自工・豊田自動織機の協力で東和不動産を設立し、1955年に名古屋駅前の豊田ビルを完成した
参考文献[35]-[55]
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「日新通商株式会社の設立」
- [35]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [37]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [38]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [39]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [40]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [41]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- [42]豊田利三郎社長と岡本藤次郎副社長が整理委員会とGHQに説明して商事部門の分離独立を認めさせ、企業再建整備法の第二会社として1948年7月1日に日新通商を資本金900万円で設立、豐田産業は同日解散、利三郎は公職追放に対処して辞任し8月20日に岡本が社長、社名は日々これ新たなりの決意で利三郎が命名、本社は名古屋市中村区、大阪支店・東京出張所を継承、インド向け自動織機を輸出
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」
- [36]日新通商は1948年7月に豊田産業の商事部門を継承し資本金900万円で設立された
- [48]日新通商は1950年8月に資本金を3,000万円に増資した
- [51]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [52]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [53]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- [54]資本金は1950年8月3,000万円・1951年10月5,000万円・1953年6月2億円、トヨタ自動車と豊田自動織機が半数近くを保有、取扱高は1955年3月期45億8,000万円、取扱品目は紡織機・一般機械・金属・雑貨・繊維・燃料・綿花、ダッカ・カラチ・バンコク・香港・台北・ダラスに駐在員と技術者
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「活発だった金融業務」
- [43]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [44]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [45]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [46]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [47]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [49]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- [50]1948年の発足時の従業員205人(引揚者受入れ)、第2期(1948年10月〜1949年3月)売上高4億2,300万円・純利益80万円、金融引き締めで国内低調・自動車用品ミシン陶磁器の輸出伸長、紡織機販売の拡大、1950年7月愛知製鋼の指定問屋で鉄鋼取引開始、グループへの債務保証・新株引受は1952年以降減少、1952年ごろの三白暴落で繊維部縮小
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「新たなる出発」
- [55]1948〜1955年は商事会社への模索期で、トヨタ自工・豊田自動織機の協力で東和不動産を設立し、1955年に名古屋駅前の豊田ビルを完成した
出典・参考
9件
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その1)」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「国産車販売と月賦金融」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「戦時下での苦闘(その2)」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「商社への転身」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「光明を見出す」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「日新通商株式会社の設立」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「活発だった金融業務」
- 人と信頼を育てて 豊田通商40年の歩み1948-1989(1991)「新たなる出発」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)「日新通商」