HOYA:鈴木哲夫のメガネ事業参入と社長の引責退任
1957年〜32歳の常務兼工場長鈴木哲夫氏の社長就任と、昭和工場・3社合併でできた保谷硝子
1957年2月、32歳の鈴木哲夫氏が保谷クリスタル硝子製造所の社長に就任した。終戦後の11年間は山中茂氏が社長を務めたが、累積赤字の後始末となる資金繰りに追われ、心労から病に倒れた。早い回復が望めず、常務兼工場長で山中茂氏の娘婿だった鈴木哲夫氏が急きょ後継に指名された。鈴木哲夫氏は1944年に東京工業大学を出て東洋光学に入り、1949年に保谷クリスタル硝子の取締役となった人物だった。就任前は現場の技術者として生産管理と品質管理を受け持ち、社長として最初に掲げたのは経営の近代化だったという。同族経営のままでは発展できないと考えてプロの経営者になると決め、1年半ほど経営学を学んだうえで役員から課長まで教育を広げた。
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [1]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [2]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [3]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [7]社長就任後3年間は社内教育に注力し、1959年にトップセミナー、同年9月にミドルセミナーを始めた
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [4]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
- [5]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
- [6]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
鈴木哲夫氏の社長就任から1959年までの間に、保谷はメガネ用ガラスS6の熔解を始め、プレス品「ホヤクラウン」を発売した。当時の事業は光学ガラスとクリスタルの二本建てで、利益を生んでいたのは主に光学ガラスの側だった。クリスタル食器は国内でも売れ始めていたが、値段が普通のガラス食器の10倍近く、買い手はまだ限られていた。眼鏡に手を付けたのは経営の多角化を図るためで、当初の計画はメガネレンズの生地を売ることにとどまっていた。その眼鏡部門は10年ほどで育ち、1968年12月期の売上構成では22.3%を占め、光学・食器と並ぶ3部門の一つとなった。カメラの景気に左右されやすい光学ガラスの売り先を、数の出る消費財へ広げる狙いもあったのだろう。
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [8]年表(昭和31〜34年の欄)眼鏡事業:メガネ用ガラスS6の熔解開始、メガネ用ガラスのプレス品「ホヤクラウン」発売
- [9]昭和30年代初頭は光学ガラスとクリスタルの二本建て。利益は光学ガラスが主体で、クリスタルは普通のソーダガラス食器の10倍近い値段であまりもうからなかった
- [10]昭和30年代初頭は光学ガラスとクリスタルの二本建て。利益は光学ガラスが主体で、クリスタルは普通のソーダガラス食器の10倍近い値段であまりもうからなかった
- [11]経営の多角化を図るため眼鏡に手を付けた。初めの計画ではメガネ・レンズの生地を売るつもりだった
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- [12]会社概況:食器・光学ガラス・眼鏡の3部門。事業内容 光学36.5%・食器41.2%・眼鏡22.3%(43年12月期)
1960年11月、保谷クリスタル硝子製造所は関連3社を吸収合併し、商号を保谷硝子に改めた。合併したのは保谷光学工業、山中光学工業、保谷光学硝子販売で、いずれも光学ガラスの製造と販売を担う会社だった。鈴木哲夫社長は、小さな会社をいくつ抱えても町工場の域を出ず、統合して資金効率と経営手法を高めるべきだと考えていた。合併は、5年で同族経営から抜け出す長期計画の第一歩に置かれ、資本と人材と技術を一つにする狙いがあった。新会社は資本金5,000万円で年商10億円を目標とし、4社で21名いた役員を取締役5名と監査役2名に絞った。同じ時期には東京都昭島市に光学ガラス専門の昭和工場を新設し、古くなった保谷の工場から生産を移した。
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [13]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
- [14]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
- [19]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [15]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [16]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [18]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [20]昭和35年末に光学ガラス専門の昭和工場(昭島市)を建設。保谷の工場は老朽化していた。年表:昭和工場稼働、保谷工場より光学製造部門を移転
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [17]5年間で同族経営から脱皮する長期計画の第一に、ばらばらの系列会社を合併し資本・人材・技術を統合した
参考文献[1]-[20]
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [1]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [2]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [3]1957年2月、山中茂の病で、常務兼工場長で山中茂の娘婿の鈴木哲夫(32歳)が社長に指名された(前社長山中茂は終戦後11年社長、累積赤字の金融対策の心労)
- [7]社長就任後3年間は社内教育に注力し、1959年にトップセミナー、同年9月にミドルセミナーを始めた
- [8]年表(昭和31〜34年の欄)眼鏡事業:メガネ用ガラスS6の熔解開始、メガネ用ガラスのプレス品「ホヤクラウン」発売
- [9]昭和30年代初頭は光学ガラスとクリスタルの二本建て。利益は光学ガラスが主体で、クリスタルは普通のソーダガラス食器の10倍近い値段であまりもうからなかった
- [10]昭和30年代初頭は光学ガラスとクリスタルの二本建て。利益は光学ガラスが主体で、クリスタルは普通のソーダガラス食器の10倍近い値段であまりもうからなかった
- [11]経営の多角化を図るため眼鏡に手を付けた。初めの計画ではメガネ・レンズの生地を売るつもりだった
- [15]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [16]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [18]4社(保谷クリスタル硝子・保谷光学・山中光学・保谷光学硝子販売)を合併し資本金5000万円の保谷硝子に。年商10億円が目標。小さな会社では町工場で終わると考えた。役員21名を取締役5・監査役2へ圧縮。傍系3社はすべて光学系統
- [20]昭和35年末に光学ガラス専門の昭和工場(昭島市)を建設。保谷の工場は老朽化していた。年表:昭和工場稼働、保谷工場より光学製造部門を移転
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [4]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
- [5]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
- [6]鈴木哲夫は1944年東京工大卒・東洋光学入社、1949年保谷クリスタル硝子取締役、1957年社長。就任前は生産管理・品質管理の技術者、同族経営では発展できないとして近代経営を1年半学んだ
- [17]5年間で同族経営から脱皮する長期計画の第一に、ばらばらの系列会社を合併し資本・人材・技術を統合した
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- [12]会社概況:食器・光学ガラス・眼鏡の3部門。事業内容 光学36.5%・食器41.2%・眼鏡22.3%(43年12月期)
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [13]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
- [14]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
- [19]1960年11月 昭和工場を新設、保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し商号を保谷硝子に変更
1961年〜東証二部への上場と、眼鏡レンズの一貫生産・付加価値分配制度
合併から7か月後の1961年6月に保谷硝子は株式を公開し、同年10月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。公開に合わせて資本金を5,000万円から1億2,500万円へ増やし、新株のうち50万株を一般公募に回した。狙いは資金を調達する力を強めることと、同族経営から抜け出して資本と経営を分けることにあった。鈴木哲夫社長自身も、株式公開の目的として自己資本の充実を挙げた。公開前に70%あった同族の持株比率は、その後の増資も経て1963年には44%まで下がった。上場で社会的な信用が増し、株価が高かったこの時期は銀行も求めに応じて融資した。株式市場と銀行の双方から資金を得られる立場が、のちの工場と販売網への同時投資を後押ししたと推察される。
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [21]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [23]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [24]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [26]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [27]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [22]1961年10月 東京証券取引所市場第二部へ上場
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [25]第2番目に株式の公開を行った。目的は自己資本の充実
1962年5月、保谷硝子はメガネレンズの製造に参入し、同じ年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売した。当初は生地を売る計画だったが、研磨してコーティングすれば5〜6倍の値で売れると見込みを改めた。この見込みは、カメラ用フィルターを生地から枠付きの箱入り製品まで請け負ううちに得たものだった。さらに自社の商標を付け、問屋を通さず小売店へ直接流せば、付加価値は何十倍にもなると考えた。鈴木哲夫社長は、1962年から続けた直販の狙いとして、流通費用の削減と工場の安定した操業の二つを挙げた。1964年時点で直売の取引先は3,000軒に上り、ほかに百貨店250軒と取引していた。
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [28]1962年5月 メガネレンズ製造開始
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [29]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [30]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [31]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [32]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- 証券アナリストジャーナル 12(8) 1974年 鈴木哲夫
- [33]昭和37年以来直販体制。ねらいは流通コストの低減と安定した操業の維持
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [34]問屋方式から直売システムに切り換え、直売店3千軒、ほかにデパート250軒
保谷硝子は、生み出した付加価値に連動させて従業員の賃金総額を決める付加価値分配制度を採った。1966年の実例報告の時点で、制度は6年近く続いていた。労使の協定では期末手当に上限3.5か月と下限3.0か月を設け、上限を超えた分は会社が支払いを留保した。下限に届かない年は留保分で埋め、それでも足りなければ会社が補填して、景気による賃金の振れを均した。要員数が増えれば個別の賃金が下がる仕組みも組み込み、少ない人数で生産性を上げる方向へ促した。会社は年度初めに経営計画を組合へ示し、四半期ごとに実績を説明した。相手の保谷硝子労働組合は総同盟に属しており、報告は生産性向上に協力的な同盟系である点を制度の基盤に数えた。
- 労務研究 19(10) 1966年「付加価値分配制度の実際――保谷硝子の例(II)」
- [35]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [36]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [37]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [38]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [39]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [40]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [41]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- [42]労組状況 保谷硝子労働組合(総同盟所属)
参考文献[21]-[42]
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [21]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [23]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [24]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [26]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [27]1961年6月株式公開(資本金5000万円→1億2500万円、50万株を一般公募)、10月東証二部上場。真意は資金調達力の強化と同族経営からの脱皮、資本と経営の分離。同族持株70%→1963年44%。上場で信用が増し、銀行は言うなりに貸した
- [29]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [30]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [31]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- [32]37年から高級メガネレンズ「アコマ」を生産・販売。初めはレンズ生地を売るつもりだったが、研磨・コーティングで5〜6倍、自社ブランドで小売店に直接流せば何十倍もの付加価値が稼げることがフィルターの経験からわかった
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [22]1961年10月 東京証券取引所市場第二部へ上場
- [28]1962年5月 メガネレンズ製造開始
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- [25]第2番目に株式の公開を行った。目的は自己資本の充実
- [34]問屋方式から直売システムに切り換え、直売店3千軒、ほかにデパート250軒
- 証券アナリストジャーナル 12(8) 1974年 鈴木哲夫
- [33]昭和37年以来直販体制。ねらいは流通コストの低減と安定した操業の維持
- 労務研究 19(10) 1966年「付加価値分配制度の実際――保谷硝子の例(II)」
- [35]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [36]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [37]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [38]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [39]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [40]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- [41]付加価値と賃金総額を正比例させる分配制度。6年近く継続。期末手当に上限3.5カ月・下限3.0カ月、超過分は留保・不足分は留保分と会社で補填。要員数と個別賃金を反比例させる。年度初めに経営計画、四半期ごとに実績を組合へ説明。組合は生産性向上に協力的な同盟系
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- [42]労組状況 保谷硝子労働組合(総同盟所属)
1967年〜赤字転落で退いた鈴木哲夫氏と、商工中金出身の島田義社長
1967年2月、鈴木哲夫氏は業績不振の責任を取って社長を退任し、相談役となった。原因は、昭和工場や武蔵工場の建設と、全国の直販網づくりを同時に進めたことにあった。販売網は見込みより整うのが遅く、1965年の不況が重なって量産設備の製品が在庫に積み上がった。1965年の売上高37億8,900万円に対して借入金は37億8,200万円に達し、金利負担は売上高の11.4%に上った。1966年12月期は当期損失720,675千円を計上し、うち680,696千円が貸倒引当金の繰入れだった。後任には、商工組合中央金庫の理事を務め、1965年5月に相談役として迎えられた島田義氏が就任した。銀行出身者が経営の中枢に並んだ人事には、債権者である金融機関の意向がはたらいたとみられる。
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [43]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [44]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [45]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [46]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- [47]41年12月期 当期損失720,675千円(貸倒引当金繰入損680,696千円)。取締役社長島田義(OCRは島田蟻):商工組合中央金庫理事、40年5月当社相談役、41年2月監査役、42年2月取締役社長
- [48]41年12月期 当期損失720,675千円(貸倒引当金繰入損680,696千円)。取締役社長島田義(OCRは島田蟻):商工組合中央金庫理事、40年5月当社相談役、41年2月監査役、42年2月取締役社長
- 日本企業要覧 1966年版「保谷硝子」
- [49]監査役島田義(OCRは島田蟻):1937年商工組合中央金庫入庫、1955年理事、1965年3月退任、同年5月当社相談役、1966年2月監査役
島田義氏が社長に就任した1967年12月期、保谷硝子の利益は5,100万円となり、1年で黒字化した。同じ期の4月には、新しいメガネレンズ「HOYAバリテックス」を売り出していた。1968年12月期は売上高59億1,900万円、利益5,900万円を計上したが、繰越損失の補填に充てて無配を続けた。この期で繰越損失は一掃され、鈴木哲夫氏はのちに島田義氏をリリーフ役と位置づけた。1969年版の企業要覧は回復の理由として、1965年に量産設備が整ってからの体質改善と合理化の徹底を挙げた。1969年12月期には売上高が前年比41%増の83億2,200万円、税引後利益が前年の8倍の4億5,600万円に達した。
- 日本企業要覧 1968年版「保谷硝子」
- [50]42年12月期、経常利益は前年の約2.3倍、利益は5,100万円とわずか1年で黒字に転換
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- [51]42年4月から新製品メガネレンズ「HOYAバリテックス」を発売
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- [52]40年に武蔵工場の連続機械生産設備で量産体制を確立、以来徹底した体質改善と合理化策を断行し業績回復。43年12月期 売上高59億1,900万円・利益5,900万円、繰越損失補填のため無配
- [54]40年に武蔵工場の連続機械生産設備で量産体制を確立、以来徹底した体質改善と合理化策を断行し業績回復。43年12月期 売上高59億1,900万円・利益5,900万円、繰越損失補填のため無配
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [53]43年に6000万円の利益で繰越損失を一掃。44年決算は前年比41%増収の83億2200万円、税引後利益は前年の8倍の4億5600万円。島田社長はリリーフ役
- [55]43年に6000万円の利益で繰越損失を一掃。44年決算は前年比41%増収の83億2200万円、税引後利益は前年の8倍の4億5600万円。島田社長はリリーフ役
- 日本企業要覧 1970年版「保谷硝子」
- [56]44年12月期 当期利益456,045千円
相談役に退いた鈴木哲夫氏は、1968年の1年間で持株を大きく増やし、保谷硝子の筆頭株主となった。1967年12月末に489,600株(3.9%)で第6位だった持株は、1968年12月末には1,111,600株(8.8%)となった。同じ期間に山中茂氏も494,300株から787,800株へ、山中正一氏も329,000株から594,000株へ持株を増やした。相談役の間、鈴木哲夫氏は工場へ足を運び、社長のときには届かなかった現場の話を聞いたという。持株を積み増した鈴木哲夫氏は、1969年2月に取締役として経営の場へ戻った。創業家がそろって株を買い増した背景には、経営の主導権を取り戻す意思があったと考えられる。
- 日本企業要覧 1968年版「保谷硝子」
- [57]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- [59]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- [61]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- [58]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- [60]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- [62]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [63]社長を退いた後、現場の者が訪ねてきたり自ら工場へ行くようになり、社長時代には入らなかった情報が聞けた。鈴木相談役は44年2月に取締役に復帰
- [64]社長を退いた後、現場の者が訪ねてきたり自ら工場へ行くようになり、社長時代には入らなかった情報が聞けた。鈴木相談役は44年2月に取締役に復帰
- 日本企業要覧 1970年版「保谷硝子」
- [65]鈴木哲夫 略歴:42年2月当社相談役、44年2月取締役
参考文献[43]-[65]
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [43]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [44]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [45]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [46]工場建設(昭和工場・武蔵工場・連続生産設備)と直販網整備を同時進行。販売網に5〜6年を要し40年不況で在庫増。1965年売上37億8900万円・借入金37億8200万円・金利負担は売上の11.4%。41年は7億円以上の欠損。42年2月、鈴木社長は業績不振の責任をとって辞任し相談役に
- [53]43年に6000万円の利益で繰越損失を一掃。44年決算は前年比41%増収の83億2200万円、税引後利益は前年の8倍の4億5600万円。島田社長はリリーフ役
- [55]43年に6000万円の利益で繰越損失を一掃。44年決算は前年比41%増収の83億2200万円、税引後利益は前年の8倍の4億5600万円。島田社長はリリーフ役
- [63]社長を退いた後、現場の者が訪ねてきたり自ら工場へ行くようになり、社長時代には入らなかった情報が聞けた。鈴木相談役は44年2月に取締役に復帰
- [64]社長を退いた後、現場の者が訪ねてきたり自ら工場へ行くようになり、社長時代には入らなかった情報が聞けた。鈴木相談役は44年2月に取締役に復帰
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- [47]41年12月期 当期損失720,675千円(貸倒引当金繰入損680,696千円)。取締役社長島田義(OCRは島田蟻):商工組合中央金庫理事、40年5月当社相談役、41年2月監査役、42年2月取締役社長
- [48]41年12月期 当期損失720,675千円(貸倒引当金繰入損680,696千円)。取締役社長島田義(OCRは島田蟻):商工組合中央金庫理事、40年5月当社相談役、41年2月監査役、42年2月取締役社長
- [51]42年4月から新製品メガネレンズ「HOYAバリテックス」を発売
- 日本企業要覧 1966年版「保谷硝子」
- [49]監査役島田義(OCRは島田蟻):1937年商工組合中央金庫入庫、1955年理事、1965年3月退任、同年5月当社相談役、1966年2月監査役
- 日本企業要覧 1968年版「保谷硝子」
- [50]42年12月期、経常利益は前年の約2.3倍、利益は5,100万円とわずか1年で黒字に転換
- [57]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- [59]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- [61]大株主(42年12月31日):⑤山中茂494,300株3.9%、⑥鈴木哲夫489,600株3.9%、⑧山中正一329,000株2.6%
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- [52]40年に武蔵工場の連続機械生産設備で量産体制を確立、以来徹底した体質改善と合理化策を断行し業績回復。43年12月期 売上高59億1,900万円・利益5,900万円、繰越損失補填のため無配
- [54]40年に武蔵工場の連続機械生産設備で量産体制を確立、以来徹底した体質改善と合理化策を断行し業績回復。43年12月期 売上高59億1,900万円・利益5,900万円、繰越損失補填のため無配
- [58]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- [60]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- [62]大株主(43年12月31日):①鈴木哲夫1,111,600株8.8%、④山中茂787,800株6.3%、⑤山中正一594,000株4.7%
- 日本企業要覧 1970年版「保谷硝子」
- [56]44年12月期 当期利益456,045千円
- [65]鈴木哲夫 略歴:42年2月当社相談役、44年2月取締役
1957年〜1969年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1957年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1958年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1959年12月期 | 単体 | 6 | n/a | n/a | n/a | 0 | 12.5% | n/a |
| 1960年12月期 | 単体 | 7 | +28.9% | n/a | n/a | 0 | 10.6% | n/a |
| 1961年12月期 | 単体 | 13 | +73.1% | n/a | n/a | 1 | 8.2% | n/a |
| 1962年12月期 | 単体 | 20 | +53.0% | n/a | n/a | 1 | 7.8% | n/a |
| 1963年12月期 | 単体 | 30 | +46.8% | n/a | n/a | 2 | 9.1% | n/a |
| 1964年12月期 | 単体 | 36 | +20.2% | 4 | 2 | 1 | 4.9% | n/a |
| 1965年12月期 | 単体 | 37 | +3.3% | n/a | 1 | 0 | 1.7% | n/a |
| 1966年12月期 | 単体 | 42 | +11.3% | n/a | 0 | ▲7 | ▲17.1% | n/a |
| 1967年12月期 | 単体 | 46 | +9.2% | n/a | 1 | 0 | 1.1% | n/a |
| 1968年12月期 | 単体 | 59 | +28.6% | n/a | 1 | 0 | 1.0% | n/a |
| 1969年12月期 | 単体 | 83 | +40.6% | n/a | 3 | 4 | 5.5% | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
10件
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- 証券アナリストジャーナル 12(8) 1974年 鈴木哲夫
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
- 労務研究 19(10) 1966年「付加価値分配制度の実際――保谷硝子の例(II)」
- 日本企業要覧 1966年版「保谷硝子」
- 日本企業要覧 1967年版「保谷硝子」
- 日本企業要覧 1968年版「保谷硝子」
- 日本企業要覧 1969年版「保谷硝子」
- 日本企業要覧 1970年版「保谷硝子」