第1章 年〜年

HOYA:東洋光学硝子製造所の創業とクリスタルガラスへの参入

1941年〜保谷町の東洋光学硝子製造所と、輸入に頼った光学ガラスの国産

1941年11月、東京近郊の保谷町に東洋光学硝子製造所が生まれ、光学ガラスの製造に着手した。興したのは山中正一氏と弟の山中茂氏で、2人はそれまで名古屋で製紙会社を経営していた。戦時の企業整備で製紙会社は合併を迫られ、兄弟は売却で得た資金をアルミ産業や台湾の鉱山開発に投じたが、成果は上がらなかったという。当時の国内ガラス工業は板ガラスと瓶・コップが中心で、光学ガラスをつくれたのはドイツ・イギリス・アメリカ・フランスの4か国に限られていた。会社はのちに創業の志を『わが国が輸入に頼っている光学ガラスをわが手で開発し、社会に貢献したい』と記した。転業先を探す兄弟にとって、輸入の途絶えかねない戦時の光学ガラスは、国の要請に沿う投資先に映ったのだろう。

  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [1]1941年11月、保谷で東洋光学硝子製造所を創業し光学ガラス製造に着手
  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [2]創業者は山中正一・山中茂の兄弟で、それまで名古屋で製紙会社を経営
    • [3]企業整備で製紙会社が合併を余儀なくされ転業を決意。売渡資金をアルミ産業・台湾の鉱山開発に投じたが思わしくなく、残金で保谷町に工場を設立
    • [4]当時の日本のガラス工業は建築用板ガラスとビン・コップ程度。光学ガラスを作れたのは独・英・米・仏の4か国
    • [5]40周年記念誌「ごあいさつ」が昭和16年の創業の念を掲げる

保谷の商品第1号となる光学ガラスBK7が仕上がったのは1943年で、創業後の1〜2年で当初の資金は使い果たしていたという。設備を組んだ海軍の技師が撤収した後、工場は東京工業大学の田端耕造教授に指導を仰いでいた。BK7は軍需省の目に留まり、1944年に保谷は軍需省の指定工場となって、双眼鏡・爆撃照準器・偵察機用航空カメラ向けを受け持った。同じ1944年8月に資本金120万円の株式会社へ改組し、商号を株式会社東洋光学硝子製造所とした。この年、田端教授のもとで保谷のサンプルを測っていた学生の鈴木哲夫氏が、東京工業大学を卒業して入社した。軍の発注を受ける指定工場となり、個人経営のままでは資金と人の手当てが追いつかなくなったとみられる。

  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [6]商品第1号BK7の完成は昭和18年。当初の1~2年で資金をすべて使い果たした
    • [7]設備をつくった海軍の技師が去った後は東京工業大学の田端耕造教授の指導を仰いだ
    • [8]BK7が軍需省の目に留まり昭和19年に軍需省の指定工場。保谷は海軍の管轄で双眼鏡・爆撃照準器・偵察機用航空カメラを分担
    • [10]田端教授のもとでサンプルを測定していた学生の鈴木哲夫が教授の指示で昭和19年に入社
  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [9]1944年8月、資本金120万円の株式会社に改組し商号を株式会社東洋光学硝子製造所に変更
  • Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
    • [11]鈴木哲夫は昭和19年に東京工大を卒業し東洋光学に入社
参考文献[1]-[11]
  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [1]1941年11月、保谷で東洋光学硝子製造所を創業し光学ガラス製造に着手
    • [9]1944年8月、資本金120万円の株式会社に改組し商号を株式会社東洋光学硝子製造所に変更
  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [2]創業者は山中正一・山中茂の兄弟で、それまで名古屋で製紙会社を経営
    • [3]企業整備で製紙会社が合併を余儀なくされ転業を決意。売渡資金をアルミ産業・台湾の鉱山開発に投じたが思わしくなく、残金で保谷町に工場を設立
    • [4]当時の日本のガラス工業は建築用板ガラスとビン・コップ程度。光学ガラスを作れたのは独・英・米・仏の4か国
    • [5]40周年記念誌「ごあいさつ」が昭和16年の創業の念を掲げる
    • [6]商品第1号BK7の完成は昭和18年。当初の1~2年で資金をすべて使い果たした
    • [7]設備をつくった海軍の技師が去った後は東京工業大学の田端耕造教授の指導を仰いだ
    • [8]BK7が軍需省の目に留まり昭和19年に軍需省の指定工場。保谷は海軍の管轄で双眼鏡・爆撃照準器・偵察機用航空カメラを分担
    • [10]田端教授のもとでサンプルを測定していた学生の鈴木哲夫が教授の指示で昭和19年に入社
  • Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
    • [11]鈴木哲夫は昭和19年に東京工大を卒業し東洋光学に入社

1945年〜敗戦後に始めたクリスタルガラスと、保谷クリスタル硝子製造所の名

1945年8月の終戦で光学ガラスの製造は止まり、同年10月にクリスタルガラス食器の製造を始めた。終戦を迎えたのは長野県の疎開先工場で、幹部の協議の場でクリスタルを持ち出したのは若手の鈴木哲夫氏だったという。鈴木哲夫氏は、光学ガラスを溶かす技術があればクリスタルもつくれると見込んでいた。器が売れるまでの間は、坩堝用の粘土でコンロをつくって池袋の闇市で換金し、従業員の食糧を買った。ガラスを吹く職人は社内にいなかったため、企業整備で廃業した下町の小工場の職人を電柱の貼り紙で集めた。軍需を失った工場に残った資産は溶解の設備と技術であり、それを高値で売れる器に向けたと推察される。

  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [12]年表: 昭和20年8月終戦により光学ガラス製造中止、10月家庭用電気コンロ製造・クリスタルガラス食器製造開始
    • [14]昭和20年、長野県の疎開先工場で光学ガラスの新設備を試験中に終戦。幹部協議で若い鈴木が「クリスタルというのがある」と発言
    • [15]鈴木は光学ガラスをつくる技術があればクリスタルもできると確信していた
    • [16]ルツボ用の粘土で炊事コンロをつくり池袋のヤミ市で売って食糧を買った
    • [17]容器を吹く職人がおらず、企業整備で廃業した本所・深川の小工場の職人を電柱の求人貼り紙で集めた
  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [13]1945年10月、クリスタルガラス食器製造開始

1947年8月、商号を株式会社保谷クリスタル硝子製造所に改めた。改称に先立つ1945年12月、進駐軍の将校が工場を訪れ、GHQのクリスマス・パーティー用に500人分のグラスを求めた。山中茂社長以下が1週間徹夜して納めた品が評判を呼び、1946年には米軍基地の家族向けに皿やコップ2万セットを受注した。進駐軍向けの仕事には原料や燃料の重油が必要なだけ配給され、統制経済の下で調達の制約が外れた。この注文は1947年まで続いて再建の見通しが立ち、社名も終戦時の保谷陶器製造所から改められた。光学ガラスの会社から器の会社へ、名前が事業の実態に追いついた改称と考えられる。

  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [18]1947年8月、商号を株式会社保谷クリスタル硝子製造所に変更
  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [19]昭和20年12月、進駐軍将校がGHQのクリスマス・パーティ用にシャンパングラス・カクテルグラス500人分を注文
    • [20]山中社長以下全員が一週間徹夜で納期に間に合わせ、翌21年に米軍基地の進駐軍家族用に2万セットの皿・コップを受注
    • [21]進駐軍の注文のため原料・燃料用重油を必要なだけ配給された
    • [22]進駐軍ブームは昭和22年まで続き再建のメドがつき、社名は東洋光学硝子製造所→保谷陶器製造所→22年8月保谷クリスタル硝子製造所

1948年に始めた米国向けシャンデリアで、保谷は生産量の90%以上を対米輸出に依存するようになった。1949年のドッジ・ラインでガラス製品の輸出レートが1ドル600円から360円に一本化され、収入は40%減った。同年に取締役となった鈴木哲夫氏は工場長として人員整理の交渉に立ち、1950年5月25日に工場は閉鎖に至った。一方で1950年の朝鮮戦争を機に日本製カメラが米国で注目され、板橋の双眼鏡の家内工場も輸出向けに光学ガラスを求め始めた。需要の戻りを見越して設備を残していた保谷は、1952年に光学ガラスBK7の製造と販売を再開した。為替ひとつで収入が揺らいだ経験が、輸出一本のガラス製品から売り先の違う光学ガラスへ軸足を戻させたのではないか。

  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [23]昭和23年からシャンデリアを生産し対米輸出を開始。生産量の90%以上がアメリカ向け輸出
    • [24]昭和24年ドッジ・ラインで陶磁器・ガラス製品の1ドル600円が360円に一本化、収入が40%減少
    • [26]工場長の鈴木が団体交渉に立ち、組合員総辞職を受けて昭和25年5月25日に工場閉鎖
    • [27]昭和25年の朝鮮事変で日本のカメラが脚光を浴び、板橋の双眼鏡の家内工場が輸出産業に育ち光学ガラスの得意先となった
    • [28]光学ガラスが将来また必要になると設備を温存し、昭和27年からBK7の製造・販売を再開
  • Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
    • [25]鈴木哲夫は昭和24年に保谷クリスタル硝子に取締役として入社
参考文献[12]-[28]
  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
    • [12]年表: 昭和20年8月終戦により光学ガラス製造中止、10月家庭用電気コンロ製造・クリスタルガラス食器製造開始
    • [14]昭和20年、長野県の疎開先工場で光学ガラスの新設備を試験中に終戦。幹部協議で若い鈴木が「クリスタルというのがある」と発言
    • [15]鈴木は光学ガラスをつくる技術があればクリスタルもできると確信していた
    • [16]ルツボ用の粘土で炊事コンロをつくり池袋のヤミ市で売って食糧を買った
    • [17]容器を吹く職人がおらず、企業整備で廃業した本所・深川の小工場の職人を電柱の求人貼り紙で集めた
    • [19]昭和20年12月、進駐軍将校がGHQのクリスマス・パーティ用にシャンパングラス・カクテルグラス500人分を注文
    • [20]山中社長以下全員が一週間徹夜で納期に間に合わせ、翌21年に米軍基地の進駐軍家族用に2万セットの皿・コップを受注
    • [21]進駐軍の注文のため原料・燃料用重油を必要なだけ配給された
    • [22]進駐軍ブームは昭和22年まで続き再建のメドがつき、社名は東洋光学硝子製造所→保谷陶器製造所→22年8月保谷クリスタル硝子製造所
    • [23]昭和23年からシャンデリアを生産し対米輸出を開始。生産量の90%以上がアメリカ向け輸出
    • [24]昭和24年ドッジ・ラインで陶磁器・ガラス製品の1ドル600円が360円に一本化、収入が40%減少
    • [26]工場長の鈴木が団体交渉に立ち、組合員総辞職を受けて昭和25年5月25日に工場閉鎖
    • [27]昭和25年の朝鮮事変で日本のカメラが脚光を浴び、板橋の双眼鏡の家内工場が輸出産業に育ち光学ガラスの得意先となった
    • [28]光学ガラスが将来また必要になると設備を温存し、昭和27年からBK7の製造・販売を再開
  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
    • [13]1945年10月、クリスタルガラス食器製造開始
    • [18]1947年8月、商号を株式会社保谷クリスタル硝子製造所に変更
  • Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」
    • [25]鈴木哲夫は昭和24年に保谷クリスタル硝子に取締役として入社

出典・参考

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出典・参考
  • HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
  • 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
  • Pioneer 1964年「技術に生きる(5)『ただ前進あるのみ』保谷硝子社長・鈴木哲夫」

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