HOYA:ソフトコンタクト・マスクブランクスへの多角化とHOYAへの改称
1970年〜株を買い増して戻った鈴木哲夫氏と、シェア第一主義の眼鏡レンズ
社長に復帰した鈴木哲夫氏は、1970年前後に全部門で業界首位のメーカーになるという方針を立てた。首位の目安には、市場の50%以上、2位の2倍、2位と3位の合計を上回るシェアの3つを置いた。新製品もこの目安に届く見通しが立たなければ手がけないという原則を、鈴木哲夫社長は掲げた。鈴木哲夫社長は、高いシェアが競合とのコスト差を生み、その収益差が投資力の差に転じると理由を説明した。並行して1970年度から1974年度の5カ年計画を組み、連結売上高を100億円余りから300億円へ伸ばす目標をほぼ達成した。1973年10月1日時点の大株主名簿では、鈴木哲夫氏が2,334千株・7.07%で首位に立った。市場での順位を資産とみなす考えが、以後の新事業の選び方を縛る物差しになったとみられる。
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [1]1974年7月の講演で、4〜5年前に各部門でトップ・メーカーになる方針を立てたと述べた
- [2]トップの基準は①50%以上のシェア②2位の2倍のシェア③2位と3位の合計を上回るシェアの三つ
- [4]高シェアは競合とのコスト・ギャップを生み、収益の格差が投資力の格差に変わる
- [5]昭和45年度〜49年度の5カ年計画で連結売上高100億円強から300億円を目指し、ほぼ達成
- 日経ビジネス 1977年1月17日号
- [3]新たに製品を手がけるのはその市場でトップシェアを確保できる見通しがある場合に限る(鈴木社長)
- 日経ビジネス 1973年12月24日号
- [6]大株主(1973年10月1日現在)の首位は鈴木哲夫社長 2,334千株・7.07%
1973年末の保谷硝子は、クリスタル、光学ガラス、眼鏡の3部門でいずれも国内最大のシェアを握っていた。同時に経営陣は、この3本柱の伸びに限りが見え始めたと受け止めていた。鈴木哲夫社長は、追加投資の要らない成熟製品を『金のなる木』と呼び、そこで浮いた資金を伸ばしたい商品へ集中して回す考えを示した。新たな投資先として、IC用マスクプレートを作る全額出資の保谷電子を設け、山梨県長坂町に工場を建てた。レーザーガラスや光ファイバーは、1980年ごろまでに4番目の事業へ育てる候補に挙げられた。首位になれない分野からは退くという方針も、同じ時期に打ち出された。首位を保つには、次に首位を狙える小さな市場を探し続けるほかなかったと考えられる。
- 日経ビジネス 1973年12月24日号
- [7]クリスタル製品・光学用ガラス製品・眼鏡の三分野で最大のシェアを確保(1973年12月時点)
- [8]首脳陣は三本柱の成長の限界を感じ始めている
- [10]ICプリント用プレート板のため全額出資子会社「保谷電子」(資本金5000万円)を設立し、山梨県長坂町に新工場を建設
- [12]鈴木社長は競争に勝てる市場でナンバーワンの地歩を築き、トップになれない分野から大胆に退出する方針を打ち出した
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [9]成熟期のカメラ用光学ガラスはシェア維持だけで高収益となり、余剰資金をシェア拡大を狙う商品に集中投資する
- [11]レーザーガラス・光ファイバーなどを昭和55年ごろを目標に第4番目の事業に育てたい
保谷硝子は1972年12月、厚生省がソフトコンタクトレンズの販売を認めた時期に合わせて、その市場へ参入した。素材は水を含むと角膜のように軟らかくなる親水性樹脂で、長く装用しても痛みが出にくい点を特長とした。人の眼に触れる製品のため、販売先を大学病院と眼科医に限り、本格販売の前に1年半ほど臨床試験を重ねる方針をとった。会社はこの参入で、眼鏡とコンタクトの両方を手がける国内唯一の視力の総合メーカーになったと位置づけた。1973年2月には東京証券取引所の市場第一部に指定された。1973年9月期の売上高は213億6000万円で、経常利益率12%は板ガラス首位の旭硝子の11%を上回った。眼鏡店ではなく眼科を入口にした経験が、のちの医療事業の下地になったと推察される。
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [13]厚生省がソフトコンタクトの販売を認可した昭和47年12月にコンタクト市場へ新規参入
- [16]コンタクト参入で日本では唯一の視力の総合メーカーになった
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [14]親水性樹脂のソフト・コンタクト・レンズは水を吸って角膜のように軟らかくなり、目に入れても痛くない
- [15]大学病院や眼科医だけが扱う段階で、あと1年半ほど臨床試験を行ってから本格販売に踏み切る
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [17]1973年2月 東京証券取引所市場第一部へ指定
- 日経ビジネス 1973年12月24日号
- [18]前9月期(1973年9月期)の売上高213億6000万円、経常利益率12%は旭硝子(前6月期11%)を上回る
参考文献[1]-[18]
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [1]1974年7月の講演で、4〜5年前に各部門でトップ・メーカーになる方針を立てたと述べた
- [2]トップの基準は①50%以上のシェア②2位の2倍のシェア③2位と3位の合計を上回るシェアの三つ
- [4]高シェアは競合とのコスト・ギャップを生み、収益の格差が投資力の格差に変わる
- [5]昭和45年度〜49年度の5カ年計画で連結売上高100億円強から300億円を目指し、ほぼ達成
- [9]成熟期のカメラ用光学ガラスはシェア維持だけで高収益となり、余剰資金をシェア拡大を狙う商品に集中投資する
- [11]レーザーガラス・光ファイバーなどを昭和55年ごろを目標に第4番目の事業に育てたい
- [14]親水性樹脂のソフト・コンタクト・レンズは水を吸って角膜のように軟らかくなり、目に入れても痛くない
- [15]大学病院や眼科医だけが扱う段階で、あと1年半ほど臨床試験を行ってから本格販売に踏み切る
- 日経ビジネス 1977年1月17日号
- [3]新たに製品を手がけるのはその市場でトップシェアを確保できる見通しがある場合に限る(鈴木社長)
- 日経ビジネス 1973年12月24日号
- [6]大株主(1973年10月1日現在)の首位は鈴木哲夫社長 2,334千株・7.07%
- [7]クリスタル製品・光学用ガラス製品・眼鏡の三分野で最大のシェアを確保(1973年12月時点)
- [8]首脳陣は三本柱の成長の限界を感じ始めている
- [10]ICプリント用プレート板のため全額出資子会社「保谷電子」(資本金5000万円)を設立し、山梨県長坂町に新工場を建設
- [12]鈴木社長は競争に勝てる市場でナンバーワンの地歩を築き、トップになれない分野から大胆に退出する方針を打ち出した
- [18]前9月期(1973年9月期)の売上高213億6000万円、経常利益率12%は旭硝子(前6月期11%)を上回る
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [13]厚生省がソフトコンタクトの販売を認可した昭和47年12月にコンタクト市場へ新規参入
- [16]コンタクト参入で日本では唯一の視力の総合メーカーになった
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [17]1973年2月 東京証券取引所市場第一部へ指定
1974年〜光学ガラスの研磨で入ったマスクサブストレートと、フォトマスクの電子事業
1974年1月、保谷硝子は半導体用マスクサブストレートの製造を始めた。土台になったのは、写真用フィルターの製品化を通じて1981年までの30年間に培った平面研磨の技術だった。ただしICに要る精度は光学用をはるかに上回り、独自の研磨方式を開発して超精密研磨を確立する必要があった。生産を担う子会社の保谷電子の山梨の工場は1974年4月に完成し、同年7月には受注に生産が追いつかない状態だった。需要の8割ほどは米国で、国内のIC産業が出遅れていたため、主に米国の顧客へ売る事業として立ち上がった。1981年の電子事業の売上は、国内と海外でほぼ半分ずつだった。米国の先端メーカーの要求に合わせたことが、研磨の精度を世界の水準へ引き上げる近道になったのだろう。
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [19]1974年1月 半導体用マスクサブストレート製造開始
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [20]平面研磨は過去30年間、光学(写真用)フィルターの製品化で開発され、ICマスクサブストレートの基礎技術となった
- [21]ICグレードの精度は光学グレードをはるかに上回り、独自の研磨方式を開発して超精密研磨技術を確立した
- [24]電子事業はICマスクプレート・レーザーガラスをはじめ売上が国内と海外でほぼ二分
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [22]山梨県の保谷電子の工場は1974年4月に完成し生産に入ったが、生産が軌道に乗らず注文に応じられない
- [23]需要の80%くらいはアメリカで、日本はIC産業が立ちおくれており主にアメリカに売る
1976年9月期、眼鏡レンズの生産子会社である保谷レンズは税引き利益17億1100万円を上げ、親会社の14億7900万円を上回った。保谷レンズは発足時に業界の最後発だったため、新卒の独自採用や資金の自前調達を課されていた。販売では眼鏡店と工場をコンピューターで結び、特注レンズを全国へ48時間で届ける仕組みを1974年までに整えた。1981年にはこの納期を24時間まで縮め、眼鏡事業は海外に15工場を持って70か国へ製品を出していた。1977年9月期の保谷硝子の売上高は466億2千万円で、そのうち眼鏡が49%を占めた。シェアを取るために組んだ直販と即納の仕組みが、そのまま子会社の利益率を押し上げたようだ。
- 日経ビジネス 1977年1月17日号
- [25]1976年9月期 保谷レンズの税引き利益17億1100万円が親会社保谷硝子の14億7900万円を上回る
- [26]保谷レンズは発足時業界最後発で、新規社員の独自採用と資金の独自調達を迫られた
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [27]取引先と工場をコンピューター・システムで結び、日本全国どこでも48時間でデリバリー
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [28]眼鏡店の端末から工場へ注文が入り24時間以内に製造・発送、眼鏡事業は海外15工場・70ヶ国で販売
- 日本企業要覧 1978年版「保谷硝子」
- [29]売上高466億2千万円(前年同期比18.4%増)、事業構成は眼鏡49%・クリスタル27%・光学ガラス24%
1983年1月、保谷硝子は東京都八王子市に工場を新設し、半導体用フォトマスクの製造を始めた。保谷硝子はマスクブランクスを約10年手がけ、その途中から微細な回路を描くリソグラフィーへ入った。その根には、基軸の技術を離れずに隣の領域を狙うという技術シナジーの戦略があった。1986年時点のマスクブランクスのシェアは国内で約6割、米国で65%、欧州で80〜90%だった。一方でリソグラフィーは受注の振れが大きく、1台10億円の装置を何台も並べる事業だった。そこで在来の交替勤務の条件を外し、事業部長に人事権まで与えた独立の事業所として運営した。基板の顧客である半導体メーカーの工程に一段踏み込み、材料の付加価値を上げる狙いもあったのかもしれない。
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [30]1983年1月 東京都八王子市に八王子工場を新設し、半導体用フォトマスク製造開始
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [31]マスクブランクスで十年かけて地位を築き、その途中からICのミクロン単位のパターンのリソグラフィーに入った
- [32]技術シナジー戦略=基軸を離れるな、隣接領域を狙え
- [33]マスクブランクスのシェアは日本で約6割、アメリカで65%、ヨーロッパで80〜90%
- [34]リソグラフィーのラボは受注の変動が大きく、一台10億円の機械が何台も並ぶ
- [35]在来のシフト制では事業にならず、治外法権的事業所にして事業部長に人事権まで付与した
参考文献[19]-[35]
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [19]1974年1月 半導体用マスクサブストレート製造開始
- [30]1983年1月 東京都八王子市に八王子工場を新設し、半導体用フォトマスク製造開始
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- [20]平面研磨は過去30年間、光学(写真用)フィルターの製品化で開発され、ICマスクサブストレートの基礎技術となった
- [21]ICグレードの精度は光学グレードをはるかに上回り、独自の研磨方式を開発して超精密研磨技術を確立した
- [24]電子事業はICマスクプレート・レーザーガラスをはじめ売上が国内と海外でほぼ二分
- [28]眼鏡店の端末から工場へ注文が入り24時間以内に製造・発送、眼鏡事業は海外15工場・70ヶ国で販売
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- [22]山梨県の保谷電子の工場は1974年4月に完成し生産に入ったが、生産が軌道に乗らず注文に応じられない
- [23]需要の80%くらいはアメリカで、日本はIC産業が立ちおくれており主にアメリカに売る
- [27]取引先と工場をコンピューター・システムで結び、日本全国どこでも48時間でデリバリー
- 日経ビジネス 1977年1月17日号
- [25]1976年9月期 保谷レンズの税引き利益17億1100万円が親会社保谷硝子の14億7900万円を上回る
- [26]保谷レンズは発足時業界最後発で、新規社員の独自採用と資金の独自調達を迫られた
- 日本企業要覧 1978年版「保谷硝子」
- [29]売上高466億2千万円(前年同期比18.4%増)、事業構成は眼鏡49%・クリスタル27%・光学ガラス24%
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [31]マスクブランクスで十年かけて地位を築き、その途中からICのミクロン単位のパターンのリソグラフィーに入った
- [32]技術シナジー戦略=基軸を離れるな、隣接領域を狙え
- [33]マスクブランクスのシェアは日本で約6割、アメリカで65%、ヨーロッパで80〜90%
- [34]リソグラフィーのラボは受注の変動が大きく、一台10億円の機械が何台も並ぶ
- [35]在来のシフト制では事業にならず、治外法権的事業所にして事業部長に人事権まで付与した
1984年〜横文字のHOYAへの改称と、眼内レンズ・非球面モールドレンズ・北米統括会社
保谷硝子は1982年から1984年の間に、業態を異にする電子・クリスタルの両部門などを担っていた子会社を順に本体へ取り込んだ。続く1984年10月には、子会社である保谷レンズ・保谷クリスタルの吸収合併と同時に、社名をHOYAへ変えた。1960年の合併から数えて25年の節目に、分社と事業部制で大きくなった組織を21世紀までこの形で引き延ばせるのかを経営陣は自問しており、後継に引き渡すまでに10年ほど先を見据えた構想を据えようと、会社を一度ばらして組み立て直すことにした。CIも導入し、掲げる言葉を『ガラスが持つであろうあらゆる可能性の追求』から『光、それはコミュニケーション』へ替えた。扱う領域を、ガラスという素材から光という働きへ移す意味づけだった。社名からガラスの文字を外したのも、この範囲の移し替えを名前で示すためだったと読める。
- 日経ビジネス 1986年5月5日号
- [36]HOYAは昭和57年から59年にかけて電子部門やクリスタル部門など業態の異なる子会社を統合
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [37]1984年10月 子会社の保谷レンズ及び保谷クリスタルを吸収合併し、商号をHOYA株式会社に変更
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [38]昭和35年の合併から25年、分社事業部制で成長してきたが21世紀を展望してこのままでよいかという反省が出た
- [39]次の代へ十年程度のビジョンとレールを渡すため、スクラップ・アンド・ビルドを選んだ
- [40]CIを導入し「ガラスが持つであろうあらゆる可能性の追求」から「光、それはコミュニケーション」と改めた
- [41]事業対象をガラスから光の領域へ拡大した
HOYAは1986年までに年功型の人事体系を廃し、挑戦する人を処遇する能力主義の制度へ切り替えた。鈴木哲夫社長は切り替えの理由を『常に復活のチャンスを保証しておかないと新事業なんてできない』と説明した。新制度では役職と14段階の職能資格を切り離し、役職を外れても給与や資格の昇格にほとんど響かない形にした。部長や課長の役職には3年の任期を設け、任期が満ちれば評価を白紙に戻して上のポストに改めて挑ませた。人事考課の前歴は1年で消し、考課の点数は本人にすべて開示した。移行に際しては課長以上の約200名を、新しい会社に適うかという基準の試験で格付けし直した。若手には好評だった一方、中高年層からは数字優先の人事になりかねないと危ぶむ声も出たという。
- 日経ビジネス 1986年5月5日号
- [42]HOYAは従来の年功型人事体系を廃止し、チャレンジ精神を優遇する能力主義人事システムに切り替えた
- [43]「常に復活のチャンスを保証しておかないと新事業なんてできない」(鈴木哲夫社長)
- [44]役職と14段階の職能資格を切り離し、役職を外れても給与・資格昇格への影響はほとんどない
- [45]役職に3年間の任期制を採用し、3年経ったら評価を白紙に戻して上のポストに挑戦させる
- [46]人事考課の前歴は1年で消し、考課内容をすべて該当社員に提示する
- [48]若年層には好評だが中高年層には「数字優先の冷たい人事になりかねない」と危惧する声
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [47]全上級職・課長以上200名の課長試験を新しい会社に適確かどうかという基準からやり直した
HOYAは1987年6月に白内障術後用の眼内レンズの製造を始め、同年11月には光学ガラスの非球面モールドレンズの製造に入った。1985年に発足したメディカル事業部は、コンタクトレンズの次に眼内レンズを目標に据え、眼科と併設した約150の自営クリニックを販路にした。非球面モールドレンズは、研磨を経ずに押し型だけで研磨面以上の面をつくる技術として、光学事業の改革の中核に置かれた。10年構想は1995年までに、消費財をメディカル、生産財をオプトエレクトロニクスから伸ばすと定めていた。1989年4月には米国に北米統括会社HOYA CORPORATION USA、オランダに欧州統括会社HOYA EUROPE B.V.を設けた。円高が長く続くと見た経営陣が、海外に事業の足場を移す流れの中で統括会社を置いたのであろう。
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [49]1987年6月 眼内レンズ(白内障術後用)製造開始、11月 光学ガラスによる非球面モールドレンズ製造開始
- [53]1989年4月 オランダに欧州地域統括会社HOYA EUROPE B.V.、米国に北米地域統括会社HOYA CORPORATION USAを設立
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [50]昭和60年スタートのメディカル事業部はコンタクトレンズから眼内レンズをターゲットに展開、眼科併設の自営クリニック150店
- [51]研磨の必要のない、ダイレクトに押したままで研磨面以上の非球面を作ることを目指し、事業構造を変える基幹技術に位置づけた
- [52]十年後の1995年には消費材マーケットにメディカル事業から、生産材マーケットにオプトエレクトロニクスから入る
参考文献[36]-[53]
- 日経ビジネス 1986年5月5日号
- [36]HOYAは昭和57年から59年にかけて電子部門やクリスタル部門など業態の異なる子会社を統合
- [42]HOYAは従来の年功型人事体系を廃止し、チャレンジ精神を優遇する能力主義人事システムに切り替えた
- [43]「常に復活のチャンスを保証しておかないと新事業なんてできない」(鈴木哲夫社長)
- [44]役職と14段階の職能資格を切り離し、役職を外れても給与・資格昇格への影響はほとんどない
- [45]役職に3年間の任期制を採用し、3年経ったら評価を白紙に戻して上のポストに挑戦させる
- [46]人事考課の前歴は1年で消し、考課内容をすべて該当社員に提示する
- [48]若年層には好評だが中高年層には「数字優先の冷たい人事になりかねない」と危惧する声
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- [37]1984年10月 子会社の保谷レンズ及び保谷クリスタルを吸収合併し、商号をHOYA株式会社に変更
- [49]1987年6月 眼内レンズ(白内障術後用)製造開始、11月 光学ガラスによる非球面モールドレンズ製造開始
- [53]1989年4月 オランダに欧州地域統括会社HOYA EUROPE B.V.、米国に北米地域統括会社HOYA CORPORATION USAを設立
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」
- [38]昭和35年の合併から25年、分社事業部制で成長してきたが21世紀を展望してこのままでよいかという反省が出た
- [39]次の代へ十年程度のビジョンとレールを渡すため、スクラップ・アンド・ビルドを選んだ
- [40]CIを導入し「ガラスが持つであろうあらゆる可能性の追求」から「光、それはコミュニケーション」と改めた
- [41]事業対象をガラスから光の領域へ拡大した
- [47]全上級職・課長以上200名の課長試験を新しい会社に適確かどうかという基準からやり直した
- [50]昭和60年スタートのメディカル事業部はコンタクトレンズから眼内レンズをターゲットに展開、眼科併設の自営クリニック150店
- [51]研磨の必要のない、ダイレクトに押したままで研磨面以上の非球面を作ることを目指し、事業構造を変える基幹技術に位置づけた
- [52]十年後の1995年には消費材マーケットにメディカル事業から、生産材マーケットにオプトエレクトロニクスから入る
1970年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1970年09月期 | 単体 | 93 | n/a | n/a | 9 | 7 | 8.3% | n/a |
| 1971年09月期 | 単体 | 147 | +57.9% | n/a | 16 | 9 | 6.2% | n/a |
| 1972年09月期 | 単体 | 166 | +12.9% | n/a | 16 | 9 | 5.7% | n/a |
| 1973年09月期 | 単体 | 214 | +28.9% | n/a | 25 | 12 | 5.7% | n/a |
| 1974年09月期 | 単体 | 271 | +26.6% | n/a | 30 | 12 | 4.6% | n/a |
| 1975年09月期 | 単体 | 306 | +12.9% | 15 | 10 | 6 | 2.0% | n/a |
| 1976年09月期 | 単体 | 394 | +28.8% | n/a | 30 | 15 | 3.8% | n/a |
| 1977年09月期 | 単体 | 466 | +18.3% | n/a | 37 | 15 | 3.2% | n/a |
| 1978年09月期 | 単体 | 488 | +4.7% | 41 | 41 | 20 | 4.1% | n/a |
| 1979年09月期 | 単体 | 518 | +6.1% | 51 | 52 | 26 | 5.0% | n/a |
| 1980年09月期 | 単体 | 598 | +15.4% | n/a | 60 | 31 | 5.2% | n/a |
| 1981年09月期 | 単体 | 629 | +5.2% | n/a | 64 | 33 | 5.2% | n/a |
| 1982年09月期 | 単体 | 618 | ▲1.7% | n/a | 59 | 30 | 4.9% | n/a |
| 1983年09月期 | 単体 | 723 | +17.0% | n/a | 85 | 43 | 5.9% | n/a |
| 1984年09月期 | 単体 | 785 | +8.6% | n/a | 104 | 49 | 6.2% | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑(1976年版)変則9ヶ月決算、会社年鑑
出典・参考
8件
- HOYA 有価証券報告書 2025年3月期「沿革」
- 日経ビジネス 1973年12月24日号
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻8号 鈴木哲夫(1974年7月5日講演要旨)
- 日経ビジネス 1977年1月17日号
- 日経ビジネス 1986年5月5日号
- 保谷硝子『Hoya group 40 株式会社保谷硝子創立40周年記念誌 1941~1981』(1981年)
- 日本企業要覧 1978年版「保谷硝子」
- 技術と経済 1987年「特徴企業の新事業化戦略 HOYA(株)・専務取締役 奥津小一郎」