栗田工業:神戸の清缶剤から水処理専業メーカーへの転換と粉飾決算の発覚
1949年〜資本金30万円で神戸に興した清缶剤の会社と、買収した水処理装置部門
栗田春生氏は1949年7月、資本金30万円で神戸市生田区に栗田工業を設立し、社長に就任した。栗田春生氏は1940年に海軍機関学校を卒業し、1945年8月に海軍大尉として終戦を迎えた。創業時の従業員は7人で、最初の仕事は進駐軍のドラム缶洗浄や煙突掃除。やがて工業用ボイラの洗浄を請け負い、海軍で得たリン酸ソーダによる洗浄の知識を生かして薬品の販売に進んだ。設立後の主な事業は清缶剤の製造と小型船舶の機関修理で、経営陣は旧海軍の兵学校と機関学校の出身者が中心だった。ボイラの湯垢を除く薬剤が、その後の水処理事業の出発点にあたる。艦艇の缶を扱った技術将校にとって、ボイラの水の管理は戦後に民間へ持ち出せる数少ない実務の知識だったとみられる。
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [1]1949年7月に資本金30万円で神戸市生田区に設立。経営陣は旧海軍の兵学校・機関学校出身者が中心
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [2]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- [3]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- [4]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [5]1949年7月設立、清缶剤の製造と小型船舶の機関修理に従事
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [6]海軍の技術将校を中心にボイラの湯垢を取る薬剤から出発した企業
栗田工業は1953年3月にボイラの化学洗浄工事の部門を設け、同年10月に昌平工業の水処理部門を買収して装置の製造部門を加えた。1953年の買収により、装置の製造と販売の部門が薬品と並ぶ事業となった。栗田春生氏は後年、1954年のプラント分野への進出を会社の転機に挙げた。中小企業には銀行の融資が付きにくく、栗田春生氏は脱税でためた資金を銀行に預けて融資枠を広げる手を使った。1963年6月時点の事業構成は装置部門が60%、薬品部門が30%、洗浄工事部門が10%で、装置が売上の過半。1964年版の総覧は、イオン交換装置類の国内シェアを約50%と記した。薬剤の顧客に装置を重ねて納める組み合わせが、給水処理を一式で請け負う事業の原型になったと推察される。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [7]1953年3月に汽缶化学洗浄工事部門を併設、同年10月に昌平工業の水部門を買収し装置製造部門を併設。イオン交換装置類で全国市場の約50%を占める
- [12]1953年3月に汽缶化学洗浄工事部門を併設、同年10月に昌平工業の水部門を買収し装置製造部門を併設。イオン交換装置類で全国市場の約50%を占める
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [8]1953年に昌平工業の水処理装置部門を買収し装置製造・販売部門を併設。事業内容は装置60%・工業薬品30%・洗浄工事10%(1963年6月現在)
- [11]1953年に昌平工業の水処理装置部門を買収し装置製造・販売部門を併設。事業内容は装置60%・工業薬品30%・洗浄工事10%(1963年6月現在)
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [9]1954年からプラント分野に進出したのが転機。銀行融資を得るため脱税でためた資金を銀行に預け、融資を増やした
- [10]1954年からプラント分野に進出したのが転機。銀行融資を得るため脱税でためた資金を銀行に預け、融資を増やした
西宮市の汽缶給水研究所は増設を終え、中央研究所として新たに発足した。その時期を日本企業要覧 1963年版は1955年、ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版は1953年12月と記す。栗田工業はイオン交換樹脂の供給元である三菱化成工業・日本錬水の2社と、樹脂の販売提携と水処理の共同研究提携を結んだ。この提携の締結は、1964年版の総覧では1961年10月とされる。都市下水と産業廃水の処理技術は、1960年11月にピンチ・バマーク社(西独)と結んだ技術援助契約で補った。1963年3月末には三菱化成工業が8.3%を持つ筆頭株主となり、栗田春生氏の持ち株は2.3%だった。樹脂の供給元を筆頭株主に迎えたことで、装置の中核素材を安定して確保できたと思われる。
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [13]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- [15]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- [18]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [14]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
- [16]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
- [17]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
参考文献[1]-[18]
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [1]1949年7月に資本金30万円で神戸市生田区に設立。経営陣は旧海軍の兵学校・機関学校出身者が中心
- [8]1953年に昌平工業の水処理装置部門を買収し装置製造・販売部門を併設。事業内容は装置60%・工業薬品30%・洗浄工事10%(1963年6月現在)
- [11]1953年に昌平工業の水処理装置部門を買収し装置製造・販売部門を併設。事業内容は装置60%・工業薬品30%・洗浄工事10%(1963年6月現在)
- [13]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- [15]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- [18]中央研究所の発足(汽缶給水研究所の増設完了)と三菱化成工業・日本錬水とのイオン交換樹脂の販売・協同研究提携を1955年の項に記載。1963年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、栗田春生2.3%
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [2]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- [3]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- [4]栗田春生氏は1919年生まれ、1940年海軍機関学校卒、1945年8月大尉で終戦。1949年設立時は従業員7人、進駐軍のドラム缶洗い・煙突掃除から始め、ボイラ洗浄でリン酸ソーダを使う経験から薬品を扱った
- [9]1954年からプラント分野に進出したのが転機。銀行融資を得るため脱税でためた資金を銀行に預け、融資を増やした
- [10]1954年からプラント分野に進出したのが転機。銀行融資を得るため脱税でためた資金を銀行に預け、融資を増やした
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [5]1949年7月設立、清缶剤の製造と小型船舶の機関修理に従事
- [7]1953年3月に汽缶化学洗浄工事部門を併設、同年10月に昌平工業の水部門を買収し装置製造部門を併設。イオン交換装置類で全国市場の約50%を占める
- [12]1953年3月に汽缶化学洗浄工事部門を併設、同年10月に昌平工業の水部門を買収し装置製造部門を併設。イオン交換装置類で全国市場の約50%を占める
- [14]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
- [16]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
- [17]中央研究所の発足は1953年12月。三菱化成工業・日本錬水とのダイヤイオンの販売提携・協同研究提携は1961年10月。1960年11月に西独ピンチ・バマーク社と廃水浄化装置の技術援助契約
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [6]海軍の技術将校を中心にボイラの湯垢を取る薬剤から出発した企業
1956年〜8億円を投じた横浜の総合研究所と、株式公開の裏で始まった粉飾
栗田工業は1962年2月に横浜市へ総合水処理研究所を建て、同年7月に海水の淡水化を工業規模で実現した。栗田春生氏は後年、この研究所に当時の金額で8億円を投じたと振り返った。1962年3月期の売上高は31億0129万7千円で、研究所への投資はその約26%にあたる。研究所は国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発した。しかし開発費がかさみ、市場の開拓にも見込みを上回る資金を要して、採算を確保するまで時間がかかった。栗田工業が市場を開いた後に、他社が競合製品で参入する例も相次いだ。金融機関の関係者は研究所を『身分不相応』の投資とみた。新製品で業界を先導する構想が、量産と販売の裏づけより先行したのだろう。
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [19]1962年2月横浜市に総合水処理研究所を建設、同年7月海水淡水化の工業化に成功
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [20]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [22]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [23]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [24]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [25]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- 株式会社年鑑 1963年版「栗田工業」
- [21]1962年3月期の売上高3,101,297千円
装置部門には、イオン交換装置から事業を始めたオルガノなどの先行企業がいた。後発の栗田工業は受注で苦戦し、社長の栗田春生氏は『仕事の確保が先決。採算はライバルを打倒してからとればよい』と社員を督励したと伝えられる。原価を割る受注が重なり、1960年には粉飾が始まった。粉飾の中心は、6カ月を超える長期工事に進行度基準を当て、完成前の装置の売上と利益を先に計上する処理である。その一方で、1960年6月期から1962年3月期まで年率15%の配当を続けた。栗田春生氏は後年、正直に赤字決算を出せば銀行にも世間にも相手にされず会社がつぶれると考えた、と回想した。未実現の利益で配当を賄う処理が、受注を増やすほど赤字を膨らませる構造を生んだと考えられる。
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [26]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [27]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [28]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [29]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- 株式会社年鑑 1963年版「栗田工業」
- [30]1960年6月期・1961年6月期・1962年3月期の配当は年率15.0%
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [31]正直に赤字決算をしたら銀行や世間から相手にされず会社がつぶれると考え、粉飾決算を決意した
栗田工業は1961年2月の公募増資で資本金を2億7000万円とし、株式を東京と大阪の店頭市場に公開した。同年11月にも公募増資で資本金を5億5000万円へ増額。1962年8月1日には東京証券取引所の市場第一部に上場し、大阪証券取引所でも第一部に入った。1962年10月の増資で資本金は8億5000万円となり、1959年12月の9945万円から3年足らずで約8.5倍になった。1964年の時点で、栗田工業は7億円を投じて大阪製作所の建物と機械設備を増強する計画を立てていた。1960年に粉飾を始めたまま株式を公開し、第一部昇格まで果たした経緯は、後に報道で問題視された。研究所と工場の拡張を市場の資金で賄う必要が、粉飾を抱えたままの公開を後押ししたとうかがえる。
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [32]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
- [33]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
- [35]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
- 株式会社年鑑 1963年版「栗田工業」
- [34]上場市場は東京第一部(1962年8月1日上場)・大阪第一部
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [36]1964年3月末完成目標で資金7億円を投じ大阪製作所の建物新設と機械設備増強を計画
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [37]株式公開は1961年、粉飾開始は1960年で、取引所・証券会社の目をくらませて上場・1部昇格を果たした
参考文献[19]-[37]
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- [19]1962年2月横浜市に総合水処理研究所を建設、同年7月海水淡水化の工業化に成功
- [36]1964年3月末完成目標で資金7億円を投じ大阪製作所の建物新設と機械設備増強を計画
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [20]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [22]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [23]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [24]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [25]横浜に8億円をかけて総合研究所を建設。国産第1号のイオン交換樹脂浄水装置を開発したが開発コスト・市場開拓費がかさみ採算に乗らず、競合メーカーに後から参入された。金融機関からは「身分不相応」とされた
- [31]正直に赤字決算をしたら銀行や世間から相手にされず会社がつぶれると考え、粉飾決算を決意した
- 株式会社年鑑 1963年版「栗田工業」
- [21]1962年3月期の売上高3,101,297千円
- [30]1960年6月期・1961年6月期・1962年3月期の配当は年率15.0%
- [34]上場市場は東京第一部(1962年8月1日上場)・大阪第一部
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [26]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [27]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [28]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [29]装置部門にはイオン交換装置から出発したオルガノなどがおり苦戦。創業者の栗田氏は「仕事の確保が先決」と社員を叱咤。粉飾開始は1960年。6カ月以上の長期工事に進行度基準を採用し、1968年の経営危機も進行度基準の乱用による自転車操業が原因
- [37]株式公開は1961年、粉飾開始は1960年で、取引所・証券会社の目をくらませて上場・1部昇格を果たした
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- [32]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
- [33]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
- [35]1961年に資本金2億7000万円に増資し東京・大阪店頭市場に株式公開。資本変動:1959年12月9945万円、1961年2月2億7000万円(公募)、1961年11月5億5000万円(公募)、1962年10月8億5000万円
1965年〜伊藤忠商事との業務提携と、露見した累積赤字26億円
栗田工業は1965年1月、伊藤忠商事の専務取締役だった貝石眞三氏を取締役に迎えた。同年4月には伊藤忠商事の機械部門を歩んだ佐川明氏が顧問に入り、5月に専務取締役に就任した。1966年版の日本企業要覧は、伊藤忠の系列に入ることで資金と販売の両面に効果があり、とくに海外市場の拡大が期待されるとみた。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生氏2.0%の順である。1966年3月期には不良仕掛品の処分損3400万円などを特別損失に計上し、配当を2分減らした。代金の回収管理も弱く、受け取った手形を商社で割り引いて資金をつないでいた。創業者の持ち株が2%にとどまる中で、資金と販路の双方を商社に求めたのは避けにくい選択だったとみてよい。
- 日本企業要覧 1968年版「栗田工業」
- [38]貝石真三氏は伊藤忠商事専務取締役(1961年11月〜)を経て1965年1月に当社取締役。佐川明氏は伊藤忠商事機械部出身で1965年4月当社顧問、同年5月専務取締役
- [39]貝石真三氏は伊藤忠商事専務取締役(1961年11月〜)を経て1965年1月に当社取締役。佐川明氏は伊藤忠商事機械部出身で1965年4月当社顧問、同年5月専務取締役
- 日本企業要覧 1966年版「栗田工業」
- [40]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- [41]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- [42]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [43]回収の管理がなく、受け取った手形をそのまま商社で割り引いて資金をつないでいた
1966年11月末、し尿処理施設の受注工作に絡む贈賄の容疑で、栗田工業の社員から逮捕者が出た。贈賄は社長の栗田春生氏が指示したものである。事件の後に得意先が離れ、栗田工業は原価を割る値引きで売上を維持しようとした。主力の一つだったし尿処理施設の売上が急減し、1967年以降は手形の決済資金の手当てに追われた。粉飾は1967年暮れから1968年初めにかけて露見し、粉飾の額は26億円で、資本金の2.6倍に当たる。1968年3月期の損失は26億8100万円で、期末の欠損金は25億8193万6千円、資本合計は6億4150万1千円のマイナスとなった。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月(執行猶予2年)の有罪判決を受けた。贈賄の発覚による信用の低下が値引き受注を加速させ、先に計上した利益の穴を一挙に広げた経過が読み取れる。
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [44]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [45]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [46]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [47]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [50]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [48]粉飾は1967年暮れから1968年初めに発覚、規模は26億円で資本金の2.6倍
- 日本企業要覧 1968年版「栗田工業」
- [49]1968年3月期は損失26億8,100万円・無配。1968年3月末の欠損金2,581,936千円、資本合計△641,501千円
1967年12月、伊藤忠商事の副社長だった貝石眞三氏がその職のまま栗田工業の社長に就任した。栗田春生氏は同月に取締役会長となり、1968年3月に取締役を退いた。銀行は再建に動かず、倒産時に20億円の損失を負う伊藤忠商事が増資に応じた。資本金は1968年2月の増資により17億8500万円へ増え、同年3月末に伊藤忠商事は46.10%を持つ筆頭株主となった。貝石眞三氏は、経営危機を招いたのは戦略の誤りで社長が責任を負うとして、労働組合に業績を逐一報告した。1969年には4年で給料を2.4倍にすると約束し、1971年に持株制度を設けた。要覧 1968年版は、繰越欠損を4年で消す方針を伝えた。赤字の責任を社員から切り離したことが、公害防止の需要が膨らむ1970年代に向けて再建を動かす起点になったと解される。
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [51]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [53]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [55]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [56]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [52]栗田春生氏は1967年12月に取締役会長、1968年3月に取締役を辞任
- 日本企業要覧 1968年版「栗田工業」
- [54]1968年2月の増資で資本金17億8,500万円。1968年3月末の筆頭株主は伊藤忠商事46.10%。貝石真三氏は1967年12月取締役社長。繰越欠損は4年間で消す方針
- [57]1968年2月の増資で資本金17億8,500万円。1968年3月末の筆頭株主は伊藤忠商事46.10%。貝石真三氏は1967年12月取締役社長。繰越欠損は4年間で消す方針
参考文献[38]-[57]
- 日本企業要覧 1968年版「栗田工業」
- [38]貝石真三氏は伊藤忠商事専務取締役(1961年11月〜)を経て1965年1月に当社取締役。佐川明氏は伊藤忠商事機械部出身で1965年4月当社顧問、同年5月専務取締役
- [39]貝石真三氏は伊藤忠商事専務取締役(1961年11月〜)を経て1965年1月に当社取締役。佐川明氏は伊藤忠商事機械部出身で1965年4月当社顧問、同年5月専務取締役
- [49]1968年3月期は損失26億8,100万円・無配。1968年3月末の欠損金2,581,936千円、資本合計△641,501千円
- [54]1968年2月の増資で資本金17億8,500万円。1968年3月末の筆頭株主は伊藤忠商事46.10%。貝石真三氏は1967年12月取締役社長。繰越欠損は4年間で消す方針
- [57]1968年2月の増資で資本金17億8,500万円。1968年3月末の筆頭株主は伊藤忠商事46.10%。貝石真三氏は1967年12月取締役社長。繰越欠損は4年間で消す方針
- 日本企業要覧 1966年版「栗田工業」
- [40]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- [41]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- [42]伊藤忠の系列化で資金面・販売面、特に海外市場の拡張にプラス。1966年3月末の大株主は三菱化成工業8.3%、伊藤忠商事2.1%、栗田春生2.0%。前3月期に不良仕掛品処分損3,400万円・税法更正の損益修正1,700万円を特別損失に計上し2分減配
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- [43]回収の管理がなく、受け取った手形をそのまま商社で割り引いて資金をつないでいた
- [48]粉飾は1967年暮れから1968年初めに発覚、規模は26億円で資本金の2.6倍
- [51]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [53]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [55]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- [56]最大の債権者伊藤忠商事の副社長のまま貝石社長が就任。銀行に再建の意思はなく、倒産すれば20億円の損害を被る伊藤忠が増資に応じて救済。倒産の危機は戦略の失敗で社長の責任とし、労組に業績を逐一報告。1969年に4年で給料を2.4倍にすると約束、1971年に持株制度導入
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [44]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [45]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [46]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [47]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [50]1966年11月末にし尿処理施設の売り込みに絡む贈賄で社員が逮捕。社長の指示による。以後得意先が離れ原価割れのダンピング、し尿処理施設の売上急減、1967年以降は手形のやり繰り。栗田春生氏は粉飾決算で懲役8カ月・執行猶予2年の有罪判決
- [52]栗田春生氏は1967年12月に取締役会長、1968年3月に取締役を辞任
1949年〜1970年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1949年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1950年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1951年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1952年06月期 | 単体 | 0 | n/a | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1953年06月期 | 単体 | 0 | +162.2% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1954年06月期 | 単体 | 1 | +97.9% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1955年06月期 | 単体 | 2 | +42.7% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1956年06月期 | 単体 | 4 | +60.9% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年06月期 | 単体 | 6 | +43.5% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年06月期 | 単体 | 9 | +45.5% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年06月期 | 単体 | 9 | +6.6% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年06月期 | 単体 | 18 | +83.5% | n/a | 0 | n/a | n/a | n/a |
| 1961年06月期 | 単体 | 31 | +72.6% | 1 | 0 | 0 | 1.3% | n/a |
| 1962年03月期 | 単体 | 31 | ▲0.3% | 2 | 1 | 0 | 2.3% | n/a |
| 1963年03月期 | 単体 | 59 | +90.6% | 4 | 2 | 1 | 2.5% | n/a |
| 1964年03月期 | 単体 | 72 | +23.3% | n/a | n/a | 2 | 3.5% | n/a |
| 1965年03月期 | 単体 | 88 | +20.8% | n/a | n/a | 1 | 1.9% | n/a |
| 1966年03月期 | 単体 | 106 | +21.4% | n/a | n/a | 1 | 1.4% | n/a |
| 1967年03月期 | 単体 | 121 | +13.8% | n/a | n/a | 0 | 0.5% | n/a |
| 1968年03月期 | 単体 | 102 | ▲15.9% | n/a | n/a | ▲27 | ▲27.1% | n/a |
| 1969年03月期 | 単体 | 111 | +9.3% | n/a | n/a | 2 | 2.0% | n/a |
| 1970年03月期 | 単体 | 122 | +9.3% | n/a | n/a | 4 | 3.9% | n/a |
出所:ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版、会社年鑑 1967年版、会社年鑑 1971年版
出典・参考
7件
- 株式会社年鑑 1963年版「栗田工業」
- ダイヤモンド会社産業総覧 1964年版「栗田工業」
- 日経ビジネス 1975年8月4日号
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- 日本企業要覧 1963年版「栗田工業」
- 日本企業要覧 1966年版「栗田工業」
- 日本企業要覧 1968年版「栗田工業」