第1章 年〜年

積水化学工業:積水産業の発足とユニット住宅「ハイム」の発売

日本窒素肥料の余剰人員からセキスイハイムへの転用

1947年〜引揚者救済の受け皿から原料一貫体制までの事業基盤づくり

積水化学工業は、1947年3月に日本窒素肥料株式会社(現・チッソ)の一部従業員がプラスチックの総合事業化を計画し、積水産業株式会社として発足した。敗戦により朝鮮半島の工場を失った日本窒素は、国内工場で吸収しきれない余剰人員を別会社に収容して引揚者を救済する道を選び、その受け皿の一つが積水産業であった。当初の資本金は10万円にすぎず、設立と同時に化学工業技術の研究機関として京都化学研究所も置いた。設立翌年の1948年1月には日本窒素から奈良工場を譲り受け、わが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始すると同時に、積水化学工業株式会社へ商号を変更した。同年8月には大阪工場を新設した。総合化学会社の多くが石油化学から多角化したのに対し、原料を持たない加工の専業として出発した出自が、その後の事業構造を方向づけた。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1947年3月 日本窒素肥料(現・チッソ)の一部従業員がプラスチック総合事業化を計画し積水産業株式会社を発足
    • [4]1948年1月 奈良工場を(日本窒素から譲り受けて)新設し積水化学工業株式会社へ商号変更
    • [5]奈良工場でわが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [2]敗戦で朝鮮半島の工場を失った日本窒素が余剰人員を収容する別会社の一つとして積水化学を設立した
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [3]設立当初の資本金は10万円で、同時に研究機関として京都化学研究所を設置した
    • [6]1948年8月 大阪工場を設置

最初に売れたのはプラスチックテープで、1949年の暮れごろから注文が伸びた。1951年9月に上野次郎男氏が社長に就任すると、積極的な拡大策のもとで急成長に転じた。1952年に完成した京都工場では硬質塩化ビニル管の製造を始め、錆びて詰まる金属パイプを置き換えていった。1953年3月に大阪証券取引所へ、翌1954年4月に東京証券取引所へ株式を上場した。1953年9月に東京工場を新設して関東での生産を持ち、1956年6月に設けた中央研究所が次の品種を生み出す場となった。1960年には滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプと塩化ビニル建材の製造を、滋賀水口工場でポリビニルブチラールと合わせガラス用中間膜の製造を始めた。原料を持たない加工専業が採った道は、新しい素材でしか作れない製品を先に世へ出し、後続との差を開き続けることであった。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [7]1949年暮れごろから売れ始めたプラスチックテープがヒットし社業の基礎が固まった
    • [8]1951年9月 上野次郎男が社長に就任し積極拡大策で高度成長を遂げた
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [9]1952年 京都工場を完成させ硬質塩化ビニル管の製造に進み金属パイプを置き換えた
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [10]1953年3月 大阪証券取引所に上場
    • [11]1954年4月 東京証券取引所に上場
    • [12]1953年9月 東京工場を新設
    • [13]1956年6月 中央研究所(現・開発研究所)を新設
    • [14]1960年8月 滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプ・塩化ビニル建材製品の製造を開始
    • [15]1960年11月 滋賀水口工場でポリビニルブチラール・合わせガラス用中間膜の製造を開始

1962年7月、積水化学は武蔵工場でプラスチックテープと塩化ビニルテープの生産を始め、1964年1月には徳山積水工業を設立して塩化ビニル樹脂の製造に乗り出した。原料から成型品まで一貫して手がける体制がここで整った。加工専業にとって樹脂価格の変動は利益を直撃し、川上へ遡る投資はその変動を自社の内側へ取り込む手だてであった。増資を重ねた資本金は85.5億円に達し、売上高は創業から15年で58倍に伸びた。1964年には戦後の急成長企業として、ソニー・本田技研と並べて語られるまでになった。ひとつの技術を開発してその利潤の上に安んじることは加工という業態では許されず、首位の座は常に次の新製品でしか守れなかった。それが、この会社の強さと自己資本の薄さを同時に生んだ。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [16]1962年7月 武蔵工場でプラスチックテープ・塩化ビニルテープの製造を開始
    • [17]1964年1月 徳山積水工業を設立し塩化ビニル樹脂の製造を開始
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [18]増資を重ねて資本金は85.5億円、売上高は創業15年で58倍に伸長した
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [19]1964年に戦後の急成長企業として「ソニー、ホンダ、セキスイ」と並称された
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [20]樹脂加工という業態では一つの技術の創業者利潤の上に安閑とすることが不可能で、トップメーカーの地位を守るには常に新商品を開発して後続との差をつける必要があった
参考文献[1]-[20]
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1947年3月 日本窒素肥料(現・チッソ)の一部従業員がプラスチック総合事業化を計画し積水産業株式会社を発足
    • [4]1948年1月 奈良工場を(日本窒素から譲り受けて)新設し積水化学工業株式会社へ商号変更
    • [5]奈良工場でわが国最初の自動射出成型によるプラスチック成型事業を開始
    • [10]1953年3月 大阪証券取引所に上場
    • [11]1954年4月 東京証券取引所に上場
    • [12]1953年9月 東京工場を新設
    • [13]1956年6月 中央研究所(現・開発研究所)を新設
    • [14]1960年8月 滋賀栗東工場で塩化ビニルパイプ・塩化ビニル建材製品の製造を開始
    • [15]1960年11月 滋賀水口工場でポリビニルブチラール・合わせガラス用中間膜の製造を開始
    • [16]1962年7月 武蔵工場でプラスチックテープ・塩化ビニルテープの製造を開始
    • [17]1964年1月 徳山積水工業を設立し塩化ビニル樹脂の製造を開始
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [2]敗戦で朝鮮半島の工場を失った日本窒素が余剰人員を収容する別会社の一つとして積水化学を設立した
    • [9]1952年 京都工場を完成させ硬質塩化ビニル管の製造に進み金属パイプを置き換えた
    • [19]1964年に戦後の急成長企業として「ソニー、ホンダ、セキスイ」と並称された
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [3]設立当初の資本金は10万円で、同時に研究機関として京都化学研究所を設置した
    • [6]1948年8月 大阪工場を設置
    • [7]1949年暮れごろから売れ始めたプラスチックテープがヒットし社業の基礎が固まった
    • [8]1951年9月 上野次郎男が社長に就任し積極拡大策で高度成長を遂げた
    • [18]増資を重ねて資本金は85.5億円、売上高は創業15年で58倍に伸長した
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [20]樹脂加工という業態では一つの技術の創業者利潤の上に安閑とすることが不可能で、トップメーカーの地位を守るには常に新商品を開発して後続との差をつける必要があった

1964年〜成長企業からの転落と半額減資による再建

1965年、積水化学は赤字を計上して成長企業の座から脱落した。主力の塩化ビニルパイプと波板には他社が相次いで参入して過剰生産と値下がりを招き、業界は1965年9月に不況カルテルの認可を受けるまでに需給が崩れた。北米へ進出した発泡ポリスチレンペーパー事業も、ダウやモンサントといった現地大手化学会社の追い上げに遭った。1966年3月期の売上高は178億7,600万円と前期並みにとどまり、経常損失6億9,000万円を計上した。老朽不要資産の廃棄や大阪旭工場の売却に伴う損失を含めて特別損失は約51億円に達し、資本準備金・利益準備金・任意積立金を全額取り崩してもなお約19億5,000万円の繰越損失が残った。上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた。

  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [21]1965年 赤字を計上して成長企業の座から脱落した
    • [23]主力の塩ビパイプ・波板への他社参入による過剰生産・値下がりと、北米進出した発泡ポリスチレンペーパー事業のダウ・モンサント等との競合で苦境に陥った
    • [26]上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [22]1965年9月 塩ビ業界全体の生産過剰に対し不況カルテル(生産カルテル)が認可され需給調整の役割を果たした
    • [24]1966年3月期 売上高178億7,600万円(ほぼ前期並み)、経常損失6億9,000万円
    • [25]1966年3月期の特別損失は約51億円(老朽不要資産の廃棄除却、旭工場売却に伴う固定資産売却除去損約4億円、棚卸資産処分損約3億円を含む)。資本準備金・利益準備金・任意積立金の全額を取り崩して約11億円を充当してもなお次期繰越損失は約19億5,000万円

1967年3月、旧日本窒素グループの旭化成から小幡謙三氏が再建のために送り込まれた。小幡氏は不採算部門の整理売却を進め、赤字が累積した大阪旭工場は1965年末に撤退を発表したうえで、1966年3月に大阪市との土地売却契約が成立した。北米で発泡ポリスチレンペーパーを手がけたアメリカ積水からも撤退した。そして同年7月、損失を資本で埋めて配当できる状態へ戻す荒療治として、資本金を半分に減らす半額減資に踏み切り、資本金は42億7,500万円となった。1967年3月期は売上高210億6,900万円、経常利益7億7,600万円まで戻したものの、繰越損失はなお44億円余にのぼっていた。二年で大きな負債を消却し、復配にこぎ着けた。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [27]1967年3月 旭化成から小幡謙三が再建のために派遣された
    • [32]半額減資を断行して二年で負債を消却し復配した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [28]赤字累積工場として1965年末に撤退を発表した大阪旭工場は1966年3月に大阪市との間で土地売却契約が成立した
    • [30]1967年7月の半額減資により資本金は42億7,500万円となった
    • [31]1967年3月期 売上高210億6,900万円・経常利益7億7,600万円。なお44億円余の損失金を次期へ繰り越した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [29]SPC(アメリカ積水)を設立した米国進出から撤退した

不振が続くなかで社員の士気は落ち、各人の創造的な動きを抑え込む傾向が強まっていた。小幡氏の手当ては、損益の立て直しにとどまらなかった。1966年に各工場で全社員参加の品質管理グループ活動を始め、交替勤務を終えた班ごとに話し合いの場を持ち、成型機から出てくる製品のばらつきの原因を前工程まで遡って突き止めた。指示された作業を指示どおりにこなせば足りるという職場の雰囲気は、この活動で改まった。1966年9月期は売上高193億4,000万円で前期比8.2%増、経常利益は3億8,000万円となり、再建計画は当初の見込みを超えた。上野時代を後年振り返った小幡氏の言葉が『当時の上野次郎男社長は偉すぎたんだな。旺盛な事業家精神でぐんぐん引っぱっていく。それが過ぎると周りの人間は誰もノーと言えなくなってしまう。言いたいことも言えず、やりたいこともやれずになって、それで会社がダメになっていくんですよ』である。相互信頼を掲げて率直な発言を促した再建は、数字の立て直し以上に、ものが言える組織をつくり直す作業であった。

  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [33]業績不振が社員の士気低下をもたらし一人一人の創造的活動を阻む傾向が強かった
    • [34]1966年 各工場で全社員参加のQC(総合品質管理)グループ改善活動が開始され、交替勤務後にグループごとのミーティングで前工程へ原因を追及した
    • [35]決められた仕事を決められたとおりやればよいという従来の職場の雰囲気が変わった
    • [36]1966年9月期 売上高193億4,000万円余(前期比8.2%増)、経常利益3億8,000万円。所期の計画を上回った
参考文献[21]-[36]
  • 積水化学の歴史/上野次郎男
    • [21]1965年 赤字を計上して成長企業の座から脱落した
    • [23]主力の塩ビパイプ・波板への他社参入による過剰生産・値下がりと、北米進出した発泡ポリスチレンペーパー事業のダウ・モンサント等との競合で苦境に陥った
    • [26]上野次郎男社長は代表権のない会長へ退いた
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
    • [22]1965年9月 塩ビ業界全体の生産過剰に対し不況カルテル(生産カルテル)が認可され需給調整の役割を果たした
    • [24]1966年3月期 売上高178億7,600万円(ほぼ前期並み)、経常損失6億9,000万円
    • [25]1966年3月期の特別損失は約51億円(老朽不要資産の廃棄除却、旭工場売却に伴う固定資産売却除去損約4億円、棚卸資産処分損約3億円を含む)。資本準備金・利益準備金・任意積立金の全額を取り崩して約11億円を充当してもなお次期繰越損失は約19億5,000万円
    • [28]赤字累積工場として1965年末に撤退を発表した大阪旭工場は1966年3月に大阪市との間で土地売却契約が成立した
    • [30]1967年7月の半額減資により資本金は42億7,500万円となった
    • [31]1967年3月期 売上高210億6,900万円・経常利益7億7,600万円。なお44億円余の損失金を次期へ繰り越した
    • [33]業績不振が社員の士気低下をもたらし一人一人の創造的活動を阻む傾向が強かった
    • [34]1966年 各工場で全社員参加のQC(総合品質管理)グループ改善活動が開始され、交替勤務後にグループごとのミーティングで前工程へ原因を追及した
    • [35]決められた仕事を決められたとおりやればよいという従来の職場の雰囲気が変わった
    • [36]1966年9月期 売上高193億4,000万円余(前期比8.2%増)、経常利益3億8,000万円。所期の計画を上回った
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
    • [27]1967年3月 旭化成から小幡謙三が再建のために派遣された
    • [32]半額減資を断行して二年で負債を消却し復配した
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [29]SPC(アメリカ積水)を設立した米国進出から撤退した

1969年〜合理化で浮いた人員を振り向けたユニット住宅への参入

1969年10月の常務会で住宅産業への参入が決まったが、系列にいた住宅専業の積水ハウスは独自工法の仕上げで手一杯だったため、担い手は化学の側になった。発端は、1年ほど前から社内で進んでいた、浴室や便所といった水まわりをユニットにして売り出す研究で、その先に住宅を丸ごと工場で作るという構想が見えてきた。さかのぼれば、当時の社長の小幡謙三氏が自宅を建てたとき、現場で組み立てる工法に無駄が多いと身にしみたことが出発点である。部屋の単位で工場から量産すれば、工期は短く、原価も安い住宅になる。ひさしもない箱を並べたような試作品を見て、小幡氏本人もこれを買う人がいるのかと首をかしげたという。それでも方向の正しさには確信があった。

  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [37]住宅産業への進出を決定したのは1969年10月の常務会
    • [38]専業の積水ハウスでという話もあったが、ハウスは独自工法の完成に追われていたため積水化学でやることになった
    • [39]進出決定の1年ほど前からバス・トイレなど水まわり設備をユニット化して事業化する研究が始まり、その延長線上に工場生産のユニット住宅が浮かんだ
    • [40]小幡謙三は自分で家を建てて現場施工のロスの多さを感じ、部屋までを工場で大量生産できれば工期が短縮されローコストで機能性の高い住宅ができると考えた
    • [41]試作品はひさしも何も無い、ただの箱を組み合わせたようなもので、小幡謙三はこんな家を買う人がいるのかと思った
    • [42]小幡謙三は試作品への不安にもかかわらず方向の正しさには絶対に確信があったと述べた

新事業へ振り向けられたのは、外から雇った専門家ではなく社内で浮いた人員であった。1965年の不況でプラスチック業界が停滞し無配に転落した直後であり、合理化で余った人を収容する新規部門という位置づけだったため、外部からの採用は初めから考えられなかった。設計図を引ける社員は一人もいなかった。各部門から人を出させるにあたっては、住宅部門の人集めとは知らせずに人事の考課表を提出させ、そこから精鋭を抜いた。この人選に当たったのは、のちに社長となる当時の人事部長、藤沼基利氏である。リストを出した部長たちは住宅部門の人集めとは知らされておらず、いわばだまし討ちであった。ユニット工法を東京大学大学院生の大野勝彦氏の研究に見いだしたのも、住宅を工場生産物として捉えるメーカーの感覚であり、業界の常識を持たなかったからこそ踏み切れた。

  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [43]住宅事業ではスカウトを初めから考えず、合理化で浮いた人員を振り向けるための新規部門と考えていた
    • [44]1965年不況でプラスチック業界が停滞し積水化学も無配に転落した直後で、外から人を採用するどころの話ではなかった
    • [45]住宅事業の立ち上げ時、社内に設計図を引ける人間が1人もいなかった
    • [46]各部門の長にリストを出させるとエースが出てこないため、別の名目で人材の考課表を提出させ、これに基づいて精鋭をそろえた
    • [47]藤沼基利は当時人事部長としてこの人選に当たり、いわば「だまし討ち」だったが、それだけ真剣な人事だったと述べた
    • [48]当時東京大学大学院生だった大野勝彦が研究していたユニット工法に目をつけて事業化したのは、住宅を住宅屋の常識からではなく工場生産物として捉える素人ゆえの発想だった

1971年2月、積水化学は鉄骨系ユニット住宅セキスイハイムの販売を開始した。同年4月には武蔵工場で本格生産に入り、10月に奈積工業を、翌1972年3月にサンエスハイム製作所を設立して製造拠点を確保した。塩化ビニルパイプや建材で積み上げた量産工場の運営経験を、住宅という最終消費財へ移した事業であった。現場施工に依存する在来工法に対し、工場で躯体を作って品質と工期を管理する方式は、後発で参入する会社が既存の大手と違う土俵を選ぶ手でもあった。売り先も流通も既存事業とは異なり、社内に販売の蓄積は無い。営業は代理店に頼らず自社で直接売る体制を採り、商品を最もよく知る当人が売るほかなかった。のちに住宅が売上高の過半を占める会社になる転換は、この1971年から始まった。

  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1971年2月 鉄骨系ユニット住宅「ハイム」の販売を開始し住宅事業に進出(沿革表記は「ハイム」)
    • [51]1971年10月 奈積工業(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
    • [52]1972年3月 サンエスハイム製作所(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [50]1971年4月 武蔵工場で「ハイム」の本格生産を開始
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [53]市場に商品のイメージが浸透するまでは商品を最もよく知る自分たち自身が直接売らねばならず、代理店に頼らない直販体制を中心にした
参考文献[37]-[53]
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
    • [37]住宅産業への進出を決定したのは1969年10月の常務会
    • [38]専業の積水ハウスでという話もあったが、ハウスは独自工法の完成に追われていたため積水化学でやることになった
    • [39]進出決定の1年ほど前からバス・トイレなど水まわり設備をユニット化して事業化する研究が始まり、その延長線上に工場生産のユニット住宅が浮かんだ
    • [40]小幡謙三は自分で家を建てて現場施工のロスの多さを感じ、部屋までを工場で大量生産できれば工期が短縮されローコストで機能性の高い住宅ができると考えた
    • [41]試作品はひさしも何も無い、ただの箱を組み合わせたようなもので、小幡謙三はこんな家を買う人がいるのかと思った
    • [42]小幡謙三は試作品への不安にもかかわらず方向の正しさには絶対に確信があったと述べた
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
    • [43]住宅事業ではスカウトを初めから考えず、合理化で浮いた人員を振り向けるための新規部門と考えていた
    • [44]1965年不況でプラスチック業界が停滞し積水化学も無配に転落した直後で、外から人を採用するどころの話ではなかった
    • [45]住宅事業の立ち上げ時、社内に設計図を引ける人間が1人もいなかった
    • [46]各部門の長にリストを出させるとエースが出てこないため、別の名目で人材の考課表を提出させ、これに基づいて精鋭をそろえた
    • [47]藤沼基利は当時人事部長としてこの人選に当たり、いわば「だまし討ち」だったが、それだけ真剣な人事だったと述べた
    • [48]当時東京大学大学院生だった大野勝彦が研究していたユニット工法に目をつけて事業化したのは、住宅を住宅屋の常識からではなく工場生産物として捉える素人ゆえの発想だった
    • [53]市場に商品のイメージが浸透するまでは商品を最もよく知る自分たち自身が直接売らねばならず、代理店に頼らない直販体制を中心にした
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
    • [49]1971年2月 鉄骨系ユニット住宅「ハイム」の販売を開始し住宅事業に進出(沿革表記は「ハイム」)
    • [51]1971年10月 奈積工業(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
    • [52]1972年3月 サンエスハイム製作所(現・セキスイハイム工業)を設立しユニット住宅の製造を開始
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
    • [50]1971年4月 武蔵工場で「ハイム」の本格生産を開始

筆者考察

積水化学工業の最初の24年は、原料を持たない会社が、原料を持つ会社と同じ土俵に立たされ続けた時間である。日本窒素肥料が朝鮮半島の工場を失って抱えた余剰人員を資本金10万円の別会社へ移したところから始まったこの会社には、石油化学から降りてくる樹脂を買って加工する以外の道が無かった。だから日本で初めてという製品を並べ続けた。硬質塩化ビニル管で金属パイプを置き換え、合わせガラス用の中間膜を作り、発泡ポリスチレンペーパーを第三の紙と名づけて北米へ持ち込んだ。売上高を15年で58倍にしたのはその連打であり、ソニー・本田技研と並べて語られたのもその勢いによる。同時にそれは、新製品が一つ止まれば全体が止まる構造でもあった。

1965年の赤字は、真似のできない製品が真似のできる製品へ変わる速さを読み違えた結果であった。塩化ビニルパイプにも波板にも後続が入って値が崩れ、北米ではダウとモンサントが同じ紙を作った。資本金を半分に減らし、旭化成から来た小幡謙三が工場の売却と同時に取り組んだのは、社長にノーと言える職場をつくり直すことだった。そして住宅である。合理化で浮いた人員を、設計図も引けないまま新事業へ送り込んだのは、余った人の行き先を探した結果でもあり、専門家を雇う余裕が無かった結果でもある。住宅の常識を持たない集団が、住宅を工場生産物として設計した。積水化学の次の30年を決めたのは、その知らなさであった。

積水化学工業の売上高 1965年3月期〜1967年3月期(半期・単体)(億円)

189 65年3月期 179 65年9月期 179 66年3月期 193 66年9月期 210 67年3月期

1947年〜1971年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 京都工場を開設、塩化ビニル管「エスロンパイプ」の本格製造を開始(1952/08)
1954年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1955年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a 武蔵工場を新設、プラスチックテープ・塩化ビニルテープの製造を開始(1962/07)
1964年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1965年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1966年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1967年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1968年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1969年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 774 n/a 27 3.5% 19 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

7件
出典・参考
  • 積水化学工業 有価証券報告書 第103期(2025年3月期)【沿革】
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)5章 再建期
  • 30年の歩み(積水化学工業, 1977年)7章 激動期
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 日経ビジネス 1980年2月11日号
  • 日経ビジネス 1981年5月18日号
  • 積水化学の歴史/上野次郎男

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