第1章 年〜年

デンカ:電気化学工業の設立と大牟田工場でのカーバイド・石灰窒素製造

1915年〜藤山常一氏の苫小牧のカーバイド工場と、大牟田・撫順・青海の3工場

電気化学工業は1915年5月、藤山常一氏の北海カーバイド工場と特許7件を譲り受け、資本金500万円で発足した。藤山常一氏は1912年5月に苫小牧で工場を起こし、隣接する王子製紙から電力を受けてカーバイドと石灰窒素を造っていた。藤山常一氏の特許第25557号は、電気で熱を加えず化合熱だけで石灰窒素を得る製法で、評価の決め手は採算の合う点。1914年に第1次大戦が始まると欧州からの肥料の輸入が減少し、1914年度でも肥料輸入6,300万円のうち5,300万円を窒素肥料が占めた。三井系の有力者たちは藤山常一氏を以前から支援しており、新会社の設立を主導し、創立総会では三井物産出身の馬越恭平氏が取締役会長に就任した。輸入肥料の代替需要と国産の特許という2つの条件がそろったことが、三井系の資本を動かしたとみられる。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「創立まで」
    • [1]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
    • [3]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
    • [6]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [2]1915年5月、北海カーバイド製造所と藤山常一の特許権一切を譲り受け、資本金500万円で設立
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [4]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長
    • [5]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長
    • [7]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長

電気化学工業は創立翌年の1916年3月、福岡県大牟田と満州撫順で相次いで工場の建設に着手している。苫小牧工場は王子製紙の余剰電力3,500kWで操業しており、1916年秋ごろから製紙の需要増で余剰が出なくなった。大牟田では三井鉱山が熊本電気から受ける6,000kWを使い切れておらず、その余剰電力とコークスの融通を受けられた。1916年5月に三井鉱山と電力需給契約を結び、大牟田工場は同年10月にカーバイド、12月に石灰窒素の製造を始めた。撫順では南満州鉄道から利益の折半を条件に電力と蒸気の無償提供を受けたものの、大戦後の石炭高と受電不足で1920年6月に南満州鉄道へ譲渡した。工場の立地を決めたのは原料産地より、余った電力を安く融通してくれる相手の有無だったと推察される。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [8]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [9]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [10]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [11]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [13]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
  • 企業の歴史(1968年)「電気化学工業」
    • [12]1916年に大牟田工場を開設し、カーバイド・石灰窒素の製造を開始

電気化学工業は1916年11月に宮崎県知事へ大淀川の水利使用を願い出て、1919年6月に最大出力15,000kWの大淀川第一発電所に着工した。青海では、明治末に日本窒素肥料が計画した工場が姫川の洪水で止まり、石灰石の採取権と用地は北陸水電と高砂水力電気に移っていた。地元の有志は専務の藤山常一氏を訪ねて誘致を求め、電気化学工業は1921年2月に両社を合併して採取権と用地を得た。青海の石灰石は推定埋蔵量500億トンとされ、青海工場は1921年12月にカーバイドの製造を開始。近くの小滝川発電所は1921年11月、大所川発電所は1923年12月に完成した。石灰石の産地に自家発電所を併せ持ち、買電の単価に左右されにくい生産の体制をととのえたと推測される。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [14]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [15]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [16]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [17]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
    • [18]1921年12月、青海工場でカーバイドの製造開始
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「電力」
    • [19]自家用発電所:小滝川発電所 1921年11月21日完成、大所川発電所 1923年12月25日完成
参考文献[1]-[19]
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「創立まで」
    • [1]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
    • [3]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
    • [6]1912年5月、藤山常一が苫小牧に北海カーバイド工場を開設。第1次大戦で化学肥料の輸入が途絶し、藤山常一を後援してきた三井系有力者が新会社の設立に動き、1915年5月に設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [2]1915年5月、北海カーバイド製造所と藤山常一の特許権一切を譲り受け、資本金500万円で設立
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [4]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長
    • [5]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長
    • [7]創立趣意書(1915年4月1日):特許第25557号は化合熱のみで石灰窒素を製造。1914年度肥料輸入6,300万円のうち窒素肥料5,300万円。創立総会で馬越恭平(三井物産出身)が取締役会長
    • [8]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [9]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [10]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [11]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [13]1916年3月に大牟田・撫順で工場建設に着手。苫小牧は王子製紙の余剰電力3,500kWに依存し1916年秋から不足。三井鉱山の熊本電気との契約6,000kWの余剰とコークスを融通。1916年5月5日三井鉱山と電力需給契約、10月カーバイド・12月石灰窒素。撫順は満鉄と利益折半で電力・蒸気を無償提供、1920年6月満鉄へ譲渡
    • [14]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [15]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [16]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
    • [17]1916年11月宮崎県知事に大淀川の水利使用願、1919年6月1日に最大15,000kWの大淀川第一発電所に着手。大牟田への送電に計画変更し県内で反対。青海は日本窒素肥料の計画が姫川洪水で放棄、権利は北陸水電・高砂水力電気へ。地元有志が専務藤山常一に働きかけ、1921年2月に両社を合併。石灰石の推定埋蔵量500億トン
  • 企業の歴史(1968年)「電気化学工業」
    • [12]1916年に大牟田工場を開設し、カーバイド・石灰窒素の製造を開始
  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
    • [18]1921年12月、青海工場でカーバイドの製造開始
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「電力」
    • [19]自家用発電所:小滝川発電所 1921年11月21日完成、大所川発電所 1923年12月25日完成

1925年〜11年ぶりの特許訴訟の勝訴と、昭和恐慌で決めた2,800万円への減資

電気化学工業は1925年5月30日、日本窒素肥料との特許の争いで最終的な勝訴を得た。藤山常一氏が1914年3月に得た特許第25557号に対し、日本窒素肥料は同年5月に無効審判を請求していた。日本窒素肥料が無効の理由に挙げたのは、自社の先行特許で同じ方法がすでに公知だったこと、工業設備では実施できないことの2点である。特許局は1915年7月に電気化学工業の主張を認め、その後も抗告審と上告審が3回ずつ重なり、最後に大審院が上告を棄却した。藤山常一氏の製法は電化式の石灰窒素製造の基礎となり、1929年2月には特許の存続期間が10年延長された。11年1カ月の争いを経て製法の権利が確定したことで、石灰窒素を主力とする事業の足場が固まったと思われる。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [20]前身時代から続いた日本窒素肥料との特許訴訟が1925年5月に11年ぶりで勝訴により解決
    • [21]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [22]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [23]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [24]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [25]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [26]藤山常一が新式の石灰窒素製造装置を完成し特許を得、これが電化式肥料釜の基礎となった

電気化学工業の1927年下期の欠損は650万円に上り、当時の資本金3,500万円に対して重い損失にあたる。1927年3月の金融恐慌に続き、1928年の硫安の内地消費46万トンのうち、輸入品は38万トンを占めた。硫安の相場は1929年初めのトン140円から外国品の安売りで1930年に80円台へ下がり、1931年には58円。1927年10月に大橋新太郎氏が会長を辞任し、藤原銀次郎氏が取締役会長に就任した。同年12月の臨時株主総会は資本金を2,800万円とする減資を決議し、減資は1928年5月に実施された。石灰窒素の多くを硫安に変成して販売していたため、輸入硫安の値崩れがそのまま収益を圧迫したのだろう。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和10年まで」
    • [27]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [28]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [29]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [30]1927年10月6日会長大橋新太郎辞任・藤原銀次郎就任。1927年12月26日臨時株主総会で資本金を2,800万円とする減資を決議
    • [32]1927年10月6日会長大橋新太郎辞任・藤原銀次郎就任。1927年12月26日臨時株主総会で資本金を2,800万円とする減資を決議
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [31]1927年の恐慌と輸入硫安のダンピングで大打撃、損失補填のため資本金3,500万円を2,800万円に減額。会長藤原銀次郎以下で社業回復。大正期は石灰窒素の大部分を硫安に変成して販売
  • 株式会社年鑑 1950年版「電氣化學工業」
    • [33]1928年5月、資本金2,800万円に減資

電気化学工業は電力の単価と電力原単位を下げる策を重ね、1932年下期に危機を脱した。1927年4月に最大出力30,000kWの大淀川第二発電所に着工し、1929年春に藤原銀次郎氏が三井信託から融資を取り付けて工事を続けた。1929年にはノルウェーの技師を招いて抵抗式操業法を取り入れ、電力費と電極の消耗を大きく減らした。青海工場の買電では料金の支払いが滞り、1932年7月に藤原銀次郎氏が日本海電気と協定を結んで黒部川電力の経営に参加している。協定は特殊電力の料金を硫安の値段に合わせて上下させる仕組みで、基準に置いた硫安価格トン当たり69円に対し、料金を1kWH3厘と定める。肥料業界も1932年を底に上向き、電気化学工業は1933年上期に配当を再開した。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和10年まで」
    • [34]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [35]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [36]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [37]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [38]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [39]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [40]業界は1932年を底に上向き。1927〜1932年が最も苦難の多い期間で、経営合理化により大幅に改善
参考文献[20]-[40]
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
    • [20]前身時代から続いた日本窒素肥料との特許訴訟が1925年5月に11年ぶりで勝訴により解決
    • [21]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [22]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [23]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [24]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
    • [25]1914年3月特許第25557号取得、同年5月日本窒素肥料が無効審判請求。争点は公知性と実施可能性。1915年7月24日第1審勝訴、抗告審・上告審各3回、1925年5月30日大審院が上告棄却(11年1カ月)/1929年2月28日特許第25557号の存続期間10カ年延長(「昭和10年まで」年表)
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [26]藤山常一が新式の石灰窒素製造装置を完成し特許を得、これが電化式肥料釜の基礎となった
    • [31]1927年の恐慌と輸入硫安のダンピングで大打撃、損失補填のため資本金3,500万円を2,800万円に減額。会長藤原銀次郎以下で社業回復。大正期は石灰窒素の大部分を硫安に変成して販売
    • [40]業界は1932年を底に上向き。1927〜1932年が最も苦難の多い期間で、経営合理化により大幅に改善
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和10年まで」
    • [27]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [28]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [29]1928年硫安内地消費46万トンのうち38万トンが輸入。硫安価格は1929年初め140円、1930年80円台、1931年58円。1927年下期に650万円の欠損(資本金3,500万円)
    • [30]1927年10月6日会長大橋新太郎辞任・藤原銀次郎就任。1927年12月26日臨時株主総会で資本金を2,800万円とする減資を決議
    • [32]1927年10月6日会長大橋新太郎辞任・藤原銀次郎就任。1927年12月26日臨時株主総会で資本金を2,800万円とする減資を決議
    • [34]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [35]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [36]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [37]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [38]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
    • [39]1932年下期に危機を脱出。1927年4月大淀川第二発電所(30,000kW)着工、1929年春三井信託から融資。1929年抵抗式操業法を導入。1932年7月23日日本海電気と協定し黒部川電力の経営に参加、特殊電力は硫安69円で3厘のスライド制。1933年上期に配当復活
  • 株式会社年鑑 1950年版「電氣化學工業」
    • [33]1928年5月、資本金2,800万円に減資

1936年〜近藤銕次氏の戦時の拡張と、大牟田工場のアセチレンブラック

電気化学工業は1938年4月に資本金を5,600万円へ倍増し、1941年3月には日本醋酸製造の合併で5,750万円となった。この間に1936年9月に北海電化工業を直営とし、1937年12月には東北振興化学を設立している。1939年12月に専務取締役の近藤銕次氏が社長に就任し、同月に満州電気化学工業の経営に参加した。一方、電力国家管理法により、1941年10月に大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ出資させられた。出資した設備の評価額は1,629万12円50銭で、大牟田工場はこれで自前の電源を失う。のちに社長となる野村與曾市氏は、電気庁が続けて求めた黒部川電力の出資を拒み続け、終戦でこの要請は立ち消えとなった。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和20年まで」
    • [41]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [43]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [44]1939年12月26日、専務取締役近藤銕次が取締役社長に就任。同月、満州電気化学工業の企業に参加
    • [45]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [46]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [42]1938年資本金5,600万円、1941年日本醋酸を合併し資本金5,750万円
  • 私の履歴書 野村與曾市(1980年)
    • [47]電気庁から黒部川電力の出資を求められたが拒み続け、終戦で話はご破算となった

電気化学工業は1942年1月、大牟田工場でアセチレンブラックの製造を始めた。戦時下で硫酸の原料となる硫黄と硫化鉱が不足し、大牟田工場は1943年2月、青海工場は同年6月に硫安の製造を廃止した。空いた硫安の設備の転用先は、大牟田工場がアセチレンブラックとデンカランダム、青海工場がメラミンの製造である。1965年時点でアセチレンブラックはゴムの補強剤や乾電池、導電性のゴムとプラスチックに使われ、電気抵抗の規格も定めていた。戦後もアセチレンブラックはメラミンやホルマリンと並ぶ有機合成の製品として拡充された。カーバイドから得るアセチレンを原料とするため、既存の電炉を生かして肥料以外の製品を増やす足がかりになったと考えられる。

  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
    • [48]1942年1月、大牟田工場にてアセチレンブラックの製造開始
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和20年まで」
    • [49]硫黄・硫化鉱の不足で大牟田工場1943年2月、青海工場同年6月に硫安製造を廃止。設備は大牟田でデンカランダムとアセチレンブラック、青海でメラミンとメラミン樹脂に充当
    • [50]硫黄・硫化鉱の不足で大牟田工場1943年2月、青海工場同年6月に硫安製造を廃止。設備は大牟田でデンカランダムとアセチレンブラック、青海でメラミンとメラミン樹脂に充当
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「製品とその設備」
    • [51]アセチレンブラックの用途:各種ゴム補強剤・乾電池・導電性ゴムおよびプラスチックス。電気抵抗0.25Ω-cm以下
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [52]戦後、アセチレン・石灰窒素誘導工業に順応して有機合成へ進出し、メラミン・アセチレンブラック・ホルマリン等の部門を拡充

電気化学工業は1949年5月に東京・大阪・名古屋の証券取引所へ株式の上場を申請し、資本市場からの資金調達を可能にした。終戦で台湾電化や満州電気化学工業を含む在外傍系会社4社が接収され、1946年4月には三井財閥系の会社として制限会社の指定を受けた。北海電化工業をはじめとする国内の傍系会社も、財閥解体の措置によって系列を離れた。1949年3月末の借入金は2億6,000万円に達し、1941年から据え置いた資本金5,750万円と釣り合わない水準にある。同年4月30日に企業再建整備法に基づく計画の認可を求め、7月22日の増資で資本金は2億円になった。整備計画は同年9月に認可され、1950年版の年鑑では社長が近藤銕次氏、専務が野村與曾市氏である。

  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和30年まで」
    • [53]1949年4月30日企業再建整備計画の認可を申請、5月11日東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場を申請、7月22日増資で資本金2億円。1949年1月21日集中排除の指定取り消し
    • [55]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [56]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [57]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [58]1949年4月30日企業再建整備計画の認可を申請、5月11日東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場を申請、7月22日増資で資本金2億円。1949年1月21日集中排除の指定取り消し
    • [59]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
    • [54]1949年5月、東京・大阪・名古屋各証券取引所に株式上場(翌1950年1月福岡証券取引所に上場)
  • 株式会社年鑑 1950年版「電氣化學工業」
    • [60]1949年9月整備計画認可。役員:社長近藤銕次、専務野村與曾市。上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡・広島
参考文献[41]-[60]
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和20年まで」
    • [41]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [43]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [44]1939年12月26日、専務取締役近藤銕次が取締役社長に就任。同月、満州電気化学工業の企業に参加
    • [45]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [46]1938年4月資本金2,800万円→5,600万円、1936年9月北海電化工業を直営、1937年12月東北振興化学設立、1941年3月日本醋酸製造合併。1941年10月大淀川第一・第二発電所を日本発送電へ強制出資、評価額1,629万12円50銭
    • [49]硫黄・硫化鉱の不足で大牟田工場1943年2月、青海工場同年6月に硫安製造を廃止。設備は大牟田でデンカランダムとアセチレンブラック、青海でメラミンとメラミン樹脂に充当
    • [50]硫黄・硫化鉱の不足で大牟田工場1943年2月、青海工場同年6月に硫安製造を廃止。設備は大牟田でデンカランダムとアセチレンブラック、青海でメラミンとメラミン樹脂に充当
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
    • [42]1938年資本金5,600万円、1941年日本醋酸を合併し資本金5,750万円
    • [52]戦後、アセチレン・石灰窒素誘導工業に順応して有機合成へ進出し、メラミン・アセチレンブラック・ホルマリン等の部門を拡充
  • 私の履歴書 野村與曾市(1980年)
    • [47]電気庁から黒部川電力の出資を求められたが拒み続け、終戦で話はご破算となった
  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
    • [48]1942年1月、大牟田工場にてアセチレンブラックの製造開始
    • [54]1949年5月、東京・大阪・名古屋各証券取引所に株式上場(翌1950年1月福岡証券取引所に上場)
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「製品とその設備」
    • [51]アセチレンブラックの用途:各種ゴム補強剤・乾電池・導電性ゴムおよびプラスチックス。電気抵抗0.25Ω-cm以下
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和30年まで」
    • [53]1949年4月30日企業再建整備計画の認可を申請、5月11日東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場を申請、7月22日増資で資本金2億円。1949年1月21日集中排除の指定取り消し
    • [55]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [56]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [57]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
    • [58]1949年4月30日企業再建整備計画の認可を申請、5月11日東京・大阪・名古屋の各証券取引所に上場を申請、7月22日増資で資本金2億円。1949年1月21日集中排除の指定取り消し
    • [59]在外傍系会社(台湾電化・山東電化・印度支那電化・満州電化)が接収。1946年4月22日三井財閥の関係会社として制限会社指定、北海電化工業ほか傍系会社が系列を離脱。1949年3月末借入金2億6,000万円、資本金5,750万円。1949年7月22日1億4,250万円増資で2億円
  • 株式会社年鑑 1950年版「電氣化學工業」
    • [60]1949年9月整備計画認可。役員:社長近藤銕次、専務野村與曾市。上場市場は東京・大阪・名古屋・福岡・広島

1915年〜1952年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 単体 52 n/a 7 5 10.2% n/a

出所:上場会社総覧 昭和31年版

出典・参考

12件
出典・参考
  • デンカ 有価証券報告書(2024年度)【沿革】
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「創立まで」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「大正14年まで」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「電力」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和10年まで」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和20年まで」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「製品とその設備」
  • 刊行社史 デンカの歩み50年(1965年)「昭和30年まで」
  • 株式会社年鑑 1950年版「電氣化學工業」
  • 会社銀行八十年史(1955年)「電気化学工業」
  • 企業の歴史(1968年)「電気化学工業」
  • 私の履歴書 野村與曾市(1980年)

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