すかいらーくホールディングス:すかいらーく1号店の出店と店頭登録
1962年〜ひばりが丘の食料品店ことぶき食品と、三多摩7店が突き当たった大手スーパーの壁
茅野亮氏・横川竟氏・横川紀夫氏の三兄弟は、1962年4月、東京都下保谷市のひばりが丘でことぶき食品有限会社を興し、食料品の小売を始めた。兄弟は長野県諏訪市の代用教員の家に生まれ、戦中に一家で満州へ入植し、父の死後に諏訪へ引き揚げて暮らしに窮した。教員だった父は満州で開拓団を率い、1944年に没した。竟氏は創業前に勤めた食品会社で、経営者兄弟の妻が口を出して会社が揺らぐさまを見たという。長兄の横川端氏を加えた4人は経営の上で対等を守る約束を交わし、株式をほぼ等分に持ち、報酬も同額とし、妻を経営に加えなかった。外部資本を持たない兄弟経営で、意思決定の割れを最初から封じる仕組みだったとみられる。
- 証券 1982年34巻9号
- [1]1962年4月 保谷市ひばりケ丘に食料品小売店ことぶき食品有限会社を茅野亮・横川竟・横川紀夫の三兄弟が創業
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [2]兄弟は長野県諏訪市の代用教員の家庭に生まれ、戦中に満州へ入植、父の死後に諏訪へ引き揚げ困窮した
- [4]横川竟は創業前に勤めた食品会社で、兄弟の妻が事業に口を出し会社が危うくなるのを見た
- [5]4兄弟は経営上の平等を約束し、株式をほぼ等分に保有、給与も同額、夫人を経営に参加させない
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [3]茅野亮の父は学校の教員で満州へ開拓団を組織して渡り、1944年に死去
店は130〜170平方メートルの小型店で、三多摩地区で最大7店を数え、西東京では忠実屋・稲毛屋に次ぐ3位の規模に達した。ところが1968年から69年にかけ、ダイエーや西友ストアーが大型店を連ねて進出すると、小型店の業績は急速に悪化した。兄弟は1968年、渥美俊一氏が主宰するチェーンストア理論の勉強会ペガサスクラブへ加わり、大手の多店化の手法を学んだ。当時の年間利益は200万〜300万円にとどまり、役員4人が社費で渡米すれば利益が消える水準だった。売場を大型化して大手と同じ土俵で争うか、業態ごと移るかの二択が残った。小売の規模の経済で先行を許した以上、前者は資本の面から選びにくかったと思われる。
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [6]130〜170平方メートルの小規模店で三多摩に最大7店、西東京で忠実屋・稲毛屋に次ぐ3位
- [7]1968〜69年ごろからダイエー・西友ストアーの大規模店チェーン攻勢で業績が悪化
- [10]大手に対抗できる大規模店化か、業務転換かの決断を迫られた
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [8]1968年 渥美俊一主宰のチェーンストア理論の勉強会ペガサスクラブに加盟
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [9]当時の利益は年200〜300万円で、役員4人が渡米すれば利益がゼロになる規模
茅野亮氏が横川姓でないのは養子に出たためで、一家の困窮がその一因だったという。ペガサスクラブにはダイエーやイトーヨーカ堂も加わっており、ことぶき食品は競合する大手と同じ場でチェーン経営の理論を学んだ。兄弟はクラブが催した米国視察で現地の外食企業を見て、飲食の分野であればチェーンストアとしてなお大企業へ育つ余地があると見込んだ。横川端氏と茅野氏は後年、1970年の大阪万博のアメリカ館にレストランを出したロイヤルに刺激を受け、小売から外食への転身を決めたと取材に語っている。のちの店名すかいらーくは、食料品店の1号店があったひばりが丘の地名から取った。大手と同じ理論を学んだことが、かえって大手の手がまだ届かない市場を見分ける目を養ったと推察される。
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [11]茅野亮が養子に出たのは一家の困窮が一因だった
- [12]ペガサスクラブにはダイエー・イトーヨーカ堂も参加し、ことぶき食品も1968年にチェーン理論を学ぶため加盟
- [13]ペガサスクラブ主催の米国視察で外食企業を見た4兄弟は、飲食業ならまだ大企業になれると考えた
- Decide 1989年6巻12号
- [14]横川端・茅野亮は1970年の大阪万博アメリカ館に出展したロイヤルに刺激され、小売業から外食産業への転身を決意したと語った
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [15]社名・チェーン名のすかいらーくは食料品店1号店の地名ひばりが丘から取った
参考文献[1]-[15]
- 証券 1982年34巻9号
- [1]1962年4月 保谷市ひばりケ丘に食料品小売店ことぶき食品有限会社を茅野亮・横川竟・横川紀夫の三兄弟が創業
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [2]兄弟は長野県諏訪市の代用教員の家庭に生まれ、戦中に満州へ入植、父の死後に諏訪へ引き揚げ困窮した
- [4]横川竟は創業前に勤めた食品会社で、兄弟の妻が事業に口を出し会社が危うくなるのを見た
- [5]4兄弟は経営上の平等を約束し、株式をほぼ等分に保有、給与も同額、夫人を経営に参加させない
- [8]1968年 渥美俊一主宰のチェーンストア理論の勉強会ペガサスクラブに加盟
- [11]茅野亮が養子に出たのは一家の困窮が一因だった
- [12]ペガサスクラブにはダイエー・イトーヨーカ堂も参加し、ことぶき食品も1968年にチェーン理論を学ぶため加盟
- [13]ペガサスクラブ主催の米国視察で外食企業を見た4兄弟は、飲食業ならまだ大企業になれると考えた
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [3]茅野亮の父は学校の教員で満州へ開拓団を組織して渡り、1944年に死去
- [9]当時の利益は年200〜300万円で、役員4人が渡米すれば利益がゼロになる規模
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [6]130〜170平方メートルの小規模店で三多摩に最大7店、西東京で忠実屋・稲毛屋に次ぐ3位
- [7]1968〜69年ごろからダイエー・西友ストアーの大規模店チェーン攻勢で業績が悪化
- [10]大手に対抗できる大規模店化か、業務転換かの決断を迫られた
- [15]社名・チェーン名のすかいらーくは食料品店1号店の地名ひばりが丘から取った
- Decide 1989年6巻12号
- [14]横川端・茅野亮は1970年の大阪万博アメリカ館に出展したロイヤルに刺激され、小売業から外食産業への転身を決意したと語った
1967年〜渡米で選んだコーヒーショップ型と国立の1号店、3店の実験と食料品小売からの撤退
茅野亮氏は渥美俊一氏の米国外食レポートを読み、『これだ!とヒラメキを覚え、とにかくアメリカへ見に行かねばならぬと思った』と後年語っている。資金が無く、1967年に海外渡航のローンを組んで個人の負担で初めて渡米した。国内の外食市場は年率28〜30%で伸び、小売のダイエーや西友に当たる大企業がまだいなかった。業態にコーヒーショップを選んだのは、システム化が企業化できる段階まで進んでいたこと、ファストフードは米国の大手が上陸を狙っていたこと、そしてテーブルサービスを伴う複雑な仕組みを先に完成させれば先発の優位を保てるという3つの理由からだった。小売で大手に後れを取った経験を、競合の空白を先に押さえる判断へ転じたのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [16]茅野亮は渥美俊一の「外食レポート」を読んで米国視察を決意した
- [17]社費では行けず海外ローンを使い1967年に初めて訪米
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [18]当時の外食産業は年率28〜30%で成長し、スーパーのような大企業が存在しなかった
- [19]コーヒーショップを選んだ理由はシステム化の進展・ファストフード大手の日本進出・先発優位の3点
1969年7月、有限会社を株式会社ことぶき食品に改め、事業の目的をファミリーレストランチェーンの経営に置いた。食料品店4店を抱えたまま、1970年7月に東京都国立市ですかいらーくの1号店を開いた。同年12月に国分寺店、1971年8月に小金井店を出し、立地と店の規模を変えて適地を探った。その後1年は出店を止め、3店を実験店として仕組みを組み直した。セントラルキッチンは当初、国分寺店の中に置いた。食料品小売は段階的に縮め、1972年11月に全面撤退して外食の専業へ移った。茅野氏は後に、1号店は当時の所得水準からみれば準高級店だったと振り返った。大卒の定期採用は1970年に2人で始め、翌年は12人へ増やした。
- 証券 1982年34巻9号
- [20]1969年7月 ことぶき食品有限会社を組織変更しファミリーレストランチェーン経営を目的に株式会社ことぶき食品を設立
- [22]1970年12月 国分寺店、1971年8月 小金井店と立地・規模の異なる店を出し実験を行った
- [24]当初は国分寺店内にセントラルキッチンを設置
- [25]1972年11月 食料品小売部門から全面撤退しフードサービス専業となる
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1970年7月 ファミリーレストラン「すかいらーく」第1号店を出店
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [23]1970〜71年に3店を出したのち1年間出店を見合わせ、3店を実験店としてシステムを洗い直した
- [27]1970年から大卒を計画的に採用し、初年度2人、2年目12人
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [26]国立の1号店は当時の国民所得水準からいえば準高級店だった
価格は家族4人で2000円以内に収まる水準に据え、主力の4〜5品目を480円にそろえた。1974年11月に1年間の価格凍結を宣言すると、据え置き後の客数は前年を25%上回った。茅野氏は、石油危機の後に5年間値段を据え置いたと述べた。店は地主に自社の設計どおりの建物を建ててもらって借り、1250平方メートルの敷地に104席と35〜40台の駐車場を備えても、出店費用は地主への貸付金2000万円を含めて4500万円で済んだ。土地と建物を自前で持てば1店に2億円かかり、銀行の融資は得られなかった。店の運営でも、店別・月日別に正社員とパートの総労働時間を調べて作業設計表を作り、1店の編成を7人から6人に減らした。1974年に店は11店となり、11月に商号をすかいらーくへ改めた。
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [28]家族4人で2000円以内に収まる価格設定、中心の4〜5品目はすべて480円
- [29]1974年11月に1年間の価格凍結宣言、据え置き以来の客数は前年比25%増
- [31]標準店は敷地約1250平方メートル・104席・駐車35〜40台、地主に建ててもらい賃借し出店費用は貸付金2000万円を含め4500万円
- [33]作業設計表を作成し総労働時間を分析、1店舗の編成を7人から6人に削減
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [30]第1次石油ショックの時に価格凍結を宣言し、5年間値段を据え置いた
- [32]土地代と建築費で1店2億円かかり、この資金を銀行は貸さなかった
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [34]1974年に店舗数11店、同年11月 商号を株式会社すかいらーくへ変更
参考文献[16]-[34]
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [16]茅野亮は渥美俊一の「外食レポート」を読んで米国視察を決意した
- [17]社費では行けず海外ローンを使い1967年に初めて訪米
- [26]国立の1号店は当時の国民所得水準からいえば準高級店だった
- [30]第1次石油ショックの時に価格凍結を宣言し、5年間値段を据え置いた
- [32]土地代と建築費で1店2億円かかり、この資金を銀行は貸さなかった
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [18]当時の外食産業は年率28〜30%で成長し、スーパーのような大企業が存在しなかった
- [19]コーヒーショップを選んだ理由はシステム化の進展・ファストフード大手の日本進出・先発優位の3点
- [23]1970〜71年に3店を出したのち1年間出店を見合わせ、3店を実験店としてシステムを洗い直した
- [27]1970年から大卒を計画的に採用し、初年度2人、2年目12人
- [28]家族4人で2000円以内に収まる価格設定、中心の4〜5品目はすべて480円
- [29]1974年11月に1年間の価格凍結宣言、据え置き以来の客数は前年比25%増
- [31]標準店は敷地約1250平方メートル・104席・駐車35〜40台、地主に建ててもらい賃借し出店費用は貸付金2000万円を含め4500万円
- [33]作業設計表を作成し総労働時間を分析、1店舗の編成を7人から6人に削減
- 証券 1982年34巻9号
- [20]1969年7月 ことぶき食品有限会社を組織変更しファミリーレストランチェーン経営を目的に株式会社ことぶき食品を設立
- [22]1970年12月 国分寺店、1971年8月 小金井店と立地・規模の異なる店を出し実験を行った
- [24]当初は国分寺店内にセントラルキッチンを設置
- [25]1972年11月 食料品小売部門から全面撤退しフードサービス専業となる
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [21]1970年7月 ファミリーレストラン「すかいらーく」第1号店を出店
- [34]1974年に店舗数11店、同年11月 商号を株式会社すかいらーくへ変更
1975年〜立川・東松山のセントラルキッチンと店頭登録、ジョナサン・藍屋・バーミヤンへの分社
1975年6月、60〜70店を賄えるセントラルキッチンを立川市に置いた。立川ではステーキの切り分けやハンバーグの成形まで済ませ、料理を平均80%の段階まで加工して店へ送ったので、店に熟練の調理人を置かずに済んだ。同じ1975年には年商20億円の段階で総額40億円の工場投資を決めた。1977年12月、約300店を賄う新工場が埼玉県東松山市で動き出し、この時の年商は50億円に伸びていた。東松山は仕入れ・加工・配送を一手に担い、店別の適正在庫から品目ごとの配送量をコンピューターで日々弾いた。関西と中京の店へは、東松山から西宮市の関西本部流通センターへまとめて送り、そこから配った。1978年7月に株式を店頭登録し、同年は関西進出を含めて69店を出した。
- 証券 1982年34巻9号
- [35]1975年6月 約60〜70店舗をカバーできるセントラルキッチンを東京都立川市に設置
- [39]東松山は仕入・製造・配送を一体化し、店舗別適正在庫からコンピューターで毎日品目別の配送量を算定
- [40]関西・中京へは東松山から西宮市の関西本部流通センターへ一括配送し各店へ配送
- [42]1978年は関西地区への進出を含め69店舗を出店
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [36]立川のセントラルキッチンでステーキのポーションカット等を行い全料理平均80%まで加工、店に調理人が不要
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [37]1975年の工場建設決定時は年商20億円で総額40億円を投入
- [38]1977年12月 約300店舗をカバーする東松山セントラルキッチンを建設、完成時の年商は50億円
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [41]1978年7月 日本証券業協会に店頭登録
出店は1979年に60店、中京と東海へ進んだ1980年に56店と、毎年50店を上回った。1981年12月末の300店はすべて直営で、うち281店が賃借だった。1981年12月期の売上高は48,150百万円に達し、外食全体で3位、ファミリーレストランを主とする企業では首位だった。一方で売上の伸びは61.4%、38.6%、25.5%と3期続けて鈍り、既存店の売上はほぼ横ばいにとどまった。1982年8月16日には東京証券取引所第二部に上場し、333万9913株を1株1980円で公募した。上場直後の講演で茅野社長は『ファミリー・レストランは70年代の主流だったが、いずれ限界がくると思う』と見通し、ブランドを広げる方針を示した。
- 証券 1982年34巻9号
- [43]出店数は1979年60店、1980年56店(中京・東海へ進出)
- [44]1981年12月末で300店すべて直営、うちリース契約店舗281店
- [45]1981年12月期売上高48,150百万円、外食業界3位、ファミリーレストラン中心企業で1位
- [46]売上高伸び率は1979年12月期61.4%、1980年12月期38.6%、1981年12月期25.5%と低下、既存店はほぼ横ばい
- [47]1982年8月16日 東証第二部上場、公募3,339,913株 1株1,980円
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [48]茅野亮は1982年8月の講演で、ワンブランドから多ブランドへ広げる方針を示した
新しい業態は子会社で立ち上げ、まず1979年5月に全額出資の子会社を設けて1980年1月にジョナスと改め、同年4月に練馬区でコーヒーショップのジョナサン1号店を開いた。1982年3月には客単価をすかいらーくの2倍に置くイエスタデイを出した。1985年12月に和食の藍屋、1987年12月に中華のバーミヤンを子会社として設け、同じ月に新日本製鉄グループと組むニラックスも設立した。1988年8月時点でグループは上場4社を含む18社、店は700超に広がったが、自社所有の店は35にとどまった。横川竟氏は賃借方式の起点を『金がないということが、チェーン展開の足かせになった。だがそれが逆に,リース方式を選択する基にもなった』と説明した。看板業態の成熟を見越し、店を増やす仕組みを別の業態へ移し替えた拡大とみることができる。
- 証券 1982年34巻9号
- [49]1979年5月 全額出資子会社サンボ設立、1980年1月ジョナスに商号変更、1980年4月 練馬区にジョナサン1号店
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [50]1982年3月 客単価がすかいらーくの2倍のイエスタデイを開店
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [51]1985年12月 藍屋設立、1987年12月 バーミヤン設立・関連会社ニラックス設立
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [52]1988年8月時点で上場4社を含む18社、総店舗700超のうち自社物件は35店
- [53]横川竟は資金不足がリース方式を選ぶ基になったと語った
参考文献[35]-[53]
- 証券 1982年34巻9号
- [35]1975年6月 約60〜70店舗をカバーできるセントラルキッチンを東京都立川市に設置
- [39]東松山は仕入・製造・配送を一体化し、店舗別適正在庫からコンピューターで毎日品目別の配送量を算定
- [40]関西・中京へは東松山から西宮市の関西本部流通センターへ一括配送し各店へ配送
- [42]1978年は関西地区への進出を含め69店舗を出店
- [43]出店数は1979年60店、1980年56店(中京・東海へ進出)
- [44]1981年12月末で300店すべて直営、うちリース契約店舗281店
- [45]1981年12月期売上高48,150百万円、外食業界3位、ファミリーレストラン中心企業で1位
- [46]売上高伸び率は1979年12月期61.4%、1980年12月期38.6%、1981年12月期25.5%と低下、既存店はほぼ横ばい
- [47]1982年8月16日 東証第二部上場、公募3,339,913株 1株1,980円
- [49]1979年5月 全額出資子会社サンボ設立、1980年1月ジョナスに商号変更、1980年4月 練馬区にジョナサン1号店
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- [36]立川のセントラルキッチンでステーキのポーションカット等を行い全料理平均80%まで加工、店に調理人が不要
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- [37]1975年の工場建設決定時は年商20億円で総額40億円を投入
- [38]1977年12月 約300店舗をカバーする東松山セントラルキッチンを建設、完成時の年商は50億円
- [48]茅野亮は1982年8月の講演で、ワンブランドから多ブランドへ広げる方針を示した
- [50]1982年3月 客単価がすかいらーくの2倍のイエスタデイを開店
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- [41]1978年7月 日本証券業協会に店頭登録
- [51]1985年12月 藍屋設立、1987年12月 バーミヤン設立・関連会社ニラックス設立
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- [52]1988年8月時点で上場4社を含む18社、総店舗700超のうち自社物件は35店
- [53]横川竟は資金不足がリース方式を選ぶ基になったと語った
出典・参考
6件
- すかいらーくホールディングス 有価証券報告書【沿革】
- 日経ビジネス 1976年2月2日号
- 証券 1982年34巻9号
- 証券アナリストジャーナル 1982年20巻9号(茅野亮)
- 日経ビジネス 1988年9月12日号
- Decide 1989年6巻12号