羽幌炭礦鉄道:羽幌炭礦の開礦と築別炭礦の合理化
1947年〜命旦夕に迫る状況からの坑内の建て直し
終戦後の5年間を、小森豊氏は苦肉の時代と呼んだ。終戦の混乱に加え、無計画な乱掘による自然発火が頻発し、坑道が荒れた。労働事情も極度に悪化し、命旦夕に迫る状況だった。戦時中に増産を優先して掘り進めた結果が、そのまま坑内の荒廃として残った。この時期に着手したのが第二の炭鉱の開発であり、1947年から羽幌炭礦の開礦にかかっている。築別炭礦だけでは規模が足りず、一鉱に依存する構造そのものが危うかった。1950年の築別鉱業所の出炭は11万トンで、5年前の4.8万トンから2.3倍になった。
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [1]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
- [2]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
- [3]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
- [4]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [5]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
- [6]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
- 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
- [7]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
- [8]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した
1947年、会社は主要運搬坑道を炭層から外し、下磐の岩石の中へ開削し始めた。それまでは全て沿層坑道方式であり、坑道の維持に困難を生じて自然発火が続発していた。1948年2月に主要斜坑と上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立する。以後この方式のまま坑内は発展し、1960年には五片坑道の掘削に入っている。沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した。それでも坑道を繕う仕繰夫の比率は、1953年から1954年にかけてなお全鉱夫の31%に及んでいる。この下磐坑道方式が坑内の骨格となり、1965年の時点でも坑口から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑で深部へ下る構造が引き継がれていた。
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [9]昭和22年に主要運搬坑道を下磐岩石内に開さくすることを開始した
- [10]当初は全て沿層坑道方式であった
- [11]沿層坑道方式では坑道維持に困難を生じ、併せて自然発火が続発していた
- [12]昭和23年2月に主要斜坑および上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立された
- [13]昭和35年時点で五片坑道を掘さく中であった
- [14]沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した
- [15]昭和28年から29年においても仕繰夫の占める比率は全砿夫の31%に及んでいた
- 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
- [16]築別本坑の開坑方式は斜坑方式で、海抜94mの位置から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑に至る
切羽の側でも採炭法を替えた。築別本坑は開坑以来の残柱式を、1947年10月に短壁式へ改めている。通気の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた。その防止策として保護炭柱方式を採ったところ、炭柱が軟化して逆に自然発火を助長し、採炭そのものを困難な状態に追い込んだ。1948年2月、解決策として下磐坑道方式によるポケット採炭を始める。立入坑道を着炭させず、その手前から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層を貫く距離を最小限にとどめた。坑道の磐膨れを回避し、自然発火も皆無に等しくなった。ロングの面長は当初の30mから60mへ延び、切羽運搬に初めてチェンコンベヤーを使った。小森氏はこれを築別本坑発展の一大基礎と位置づけている。
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [17]築別本坑は開坑以来の残柱式採炭法を昭和22年10月に短壁式採炭法へ改めた
- [18]短壁式の採用で通気面の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた
- [19]保護炭柱方式を採ったところ炭柱が軟化して自然発火を助長し、採炭自体を困難な状態におとしいれた
- [20]昭和23年2月に下磐坑道方式によるポケット採炭を開始した
- [21]立入坑道を着炭させず、その前方から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層の貫層距離を最小限にとどめた
- [22]ポケット採炭により坑道の磐膨れ回避に成功し、自然発火も皆無に等しくなった
- [23]ロング面長は当初30mから60mに延長され、切羽運搬に初めてチエンコンベヤーを使用した
- [24]小森豊はポケット採炭による切羽の集約化を築別本坑発展の一大基礎と記した
坑内の建て直しと並行して、二つ目の炭鉱を開いた。羽幌地区ではそれまで本坑と二坑の区域で主に炭層調査が行われ、出炭は微々たるものにとどまっていた。1947年、増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手し、1948年8月に本坑を開発して、二坑を合併し羽幌鉱業所を設定する。稼行できる炭層は羽幌本層・一番層・下層の3層で、東翼本層の炭丈は1.6mから2.5mと、築別本坑の4mに比べれば薄い。それでも一つの鉱業所に依存する構造を崩す意味は大きかった。羽幌本坑と二坑の石炭は同じ選炭場へ集められ、築別駅を分岐点とする16.6kmの社線で国鉄へ渡る。掘る場所を二つに増やしても、運ぶ経路は一本のままであった。
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [25]昭和22年より羽幌炭礦の開礦に着手した
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
- [26]羽幌本坑および二坑区域では主として炭層調査が実施され、出炭は微々たるものであった
- [27]昭和22年に増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手した
- [28]昭和23年8月に本坑の開発を行い、二坑を合併して羽幌鉱業所を設定した
- [29]羽幌炭鉱の稼行可能炭層は羽幌本層・一番層・下層の3炭層である
- [30]羽幌本坑区域の東翼本層の炭丈は1.60〜2.50mである
- [31]羽幌本坑・二坑とも同一の選炭場で選炭される
- 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
- [32]鉄道は国鉄築別駅を分岐点とし築別炭鉱に至る単線16.6kmである
参考文献[1]-[32]
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [1]小森豊は終戦後の5年を「苦肉の時代」と呼んだ
- [2]終戦の混乱、無計画な乱掘による自然発火、坑道の荒れが重なった
- [3]労働事情も極度に悪化して命旦夕に迫る状況だったと述べている
- [4]無計画な乱掘による自然発火と坑道の荒れが終戦後に残った
- [9]昭和22年に主要運搬坑道を下磐岩石内に開さくすることを開始した
- [10]当初は全て沿層坑道方式であった
- [11]沿層坑道方式では坑道維持に困難を生じ、併せて自然発火が続発していた
- [12]昭和23年2月に主要斜坑および上二片坑道が完成し、ここで初めて集約採炭の基本が確立された
- [13]昭和35年時点で五片坑道を掘さく中であった
- [14]沿層坑道方式の廃止によって保坑経費は低減した
- [15]昭和28年から29年においても仕繰夫の占める比率は全砿夫の31%に及んでいた
- [17]築別本坑は開坑以来の残柱式採炭法を昭和22年10月に短壁式採炭法へ改めた
- [18]短壁式の採用で通気面の欠点は解決したが、沿層坑道の保坑が困難を極めた
- [19]保護炭柱方式を採ったところ炭柱が軟化して自然発火を助長し、採炭自体を困難な状態におとしいれた
- [20]昭和23年2月に下磐坑道方式によるポケット採炭を開始した
- [21]立入坑道を着炭させず、その前方から傾斜50度で昇りポケット坑道を設け、ベントナイト層の貫層距離を最小限にとどめた
- [22]ポケット採炭により坑道の磐膨れ回避に成功し、自然発火も皆無に等しくなった
- [23]ロング面長は当初30mから60mに延長され、切羽運搬に初めてチエンコンベヤーを使用した
- [24]小森豊はポケット採炭による切羽の集約化を築別本坑発展の一大基礎と記した
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [5]1947年より羽幌炭礦の開礦に着手した
- [6]1947年から第二の鉱として羽幌炭礦の開礦に着手した
- [25]昭和22年より羽幌炭礦の開礦に着手した
- 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
- [7]築別鉱業所の出炭は昭和25年に11万トンとなった
- [8]昭和20年の4.8万トンから昭和25年の11万トンへ増加した
- [16]築別本坑の開坑方式は斜坑方式で、海抜94mの位置から水平電車坑道1,850mを経てベルト斜坑に至る
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
- [26]羽幌本坑および二坑区域では主として炭層調査が実施され、出炭は微々たるものであった
- [27]昭和22年に増産の要望に応じて二坑区域の開坑に着手した
- [28]昭和23年8月に本坑の開発を行い、二坑を合併して羽幌鉱業所を設定した
- [29]羽幌炭鉱の稼行可能炭層は羽幌本層・一番層・下層の3炭層である
- [30]羽幌本坑区域の東翼本層の炭丈は1.60〜2.50mである
- [31]羽幌本坑・二坑とも同一の選炭場で選炭される
- 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
- [32]鉄道は国鉄築別駅を分岐点とし築別炭鉱に至る単線16.6kmである
1950年〜増資で賄った大立入坑道と切羽の機械化
設備投資は増資で賄った。資本金は1950年に2,500万円、1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円と、2年間で20倍を超える規模へ引き上げられている。1951年には築別炭礦の合理化工事に着工し、1953年11月に完成した。年産40万トンを目標とする体制を組み、築別・羽幌の両炭礦を合わせた1953年度の産炭は31万7,000トンを超えた。同じ時期の役員には、満洲製鉄北海道採炭所長だった磯野賢一氏が築別鉱業所長、帝国燃料興業内淵鉱業所副所長だった奥田清生氏が羽幌鉱業所長として並んでいる。旧満洲の現場を踏んだ技術者が、二つの鉱業所をそれぞれ預かった。
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [33]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
- [34]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
- [35]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
- [36]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
- [37]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
- [38]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
- [39]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
- [40]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
- [41]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた
1951年11月、会社は選炭場へ直結する通洞坑口の開削に着手した。それまでの坑口は選炭場から2,000m以上離れた山間にあり、50馬力の複線エンドレスで運炭していたため、年産18万トンを超える出炭は不可能だった。主要巻上機である300馬力の単胴巻も、坑内の発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた。大立入坑道と名づけられたこの坑道は、悪質な岩盤とガス突出事故に遭って辛酸をなめ、満2年を費して1953年10月に完成する。当初の目標は年産30万トンであった。比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8トンのトロリー式電気機関車2台を入れている。坑外エンドレス時代に比べ、79人の人員を節約した。この電車坑道はその後の坑内輸送の幹線となった。
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [42]昭和26年11月に大立入坑道の開さくに着手した
- [43]当初の坑口は選炭場より2,000m以上離れた山間にあった
- [44]50HP複線エンドレスによる運炭では年産18万t以上の出炭は不可能であった
- [45]主要巻上機である300HP単胴巻は坑内発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた
- [46]大立入坑道の開さくは悪質岩磐・ガス突出事故等の辛酸をなめた
- [47]大立入坑道は満2年を費して昭和28年10月に完成した
- [48]大立入坑道の当初の目標は年産30万tであった
- [49]比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8屯トロリー電気機関車2台で運搬を行った
- [50]坑外エンドレス時代に比べ79人の人員節約となった
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
- [51]築別本坑では坑口から1,800mの電車坑道をトロリーロコで牽引している
切羽の機械化は坑木の節約から始まった。1951年7月、坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入する。まず木の笠木と鉄柱を組み合わせた採炭を試み、1952年7月にカッペを使った。結果に確信を得て、1953年から鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法へ移っている。同時にコールカッターとパンツァコンベヤーを入れ、截炭方式は発破採炭からカッター発破併用へ切り替えた。ただし炭層が厚いため天磐際の発破だけでは上炭を打ち落とせず、中段にも発破が要る。炭壁が倒れて作業に危険が生じた。切羽の面長は1951年度から60mより90mまで順次延長され、切羽集約化の第一段階が完了する。坑道を作り直し、運搬を作り直したうえで、最後に切羽を機械化する順序であった。
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [52]坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入した
- [53]昭和26年7月に鉄柱を導入した
- [54]最初に木笠木鉄柱採炭を試験し、昭和27年7月にカッペを使用した
- [55]カッペ採炭に確信を得て昭和28年に鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法に着手した
- [56]コールカッターとパンツアコンベヤーを使用した
- [57]截炭方式を発破採炭からカッター発破併用截炭に切替えた
- [58]厚層のため天磐際のみの発破では上炭の打落しが不完全で、中段にも発破を必要とした
- [59]中段の発破により炭壁の倒壊等で作業に危険を生じた
- [60]昭和26年度より切羽面長を60mより90mまで順次延長し、切羽集約化の第一段階が完了した
参考文献[33]-[60]
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [33]1950年から1952年にかけて2,500万円・5,000万円・1億5,000万円と増資を重ねた
- [34]資本金は1950年に2,500万円へ増資された
- [35]1952年1月に5,000万円、同年5月に1億5,000万円へ増資した
- [36]1951年度着工の築別炭礦の合理化工事が1953年11月に完成した
- [37]昭和29年度は年産40万トンを目途として計画を進めた
- [38]築別炭礦・羽幌炭礦を併せた昭和28年度の産炭実績は31万7,000余トンを突破した
- [39]磯野賢一は元満洲製鉄北海道採炭所長で昭和24年11月に築別鉱業所長となった
- [40]奥田清生は元帝国燃料興業内淵鉱業所副所長で昭和24年1月に羽幌鉱業所長となった
- [41]磯野賢一が築別鉱業所長、奥田清生が羽幌鉱業所長を務めた
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- [42]昭和26年11月に大立入坑道の開さくに着手した
- [43]当初の坑口は選炭場より2,000m以上離れた山間にあった
- [44]50HP複線エンドレスによる運炭では年産18万t以上の出炭は不可能であった
- [45]主要巻上機である300HP単胴巻は坑内発展とともに能力が狭められ、限界に近づいていた
- [46]大立入坑道の開さくは悪質岩磐・ガス突出事故等の辛酸をなめた
- [47]大立入坑道は満2年を費して昭和28年10月に完成した
- [48]大立入坑道の当初の目標は年産30万tであった
- [49]比較的岩質の良好な坑口から900mの位置に複線坑道を設け、8屯トロリー電気機関車2台で運搬を行った
- [50]坑外エンドレス時代に比べ79人の人員節約となった
- [52]坑木の節約と切羽機械化の前提として鉄柱を導入した
- [53]昭和26年7月に鉄柱を導入した
- [54]最初に木笠木鉄柱採炭を試験し、昭和27年7月にカッペを使用した
- [55]カッペ採炭に確信を得て昭和28年に鉄柱カッペを大規模に使用する採炭法に着手した
- [56]コールカッターとパンツアコンベヤーを使用した
- [57]截炭方式を発破採炭からカッター発破併用截炭に切替えた
- [58]厚層のため天磐際のみの発破では上炭の打落しが不完全で、中段にも発破を必要とした
- [59]中段の発破により炭壁の倒壊等で作業に危険を生じた
- [60]昭和26年度より切羽面長を60mより90mまで順次延長し、切羽集約化の第一段階が完了した
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
- [51]築別本坑では坑口から1,800mの電車坑道をトロリーロコで牽引している
1954年〜神戸の商社網と札幌証券取引所への上場
1954年時点の会長は高畑誠一氏である。鈴木商店の大番頭として知られ、日商を興した人物が、その系列会社の会長を兼ねた。取引銀行には日本興業銀行、第一銀行、北海道拓殖銀行、三菱銀行、日本勧業銀行、住友銀行、三井銀行、北海道銀行、大和銀行の9行が並ぶ。特約店には三菱商事、関西鉱燃、日商、羽幌石炭販売、北海道石炭、橋本産業、山本石炭が付いた。販売先は日本国有鉄道、北海道電力、東洋高圧工業、国策パルプ工業、東京電力、中部電力、関西電力、富士製鉄である。年間取扱高は35万トンを数えた。
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [61]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
- [63]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
- [64]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
- [65]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
- [66]年間取扱高は35万トン
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
- [62]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である
1955年5月23日、羽幌炭礦鉄道は札幌証券取引所に上場した。本社は札幌市大通西5丁目に置き、営業は東京・旭川・留萠に拠点を開設している。開坑から15年で、地方の一炭鉱会社は道内の資本市場に立った。ただし上場先は札幌のみで、東京証券取引所には出ていない。販売先には東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が並び、事業の相手は全国におよぶ。それでも資金調達の場は道内にとどまった。1954年度の産炭は35万8,000トンで、前年度から4万トン増えている。上場した1955年度の産炭は43万9,000トンだった。
- 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
- [67]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
- [70]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
- [71]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
- [73]上場先は札幌証券取引所のみだった
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [68]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
- [69]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
- [72]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
- 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [74]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
- [75]昭和30年度の産炭は43万9,000トン
参考文献[61]-[75]
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [61]1954年版の役員名で会長は高畑誠一
- [63]取引銀行は日本興業銀行・第一銀行・北海道拓殖銀行・三菱銀行・日本勧業銀行・住友銀行・三井銀行・北海道銀行・大和銀行
- [64]特約店は三菱商事・関西鉱燃・日商・羽幌石炭販売・北海道石炭・橋本産業・山本石炭
- [65]主要販売先は日本国有鉄道・北海道電力・東洋高圧工業・国策パルプ工業・東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄
- [66]年間取扱高は35万トン
- [68]本社は札幌市大通西5丁目に所在した
- [69]営業機構として東京営業所・旭川駐在所・留萠駐在所を置いた
- [72]主要販売先に東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄が含まれる
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
- [62]日商は鈴木商店破綻後にその中堅社員が設立した貿易会社である
- 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
- [67]1955年5月23日に札幌証券取引所へ上場した
- [70]1940年7月の開坑から1955年5月の上場まで15年を要した
- [71]札幌証券取引所の上場・廃止一覧に羽幌炭砿鉄道が記載されている
- [73]上場先は札幌証券取引所のみだった
- 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- [74]昭和29年度の産炭は35万8,000トン
- [75]昭和30年度の産炭は43万9,000トン
筆者考察
築別本坑が立ち直ったのは、新しい機械を買ったからではない。1947年から6年をかけた工事の順序だけが決まっていた。まず坑道を炭層から外して下磐の岩石へ移し、立入坑道をベントナイト層に触れさせずにポケット採炭へ切り替える。次に選炭場まで2,300mの大立入坑道を通し、8トンの電気機関車で運ぶ。そのうえで鉄柱とカッペを入れ、切羽の面長を30mから90mへ広げる。運搬力が上がれば切羽を機械化でき、切羽が伸びればさらに運搬力を要求する。この往復が、開坑以来の乱掘を反対向きに巻き戻した。坑道を作る作業が鉱夫の三人に一人を占め続けたのは、その代価である。
資金は神戸から来た。資本金は1950年の2,500万円から1952年5月の1億5,000万円へ、2年間で6倍になっている。鈴木商店の大番頭だった高畑誠一氏が会長に座り、特約店には日商と三菱商事が並んだ。最北の炭鉱の設備投資を支えたのは道内の資本ではなく、破綻した商社の系譜に連なる神戸の企業網である。1955年5月、会社は札幌証券取引所へ上場した。販売先は日本国有鉄道から東京電力・中部電力・関西電力・富士製鉄まで全国に広がっていたが、株式を置いた市場は道内だけだった。掘る場所も運ぶ経路も売る相手も増やしたあとで、会社の背骨はなお神戸に残っていた。
出典・参考
9件
- 札幌証券取引所30年史(札幌証券取引所、1981年)
- 石炭年鑑 1954年版(大同通信社、1954年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 46_商事・貿易「日商」
- 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
- 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 2.羽幌炭鉱」
- 北海道鉱工業開発計画調査 石炭化学工業開発基本調査報告書 昭和37年度(北海道開発庁、1964年)「II 炭鉱概要 1.築別炭鉱」
- 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
- 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」