第3章 年〜年

羽幌炭礦鉄道:町田叡光の社長就任と産炭105万屯への到達

1956年〜現有設備の完全駆使という合理化の方法

1956年6月、町田叡光氏が社長に就任した。1940年7月の取締役支配人から数えて16年、専務を経ての昇格である。同じ月に横田周作氏・武井正美氏・小森豊氏が取締役に就任した。資本金は1956年に6億円、1959年に7億5,000万円へ引き上げられている。産炭は1953年度の31万7,000トンから、1955年度43万9,000トン、1957年度61万4,000トン、1959年度73万トンと伸び、1961年には105万トンに達した。8年で3.3倍である。従業員は約2,650名を数え、築別・羽幌の二鉱に加えて福島県勿来市に三松採炭所を持った。

  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [1]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [2]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [3]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [4]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [5]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [6]昭和36年に105万トンに達した
    • [7]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [8]従業員数は約2,650名
    • [9]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した

増産の方法について、築別鉱業所長の小森豊氏は1960年の講演で明確に述べている。開山から20年を3期に分け、直近の10年を前進につぐ前進と位置づけ、能率は本邦においてA級にランクされるに至ったとした。そのうえで、こうした改革は決して斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いて行ったものだった。新鋭機の導入で一気に生産性を上げたのではない。すでに持っている設備を使い切る方向へ現場を組み替えた結果だった。築別鉱業所の出炭は1955年の26万トンから1960年に50万トンへ伸びている。

  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [10]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [11]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [12]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [13]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [14]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [15]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [16]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった

増産の一方で、業界の環境はすでに反転していた。専務取締役の朝比奈敬三氏は1960年12月の寄稿で、1958年の炭界不況による出炭制限を出発点として、突如として浮上した流体エネルギーとの競合のため、企業合理化・体質改善・1,200円のコストダウン・整理・ストライキという厄介な問題が相次いで迫ってきたと書いている。そのうえ炭鉱は保安確保という至上課題を背負っていた。羽幌炭礦鉄道が産炭を3.3倍にしたのは、石炭産業そのものが石油に置き換えられていく時期と正確に重なる。朝比奈氏はこの寄稿に、微光が射し始めた石炭鉱業という表題を付けている。

  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [17]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [18]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [19]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [20]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [21]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [22]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [24]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [23]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
参考文献[1]-[24]
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [1]町田叡光は昭和31年6月に社長に就任した
    • [2]町田叡光は昭和15年7月に取締役支配人、昭和22年に専務取締役を経て昭和31年6月に社長となった
    • [3]横田周作・武井正美・小森豊はいずれも昭和31年6月に取締役へ就任した
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
    • [4]資本金は昭和31年に6億円、昭和34年に7億5,000万円へ増資された
    • [5]昭和30年度43万9,000トン、昭和32年度61万4,000トン、昭和34年度73万トンと推移した
    • [6]昭和36年に105万トンに達した
    • [7]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ増加した
    • [8]従業員数は約2,650名
    • [9]鉱業所は築別鉱業所・羽幌鉱業所に加え福島県勿来市の三松採炭所を擁した
    • [23]1953年度31万7,000トンから1961年105万トンへ3.3倍に増加した
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
    • [10]小森豊は昭和35年度総会の講演で築別炭砿の合理化を報告した
    • [11]小森豊は開山からの20年を3期に分け、第三期の10年を「前進につぐ前進」とした
    • [12]能率は本邦においてA級にランクされるに至ったと述べた
    • [13]改革は斬新奇抜なものによったのではなく、現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
    • [14]小森豊は改革が斬新奇抜なものによったのではないと述べた
    • [15]現有設備の完全駆使に主眼を置いたと説明した
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
    • [16]築別鉱業所の出炭は昭和30年に26万トン、昭和35年に50万トンとなった
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
    • [17]昭和33年の炭界不況による出炭制限と流体エネルギーとの競合が生じた
    • [18]朝比奈敬三は1960年12月の炭鉱技術に「微光が射し始めた石炭鉱業」を寄稿した
    • [19]昭和33年の炭界不況による出炭制限を出発点とすると述べた
    • [20]突如クローズアップされた流体エネルギーとの競合を挙げた
    • [21]企業合理化・体質改善・1200円のコストダウン・整理・ストライキが迫ったと書いた
    • [22]そのうえ炭鉱では保安確保という至上課題を背負っていると述べた
    • [24]寄稿の表題は「微光が射し始めた石炭鉱業」

1961年〜索道から鉄道へ切り換えた石炭輸送

鉄道の輸送量は開通当時の9万トンから、1961年度に100万トンを突破した。1962年8月にはディーゼルカーを導入し、それまでの混合列車を客貨完全分離へ切り換えている。運行は1日あたり旅客8往復・貨物6往復となった。通勤通学のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を乗り入れ、混雑時は3両重連で走らせた。1962年12月からは名羽線の一部である曙と羽幌鉱の区間を借り受け、非営業線として輸送業務を担っている。これにより従来の索道輸送を鉄道輸送へ切り換え、石炭の流通経費を下げた。1日4往復の混合列車で始まった輸送は、20年で旅客と貨物を分けるまでになった。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [25]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [26]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [27]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [28]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [29]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [30]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [31]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した

鉄道の敵は雪だった。当地方は年間降雪量の累計が10m、積雪量が2mにおよぶ。国鉄築別駅の一帯は海岸に接近しているため、冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われた。列車の正常運転を確保するために毎年多大な労力と経費を要し、雪害による貯炭は曙構内で2万トンを超えた年もある。会社は除雪の機械力を増強し、モータカーロータリを導入した。自社線の除雪にとどまらず、国鉄へも出動して輸送の安全維持にあたっている。現業は4駅・1機関区・3線路班に区分され、保有車両は機関車・客車・貨車におよんだ。

  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [32]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [33]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [34]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [35]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [36]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [37]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [38]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている
参考文献[25]-[38]
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」
    • [25]開通当時9万トンの輸送量に対し昭和36年度は100万トンを突破した
    • [26]昭和37年8月にディーゼルカーを導入して従来の混合列車を完全に客貨分離した
    • [27]1日旅客8往復・貨物6往復を運行した
    • [28]通勤通学の便宜のため国鉄羽幌駅まで1日2往復を運行し、混雑時は3両重連とした
    • [29]昭和37年12月から名羽線の一部(曙〜羽幌鉱)を借り受け非営業線として輸送業務にあたった
    • [30]従来の索道輸送を鉄道輸送に切り換え、石炭流通経費の運賃軽減に効果をあげた
    • [31]1941年12月の4往復混合列車から1962年8月の客貨分離まで20年を要した
    • [32]列車の正常運転確保に毎年多大な労力と経費を要した
    • [33]当地方は年間降雪量累計10m・積雪量2mにおよぶ豪雪地帯である
    • [34]国鉄築別駅一帯は海岸に接近しており冬期の大半は日本海の強風による吹雪に見舞われる
    • [35]雪害による貯炭量は曙構内で2万トンを越えた
    • [36]雪害対策として機械力の増強をはかりモータカーロータリを導入した
    • [37]全力をもって国鉄にも出動して輸送の安全維持に努めた
    • [38]現業は4駅・1機関区・3線路班に区分されている

1956年〜1963年の業績

決算期 区分 売上高 純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率
1956年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1958年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1959年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1960年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1961年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1962年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a
1963年03月期 単体 56 n/a 0 1.4% n/a

出所:会社年鑑(1967年版)半期合算

出典・参考

6件
出典・参考
  • 石炭年鑑 1962年版(大同通信社、1962年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 石炭年鑑 1966年版(大同通信社、1966年)「羽幌炭礦鉄道株式会社」
  • 炭鉱技術 15(6)(北海道炭鉱技術会、1960年6月)「築別炭砿の合理化」(小森豊)
  • 炭鉱技術 15(12)(北海道炭鉱技術会、1960年12月)「微光が射し始めた石炭鉱業」(朝比奈敬三)
  • 炭鉱技術 20(5)(北海道炭鉱技術会、1965年5月)「炭鉱紹介 羽幌炭鉱鉄道株式会社 築別鉱業所」
  • 炭鉱技術 23(3)(北海道炭鉱技術会、1968年3月)「炭鉱関係私鉄紹介 羽幌炭砿鉄道株式会社」

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